青年

先週、一人の青年が、ギターを抱えて尋ねてこられました。海南島の出身で、6年前からギターを習ってこられた、日本語専攻の大学生です。この青年が、家内と私のために、ギターを弾いて歌ってくれました。下の息子と比べたら今一つといったところですが、歌声も、ギターの音色も出色だったのです。気張らないで、撫でるように弾いていました。疲れやモヤモヤが、スーッと消えていってしまいそうな、そんな感覚に引き込まれるようでした。これまで、かき鳴らして気持ちを高揚させてくれたギタリストが、何人かいましたが、『ギターって、弾き手によって、これほど違うのか!』と思わせられること仕切りでした。

その彼のために、家内が定番のカレーライスを作って、一緒に食べました。彼は、『美味しい!』といって感謝し、食後に、『わが家は貧しかったので、よく母を手伝いました。それで食器を洗わせてください!』といわれて、台所に入って、見る見るうちに綺麗に洗い上げてくれたのです。ゴミを取るかごが、少々汚れていたのですが、それも丁寧に洗ってくれ、まるで新品のようにしてくれました。心が繊細なのでしょう、そんな両親が大学で学ばせてくれている感謝が、彼の振る舞いの中にあふれているのを感じたのです。わが家の流しは、日本のようなステンレス製ではなく、コンクリートの上にタイルを張ったもので、築30年を経ていますので、ひび割れたりしていますが、そこを見事に洗い上げてくれました。これまでの来客の男性の中で、食後に食器を洗ってくれた青年は、この青年で二人目になったでしょうか。

すばらしい青年の多い中国で、これまで出会った青年の中でも、23時間の交わりでしたが、彼は《ピカ一》だと思わされたのです。貧しい経験が、こういった青年を育てたのかも知れません。お父様は、体が弱くて家にいらっしゃって、お母様が働いておられるのだそうです。課題の多い国の中で、次の時代を担っていく青年たちが、すばらしく成長して、備えられているのに気づかされています。昨晩も、新装成った大劇場で「京劇」が公演されるというので、招待券をいただいた家内と私は、バスに乗って出かけたのです。乗ってつり革に手をかけるや否や、一人の青年がすっくと立ち上がって、席を譲ってくれるではありませんか。家内を座らせると、今度は、もう独りの女性が同じように席を空けてくれましたので、『謝謝!』といって座らせてもらいました。もう最近は、断らないで、その好意を喜んで受けるようにしているのです。

中国で名だたる京劇俳優の演技もすばらしかったのですが、年長者への敬意を、こういった形で、自然に表す、この国の青年たちが、次の時代を背負って生きていくのですから、この国の前途洋洋ではないでしょうか。日本が、なぜか忘れていることを、この国は律儀に行っているのではないでしょうか。触れもせず、見もせずに非難する人が多くいらっしゃいますが、「儒教の教え」の影響だけではなく、人間の道を誠実に生きている姿を見させられております。あのギターを爪弾く青年も、席を譲ってくれる青年たちも、彼らのうちに、そんな輝きを見るのです。暖房のない大劇場は骨身に、真冬を感じましたが、心の中では、もうイッパイの春を満喫させられた「春節」間近の夕べです。


(写真上は「yamahaギター」、下は「近代京劇」の公演の様子です)

『また大臣が代わった。俺の死刑執行のために、この人は判を押すのかな?』と、きっと思っていらっしゃる受刑者がおられるのではないでしょうか。昨日、また「法務大臣」が新しく選任されたようです。代わるたびに、マスコミから「死刑の是非」についてのコメントが求められて、厳罰主義と温情主義が交互に出てくるようです。このたび新たに大臣になられた方は、『死刑という刑罰はいろんな欠陥を抱えた刑罰だと思う』と私見(!?)を述べておられました。

法律を学んだ方で弁護士もされた方が、弁護士や法学者の立場で、そうコメントするのはいいと思います。でも、一国の法務大臣になられて、「刑法」という国法に定めた制度があって、法を行うのが法務省の最高責任者なのではないでしょうか。『執行か延期か、いつも怯えなければならないのはつらい。俺たちの心を弄ばないでくれ!』、と受刑者の方は思っていらっしゃるに違いないのです。彼は、『なぜ死刑が必要なのか?』を学ばれたと思います。もし、法に欠陥があるのなら、どうして立法府で改めようとしないのでしょうか。『感情論で是非を公言するのをやめてくれ!』と、私が執行を待っている受刑者なら、こう思うのですが。

