子どもの頃、友達の中に、お父さんのいない母と子の家庭が意外と多くありました。TくんもBくんも、その他の級友たちの家が、そうでした。彼らは父親のカゲが薄かったのを感じていました。両親のいた私は、父親のいない級友たちの家に遊びに行っては、『どうして君にはお父さんがいないのか?』と聞くことはありませんでした。理由を知りたかったのに、そう聞いてはいてはいけないような思いがあったのでしょうか、聞き出して彼らを窮地に陥れるようなことはしませんでした。戦争を知らない私にとって、どうしてかということが、まだ分らなかったのです。

日本の歴史にとって、また私たちの世代にとっても、昭和12年(1937年)は決して忘れてはいけない年だというべきでしょう。この年の77日、北京郊外の蘆溝橋で軍事衝突事件が起こり、日中両軍が交戦状態に入りました。停戦協定が成立した11日に、日本政府は、初期の不拡大方針を覆して、華北への派兵を決定てしてしまいます。28日になりますと、日本軍は華北で総攻撃を開始し、8年間にわたる「日中戦争」へと全面突入してしまったのです。

それにともなって、日本国内では、軍備拡張が行われ、多くの働き盛りの男が徴兵されて、戦場に送られていきます。その中に、私の級友たちの親がいて、終戦間際に戦死してしまったわけです(私の大学時代の級友には、戦争後、中国に残留し、内戦に従軍して、その戦いでお父さんを亡くなした級友がいました)。彼らのお父さんが戦死であったということが分かったのは、小学校の高学年になってからだったでしょうか。私の父は、戦闘機の部品に関わる「軍事産業」にたずさる「軍属」でしたから、戦場に行くことはなかったのですが。

高校の友人の家に行きまして泊めてもらったときに、布団を敷いてくれた部屋に、軍帽と軍服の彼のおその時初めて、戦死されていたことを知ったのです。悪戯で、担任の良く叱られ仲間でにぎやかな彼が、ふと見せる寂しさの理由が分かったのです。そんな彼と出会った頃、『お母さんの若い頃に流行った歌を教えて!』と言って、無理に頼んだことがありました。母が教えてくれたのが、「無情の夢(作詩・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一)」という歌謡曲だったのです。

きらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょうか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身を灼く 恋ごころ

この歌は、なかなか歌うのが難しかったのですが、多分、父と母が出会って恋に落ち、結婚に導かれた頃に一世を風靡していた歌謡曲だったに違いありません。母の話によると(これも無理に聞き出したのですが)、広島の江田島にあった「海軍兵学校」に学ぶ人の中に、想う人がいたのだそうです。戦死したか、どうかの消息は聞きませんでしたが、叶わぬ恋だったのでしょう。母にも、人を恋する思いがあったことを知って、思春期の真っ只中の私にも、『恋心を抱いてもよろしい!』、との許可を、母にもらったかのような出来事でした。

恋し、愛した人と引き裂かれたり、父を亡くしたり、隣国を犯し戦闘で人を殺めたりする戦争が、二度と再び起こらないことを願う私は、ただ平和を願ってやみません。父を亡くした級友たちも、父となり、爺となって、そう願っているに違いありません。七十数年前に激しい戦いが行われた大陸を離れて、この週末、帰国しましたが、その思いだけは忘れないで、来月、また中国の地を踏むつもりでおります。

(写真は、日中戦争の勃発地点となった「盧溝橋」です)

扶養

『日本は寒いですよ!』と聞かされて帰国したのですが、冬将軍の暴れ回る日本よりも、大陸華南の冬のほうが、寒いように感じています。昨日は、孫娘と近所の《きたの公園》に出かけて、滑り台や砂場で遊びました。おしゃまな彼女ですが、優しくて可愛い3歳なのです。公園の木はすっかり北風に葉を落とされて、枯れ枝から真っ青な空を見せてくれました。帰国して長男の家に落ち着いた家内と私を訪ねてシンガポールから出張できていた娘と、渋谷に住み始めて働く次男が、昨日、訪ねてきてくれました。次女は、オレゴンにおりますので、気持ちだけ、こちらの向けていることでしょうか。それで、子や孫たちとの久しぶりの夕食を、近くの「焼肉屋」でとりました。これまで支払いは父親である私の役割でしたが、昨晩は、長女がしてくれ、家内と私は、『ごちそうさま!』と言って、彼女の饗(もてな)しに預かったのです。もう最近は、常に、子供たちや嫁や婿に、その役割をとって変わられてしまっていますが。

