朝ぼらけ

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 「朝ぼらけ」の東の空です。なんと綺麗なことでしょうか。昨夜は十三夜で、月もまた綺麗でした。地上はいざこざしていますが、創造の世界は、秩序正しく整然としてあります。

九月十三夜  上杉謙信

霜満軍営秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷憶遠征

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行(すうこう)の過雁(かがん)月三更[さんこう)
越山併(あは)せ得たり能州の景(けい)
遮莫(さもあらばあれ)家郷(かきょう)遠征を憶(おも)ふ

 謙信は、武人であるだけではなく、素晴らしい詩を、漢詩で詠む人だったことにも驚かされます。甲斐の武田信玄に、塩を送ったという話にも、敵味方に関わらずに、温情を示したことにも驚かされます。謙信のお膝元の上越の橋の上で、家内と、その街の祝福を祈った日を、懐かしく思い出します。

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クレーマーたち

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 「クレーマー」、英語のスペルで “ claimer “ と書き、日本語では、「〘 名詞 〙 ( 洋語claimer ) クレーム② 一般に、商品、相手の行為や処置などに対する苦情を申し立てること。とくに執拗なクレームを言う人に対して使われることが多い。(日本国語大辞典)」とあります。「執拗に苦情を言う人」です。

 もう20年ほど前に、川越の年金事務所に出かけた時に、内容は聞き取れないほど、支離滅裂に、係官に罵声で不満を言ってる四十代の男がいました。周りなど全く気にせず、気に食わないことがあったのでしょう、責め訴え続けていたのです。そう言った言い方を注意したり、叱ったりしないで、ただ静かに聞いているだけの事務官の忍耐にも感心したのです。同僚たちも上司も助け舟を出すことなく、もう膠着状態でした。

 順番を待ちながら、その罵声を聞いていた間、その内容が分かりませんでした。年金受給への不満か何か、または応対の態度が気に食わなかったのかも知れません。しばらく続くと、制服を着た警察官が四人ほど来て、そのやりとりを眺めていたのです。その男は、物を投げたり、暴力に訴える様なことはなかったので、様子見だったのでしょう。

 どう収まるかを見届けようとも思いませんでしたし、自分の順番になって、要件をすませましたので、そこを出て帰路に着いたのです。あんなに執拗に、責めるのを見て、聞いていて、公務員の窓口業務、苦情処理とは大変だなあと思ったのです。どうも、そう言う様なことが多くあるのでしょう、窓口の方は慣れている様子でした。

 もう一人、激しい口ぶりの患者が、獨協医科大学病院にいました。初めは静かな口ぶりで、支払い窓口で話していたのです。その窓口の係りの女性は、その不満を言葉でぶつけられて、言い訳がましい応答をしていました。その七十代の男の感情を害したのでしょうか、口ぶりが徐々に激してきて、しまいには、大声になっていったのです。

 プツン、と切れるような音は聞こえませんでしたが、まさにそんな状態でした。埒が開かなかったのか、『ここの責任者を出せ!』と怒鳴っていました。するとその受付の女性は、『私が、この部署の責任者です!』と、冷静な態度と口振りっで言ったら、肩透かしを食ったのでしょうか、権威を認めたのか、声が小さくなって、しばらく何かを言いながら、その場を去っていったのです。

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 人の集まる場所によっては、とくに受付には、そう言ったクレーマーが多く来るのでしょう。病状が思わしくなかったり、経済的な理由、人間関係の問題、将来への不安が、そう言った不満を抱いてしまい、その思いや現状を、何かにぶっつけるのでしょうか。こう言うことが多くありそうです。

 自分も、けっこう長く牧師をさせていただきましたので、いろいろな方々とお会いし、いろいろな不満をぶっつけられ、責められらことも何度もありました。落ち度は相手にではなく、こちらにあったこともあります。でも、いつも冷静でいられたのは、「事実」だけの上に立とうとしたことと、今も思っています。相手の方の「感情」だけに揺さぶられずに、その背後にある、目に見えない過去と、そこで負われたこころの傷などを見極めようとしました。