「殺してはならない」、「殺人者は死を持って死の値を払うこと」という法が、どの国にもあるのは、人の生命を尊ぶという考えからきています。決して、生命軽視だからではありません。私は、すべての人に「生命権」があると信じています。どのような理由があっても、他者の「生きる権利」を犯したなら、厳罰に処すことはいけないことでしょうか。「故意の殺人」と「過失の殺人」とは違いますが、失われた命の重さは、地球よりも思いのだということが大前提です。人類最初の殺人事件の記録が残っています。兄が弟を殺した忌まわしい事件です。その事件の様子の記録の中に、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる」とあります。

この地球は「創造の美」で満ち溢れています。ナイアガラの滝もイグアスの滝も九塞溝(中国・四川省)も、息を呑むような景観でした。奥入瀬も志賀高原も箱根も、見惚れるような美しさです。ところが、この美しい地上には、流された血が、夥しく沁み込んでいるのです。この血の責任は、誰がとるのでしょうか。主義主張の違いで、怨恨で、そして弾みなどで失われた人の血のことです。有耶無耶にされないのです。きっと、すべての人の命についての責任が問われるときがくる、と信じるのです。ヒューマニズムの「人間尊重」は、「人命尊重」が基調です。感情論ではありません。死の覚悟のできた受刑者に、死刑執行の判を押すのは、大臣として当然です。彼が冷酷な人だからではなく、法を愛し、法を行う責務を負い、そして人の命の重さを知っているからなのです。

(写真上は、「HPようこそ”こまがね”に」の「秋の紅葉」、下は、出張した時に連れて行ってもらった、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの国境にある「イグアスの滝」です)

中国語に、「浪子」と言いことばがあります。きっと海の波のように奔放で、放縦で、自分を波動に任せている様子から、そう呼ばれるのでしょう。日本語に訳しますと「道楽者」とか「放蕩息子」になるでしょうか。模範児でなかった青年期の私も、きっと,世間から「浪子」のように思われていたかも知れません。両親の寵愛を受けて、我侭いっぱいに育てられた井の中の蛙、それが私でしたから。

ある書物に、この「浪子故事(放蕩息子の物語)」があります。その住んでいる世界の「狭さ」と「平凡さ」とに飽き足りなく不満で心を満たしていました。『きっと遠いあの街には、面白いこと、刺激的なことがあって、俺を満ちたらせてくれるに違いない!』と、日がら思い続けていたのです。父の目も親戚の干渉も兄弟たちとの競争も避けたかったのです。それで別世界での生活に憧れ、「新天地」での生活を夢に見始めます。雑誌もテレビも、その世界が、どんなに素晴らしいかを目と思いと、はげしく訴えてきたのです。『広さと刺激に満ち溢れて楽しい世界だ!』と、すべての情報は誘っています。そうなると、日常の義務が手につきません。遠い空を眺めてはため息をつくばかりです。その夢の実現のために、大雑把な計画を立て始めます。どんなに算段してみても、には自立する能力も資金もないのです。それでスポンサーを捜しますが、この未熟な男に用立てる大人は皆無です。叔父や叔母は全く相手にしてくれません。銀行だって貸してはくれないのです

それで父の財産の「男の相続分」に食指を動かします。それは父親の存命中には、相続することはできません。それで父親泣き落としにかかります。その芝居のうまさに、騙されやすい父は負けてしまうのです。それで相当分の財産を分与してしまいましたは旅支度をして、父と母と一緒に育った兄を、故里と共に捨てます。大金が彼の手に握られているのです。憧れの地にやってきたこざっぱりした身なりの彼の周りには、大勢の若者たちが群がってきました金払いの良い彼は、おだてられると湯水のようにそのお金を使っていくのです。彼らと過ごす時間は、夢のように過ぎて行きました。夢から覚めて、ポケットの財布を開き、銀行の講座をの残高を見ますと、一円も残っていません無一物のなったことを知った遊び仲間は、潮がj引いていくように彼の元から離れていきました。完全な金銭的な破産でした。そればかりではなく、精神的にも破綻をきたしていたのです。が、これほど短時間に、しかも容易に砕けて仕舞うとは、夢にも思いませんでした。その現実に直面して、初めて彼の目が覚めるのです