さて今回は、私の人生で大きな変化のある帰国になりました。というのは、中部山岳の山村に生まれて、父の戸籍に入り、父の扶養家族とされて22年を過ごしました。学校を出て就職をしてからは、父の扶養から離れて、民法や税制上でしょうか自立しました。父に養われて成長して、社会人として収入を得る身になったからでした。生活の基盤は、なお父の家にあり、母の作ってくれる食事に養われていました。月給の中から父に、「食い扶持」を出すと、父はビールを買ってきては飲ませてくれました。それが嬉しかったのでしょう、たいへん喜んでいた顔を思い出します。それから4年ほどして結婚したとき、父の戸籍から離れて、世帯を持った街を本籍地に決めたのです。長男が東京で生まれ、その後に与えられた3人は、アメリカ人実業家と共に働いた中部の街で生まれ、そこで教育を受け育っていきました。

今では、彼らはそれぞれに生きる道を見つけて、その基盤をすえて、もう自立して生活しております。中国語に、「时间过了很快(シィジエン グオラ ヘン クアイ)、『時間はとても早く過ぎる!』」とありますが、もう世代交代の時代なのです。イスラエル民族の法律の中に、「人身価値」の規定があります。60歳を過ぎた私の価値は、15シェケルだとあります。父から独立し、世帯を持って社会でも家庭でも、力いっぱい活躍していた時期の価値は、50シェケルですから、今日では三分の一に目減りしていることになります。今、次女の長男が5歳で、彼の価値は20シェケルですから、外孫の彼の方が、この私の価値よりも、5シェケルも高いことになるのです。このことで決してもがくことはありません。『ジイジとバアバは、どうして頭が白いの?』と孫息子が不思議がっております。黒々と豊富だった髪の毛から、色素の艶も、今は抜けてしまっているということであります。

先週末、帰国した私は、長男の住む街に《転入届け》を出しました。長男夫妻の進言もあって、家内と私は、長男の「扶養家族」にしてもらいました。ということは、ついに家内と私は、『太郎兵衛さんのご家の・・・・!』と呼ばれることになったわけです。ちょっと寂しさは禁じえませんが、《世代交代》は、どの社会でもすみやかにした方がいいのかも知れません。いつまでも《頭》でいるのではなく、彼らの責任に委ね任せるべきなのでしょう。孫が不思議に思う白髪は、『もう次の番だよ!』というサインなのでしょうね。

イスラエルの社会のことですが、次のような掟もあります。「白髪の老人の前では起立せよ!」とあります。イスラエル人ではない私ですが、中国の街のバスの中では、吊革に手をかけるやいなや、髪の毛の白さと、顔のシワを認めた若者は、躊躇なく起立して席をゆずってくれるのです。今やそれを、喜んでうけております。

(写真上は、http://www.nisk.jp/search/digitalkanji.asp?code=91B7の字「孫」、下は、中国・済南市で医療活動を続けられた老医師・山崎宏さん(日本兵士でしたが、中国残留して医師となって奉仕)ですが、昨年末亡くなられました)

あすは

地方都市に生活していまして、母や兄弟がおりましたので、ちょくちょく上京する機会がありました。前の晩になりますと、必ず思い出す、いえ、口からついて出てしまう歌謡曲の一節がありました。

『#あすは東京へ出ていくからにゃ、何がなんでも・・・b』

という、坂田三吉という浪花の将棋指しの物語を歌った「王将」でした。実は、明日の朝、家内は一年半ぶりに、私は半年ぶりに帰国するのです。としますと、今晩は、『b あすは日本に帰って行くからにゃ、何がんでも・・・#』と、私は鼻歌をすることになるのでしょうか。この歌は、いつごろ流行っていたのでしょうか。もともと、「演歌」とか「艶歌」と言われる日本独特の歌は、いつごろから歌い始められたのでしょうか。昨日、「龍馬伝」の最終番組を持って、若い友人が訪ねて来られました。この番組の主人公・坂本龍馬の奔走と努力によって、第十五大将軍・徳川慶喜が、「大政奉還」の断を下すのです。そうしますと、市中の人々は、『#ええじゃないか、ええじゃないか・・・b』と歌い踊り始めるのです。明治維新誕生前夜に、日本中で流行ったという歌なのです。聞く所によりますと、龍馬と同じく土佐の人で、統幕運動に身を投じた板垣退助が、明治の維新降になってから始めた、「自由民権運動」を展開していくときに、「オッぺケペー節」という歌が一役かったようです(川上音二郎が歌ったと言われています)。また、三河地方に流行った、伝統芸能の「三河万歳」も、小太鼓を打ちながら歌うのですが、何度か聞いたことがあります。こういったものが、「艶歌」の原型になるでしょうか。

