褒賞

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 「先懸(さきがけ)」と言う武勲が、昔の戦にはあったのだそうです。敵陣に切り込む最初の者になることが褒められ、それへの褒賞があったのです。子育ての間、ご褒美欲しさに、一生懸命、家の仕事をした子が、わが家にもいました。鎌倉時代、肥後国(今の熊本)に、竹崎季長(すえなが)という名の御家人がいて、蒙古軍の襲来を知って、我先に戦場に駆け付けて、先陣を切って、敵軍に切り込んだのです。

 その先懸をした竹崎季長への勇気への賞賛が、鎌倉幕府からなかったのです。当時の御家人は、「領地」を認めたのです。それは武士(もののふ)のならいだったからです。立身出世の一歩であり、多くの部下を得て、養い、次の戦に備えて。武勲をあげると言うのが、御家人の生き方であったからです。

 それで、竹崎季長は、褒賞を得るために、肥後を出立して鎌倉に行くのです。元軍との戦いで、自分の家来も馬も、敵の放った矢で負傷してしまった負傷兵だったという理由ででしょうか、褒美の対象にはならなかったのです。

 でも、竹崎季長は諦めなかったのです。それほど必死だったのでしょうか。武士の道とは、そう言ったものなのかも知れません。幕府の重職にあった、安達泰盛(あだちやすもり)に会うのです。彼が、幕府の恩沢奉行(おんたくぶぎょう)だったからです。自分が先懸をしたこと、戦場でしっかり立って戦ったことを、当時の武士の作法通りに訴えます。
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 それで念願の褒賞を受けて、肥後国に帰っていくのです。この積極性には、驚かされます。一度も、いえ、都下の村から町になったばかりの町の展覧会で、絵と工作で「銅賞」をもらったことがあります。その賞状は、いつの間にか、どこかに行ってしまったのです。そんなわたしですが、もっと季長の積極的があって、村長さんや先生や所長に願っていたら、もう少し上級の銀賞をもらえたかも知れません。

 ところで、徳川家康は、「武家御法度」を定め、懲罰をはっきりし、諸大名の管理を怠らなかったので、盤石な幕府を作り上げることができたのでしょう。源頼朝の鎌倉幕府は、もう少し武勲のあった御家人への褒賞に、気前良さがあったら、忠臣の部下を得て、長く続く政権を維持できたことでしょう。また、良き参謀がいたら、鎌倉幕府は長らえたかも知れません。

 自慢話のないわたしですが、父の唯一の自慢話を、自分のものにはできませんが、鎌倉の「若宮大路」の道を参内した租が、三浦大介(義明)で、その末裔だと言っていました。今、NHKの大河ドラマの「十三人」の一人になるのでしょうか。歴史に残る人物は、現代に生きる私たちが、たどっていけば、誰かにたどり着くことでしょうから、この時代の自慢話など意味がなさそうです。

 『よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。(2ヨハネ1章8節)』

 神を信じ、忠実に生きた者には、報い(報酬)があると、イエスさまに仕えた弟子のヨハネが、その教会に向けて書き送った手紙の中で言っています。報いは結果であって、目的ではありません。功なき者のような、こんなわたしにも、永遠のいのちが与えられるのです。

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 一昨日の土曜日、「リレイ・フォー・ライフ・ジャパンとちぎ( RELAY FOR JAPAN )」が、壬生総合運動公園で行われ、家内と参加しました。ガンに対決している方とご家族、ガンでご家族や友人を亡くした方、医療従事者、ボランティアのみなさんが集まっての event でした。亡くなった方たちとの懐かしい思い出を新たにしていましたし、ガンへの取り組みなども話し合われていたのです。「永遠のいのち」の約束を信じるわたしは、みなさんが、「永遠のいのち」に預かれるように、静かに願っていました。

(現代の「若宮大路」、「季長の合戦振り」、「リレイ参加記念の手形」です)

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愛媛県

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 「坊ちゃん」、学園ものの小説で、一番有名なのが、この作品ではないでしょうか。夏目漱石が、松山中学校の教師として赴任した経験から書き上げたものです。主人公は、直参旗本の家の出で、東京の物理学校を卒業し、数学の教師に、月給40円で、週21時間の授業を担当しています。