「瞬きの間の独り芝居」という名の幕が上がってしまうと同時に、彼は父の家を思い出すのです。幼い日から、ふるさとを捨てた日までの楽しい思い出が走馬灯のように思いの中を巡ります。父の笑顔と、そのから流れ落ちていた父の汗を思い出します。そして、『きっと父は、私のために涙だって流しているに違いない!』と思い始めると、いても立ってもいられなくなりました。そうだ、父の家に帰ろう!』、そう思うと同時に、彼は、故里に向かって歩き始めたのです。はかない夢から覚めたたのです。父の家に近づいた時、彼が父を見つけるよりも早く、父が見つけてくれていました。彼が走るよりも早く、父が走り寄って来たのです。父は裸足でした。父を裏切り傷つけた彼を抱きかかえ、幼い日にしてくれたように頬ずりをしてくれたのです。まるで私が遠い過去に負った傷を癒すかの様にしてです。

父は何も詮索しませんし、責めもしないのです。彼が、幼い日に「父に愛される子」であり、父を無視し捨てた今でも「父に愛される子」であることを知らせてくれたのです。この父の愛は、彼の行いや時間の経過によって、色あせたり変化したりしないのです。彼の兄も親族も、好き勝手をした彼を受け入れようとはしません。ただ父だけは、『きっと帰って来る!』と信じて待って、無条件で受け入れていてくれたのです。失敗体験と恥体験とによって、自分の実態が分かって帰ってくることをです。次男の回復を天に委ねたのです。父の包容力、父性の豊かさが、どれ程のものであるかを彼は知ることができたのです。彼は《父の財布》にだけ期待していたのですが、帰って来た彼は、祈りつつ待ちつつ走り寄る、《父の思い》を知ることが出来たのです。父の懐って、こんなにふかふかで暖かく、居心地が良かったのを再発見したのです。

厳格な私の父を、ときどき思い出しますが、そのほほを流れる涙を見たことがあります。そんな父を見て、『男だって泣いていいんだ!』と思わされたのです。だれの人生にも、さまざまなことがあるのでしょう。自分も、何度泣いたことでしょうか。涙とは、心の思いを洗ってくれるものなのかも知れませんね。この物語のお父さんのほほにも、子を思って流す涙があったにちがいありません。

(写真は上は、「東シナ海」です)、下は「霞浦(福建省)」です)

望郷

私たちの四人の子供たちにも、孫たちにも、帰って行く「実家」がありません。というのは、私たちが5年前に中国に来る時に、家財一切を処分して、家を畳んでしまったからです。世帯を持ってから、持ち家に住んだ経験はなく、いつも借家のアパートや市営や県営の団地に住んできたからです。結婚してから35年の間、子どもたちの想い出のこもった物もほとんどを処分してしまいました。長男は、手狭な家に住んでいましたし、長女はシンガポールに本拠地を置き、次女はアメリカに嫁ぎ、次男は聖蹟桜ヶ丘のワンルームマンショに住まいでしたから、親の持ち物を置く空間がなかったからです。わずかな物を預けておいたのですが、迷惑になることもあって、その後、帰国時に処分してしまいました。

そんなこんなで日本を出ましたから、最後に、家族全員が集まったのは、2006年の正月だったでしょうか。長男が中学を卒業して以来、ハワイの高校に入学してから、家族六人が、団欒を共に過ごす時間が徐々に少なくなってきてしまったのです。この正月の時期、ここ中国でも、「春節」には、故郷の家族のもとに戻り、その団欒を楽しむ習慣があるようです。私たちも、友人が安い家賃で貸してくださった家、狭い二間に、娘の家族を迎えたりしましたが、結構、正月の寒い時期にも、みんなで寝たり交わったりすることが出来たのが不思議でした。

ここ中国でも、友人の家をお借りして住んでおりますから、まるで「寄留者」か「巡礼者」のようにして生きていることになります。もちろん、「外国人」でありますが。『不安にならないですか?』と言われますが、こういった生き方も慣れますと、身軽で快適なのです。不思議なものです。ただ、家族が一緒に集まる場所がないのは、子どもたには、『帰って来れる家がなくてごめんね!』と思ってしまうのです。