私たちが住んでいます華南の街から、南に行った地域を「闽南(ミンナン)」と呼ぶのですが、この地域は、台湾語と同じ「 闽南語」を話しますが、この地の人々が歌う歌のメロディーが、日本の「演歌」と同じなのです。日本から影響を受けたのか、もともと、そうだったのか知りませんが。きっと「五音階」のメロディーのルーツが同じなのかも知れません。そうでなくても、この街の公共バスの中に流されているFMラジオでとり上げる歌のメロディーは、日本の歌にとても似ているのです。それで区別がつかないのですが、一昨日、「スターバックス」で、人に会うために出かけたバスの中で流れていたのが、

しらかば 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の
ああ北国の春
季節が都会では わからないだろと
届いたおふくろの 小さな包み
あの故郷(ふるさと)へ 帰かな 帰ろかな

といった、遠藤実が作曲した「北国の春」でした。春の到来を待望し、やっと来た春の気配を喜ぶ、北国の「春待望」の思いが込められていて、一世を風靡した「昭和の名曲」なのです。実は、この歌を中国人は、自国製だと思っておいでなのです。日本で流行ったのが、1977年4月でしたから、にぎやかな文化運動が終わって、「改革開放政策」が鄧小平氏の指導で始まる前に、ここ中国でも歌われ始めていたようです。何の抵抗もなく、受け入れられて喜んで歌われてきて、今日の若い人もよく知っておいでです。

文化も心情も好みも趣も、こんなに似通った両国の近さは半端ではないのかも知れません。実は、この「北国の春」がラジオで流れていたあとに、聞こえてきたのは、なんと「ソーラン節」でした!中国の、春節の直前のバスの中で、『#ヤーレン、ソーラン・・・ニシン来たかと・・・b』を聞くとは思いもよりませんでした。

さあ、今晩は、『b ・・・何がんでも、無事に終わらにゃならぬ・・・#』と歌うことになるのでしょうか、そんなメロディーが喉あたりにきているのを感じます。家内の入院と手術が待つ日本ですが、桜の花の咲く頃には、元気を回復して帰って来られるように、そう願う夕靄の帳のおり始めた華南の街であります。

(写真上は、HP[筍耳鼻科医の呟き」の通天閣(三吉がこの近くに住んでいたそうです)
は、「
蕗ちゃんの道草日記」の「白樺」です)

胃袋

鎌倉や今日はかしこの屋敷守   一茶

鎌倉は、小学校のときの遠足で訪ねたのが初めてでした。私の父が生前、唯一の自慢話として話してくれたのが、『我が家は鎌倉武士の末裔で、源頼朝から拝領した・・・』と言っ ていました。家督を相続することを固辞した父にとっての拠り所は、それでも鎌倉にあったようです。明治生まれの父が父の祖父から聞いた家系を誇っていたのを思い返して、そうは言っても、我が家の祖先は、弥生人か縄文人で、はるかな海を超えてやってきた先人たちの故郷・大陸に行き着くに違いないのですが。

その父の相続分を、私たち4人の男の子に、それぞれ相続する権利があるという話が、いつでしたか持ち上がりました。それは寝耳に水のような話でした。頼朝からもらった土地は、想像を越えるほどに広大なものだったのでしょうけど、800年もの間に減り続けて、我々が相続するのは猫の額のようなものになっていたのだろうと思われます。そんなことを考えますと、800年もの年月の隔たりの中で、頼朝の忠臣であった、私たちの祖先が、どんな人だったのかと思い巡らして、なんとなく不思議な感慨を覚えて仕方がありませんでした。その土地だって、剣や槍で奪い取ったものだったわけですから。みんな、『要らない!』と言って、相続を放棄してしまっ たのです。