 そういった人たちに、言わなければならないことは、言ったのです。とくに若い信者さんに対して、よくない影響力や不信を植え付けて欲しくないと、いつも思いました。それで、「事実」だけをお話しし、責めることはしませんでした。一度だけ、去るようにお願いしたことがありました。家内を守るためでした。今でも、それは、主と人との前に正しかったと思っております。

 相手からの責め立ての背後にある、「感情」、とくに、過去に負われて、傷ついた経験がおありなのが分かったのです。自分の経験の判断だけではなく、教会の主、人の一生や心の組み立てをご存知のお方がお示しくださったからです。変えられない過去、でも変えられて、心を正しく収めて生きていける様な、これからの日々があるのを、その人に期待したのです。

 だから先走った判断は下しませんでした。自分にも、傷つけられた過去が多くあるからです。それとともに、人の心を傷つけててしまったことが多くあったのです。

 二年ほど前になりますが、これも獨協医科大学病院の家内がかかっている科の待合室で、四十代ほどの男性が、『お待たせしまったじゃあねえや、何でこんなに待たせるんだ!』と言って、看護師さんを、強い声で責めていました。

 どうにかなることだったら、どうにかできますが、避け難い現実を、みんな待っている待合室中で、みんなが思っていることを、この人は口に出してしまったのです。相手の立場を考えたら言わない様な、責め立ての言葉をぶっつけたわけです。病が重くて、患者が苛立つのは分かりますが、そうであればあるほど、相手を顧みる思いが必要だなあと思ったのです。

 人の集まる場所では、生の感情が出やすいのかも知れません。胃がキリキリしていたら、そんなこと、あんなことを言いたい人は大勢いるのです。羨ましいのは、考えなしに言ってしまえる人です。でも平安のない背中を見せて、その場を去って行かれました。病は、気を病ませるのでしょうか。『注意しよう!』と思った自分でした。

(ウイキペディアの人のいない待合室です)

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友と兄弟と私が

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『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(新改訳聖書 箴言17章17節)』

 先月から今月にかけて、次兄と弟とが入院していることを、先日、知らせてくれました。かく言う自分も、12月には入院加療が予定されている現状です。もう「ポンコツ兄弟」、つまり、みんな後期高齢者で、長生きをさせていただいて、ここまで[病んでは癒えて]を繰り返して、お互い励まし合っている四人兄弟なのです。

 先日は、心房細動治療の様子を、「日記」に書かれて、逐一知らせてくださっていている、同病、同病院、同主治医の隣人で友人が、お茶に、家内と二人を呼んでくださったのです。和菓子や、弟さんからの病気見舞いの千疋屋の果物も出してくださり、懇切に、治療の次第を知らせてくださったのです。それは、これから受ける自分にとっては、大きな助けでした。その治療の体験記が、自分にとって大きなたあ受けになっていることから、これから受けるかも知れない治療の動きを、このブログに、書こうと思ったのです。お読みくださって、もしかの時の備えにしてくださったら嬉しいのです。

 昨年の11月、夕食時に、ポトリと右手から箸が落ち、20秒ほど右腕の感覚がなく、左手で腕をさすっているうちに、感覚が戻ってきたのです。それまで、フラっとした経験は二度ほどありましたが、構わないでいたことを思い出したので、今度は、異常を感じて、近所の民生委員をなさっていたご夫人に、家内が様子を伝えました。即、救急車の出動要請をした方が良いとのことで、家内に119番通報をしてもらい、獨協大学病院に搬送していただいたのです。

 同じアパートに住んでおいでのご婦人も、元看護婦さんで民生委員をされておいでで、救急車の後を、ご自分の車を運転してついてきてくださったのです。家内に代わって、付き添ってくださったわけです。その救急診察の結果、入院になりました。そんな感謝な隣人のみなさんに恵まれているのです。

 入院中の最後のMRI撮影で、小さな血栓が見つかっりました。それで血液サラサラにための薬を飲み、リハビリ歩行訓練や脳トレ検査などをして、8日目に退院できた次第です。