 山嵐、赤シャツ、野ダイコとあだ名された教師たちとのやりとりで、東京の家にいた、お手伝いさんの清(キヨ)に可愛がられて面倒を見てもらって、幼少期から過ごしています。無鉄砲な損ばかりの坊ちゃんが主人公です。小説の内容は面白いのです。

 漱石が、一年間、中学校の教師をしたという点で、松山市や愛媛県に近さを感じてしまいます。日本語の近代化、江戸期の話し言葉と書き言葉の違いを、「言行一致」させた文人として、漱石の果たした役割は大きかったと言えるそうです。漱石は足繁く寄席に通って、圓朝(三遊亭)の噺を聞いて、その江戸言葉に学んだそうです。

 江戸から松山は、二百三十里(920km)、28才の漱石は蒸気機関車に乗り継いで、瀬戸内海を渡って、松山に来ています。松山中学校の英語教師となり、ほぼ一年の間滞在しています。ここは、松山城や道後温泉で有名な街なのです。

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 律令制下、「伊予国」と呼ばれ、江戸時代には伊予松山藩で、加藤、蒲生、松平の各氏が治めて明治維新を迎えています。現在の県都は松山市、県花はみかんの花、県木は松、県鳥はコマドリ、人口は131万の県です。瀬戸内気候の穏やかな土地ですが、冬期には雪も降るそうです。

 わたしは、県東部にある街に、一人の牧師、金田福一(かなだふくいち)師を訪ねたことがあります。宇和島の出身の方で、結核に罹り、河原の小屋のような家に住んで、極貧の中を生きた人でした。福音に触れて、クリスチャンになります。ハンセン氏病の愛兄姉を教会に招いては、聖会を持たれた方でした。赤裸々にご自分の心の思いを語りながらも、救いの喜びがあふれた方でした。

 母と同じ年のお生まれで、この方の書いた書物に啓発されて、弟子入りしたくての訪問でした。まだ、identity の確かでない時に、それを探そうとしての旅だったのです。唐突な願いに、何やら戸惑っておいででしたが、知恵深く、わたしの願いをかわされてしまいました。

 越後長岡藩の家老を務めた河井継之助も、若い時に、師を求めて、伊予松山藩ではなく、備中松山藩(現岡山県にある高梁市です)に、山田方谷(ほうこく)を訪ねています。初めは若者特有の横柄な態度を持って接したのですが、方谷師は農民出身ながら、その度量の大きさ、謙遜さに、鼻っ柱をおられています。半月ほどの滞在で、継之助は弟子入りを許されています。師の元を辞する時、帰り道で三度振り返り、土下座をして、継之助は敬意を表したそうです。

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 わたしが表敬訪問をさせていただいた師も、小学校を出ただけの独学の牧師でした。しかしこの方の聖書解釈、説教は鋭いものがありました。週報を、毎月まとめて、お元気の間、送ってくださいました。謙遜さの中に表される知恵でしょうか、そう言ったものが欲しかったからです。

 またコロナ騒動の直前でしたが、華南の街から、ご夫婦で、家内を、わざわざ見舞ってくださった牧師も、大躍進時代に、小学校でしか学べなかったそうです。しかし、市や省の枠を越えて、数えきれないほどの家の教会、信者さんのお世話をしておいでの器なのです。家の教会の第二世代目のリーダーと言えるでしょうか。わたしたちのいる間、漢検によらえられた時期がありました。気骨ある伝道者です。

 坊ちゃんと、この牧師さんとの出会いを通して、愛媛県は身近に感じてならないのです。台湾に出かけた時に、台北から高雄までの街にある、いくつもの教会を訪ねました。台南に出かけた時に、市内の教会のみなさんと、近くの渓谷に、バスのハイキングに出かけました。そのバスで、バスガイドならずも、バス説教者としてお話しをさせていただいたのです。