小学生のときには、何も知らないで訪ねたのですが、歴史や家系などがわかって、訪ねた鎌倉は、わが祖先が、鎧兜を身につけて馬に乗りつつ、主君に従って闊歩した都大路だったことを思いながら、駅前の道をそぞろ歩いたりしてみたのです。そうしましたら、何だかタイムスリップしたような錯覚を覚えて、800年の昔の鎌倉が、目の前にひらいているようでした。その大路の傍らにあった鳩サブレーの売店の喫 茶室に入って、アメリカン・コーヒーを飲んで見ましたが、とても美味しかったのです。それでも、『やはり茶店で、串団子と日本茶が似合いそうなのが鎌倉かな!』、と思うのが自然でしょうか。

帰りに、江ノ島を左に見ながら車を走らせたのですが、何十年も前の真夏に、アルバイトをした片瀬江ノ島の建物は見つけることが出来ませんでした。年月が経ってし まったのですから、当然ですね。江ノ電がゴトゴトと走る姿が右手に見えて実に懐かしく、また夕焼けに染まる江ノ島が、昔のままのたたずまいの中、幽玄とし て夕闇をついて見えていました。その時、横浜もコースでしたから、中華街にも寄ったのですが、お土産のシュウマイが、ことのほか美味しかったのです。

それは私の父が、横浜帰りに、また横浜を通過するたびに、必ず土産にぶらさげて持ち帰っててくれた、実に懐かしい味なのです。食べ盛りの4人に、『旨い物を食べ させたい!』との父の思いがあふれていたのです。『いい親爺だったな!』と、胃袋で思い出している私は、父が召された年よりを、もう五年も多く生きております。もう少し生きられるでしょうか。そう願って、来春は40年記念を迎える家内と手を取り合って、生まれ故郷でもなく、祖先伝来の拝領の地でもなく、「天(あめ)なるふる さと」に向かって、もう一歩の人生を、生きることが出来るようにと、切に願う今日このごろです。

(写真上はHP「写真俳句・谷戸の風」の「鎌倉の海」、下はHP「Nagisa Photo Stadio」の「鎌倉散歩・紅葉」です)

青年

先週、一人の青年が、ギターを抱えて尋ねてこられました。海南島の出身で、6年前からギターを習ってこられた、日本語専攻の大学生です。この青年が、家内と私のために、ギターを弾いて歌ってくれました。下の息子と比べたら今一つといったところですが、歌声も、ギターの音色も出色だったのです。気張らないで、撫でるように弾いていました。疲れやモヤモヤが、スーッと消えていってしまいそうな、そんな感覚に引き込まれるようでした。これまで、かき鳴らして気持ちを高揚させてくれたギタリストが、何人かいましたが、『ギターって、弾き手によって、これほど違うのか!』と思わせられること仕切りでした。

その彼のために、家内が定番のカレーライスを作って、一緒に食べました。彼は、『美味しい!』といって感謝し、食後に、『わが家は貧しかったので、よく母を手伝いました。それで食器を洗わせてください!』といわれて、台所に入って、見る見るうちに綺麗に洗い上げてくれたのです。ゴミを取るかごが、少々汚れていたのですが、それも丁寧に洗ってくれ、まるで新品のようにしてくれました。心が繊細なのでしょう、そんな両親が大学で学ばせてくれている感謝が、彼の振る舞いの中にあふれているのを感じたのです。わが家の流しは、日本のようなステンレス製ではなく、コンクリートの上にタイルを張ったもので、築30年を経ていますので、ひび割れたりしていますが、そこを見事に洗い上げてくれました。これまでの来客の男性の中で、食後に食器を洗ってくれた青年は、この青年で二人目になったでしょうか。

すばらしい青年の多い中国で、これまで出会った青年の中でも、23時間の交わりでしたが、彼は《ピカ一》だと思わされたのです。貧しい経験が、こういった青年を育てたのかも知れません。お父様は、体が弱くて家にいらっしゃって、お母様が働いておられるのだそうです。課題の多い国の中で、次の時代を担っていく青年たちが、すばらしく成長して、備えられているのに気づかされています。昨晩も、新装成った大劇場で「京劇」が公演されるというので、招待券をいただいた家内と私は、バスに乗って出かけたのです。乗ってつり革に手をかけるや否や、一人の青年がすっくと立ち上がって、席を譲ってくれるではありませんか。家内を座らせると、今度は、もう独りの女性が同じように席を空けてくれましたので、『謝謝!』といって座らせてもらいました。もう最近は、断らないで、その好意を喜んで受けるようにしているのです。