 今年の2月3日に、市の定期健診に行きました。検査の終わりに、担当医師が、心電図の検査結果を見て、聴診器で心臓の音を聞いて、『不整脈が見られます!』と言ってくれました。去年の11月の脳梗塞の原因が、血栓ができたのによるかも知れないと言われていていたのです。4日ほどして、市の健康福祉センターから職員の方が来宅され、「精密検査」をできるだけ早くする様に勧めてくれました。

 それで掛かり付け医に行きましたら、簡単な血液検査と心電図で、『大丈夫でしょう!』と診断されました。素人判断で、大丈夫ではなさそうに思えて、川を挟んだ隣人で、友人に様子をお話ししましたら、同じ病状で、自治医科大学附属病院で治療していると聞き、彼の主治医を推薦していただいたのです。それで掛かり付け医に、紹介状を書いてもらって、5月31日に、自治医大に行きました。ちょっと時間的に間隔を置いてしまったのですが、急ぐべきだったと反省しております。

 その病院で、血液とX線検査をして、さらに、二人の検査技師によって、ずいぶん時間をかけた丁寧な心電図を撮ってもらいました。その後の主治医の診察で、心房細動とのことで、電気ショックをすること、そしてカテーテルアブレーション治療を受ける予約をしてくれました。先ず不整脈の治療薬を70日処方していただき、その服用のp結果で、再度治療計画を立てたいと言われました。

 70日経って、この10月3日の通院日に、心電図を撮りましたら、改善してないとのことで、その後、全身麻酔で電気ショック治療を受けました。そして年末に、カテーテルアブレーションを行うことになったのです。

 これまで外科ばかりに罹ってきた身ですが、心臓に問題を抱えていると聞いて、これまで一瞬たりとも休まずに鼓動を打って、血液を循環してくれた心臓の働きに、『ありがとう!』と感謝して、この身体を組み立ててくださり、支えつづけて下さった創造の神に感謝したのです。今は、《もう少し》を願ってお祈りをしているところです。

 上の兄は、高校では陸上、大学ではアメリカンフットボール、成人以降はテニスをし、下の兄は、高校では野球をし、弟は中学の頃から登山、高校では柔道、大学では少林寺拳法、アイスホッケーをし、卒業後、母校の体育教師をしてきておりました。この私も、高校でハンドボール、成人以降はテニスをしてきました。みんなけっこう高レベルの運動選手をしてきているのです。上の兄は全国優勝チーム、弟も全日本レベルの選手でした。

 物資不足の戦中から戦後を、健康で、けっこう強い身体をいただいて、産み育ててもらってたことを、二親に感謝したことです。そして、年相応の弱さを覚える時を迎えて、通院したり、入院したり、健康管理が必要だったりの今になりました。

 三十代で、仲のよかった級友を亡くしたり、恩師のみなさんを亡くしたりしてきています。《どれだけ長く生きるか》なのでしょうか、または、《どれほど意味のある年月を過ごしたか》なのでしょうか。2023年度の平均寿命は、女性が87.14歳、男が81.09歳でした。けっきょく、父の体質を継いでいる私たち4人は、みんな脳梗塞を経験してきているのです。

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 父は、くも膜下出血を起こした後、あまり時が経たないうちに、脳溢血で亡くなってしまったのです。あっけない死でした。そんなことで、今週、今後の自分のことについて、家内と四人の子に、文書で、自分の心構えを書き送ったのです。39歳で、次兄に腎移植をする時には、ちょっと仰々しく遺書を書いたのですが、生き延びたのです。今回は、ありうることの備えをしておこうと思って、心構えを書き送った次第です。

 聖書に、『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(詩篇90篇10節)』とあります。百まで生きたい願いはあるのですが、間も無く平均寿命に年齢になりますので、その心の準備をした次第です。今思うのは、不調を感じたら、早め早めに専門医の診察を受けるべきかと思っております。

 娘から、こんな応答がありました。『思いをメッセージで送ってくれてありがとう。何も心配いらないね。私たちは天国へ行ける特権をいただいているからね、感謝です。その信仰をそれぞれ受けられたのは私たち兄弟にとって遺産より多くの恵みですね、ありがとう。』と、読んでいたら、もう夜が白んできました。