 その台南市には、有名な日本人が二人いたそうです。一人は、台南平野に農業用水のダム建設をした八田與一です。もう一人は、近藤兵太郎です。八田と同じ時期に、台湾にいて、嘉義農林学校を、台湾代表で、甲子園に導いて準優勝させた野球部の監督でした。それは1931年のことでした。

 この近藤は、松山に生まれています。ご自分も野球をした人でしたが、後に、母校の松山商業学校を、甲子園に連れて行った監督でもありました。野球を「万民のスポーツ」と理解して、台湾の原住の高砂族の学生、台湾人、そして日本人の混成チームで、甲子園代表になって、準優勝をしたのです。

 『(近藤先生は)マムシに触っても近藤監督にさわるな、とみんなが囁き合うほど怖い人であった。しかし、大変に熱心で、怪我などした者にはとことん気を配ってやさしかった。真剣、必死が好きな方で、いつも体中から熱気が溢れているようだった・・・近藤先生は、正しい野球、強い野球を教えてくれた。差別、ひとつもありませんでした!』と、教え子の蘇正生が評しています。
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 九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす

 野球と言えば、わたしたちの国で、どうしても語らなければならない人物は、「松岡子規」です。この歌は、子規が詠んだもので、この人が、どれほどの「野球狂」であったかがうかがえます。野球用語に、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」などがありますが、これらは子規の翻訳によります。2002年には、「野球殿堂」入りしているほどでです。日本が、アメリカに匹敵するほどの野球愛好国になったことに、子規は大きく貢献しているのでしょう。

 こう言う人材を生み出した地が、愛媛なのです。美味しいみかんを生産する県でも有名です。「やっちゃ場」という青果市場でアルバイトを何度もしたことのあるわたしは、その当時の最高品種は、この愛媛県産のみかんでした。

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 愛媛の海洋部、瀬戸内海には、「村上水軍」と呼ばれた海賊がいて、海の支配権を握っていた時代があります。中世の西日本の海上で活躍をしましたが、豊臣秀吉の治世下に、海賊への対策が講じられ、その活動は止んでしまったようです。本拠地があったのは、今の今治市付近だったそうです。造船業や海運業が盛んな歴史があります。

(宇和島のみかん、野球に興じた若き松岡子規、村上水軍の海賊船です)

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日光 no.2

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 山道の脇に咲いていた花です。誰も見てくれない花なのに、大雨が降ったりした今夏、強烈な日差しの中、ひっそりと耐えて咲いていました。きっと、創造者に向かって、いのちの躍動、色彩を下さった神に向かって、懸命に咲いているのでしょう。自然界は、神のいますことの証人なのでしょう。下の朝顔は、留守してベランダを輝かせていた「朝顔」です。

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日光

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 一年ぶりに、日光の街の中心を離れた、街の南の方の「日光オリーブの里」に来ています。家内の通院日で、上の息子が通院の助けをしてくれ、ここまで車で送ってもらいました。家内にとっては、最上の《薬》で、次男がお嫁さんと一緒に来る時も同じですが、家内の目の色、表情が、ガラッと変わって、元気になってしまうのです。

 どんな薬にも優って、効用のある薬ですが、これまで40回ほど、がん免疫療法薬の「キイトルーダー(ペムブロリズマブ)」の投与を続けてきました。前々回の通院日に、主治医から、アメリカなどでは2年間の投与で終了なのだと聞いたのです。

 ところが日本では違っています。毎回、X線検査、血液検査、尿検査、時にはCTMRIPETなどの検査をしてきましたが、癌が活発になっていない休止状態が続いていましたので、一旦休止ということにしました。

 主治医の方からは言い出せないでいたのですが、欧米の例などをお聞きしましたので、今後は休止して様子を見守るということにしています。もう3ヶ月ほど投与はしていませんが、一昨日の胸部検査でも、癌の増殖は見られませんでした。

 そんな安心感から、日光に来たわけです。ここは、「ムラサキスポーツ」というスポーツ製品やスポーツ・イヴェント開催などの会社の社員用保養所で、一般にも貸し出している温泉宿泊施設です。素晴らしく配慮された施設で、喧騒から離れて、いっぱいの自然の中で、ゆっくりできるのです。