昨日今日、正月恒例の「箱根駅伝」が日本では行われていました。今年は、パソコンでラジオ放送を聞くことができましたので、『早稲田総合優勝!』という結果を、NHK第一放送で聞くことができました。これを聞いていたとき、ミカンをむきながら、おせちり料理をつまみながらテレビの放映を、『家族で見られたらなあ!』、との思いが湧き上がってきてしまったのです。日本を発つ直前に、挨拶に来てくださった、日本人の女性と結婚されたアメリカ人の友人が、『我が家は、お子さんたちの実家ですから、そう思ってくださいね!』と、うれしいことを言ってくれたのです。

と言っても、もうすでに世代交代の時期でしょうか、ある方から、最近、『息子さんの扶養家族になられたらどうですか?』と勧められました。『そうか、もう息子の家に集まればいいのか!』と思えばいいのでしょうか。アメリカにいる次女が、『ここに来ればいいよ!』と言ってくれたり、次男も、『俺が面倒みるから!』とも言ってくれています。

まだまだ元気に働くことも出来ていますから、健康が支えられている間は、問題がないのですが、昨秋、家内が病みましてから、ちょっと弱気になってしまいました。子どもたちの意見に耳を傾けないで、自分で思うように、大分頑なな生き方をしてきましたから、最近は、いろいろとクレームがつき始めています。日本人と正月の関係には、意外と微妙な情緒的な面があるのでしょうか。昔読んだ本の中だったと思いますが、正月は、普段賑やかに生きている人にとっては危機の一つなのだと書いてあったのを思い出しました。

でも懐かしい故国があって、そこに懐かしい人たちがいますし、そればかりではなく、友情を示してくれる友人たちがこの大陸にいてくれるのですから、『遙かなる永遠の故郷に帰るまで、巡礼の旅を続けていこう!』と、年頭にあたり、そんな決意をしたところです。ご心配なく!




初夢

お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ
コチャ 高輪 夜あけて 提灯けす
コチャエ コチャエ

六郷わたれば 川崎の万年屋 つるとかめとの 米(よね)饅頭
コチャ 神奈川 急いで 保土ヶ谷へ
コチャエ コチャエ

これは、江戸の民謡「お江戸日本橋」です。「七つ立ち」というのは、今の早朝四時頃のことですが、上洛や伊勢参りや箱根巡りの旅の出発時間だったのでしょう。この六郷川は、江戸五街道の一つ《東海道》の渡し場の一つでした。私は、この川の上流の多摩川の河畔の街で育ちました。かつて、この街は、甲州街道の宿場だったのです。この宿場の本陣だった家に住んでいる上級生もいましたし、新選組の土方歳三の生家もこの近くで、彼の親族の子孫が級友にいました。この甲州街道も日本橋を起点に、内藤新宿(現在の新宿)を経由して甲府にいたり、中山道に繋がっていたのです。

さて、この日本橋を起点に、トルコとブルガリアの国境に至る、総延長20,322 kmの「アジアンハイウエー1号線(AH1)」のあるのをご存知でしょうか。昨年末、初めて私は知ったのですが。その路線は、次のようです。

東京福岡・・・フェリー ・・・釜山[プサン]平壌[ピョンヤン]瀋陽[シェンヤン] 北京[ペキン]武漢[ウーハン]広州[グアンゾウ]深セン南寧[ナンニン]ハノイプノンペンバンコク)ダッカニューデリー イスラマバード)イスタンブールカピクレブルガリア国境

アジア圏の国々、街々を一本の道路で結んでいるハイウエーがあるのですから、東シナ海を渡った阿倍仲麻呂が、このことを知ったら、きっと驚くだけではなく、喜ぶのではないでしょうか。かつて日本は、「五族協和」とか「大東亜共栄圏」を叫んだ時代があったようですが、銃器による領土拡張の野心ではなく、国際協調や民間友好の陸路を、人々が行き来できるのですから、画期的なことではないでしょうか。もしかすると、福岡と釜山とは、壱岐や対馬の島々を経由して、海底トンネルで繋がる時代が来るのかも知れませんね。