中国で名だたる京劇俳優の演技もすばらしかったのですが、年長者への敬意を、こういった形で、自然に表す、この国の青年たちが、次の時代を背負って生きていくのですから、この国の前途洋洋ではないでしょうか。日本が、なぜか忘れていることを、この国は律儀に行っているのではないでしょうか。触れもせず、見もせずに非難する人が多くいらっしゃいますが、「儒教の教え」の影響だけではなく、人間の道を誠実に生きている姿を見させられております。あのギターを爪弾く青年も、席を譲ってくれる青年たちも、彼らのうちに、そんな輝きを見るのです。暖房のない大劇場は骨身に、真冬を感じましたが、心の中では、もうイッパイの春を満喫させられた「春節」間近の夕べです。


(写真上は「yamahaギター」、下は「近代京劇」の公演の様子です)

『また大臣が代わった。俺の死刑執行のために、この人は判を押すのかな?』と、きっと思っていらっしゃる受刑者がおられるのではないでしょうか。昨日、また「法務大臣」が新しく選任されたようです。代わるたびに、マスコミから「死刑の是非」についてのコメントが求められて、厳罰主義と温情主義が交互に出てくるようです。このたび新たに大臣になられた方は、『死刑という刑罰はいろんな欠陥を抱えた刑罰だと思う』と私見(!?)を述べておられました。

法律を学んだ方で弁護士もされた方が、弁護士や法学者の立場で、そうコメントするのはいいと思います。でも、一国の法務大臣になられて、「刑法」という国法に定めた制度があって、法を行うのが法務省の最高責任者なのではないでしょうか。『執行か延期か、いつも怯えなければならないのはつらい。俺たちの心を弄ばないでくれ!』、と受刑者の方は思っていらっしゃるに違いないのです。彼は、『なぜ死刑が必要なのか?』を学ばれたと思います。もし、法に欠陥があるのなら、どうして立法府で改めようとしないのでしょうか。『感情論で是非を公言するのをやめてくれ!』と、私が執行を待っている受刑者なら、こう思うのですが。

「殺してはならない」、「殺人者は死を持って死の値を払うこと」という法が、どの国にもあるのは、人の生命を尊ぶという考えからきています。決して、生命軽視だからではありません。私は、すべての人に「生命権」があると信じています。どのような理由があっても、他者の「生きる権利」を犯したなら、厳罰に処すことはいけないことでしょうか。「故意の殺人」と「過失の殺人」とは違いますが、失われた命の重さは、地球よりも思いのだということが大前提です。人類最初の殺人事件の記録が残っています。兄が弟を殺した忌まわしい事件です。その事件の様子の記録の中に、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる」とあります。

この地球は「創造の美」で満ち溢れています。ナイアガラの滝もイグアスの滝も九塞溝(中国・四川省)も、息を呑むような景観でした。奥入瀬も志賀高原も箱根も、見惚れるような美しさです。ところが、この美しい地上には、流された血が、夥しく沁み込んでいるのです。この血の責任は、誰がとるのでしょうか。主義主張の違いで、怨恨で、そして弾みなどで失われた人の血のことです。有耶無耶にされないのです。きっと、すべての人の命についての責任が問われるときがくる、と信じるのです。ヒューマニズムの「人間尊重」は、「人命尊重」が基調です。感情論ではありません。死の覚悟のできた受刑者に、死刑執行の判を押すのは、大臣として当然です。彼が冷酷な人だからではなく、法を愛し、法を行う責務を負い、そして人の命の重さを知っているからなのです。

(写真上は、「HPようこそ”こまがね”に」の「秋の紅葉」、下は、出張した時に連れて行ってもらった、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの国境にある「イグアスの滝」です)

中国語に、「浪子」と言いことばがあります。きっと海の波のように奔放で、放縦で、自分を波動に任せている様子から、そう呼ばれるのでしょう。日本語に訳しますと「道楽者」とか「放蕩息子」になるでしょうか。模範児でなかった青年期の私も、きっと,世間から「浪子」のように思われていたかも知れません。両親の寵愛を受けて、我侭いっぱいに育てられた井の中の蛙、それが私でしたから。