 コロナ禍で、利用者が激減しているのに、手を抜かない保守管理がなされていて、いつ来ても施設が綺麗で、気持ちよく過ごすことができます。明確な policy を経営者がお持ちなのがわかります。また来たくなるのです。

 帰国後、ゆっくりと時間が過ぎていて、その上での《ゆっくりさ》と言うのも、とても祝福でいっぱいなのです。ここで知り合いになった職員のみなさんに、華厳の滝に連れて行ってくださったり、名物の蕎麦を食べに行ったり、今回は、自家漬けの梅干しまでいただいて帰る、そんな時を過ごしています。

 もう紅葉が始まり、高い空で赤とんぼが群れて乱舞していて、栗の実も落ち、秋の花々が咲き乱れている日光の南に山の中は、素敵な所です。

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今日まで生きて来れました

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 何時でしたでしょうか、牧師研修会に参加していた時に、大浴場に入っていました。顔馴染みの牧師さんが、湯船の中におられて、顔を見て挨拶を交わして、しばらくしましたら、『廣田さんは以前はヤクザだったんですか?』と、真剣な顔で聞かれたことがあったのです。まあヤクザのような罪人だったことには、間違いありませんし、ヤクザ予備軍だったかも知れません。でも極道の世界に入らずに、生きて来れました。

 なぜそんなことを聞かれたのかと言いますと、わたしの腹部に、けっこう大きな〈刀傷?〉があって、ミミズ腫れしているように見えたのでしょうか。何時もは隠して、公衆浴場や温泉に入るのですが、この方が、後ろからでしょうか、もろに傷跡を見られて、黙っていられなかったのでしょう。

 39才の時でした。腎臓を病んでいたすぐ上の兄が、1リットルほどの透析用液体を腹膜に入れて、一日四回ほど入れ替える「灌流式透析」で、体の負担が大きく、脱腸を起こしていて、血液透析に変えなければならない時期にありました。血液型が、長兄と次兄とわたしが同じで、腎臓移植を考え始めたのです。そんな中、家内が承諾してくれたので、わたしが donor になって、手術に臨んだのです。

 次男がまだ3才でした。初めて遺書を書きました。無事に手術を終え、兄の体で、移植した腎臓が動き出し、尿意が戻ったのだそうです。今年、81才になった次兄は元気でおります。その移植手術の話が、牧師仲間に広がって、岡山県にある長島曙教会の愛兄姉が聞かれて、みなさんが、献金をしてくださったことがありました。

 詩人で牧師の河野進師から、お便り(現金書留でした)をいただいたのが、もう40年近く前になるでしょうか。瀬戸内海の大島と言う所に、ハンセン氏病を病まれた方の療養所があって、そこにある曙教会からの献金でした。それを託された河野進牧師さんが、お手紙を添えてお送りくださったのです。

 政府からのわずかな手当の中から、教会のみなさんが捧げてくださったのです。《聖なる戦慄》と言ったらいいのでしょうか、社会の中で孤立し、差別され、隔離さてている、辛い経験をされてきて、福音の触れて、信仰を持たれた方が、感動してくださって、愛をお示しくださって、仰天し感謝したのです。

 昔は、この病に罹ると、『汚れもんが通ります。汚れもんが通ります!』と言いながら、公の道の隅に寄って、逃げるようにして通行していたのだそうです。差別や区別を受けながら、親にも友にも社会にも見捨てられていたのです。そのように病む人に、

『イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」(マルコ141節)』

 そう言われたのです。多くの人の病も、過去も癒し、治し、回復されるお方がです。わたしの過去も、罪も、悪癖も、イエス・キリストは、癒してくださったのです。同じように救いを受けた人たちを励まされて、今日まで、わたしも生かされて来ました。

(「キリスト教クリップアート」のイラストです)

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赤い靴の女の子とおじいさん

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 「赤い靴」は、作詞が野口雨情、作曲が本居長世によるものです。この歌詞は、1921年(大正10年)に発表され、翌年に作曲された、ちょっと物悲しい童謡です。