それが実現したら、日本橋を《七つ時》に立って、首都高から東名高速に出て、玄界灘の海底を潜って、ヨーグルトや果物のおいしいブルガリヤに、車の旅をしてみたいものです。日本の街にも、ベトナムナンバーや印度ナンバーの車を見掛けるのが日常、当たり前のことになって、交際交流が盛んになるに違いありません。美しい日本の四季や温泉や日本料理を楽しんでいただきたいものです。そんな「初夢」を見たかったのですが、残念なことに何を夢見たのか覚えておりません。ただそんな友好の夢だけは、いつまでも持ち続けたいものです。

(写真上・中1は「葛飾北斎の日本橋と富嶽」、中2は「アジアン・ハイウエーの標識」、下は「ブルガリアのセネバル」です)

新年快乐

おめでとうございます!

2011年、日本、中国、アメリカ、シンガポール、ブラジル、すべての国と民族に広がります、私の家族、友人、知人、そして、みなさんの上に、平安と健康と繁栄を、ここ華南の空の下からお祈りしたします。私たちは、5回目の新年を、ここ華南の地で迎えることができました。あいにく今日は断水で、お昼には若い友人たちを、「お雑煮会」に招いたのですが、残念ながら取り消さなくてはならないようです。

日本の社会に起こっていますことを、こちらから眺めますと、今まで分らなかったことが理解され、以前、外から見ていた中国も、こちらで見聞きしますと、さらに鮮明に理解されてきております。

ここから上海に至る道の途上に、「寧波」という港町があります。かつて中国と日本とを、経済や文化や宗教などの交流で強く結びつけた街なのですが、今年は、この街を訪ねてみたいと思っております。日中関係は、隋や唐(紀元600年頃からでしょうか)、元や明の時代(日本では鎌倉から江戸初期の時代になるでしょうか)から、この寧波を出入口にして、脈々として密接につながっているのが分かります。

さらに福建省からは、多くの福建人が船に乗って渡って行き、日本に定住しているのですから、私たち日本人の出自の一つの地が、ここにあることになります。一緒に食卓についてくださる友人たちの所作を見ていますと、アメリカの知人宅でテーブルについて感じるのとは違って、同じ家族の一員であるような、親しみを覚えるのです。昨年末、家内が病気で入院しましたときに、こちらで出会った友人たちが示してくださった愛に、私たちの魂の深いところが、ギュッと握られ掴まれてしまったようです。「你們是我的一家人吧」だと言ってくださる彼らに、家族や親族の血縁以上のものを感じさせられている日々です。

この国が、さらなる喜びにあふれて、心のそこから感謝の笑顔に満ちていくことを願っています。

愛するお一人お一人に感謝し、ご挨拶を申し上ます。今年もよろしくお願いいたします。

(写真は、遣唐船、遣隋船が出入りした「寧波の港」です)


十大ニュース

1.家内が第二医院に入院

出産以外に入院したことのない家内の初めての入院でした。しかも外国の地ででした。ところが、病んだ家内を、多くの友人たちが介護をしてくださったのです。6日間24時間体制で、当番表を作成してくれてでした。大感動でした。『遠くの親戚よりも、近くの他人!』、この他人の中に、しかも中国の地に、真実の友がいてくださったことは、何も勝る祝福なのであります。人の世話をしてきた家内が、人のお世話になったことは、なんという喜びでしょうか。

2.母が93歳の誕生日を迎える

1917年生まれの母は、強く歩くこともでき、食欲もあり、座って人の話も聞くこともできます。至極元気でおります。山陰の地で生を受け、父と出会って結婚し、四人の男の子を産んでくれました。この夏、小さくなった母の背を見ながら、三男の私ですが、親孝行の真似事をさせていただきました。

3.腰痛で授業を休講する

髭を剃って、着替えて学校に行こうとしたら、腰がすくんで歩けなくなってしまいました。都合十日間ほど家の中で這うようにして過ごしてし、授業を休んでしまいました。毎年、秋から冬の季節の変わり目に、決まって起こっています。帰国したら、紹介された板橋の整体師に行こうと思っています。