ある書物に、この「浪子故事(放蕩息子の物語)」があります。その住んでいる世界の「狭さ」と「平凡さ」とに飽き足りなく不満で心を満たしていました。『きっと遠いあの街には、面白いこと、刺激的なことがあって、俺を満ちたらせてくれるに違いない!』と、日がら思い続けていたのです。父の目も親戚の干渉も兄弟たちとの競争も避けたかったのです。それで別世界での生活に憧れ、「新天地」での生活を夢に見始めます。雑誌もテレビも、その世界が、どんなに素晴らしいかを目と思いと、はげしく訴えてきたのです。『広さと刺激に満ち溢れて楽しい世界だ!』と、すべての情報は誘っています。そうなると、日常の義務が手につきません。遠い空を眺めてはため息をつくばかりです。その夢の実現のために、大雑把な計画を立て始めます。どんなに算段してみても、には自立する能力も資金もないのです。それでスポンサーを捜しますが、この未熟な男に用立てる大人は皆無です。叔父や叔母は全く相手にしてくれません。銀行だって貸してはくれないのです

それで父の財産の「男の相続分」に食指を動かします。それは父親の存命中には、相続することはできません。それで父親泣き落としにかかります。その芝居のうまさに、騙されやすい父は負けてしまうのです。それで相当分の財産を分与してしまいましたは旅支度をして、父と母と一緒に育った兄を、故里と共に捨てます。大金が彼の手に握られているのです。憧れの地にやってきたこざっぱりした身なりの彼の周りには、大勢の若者たちが群がってきました金払いの良い彼は、おだてられると湯水のようにそのお金を使っていくのです。彼らと過ごす時間は、夢のように過ぎて行きました。夢から覚めて、ポケットの財布を開き、銀行の講座をの残高を見ますと、一円も残っていません無一物のなったことを知った遊び仲間は、潮がj引いていくように彼の元から離れていきました。完全な金銭的な破産でした。そればかりではなく、精神的にも破綻をきたしていたのです。が、これほど短時間に、しかも容易に砕けて仕舞うとは、夢にも思いませんでした。その現実に直面して、初めて彼の目が覚めるのです

「瞬きの間の独り芝居」という名の幕が上がってしまうと同時に、彼は父の家を思い出すのです。幼い日から、ふるさとを捨てた日までの楽しい思い出が走馬灯のように思いの中を巡ります。父の笑顔と、そのから流れ落ちていた父の汗を思い出します。そして、『きっと父は、私のために涙だって流しているに違いない!』と思い始めると、いても立ってもいられなくなりました。そうだ、父の家に帰ろう!』、そう思うと同時に、彼は、故里に向かって歩き始めたのです。はかない夢から覚めたたのです。父の家に近づいた時、彼が父を見つけるよりも早く、父が見つけてくれていました。彼が走るよりも早く、父が走り寄って来たのです。父は裸足でした。父を裏切り傷つけた彼を抱きかかえ、幼い日にしてくれたように頬ずりをしてくれたのです。まるで私が遠い過去に負った傷を癒すかの様にしてです。

父は何も詮索しませんし、責めもしないのです。彼が、幼い日に「父に愛される子」であり、父を無視し捨てた今でも「父に愛される子」であることを知らせてくれたのです。この父の愛は、彼の行いや時間の経過によって、色あせたり変化したりしないのです。彼の兄も親族も、好き勝手をした彼を受け入れようとはしません。ただ父だけは、『きっと帰って来る!』と信じて待って、無条件で受け入れていてくれたのです。失敗体験と恥体験とによって、自分の実態が分かって帰ってくることをです。次男の回復を天に委ねたのです。父の包容力、父性の豊かさが、どれ程のものであるかを彼は知ることができたのです。彼は《父の財布》にだけ期待していたのですが、帰って来た彼は、祈りつつ待ちつつ走り寄る、《父の思い》を知ることが出来たのです。父の懐って、こんなにふかふかで暖かく、居心地が良かったのを再発見したのです。

厳格な私の父を、ときどき思い出しますが、そのほほを流れる涙を見たことがあります。そんな父を見て、『男だって泣いていいんだ!』と思わされたのです。だれの人生にも、さまざまなことがあるのでしょう。自分も、何度泣いたことでしょうか。涙とは、心の思いを洗ってくれるものなのかも知れませんね。この物語のお父さんのほほにも、子を思って流す涙があったにちがいありません。

(写真は上は、「東シナ海」です)、下は「霞浦(福建省)」です)