(ウイキペディアのイラストです)
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今季の朝顔

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 「朝顔」、こんなに耐えて、それでも咲き続けてくれた年は、これまでありませんでした。どこの家の玄関横や窓の下、山車会館の裏手の庭に、毎年咲いていた朝顔が、今年は、みんな時期をくるわされたのか、暑さ負けをしたのか、遅咲きでしたし、花数が極めて少なかったのです。

 わがベランダの朝顔も例外なく、遅咲きで、タネの不良を思わされましたが、暑さが少しやわやぎ始めたことから、倍返しの様に咲き続けてくれました。伸びるところがないほどに蔓を伸ばして咲いて、励まし慰めてくれました。

 『ありがとう😊』の思いで褒めたり感謝の夏でした。昨日は、のびた蔓を落としました。葉っぱが枯れ始めていましたので、綺麗ななまま終えてもらおうと思ってでした。それでも、今朝は、幾輪かが咲いてくれています。

 唐の都からやってきたタネたちの末裔でしょうか。遺伝子を受け継いで日本の家々の庭に咲く朝顔は、艶やかではありませんが、実に穏やかで美しいのです。我が家のものは、かくべつに素敵です。

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この社会の潤滑油の様に

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 「受援力」、助けを求めたり助けを受けたりする心構えやスキルや援助のことを言っています。『内閣府が、災害後に防災ボランティアの支援を生かすため、被災地側がボランティアの支援を受け入れ、上手に寄り添うことができるように、と2010年につくったパンフレットに用いられた言葉です。これは、東日本大震災をきっかけに少しずつ知られるようになっています。』と、内閣府の定義があります。

 今年は、能登半島を中心に、地震や異常なほどの多量の降雨による災害に見舞われ、被災された方々は、大変な被害に遭われています。中学3年だった次男が、阪神淡路大震災の折に、災害援助に行かれる宣教師さんに同行して、この「受援力」を発揮したことがありました。災害弱者に対する優しい気持ちは、尊いなあと思ったのです。

 帰国していた長男も、中学生だった次男も、それぞれのチームで、阪神圏の被災地に、復興の手伝いに出掛けて行きました。長男は、京都の教会で待機して、お手伝いをしていたのですが、その教会に集まって、会議をしていた牧師さんたちが、夜に酒盛りをしているのに躓いたのです。

 私たちに交わりの諸教会では、宣教師さんも牧師さんたちも、飲酒や喫煙をしませんでしたし、長男が留学中に参加していたアメリカの教会の牧師さんたちも、お酒は飲まなかったので、驚いてしまったのです。泊めていただいたのが、あるグループの教会だったそうで、飲酒の自由のある群れだったわけです。

 自分は、若い頃に相当の量を飲んでいたのですが、信仰を持ってから、喫煙と飲酒の悪習慣から見事に離れられたのです。というか飲めなくなり、吸えなくなってしまったのです。全く必要なくなったからです。酒が入らなくても、楽しく生きられるようになりましたし、付き合いだって不自由をしませんでした。

 それぞれ違いや伝統があるということが分かって、長男には好い機会だったに違いありません。『酒飲むな!』と言った教えがあったのではありませんでしたが、パウロが、『酒に酔ってはいけません(エペソ5章18節)』と、エペソの教会に勧めていますから、やがて放蕩に行き着く飲酒習慣は持たないでいるのが最善なのです。

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OFUNATO, Japan (March 15, 2011) – A fishing boat is noticeably out of place after being swept ashore during a massive tsunami that impacted this Japanese fishing port. The town was devastated by an 8.9-magnitude earthquake that triggered the destructive tsunami, which ravaged Japan’s eastern seaboard. Teams from the United States, United Kingdom and China arrived here to assist in searching for missing residents. (U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 1st Class Matthew M. Bradley/Released)