5.次男が渋谷に会社を建て上げる

出資してくださる方があるほど、仕事を評価され、信頼を寄せてくださったのでしょうか、素晴らしい機会です。力いっぱい、培ったものを発揮して欲しいと思っています。

6.コンクリート・ブロックの破片が投ぜられる

尖閣諸島の漁船の拿捕と船長の逮捕が報じられた晩、我が家の裏庭のポーチに、コンクリートの塊が、いくつも投げ込まれていました。落ちたり置かれたりするはずのないものでした。直情的な気持ち、それが理解できましたので、悩みませんでした。軍靴でこの国土を踏みにじった過去を考えたら・・・・。

7.シンガポールに旅行をする

査証が得られなくて3度も4度も中国大使館に行きました。おかげでマレーシアに2度も行って、滞在時間を延長しました。その滞在期間中の真夜中に、泥棒に入られて、長女の貴重品のほとんど、息子にもらったカメラが姿を消しました。命からがら助かって、『人の物は盗まない!』、そう決心しました。

8.永定の「土楼」に行く

何年も前から、『遊びに来てください!』と誘ってくださった友人の家を訪ね、彼の知人が車で、山道を走って、世界遺産である「土楼」に連れていってくれました。漢民族の驚くほどの知恵に触れることができ、甲州街道沿いに見えた、いくつもの「土蔵」を思い出していました。

9.「鮑の養殖」をみる

福州の北のほうに連江という街あります。自然の美しい、漁業を生業にしていていました。そこに潮騒を耳にしながら泊めていただき、翌日は、船で養殖場に案内していただきました。海水がきれいで、鮑もご馳走していただき心安まる日を過ごすことができました。

10.〇〇義塾の校長先生と会う

偶然の出会いと紹介で、シャングリラ・ホテルで交わりの機会がありました。若い日の共通の知人がいて、話が弾みました。私の若い友人のお世話をしてくださると、この校長先生が約束してくれ、話が進展しています。

脇役


『きっと大人になったらこんな顔になるんだろうか?』と思わされた芸能人がいました。中学3年の時でした。まだ子どもと大人の境界線にいて、体も心も、どちらでもないようなあやふやな時期だったでしょうか。ニヒルな雰囲気を漂わせている男に憧れていた私は、テレビに登場し、ブラウン管の中に映し出されて歌う、水原弘と自分をダブらせていたのです。あの時、彼が歌っていたのは、確か「黒い花びら」だったでしょうか。悲しくて寂しい内容の歌詞でした。誰にも、『似てる!』と言われたことがなかったのですが、坊主頭の自分が、『髪の毛を生やして、お酒を浴びるほどに飲んで、一人前のおとなになって、夜の新宿でもぶらぶらしていたら・・・・』と思ったのです。『旨い!』と思ったことのないタバコをくゆらせ、飲むと頭が痛くなる酒を飲んだのですが、なかなか似てこなかったのです。男っ気のある親分肌で、若者をぐっと引きつけるようなものを持っていた彼の、そんな不良っぽさに憧れたのです。としますと、思春期というのは、あやふやで、危なっかしくって、さだまらない時期なのでしょうか。

そんな私は、一生懸命に彼に真似て歌うのですが、声が変わったばかりで、オトナの声など出ようはずがありません。疲れて熟睡してしまいますから、万年寝不足で目の周りにクマができてるような表情にはなれなかったのです。水原弘が42歳で亡くなったときには、彼と同い年のアメリカ人の事業家と一緒に、もう6~7年ほど働いていました。この方から、さまざまなことを学んでいたのですが。この方は、マイナスイメージのない方で、水原弘の対局に生きていた人でした。酒もタバコもやりませんで、実に清廉潔白な人格者だったのです。ちょっと近寄り難い雰囲気を持っていますが、笑顔が素敵でした。日本人からでは受けられないような感化を、この方から受けたことは、二十代に蓄えた貴重な宝物だと、今でも思っています。

文壇にも、芸能界にも「無頼派」という枠組みがあるようです。「無頼漢(ならず者)」ではなく、熟成して穏当で日和見的な在り方に添いきれないで、それを逸脱した作風をよしとした、戦後の若手作家を言うようです。太宰治、檀一雄、坂口安吾、織田作之助などがいました。たしかに生き方も、常軌を逸していて、アルコールや薬物中毒だったり、自殺したりの破天荒な生き方もあったようです。水原弘も、破天荒に生きた人でした。『人は憧れたものに似る!』と言われていますが、水原弘に似ていたなら、私も40代の初めに召されていたのかも知れません。しかし20代の中ほどで、お酒もタバコもやめましたし、体が悲鳴をあげたら睡眠をとることにしていたのです。健全な生き方を、その頃、出会ったアメリカ人の方に真似て始めたことは、よい選択だったのだと思うのです。