望郷

私たちの四人の子供たちにも、孫たちにも、帰って行く「実家」がありません。というのは、私たちが5年前に中国に来る時に、家財一切を処分して、家を畳んでしまったからです。世帯を持ってから、持ち家に住んだ経験はなく、いつも借家のアパートや市営や県営の団地に住んできたからです。結婚してから35年の間、子どもたちの想い出のこもった物もほとんどを処分してしまいました。長男は、手狭な家に住んでいましたし、長女はシンガポールに本拠地を置き、次女はアメリカに嫁ぎ、次男は聖蹟桜ヶ丘のワンルームマンショに住まいでしたから、親の持ち物を置く空間がなかったからです。わずかな物を預けておいたのですが、迷惑になることもあって、その後、帰国時に処分してしまいました。

そんなこんなで日本を出ましたから、最後に、家族全員が集まったのは、2006年の正月だったでしょうか。長男が中学を卒業して以来、ハワイの高校に入学してから、家族六人が、団欒を共に過ごす時間が徐々に少なくなってきてしまったのです。この正月の時期、ここ中国でも、「春節」には、故郷の家族のもとに戻り、その団欒を楽しむ習慣があるようです。私たちも、友人が安い家賃で貸してくださった家、狭い二間に、娘の家族を迎えたりしましたが、結構、正月の寒い時期にも、みんなで寝たり交わったりすることが出来たのが不思議でした。

ここ中国でも、友人の家をお借りして住んでおりますから、まるで「寄留者」か「巡礼者」のようにして生きていることになります。もちろん、「外国人」でありますが。『不安にならないですか?』と言われますが、こういった生き方も慣れますと、身軽で快適なのです。不思議なものです。ただ、家族が一緒に集まる場所がないのは、子どもたには、『帰って来れる家がなくてごめんね!』と思ってしまうのです。

昨日今日、正月恒例の「箱根駅伝」が日本では行われていました。今年は、パソコンでラジオ放送を聞くことができましたので、『早稲田総合優勝!』という結果を、NHK第一放送で聞くことができました。これを聞いていたとき、ミカンをむきながら、おせちり料理をつまみながらテレビの放映を、『家族で見られたらなあ!』、との思いが湧き上がってきてしまったのです。日本を発つ直前に、挨拶に来てくださった、日本人の女性と結婚されたアメリカ人の友人が、『我が家は、お子さんたちの実家ですから、そう思ってくださいね!』と、うれしいことを言ってくれたのです。

と言っても、もうすでに世代交代の時期でしょうか、ある方から、最近、『息子さんの扶養家族になられたらどうですか?』と勧められました。『そうか、もう息子の家に集まればいいのか!』と思えばいいのでしょうか。アメリカにいる次女が、『ここに来ればいいよ!』と言ってくれたり、次男も、『俺が面倒みるから!』とも言ってくれています。

まだまだ元気に働くことも出来ていますから、健康が支えられている間は、問題がないのですが、昨秋、家内が病みましてから、ちょっと弱気になってしまいました。子どもたちの意見に耳を傾けないで、自分で思うように、大分頑なな生き方をしてきましたから、最近は、いろいろとクレームがつき始めています。日本人と正月の関係には、意外と微妙な情緒的な面があるのでしょうか。昔読んだ本の中だったと思いますが、正月は、普段賑やかに生きている人にとっては危機の一つなのだと書いてあったのを思い出しました。

でも懐かしい故国があって、そこに懐かしい人たちがいますし、そればかりではなく、友情を示してくれる友人たちがこの大陸にいてくれるのですから、『遙かなる永遠の故郷に帰るまで、巡礼の旅を続けていこう!』と、年頭にあたり、そんな決意をしたところです。ご心配なく!




初夢

お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ
コチャ 高輪 夜あけて 提灯けす
コチャエ コチャエ

六郷わたれば 川崎の万年屋 つるとかめとの 米(よね)饅頭
コチャ 神奈川 急いで 保土ヶ谷へ
コチャエ コチャエ

これは、江戸の民謡「お江戸日本橋」です。「七つ立ち」というのは、今の早朝四時頃のことですが、上洛や伊勢参りや箱根巡りの旅の出発時間だったのでしょう。この六郷川は、江戸五街道の一つ《東海道》の渡し場の一つでした。私は、この川の上流の多摩川の河畔の街で育ちました。かつて、この街は、甲州街道の宿場だったのです。この宿場の本陣だった家に住んでいる上級生もいましたし、新選組の土方歳三の生家もこの近くで、彼の親族の子孫が級友にいました。この甲州街道も日本橋を起点に、内藤新宿(現在の新宿)を経由して甲府にいたり、中山道に繋がっていたのです。