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんのお国に いるんだろ

赤い靴 見るたび 考える
異人さんに逢うたび 考える 

 「麻布十番商店街のホームページ」によりますと、〈赤い靴履いてた女の子〉は、実在した少女で、名前を岩崎きみさんと言いました。1902(明治35)年715日に、静岡県不二見村(現・静岡市清水区宮加三)に生まれています。きみちゃんは、未婚の母の子でした。お母さんは、きみちゃんと北海道に仕事を見つけて行き、お母さんは、そこで結婚するのです。
 
 留寿都(るすつ/洞爺湖に近くです)にあった、極寒の開拓農場で働くことになり、3才になっていたきみちゃんを、連れて行くができないと結論したのです。そこで、アメリカ人宣教師夫妻への養子の話が持ち上がり、結局、養子として受け入れられることになります。きみちゃんが3才の時でした。

 この夫婦は懸命に働くのですが、農業開拓に苦労した末に、農業から離れることになり、札幌に引っ越すのです。そこで新聞社で働く機会を得て、その職場で、まだ名の出る前の野口雨情と出会い、交流がなされます。

 雨情も、娘を亡くすという辛い過去があったそうです。それで、お互い通じるものがあったのでしょう。アメリカ人の養女になった「きみちゃん」のことを、お母さんは雨情に話したのです。その悲しみをヒントに、童謡の「赤い靴」の詩を書きあげました。

 どんな事情の女の子かなと、気になっていましたが、そんな実話があったのです。どんなに苦労しても実の親に、養育の責任があります。5年ほど前に、札幌の病院に入院中に、同じ手術を受けた酷寒の旭川の方が、子どもの頃、朝起きたら、肩に雪がつもっていたと言った言葉を思い出し、みなさん苦労して育ったので、きみちゃんのお母さんにも事情があったでしょうけど、もう少し責任感があったらと、残念なお話です。

 『悲しいことが繰り返されないように!」と言う趣旨で、この話が公にされたのだと、麻布十番街のホームページにあります。

 昨年の10月に、一足の靴を買いました。毎日一年間、散歩に買い物に、人の訪問に履いたものです。七月頃に、踵が破れ始めたので、先週末、同じ2000円のスニーカーを買ったのです。

 この日曜日、ラジオ体操に行きましたら、『クリニックにいたでしょう!』と、一人のご婦人が言うのです。マスクをしていましたけど、靴で分かったそうです。と言うのは、わたしが〈赤い靴履いているおじいさん〉だからです。

 歳がいもなく、赤い靴を買ってしまったのですが、足元が明るくていいのです。健康色で、中国のみなさんが大好きな色で、それにわたしは感染したのでしょうか。ちょっと抵抗がありましたが、履き続けたのは正解なのです。8000から10000歩も、二日ごとにに歩くのですが、実に丈夫です。店で聞きましたら、〈大人気商品〉なのだそうです。

 実は、この赤い靴履いてたきみちゃんには後日譚があります。アメリカに行って幸せになったのではなく、9才の時に、病気で亡くなっています。薄幸の少女の物語ですが、わたしの母も同じ境遇でしたが、父の子を四人も産んで、人様の迷惑にならないような人に、かた焼きそばやハンバーグやスイトンを作って、食べさせて育て上げてくれたのです。

▶︎参照 2012年11月7日号「悠然自得/勘違い」

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月の砂漠

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 先週土曜の夜、明月が、筑波の山の上に輝いていた夕べ、まさに「仲秋の名月」を眺めていました。大陸天津で見上げた月の大きさを思い出して、天然の荘厳さに浸ったのです。人は、砂漠で眺める月にも、砂漠のようにに見える月に感動を覚えるのでしょうか。