いったい、どんな男、どんな人間になって今、私は有るのでしょうか。思春期に憧れたイメージとはまったく違った自分が出来上がってしまいました。このような「憧れ」とか「英雄像」は、やはり虚像なわけです。ジェームス・デーン、水原弘、鶴田浩二にと、イメージを求めた心の遍歴は、思い出すと、むず痒さを覚えてしまいます。芸能界のスターたちは、意図されて作られた商業主義の1つの商品なのでしょうね。「龍馬」に、現代の若者の注目が集まっているのは、史実の龍馬ではなく、理想化された虚像であって、この時代に変化を願う人たちのモデルとして登場させられているわけでしょうか。テレビの自分を、龍馬が観たら苦笑いではすまないかも知れませんね。人の外貌から、「心」や「生き方」や「価値観」に、イメージを変えていくのが、大人への道なのかも知れません。脇役から主役を演じて、今再び人生の脇役に戻った自分を思って、『これが人の道なのだ!』と、2010年の大晦日に思わされております。

(写真上は、「水原弘」、下は「坂口安吾」です)

一陽来復

今日は二十四節気の一つ「冬至」です。故郷では、柚子湯に入ってかぼちゃを食べる風俗が残っていて、銭湯や入浴施設の大風呂には、柚子が浮かんで、芳香を放っていることでしょうか。小学校の時、内風呂があるのに、わざわざ街の銭湯に行って入ったのですが、風呂場に立ち込めていた芳しい香りが、東シナ海を渡って漂ってくるかのようです。ここ中国では、かぼちゃを食べたり、柚子湯に入ったりはしないようです。

我が家は、4階建てのアパートの一階にあって、小さな庭の突き当たりは高台になっていて、そこに三階建ての家がある、そういった住宅環境に住んでおります。夏場は涼しくていいのですが、冬場の陽光の少なさには、毎年、この時期に、『引越そうか?』と考えさせられております。それでも今日は、暖かくて燦々と太陽の光が、開け放った裏扉から差し込んできています。そうですね、今日を境いに、昼間の長さが増して行くわけで、この日が起点であるのは、まさに《一陽来復(冬が去り春が来ること。新年が来ること)》の願いが込められていることになります。

華南の福建省、広東省、江西省などは、「土楼」で有名な《客家》の里です。ここに住む客家人は、16001700年 ほど前、「中原の戦乱」を避けるために南方へ移住した漢族の末裔なのです。客家では今でも、冬至に天の神を祭るならわしが残っているそうです。各家は、門の外に卓を設けて、「冬至圓(汤圆(tang yuan)」と呼ばれる団子や各種のお供え物を並べて、香を焚いてろうそくを点すのだそうです。こうして敬虔に天の神を祭り、長寿や豊作、家族の幸せを祈るのです。 今夏、訪ねました広東省にほど近い永定では、そんな長い風習が守られ、「冬至節」を今日も祝っていることでしょう。なにかキリスト教徒が、「クリスマス(冬至祭の影響といわれていますが)」を祝うのと似ているように感じるのですが。

ところで、中国生活で、ただ一つ残念なことあります。それは我が家に「風呂」がないことなのです。それで一年中、シャワーなのですが、冬場のシャワーは億劫になってしまい、あまり好きではありません。それでも、シャワー室には、「取暖」と記された、高熱ライトが4つ備えてありますから、暖を取ることができて、寒くはないのですが。こういった中で、5年も過ごしますと、食べ物は問題はなくなったのですが、疲れたり、ほっとしたい時には、『ゆっくりお湯に浸かりたいなあ!』と、しきりに思ってしまうのです。これが、ただ一つの中国生活の不満なのであります。ことのほか冬至の柚子湯、こどもの日の「菖蒲湯」を思い出しますと、懐かしさと相まって『入りたい!』との思いが湧き上がって、居ても立ってもいられないのです。