さて、この日本橋を起点に、トルコとブルガリアの国境に至る、総延長20,322 kmの「アジアンハイウエー1号線(AH1)」のあるのをご存知でしょうか。昨年末、初めて私は知ったのですが。その路線は、次のようです。

東京福岡・・・フェリー ・・・釜山[プサン]平壌[ピョンヤン]瀋陽[シェンヤン] 北京[ペキン]武漢[ウーハン]広州[グアンゾウ]深セン南寧[ナンニン]ハノイプノンペンバンコク)ダッカニューデリー イスラマバード)イスタンブールカピクレブルガリア国境

アジア圏の国々、街々を一本の道路で結んでいるハイウエーがあるのですから、東シナ海を渡った阿倍仲麻呂が、このことを知ったら、きっと驚くだけではなく、喜ぶのではないでしょうか。かつて日本は、「五族協和」とか「大東亜共栄圏」を叫んだ時代があったようですが、銃器による領土拡張の野心ではなく、国際協調や民間友好の陸路を、人々が行き来できるのですから、画期的なことではないでしょうか。もしかすると、福岡と釜山とは、壱岐や対馬の島々を経由して、海底トンネルで繋がる時代が来るのかも知れませんね。

それが実現したら、日本橋を《七つ時》に立って、首都高から東名高速に出て、玄界灘の海底を潜って、ヨーグルトや果物のおいしいブルガリヤに、車の旅をしてみたいものです。日本の街にも、ベトナムナンバーや印度ナンバーの車を見掛けるのが日常、当たり前のことになって、交際交流が盛んになるに違いありません。美しい日本の四季や温泉や日本料理を楽しんでいただきたいものです。そんな「初夢」を見たかったのですが、残念なことに何を夢見たのか覚えておりません。ただそんな友好の夢だけは、いつまでも持ち続けたいものです。

(写真上・中1は「葛飾北斎の日本橋と富嶽」、中2は「アジアン・ハイウエーの標識」、下は「ブルガリアのセネバル」です)

新年快乐

おめでとうございます!

2011年、日本、中国、アメリカ、シンガポール、ブラジル、すべての国と民族に広がります、私の家族、友人、知人、そして、みなさんの上に、平安と健康と繁栄を、ここ華南の空の下からお祈りしたします。私たちは、5回目の新年を、ここ華南の地で迎えることができました。あいにく今日は断水で、お昼には若い友人たちを、「お雑煮会」に招いたのですが、残念ながら取り消さなくてはならないようです。

日本の社会に起こっていますことを、こちらから眺めますと、今まで分らなかったことが理解され、以前、外から見ていた中国も、こちらで見聞きしますと、さらに鮮明に理解されてきております。

ここから上海に至る道の途上に、「寧波」という港町があります。かつて中国と日本とを、経済や文化や宗教などの交流で強く結びつけた街なのですが、今年は、この街を訪ねてみたいと思っております。日中関係は、隋や唐(紀元600年頃からでしょうか)、元や明の時代(日本では鎌倉から江戸初期の時代になるでしょうか)から、この寧波を出入口にして、脈々として密接につながっているのが分かります。

さらに福建省からは、多くの福建人が船に乗って渡って行き、日本に定住しているのですから、私たち日本人の出自の一つの地が、ここにあることになります。一緒に食卓についてくださる友人たちの所作を見ていますと、アメリカの知人宅でテーブルについて感じるのとは違って、同じ家族の一員であるような、親しみを覚えるのです。昨年末、家内が病気で入院しましたときに、こちらで出会った友人たちが示してくださった愛に、私たちの魂の深いところが、ギュッと握られ掴まれてしまったようです。「你們是我的一家人吧」だと言ってくださる彼らに、家族や親族の血縁以上のものを感じさせられている日々です。

この国が、さらなる喜びにあふれて、心のそこから感謝の笑顔に満ちていくことを願っています。

愛するお一人お一人に感謝し、ご挨拶を申し上ます。今年もよろしくお願いいたします。

(写真は、遣唐船、遣隋船が出入りした「寧波の港」です)