月の沙漠(さばく)を はるばると
旅の駱駝(らくだ)がゆきました
金と銀との鞍(くら)置いて
二つならんでゆきました

金の鞍には銀の甕(かめ)
銀の鞍には金の甕
二つの甕は それぞれに
(ひも)で結んでありました

さきの鞍には王子様
あとの鞍にはお姫様
乗った二人は おそろいの
白い上着を着てました

(ひろ)い沙漠をひとすじに
二人はどこへゆくのでしょう
(おぼろ)にけぶる月の夜()
(つい)の駱駝はとぼとぼと

砂丘を越えて行()きました
黙って越えて行きました

 これは、童謡で、砂漠を旅する王子や王妃だとすると、現実主義者にとっては、鼻持ちならない歌詞の内容なのだそうです。でも、子どもの頃に、見たことのない砂漠を想像させるには、十分な歌詞であり曲であったのです。

 この「月の沙漠」は、加藤まさおが作詞しています。着想を得たのは、作詞当時、千葉の御宿海岸で、病気療養中だったのですが、砂浜に立ったのでしょうか、そこからはるかに望み見る月に、きっとあるだろう砂漠を思い描いた、空想の詩なのです。

 ウサギが餅つきをしていたり、犬が吠えていたり、獅子吼していたりと、いろいろな想像を膨らませることのできる月です。砂漠は、陽が落ちて、月が登ると、恐ろしく寒くなってしまうので、テントを張って、その中に入らなければならないことが多そうですが、砂漠地帯の月は、幽玄なのでしょう。

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 中国の西、新疆ウイグル自治区に位置するタクラマカン砂漠に、いつか行ってみたいと思いつつも、願いを果たせずの今なのです。そこから、パキスタンに近い、山岳地帯になるでしょうか、桃源郷の「フンザ王国」が、かつてあったと聞き、バス旅行で行けると聞いてからは、夢の実現を考えていました。

 そうしましたら、写真集(市立図書館で借りて見ました))を見、小説の「草原の椅子(宮本輝に作品で、映画化にもなりました)」を読んでから、その思いは、なおさら強くされたのです。映画化されたものも観ましたが、映画は、自分の image と違うのが残念で、ちょっとがっかりしてしまいました。

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 「逃げる」を「北げる」とも書くのだそうですが、「西げる思い」は、今も強くあります。父の世代は、「蒙古の砂漠」だったのですが、わたしたちは、〈月の砂漠世代〉になるでしょうか。作曲した佐々木すぐるは、青い鳥児童合唱団を結成し、多くの学校の校歌の作曲をされた方でした。思い出深い童謡の一つです。

( 「タカマルカン砂漠」、家内撮影の「十五夜月」の光景です)

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中秋節の月餅

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 毎年、この時期になると、パン店をしていて、一年の稼ぎ商品が、「月餅yuebing/げっぺい」だとかで、それを若い友人が届けてくださったのです。三箱も、四箱も、いろいろな種類の箱詰めで、もう食べきれずに、お使い物で、お世話になっている友人宅に届けたりしました。

 普通は〈卵の黄身/満月をイメージしてです)〉の入ったものですが、nuts の入った餡のものは、抜群に美味しかったのです。わたしたちは、一人一個を食べていたら、華南の街の友人たちは、種類の違う一個一個を小さく切り分けて、少しづつ分け合って食べる習慣があって、驚かされたのです。

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 フライパンほどの大きさのものもあって、びっくり仰天したこともあります。分け合って、相手を思いやる風習は、中国のみなさんの素晴らしい習慣です。食べ物で、季節季節を感じる日本の習慣は、どうも大陸伝来の習慣のようです。

 父が、新宿の中村屋から買ってきて、食べさせてくれたことがありましたが、よく練り込んだ餡子の入ったもので、外見は同じようでした。今日は、帰国後、四回目の「中秋zhongqiujie/ちゅうしゅうせつ」になります。あの美味しい味が忘れられない、2022年の〈月餅の日〉です。どこで観ても、いつ観ても月は月なのです。

 ある年、みんなで月餅を食べた夕べ、一緒に家の外に出て、ワイワイしながら華南の街歩きをしたことがありました。満月が煌々(こうこう)と輝いて見下ろし、わたしたちは見上げていたのです。みなさんお元気でしょうか。老家laojia,故郷に帰った方もいるそうです。