それで、バスの中から、『風呂桶になりそうな物がないかな?』とうかがっていますが、時々、『あっ、あれなら・・・!』と思い当たることがあるのです。降りて買おうと思いますが、『さてどう運ぶの?』と考えてしまうと、自転車も車もない身ですから、我慢してしまうのです。庭に面した三和土の上に小さな小屋を作って、ガス湯沸かし器を設置し、桶を入手すれば、風呂場が出来るのですが。『来年こそは!』と思っておりますが。

さあ、今晩の夕食に、中国のみなさんが「冬至節」を祝って、食べる、米の粉アンを包んだ素朴な団子の「汤圆(冬至圓」を食べることにしましょう。天津にいた頃から毎年、食べておりますからこちらのみなさんと同じ気持ちにさせられて、春到来の願いを込めた《一陽来復》の喜びの輪に加えてもらおうと思っております。

(写真は、兵庫県の城崎温泉の「柚子湯」です)

北風

さすが12月です、急に寒くなりました。冬場の最低気温は、例年ほぼ摂氏5~6度くらいですのに、今冬は、1度を記録して、みなさんも驚きの声を上げています。まだブーゲンビリアが咲き、名のわからない木に花を付けている亜熱帯ですのに、身震いするほどに縮み上がってしまいました。まるで八ヶ岳おろしが吹き下ろす冬場の生まれ故郷のようでした。雪の表面をなぜて吹いてくるから風のように、音を立てていました。なぜ寒いのかといいますと、室内を暖房する習慣がないことが、その1つの理由です。

実は昨日は、私の誕生日でした。昨年も私のために、こちらの誕生日に振舞われる《長寿麺》を作って、お祝いしてくださった方が、今年も招いてくださったのです。1ヶ月以上も前に、お嬢様を我が家に遣わせて、『誕生日に《長寿麺》を作りますからおいでください!』と言ってくださったのです。それで、迎えに来てくださった高校1年生のお嬢様と一緒に、歩いて10分ほどのお宅におじゃましました。お父様が料理をされて、9品ほどの料理に、メインデッシュの約束の《長寿麺》を出してくださいました。贅沢とは言えませんが、中国の誕生日の定番の素朴ながら、優しい心遣いのこもった麺には、ゆで卵が二つも添えて碗の中に入れてありました。格別なお祝いの意思表示が、碗からこぼれ出るかのように溢れそうでした。

今日日、《小日本》と揶揄されている仇敵の日本人の私のために、江西省出身のお父様が、腕を奮ってくださったのです。その料理に、家内と二人で、感謝にあふれて舌鼓を打たせていただきました。 食後には、きれいにデコレートされたケーキに、10本ほどの蝋燭をさして、灯をつけてくれてテーブルの上に置いてくれました。『吹き消して!』と言われた私は、一息で消しましたら、『#你的生日快乐・・・(ハッピーバースデイツゥユーの中国語版)』と、お母様とお父様といとこの中学2年生、そして家内が歌ってくれたのです。さしもの北風に凍えていた私の体も心も、いっぺんに温められて、溶かされて、喜ばしい誕生日を祝っていただいたのです。この家にも暖房器具がありませんでしたから、着ていった暖房着を脱がずに席につき、日本ではみられない食卓風景でした。室温は低かったのですが、その部屋は愛や感謝や喜びでどれほど暖かかったことでしょうか。『你是我们的一家人(あなたは私の家族の一人です!)』と、社交辞令ではなく、真心をこめて言っていただくことの多い私と家内は、北風の吹く中を、お土産と誕生日カードを手にしながら帰宅したのです。

中国の片隅で、中日友好の花が咲いていることを、みなさんに知らせたいのです。国家間のそれは、相互に様々な条件や案件が障碍となって、なかなか成就は難しいのでしょうけれど、民間では、着々と前進しているのだということをお伝えしましょう。阿倍仲麻呂も、こんな暖かな友情や、家族愛に触れたのでしょうか。この一月ほど、帰国を考えた私でしたが、来年も《長寿麺》をご馳走いただけることを期待して、新しい査証の申請に取り掛かる覚悟をした次第です。愛は凍てついた大河を押し流すほどに力あるものなのでしょうか!

(写真は、http://tonyjsp.com/food/yatai/menu-20.htmlの「長寿麺」です)