香川県

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 四国の愛媛県に一人の牧師を訪ねたことがありました。それで、東名道、名神道を走って、姫路市に寄り、瀬戸内海をフェリーボートで小豆島に上陸し、土庄港(とのしょうこう)からフェリーに乗り換えて、上陸したのが香川県高松市でした。

あれは高松 最終便
聖書(☞グラス)持つ手に 汽笛がからむ
ここは瀬戸内 土庄港
俺(☞恋)も着きます 夢もゆく
春の紅さす いのち(☞ネオン)町(「波止場しぐれ 3番)

 高松市に、源平合戦で有名な屋島があります。権勢をほしいままにした平氏が、京の都から福原に逃れ、そこから筑紫国の太宰府に西走するのですが、そこにも居場所を見つけられずに、ついに、屋島に落ち着きます。しかし源氏の追手は、戦を仕掛けてきまして、そこでの戦いを「屋島の戦い」と言います。

 源頼朝に従った、下野国の那須與一が、揺れ動く船の扇を射抜くという有名な出来事があったのも、この戦の時でした。優れた武将を産んだ下野国、現在の大田原市には、與一(与一)由来の温泉や饅頭や最中(もなか)があって、郷土の誇りなのでしょう。

 この那須は、源氏の武将の出の地ですが、日光の奥、福島県寄りには、平氏の落人(おちうど)伝説のある「湯西川」があります。現地の方の話では、野武士の残党説もあって、観光目的の村興しなのかも知れません。この春、泊めていただいたペンションの女主人に、『わたしの祖先は、源氏一党の末裔(まつえい)だと、父が言っていたんで、泊めていただいても大丈夫ですか?』と言いましたら、苦笑いをしていて、敵愾心なしでした。
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 さて、香川県の県都は高松市、県花と県木はオリーブ、県鳥はホトトギス、県獣は鹿、人口93万人で、県の面積は、46都道府県の中で最小なのです。

 戦後間もない頃に、「二十四の瞳(ひとみ)」という映画が上映されました。瀬戸内海に位置する小豆島の小学校を舞台にした、戦前から終戦後の間の学校物語でした。学校で見たような記憶があります。学校出たての新任の「大石先生(おんな先生)」が担任で、12人の生徒の物語でした。瀬戸内海に浮かぶ小島という舞台は、遠い世界の感じがしていたのを覚えています。

 香川は、律令制下では、「讃岐国(さぬきのくに)」で、壊疽幕府のもとには、高松藩、丸亀藩、多度津藩の三藩がありました。わたしたちの住む街にも、讃岐人が始めたのではない、讃岐うどん店(丸亀製麺)があって、全国展開、いまでは海外にも支店を持っていることで有名な、「うどん」で有名な県なのです。どこにもあるうどんですが、香川県は、うどんの王道は、「醤油」の特産地であるので結局、おいしい生醤油(きじょうゆ)で食べられることも、「讃岐うどん」が人気な理由なのでしょう。

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 わたしは若い時に、岡田稔という牧師の説教を聞いたことがありました。実に穏やかな話し方をされた方で、堅固な聖書主義の立場から、淡々と話される説教に、引き込まれたことがあります。後に、四国学院大学の名誉教授となられた方です。

 戦時下、日本基督教団に、諸教会が統合される中で、当時牧会していた灘教会(神戸市)を、偶像礼拝に反対する立場から、その団体に加盟させませんでした。そのために、三井三池炭鉱での強制労働に服させられます。もの凄くひどい時代だったのですね。戦後、岡田師は教会と神学校を復興されたのです。

 それで、灘教会を退職後、神学校で教えられ、後に善通寺市で伝道をなさったと聞きました。その頃のお説教でした。わたしにとっては、「讃岐うどん」よりも、真の福音主義、聖書主義の伝道者が過した街として、善通寺市はより印象的なのです。四国学院は、キリスト信仰の上に建った、素晴らしく教育的な配慮がなされた学府です。

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 団扇(うちわ)と扇子(せんす)の生産は、全国生産の半分近くを占めているようです。この県の出身者で、「父帰る」や「恩讐の彼方に」で有名な菊池寛がいます。妻子を捨てた父親が、20年ぶりに、妻や妻子の住む家に戻ってきます。明治末期の時代設定です。お母さんと次男、そして娘が父を許して受け入れるのですが、長男の賢一郎は、赦そうとしません。家を捨てた父に代わって、家族を支えた賢一郎だったからです。その父を赦し、受け入れる賢一郎の心の動きを描いて秀逸でした。

 そんな父親には、わたしはならなかったのですが、子と父、母と娘という関係は、意外と複雑な相克なものかも知れません。「エデンの東」のキャルとお父さんの和解の顛末に通じるでしょうか。『わが家は、どうかな?』の香川県でした。

( 生醤油の讃岐うどん、四国学院大学のキャンパスです)

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モクモクの焼き秋刀魚

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 正月に「お雑煮」、春に「カツオ」食べた日本人は、秋になると「秋刀魚(サンマ)」を食べて、食べ続けて、それぞれの季節を感じながら生きてきたと言えるでしょうか。この秋刀魚も、秋の食材ではなく、一年中、冷凍保存されたものが、売られているので、珍しくありません。

 ただ、マルマルとイキイキしたした大きいの物は、これからの季節に出回るのでしょうか。炭火で焼いたのを、頂いてみたくなっています。子どもの頃は、ほとんどの近所が、モクモクと煙って、同じ秋刀魚を焼いて、夕食の食卓にのせられていたでしょうか。

 父の家では、母が、七輪に火を起こして、網をのせて、その上で、秋刀魚を焼いて、決まって大根おろしをつけて、醤油をかけてくれました。どんな高級魚よりも、「目黒の秋刀魚」で、秋を感じさせてくれ、堪能させてくれた<庶民魚>でした。

 お殿さまが、初めて秋刀魚を食した感動を伝える落語です。江戸郊外の目黒に狩に出て、焼き秋刀魚と出会うのです。いつもお毒味役が毒味をし、骨も抜き、冷え冷えと冷めたものしか食べられないお殿さまが、炭で焼いた、きっとジュウジュウと脂のはねるような、活きのよい秋刀魚を食したのでしょう。それで、『秋刀魚は目黒がいい!』となったのです。

 華南の街の教会で、毎週、お昼が供されたのです。よく出たのが、秋刀魚をブツブツと切って、二口サイズにした物を、大中華鍋で油で揚げて、餡かけにした物でした。美味しかったのです。みんなでワイワイしながら食べたから、なおさら美味しかったのでしょう。

 いつだったか、新鮮な秋刀魚を、「刺身」にして食べさせてくれたこともありました。初めての刺身秋刀魚は抜群に美味しかったのです。これは母ではなく、食堂のおじさんがでしたが。『息のいいのが入ったので、刺身にしますから、食べてみてください!』と、出してくれました。鯵も鰯だって美味しいしのですが、でも秋刀魚の刺身は格別です。焼き秋刀魚は、それ以上に特別です。

 ここまで、キーを打っていると、唾液腺の活動が激しくなって、もう食べたくなってしまいました。この秋刀魚焼きの煙が目にしみた、高校時代のグラウンドも思い浮かんで参ります。いつでしたか長く住んで、子育てをした家で、ガスレンジで秋刀魚を焼いていた時、隣のおじさんが、『廣田さ〜〜ん・・・・・・!』と、怒ったのではないのですが、煙に巻かれて、そんな声がかかったことがありました。あのおじさんは、今も元気でしょうか。

 最近では、台湾や中国の秋刀魚漁獲量が、日本を追い越して、日本は全盛期の<三分の一>ほどに激減しているそうです。美味いものを食べて頂くのを、共に喜ぶべきですが、ちょっと寂しい感じがしてしまいます。

 アパートやマンションで、<炭焼き秋刀魚>は、もう無理でしょうね。車に七輪と炭とを積んで、魚屋さんで秋刀魚を買って、郊外に行ったらどうでしょうか。脂が乗り過ぎてたら、消防車が来てしまいそうですね。やはり、『秋刀魚は秋がいい!』のです。

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