 東日本大震災後でも、長男は、教会のチームでの支援で、ずいぶん長い間、定期的に出かけていました。

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20章34~35節)』

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と聖書にありますから、教会も、この「受援力」を発揮してきているのです。教会の主でいらっしゃるイエスさまは、物質的にも精神的にも社会的にも、困難なところにあった人たちに近づいて、手を差し伸べておられたので、それに倣って教会は、「受援力」を発揮してきています。

 時間があると、わが家に「散髪道具一式」を持ってやって来られて、家内の髪の毛を切ってくださる、音楽伝道者がおいでです。東日本大震災では、いち早く駆けつけて、支援の手を差し伸べて、さまざまな援助をされて来られています。家を借りて、気仙沼で奉仕されていたそうです。ご長女は、そこで誕生されているのです。今でも、そこで出会った方々との交わりがある様です。

 その援助の中で、被災者の方たちの散髪もなさったそうで、その経験で、もうずっと家内の散髪のために、おいでくださって、髪の毛を切ってくださっるのです。お母さまの通院のためにおいでになると、時を見計っては寄ってださいます。帰国した2019年の秋に、市内を流れる巴波川や永野川が氾濫して、お借りしていた家が床上浸水になった時に、その「受援力」での奉仕で、助けてくださって以来のお付き合いなのです。昨日は、突如来てくださって、家内の散髪をしてくださったのです。

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 正月以降、能登半島の地震の被災地援助をされ、このたびの水害でも出掛けられて、お宅に帰られてすぐの訪問でした。アメリカに留学したことがあって、県南の街に、奥様とお二人のお子さんとお母さまとお住まいなのです。あの「スーパーボランティア」として知られる、大分県日出町の尾畠春夫さんの様には有名ではありませんが、わが家では有名なのです。善意と奉仕は、この社会の潤滑油です。

(東日本大震災の時のリストバンド、震災被害、能登半島地震の被災の様子、オリーブオイルです)

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事実を調べること

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『それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行われたのなら、(新改訳聖書 申命記17章4節)』

 「隔離」、脳梗塞で入院した昨年の11月、その病院の脳神経内科の病棟は、8階でした。一週間ほどでしたが、見舞いと着替えを届けるために息子たちが来て、階段そばにある控え室で待っていました。そしてガラス越しに話をしたのです。入院患者は、ロックされたドアーで、出入りが遮断されて、直接会えないのです。もちろん、一階にあるコンビニにも行かれませんでした。病棟から入院患者が離れる危険性を防ぐためでした。

 まさに隔離病棟さながらでした。どこにいく予定もありませんが、隔離されていると言うことで、急な病変への配慮がありますが、不自由を感じるのは、その中にいない限りは感じられません。そんな経験をしたのです。

 子育て真っ盛り、まだ次男が3歳ほどの頃に、入院していたこともありました。『術後すぐに動いたほうがいいですよ!』と、先輩の入院患者さんに言われて、翌日には、歩行サポートの歩行器に寄りかかりながら歩き出したのです。痛くて、階下に行くなどできませんでした。同じ階の廊下だけを歩けたのです。その時は隔離ではなかったのですが、それだけで不自由を私は感じていました。

 退院して、仕事に復帰して間もなく、一人の牧師夫人を、「婦人ランチョン」にお招きしました。すでに召されておいでの関西圏で活躍された牧師さんのご夫人だったのです。この方が、瀬戸内海の小島にある教会で、私のことをお話しされたそうです。それで、その教会のみなさんから、けっこう高額な献金をいただいたことがあったのです。

 この教会は、ハンセン病の患者さんたちの教会で、まだ隔離制作のおかげで、社会と隔絶されておいででした。それは、欧米諸国では、はるか以前に、隔離政策は排除されていたのに、日本では律法上の政策によって、まだ不自由を強いた隔離政策が実効していた時期でした。

 「小島の春」を出版して脚光を浴びた小川正子も、「生きがい」と言う著書で、高い評価を受けていた、神谷美恵子も、この隔離政策を、医師として主張した人で、この方たちの功罪が、とかく言われてきています。今の上皇后に必要のあった時に、この神谷美恵子が相談相手になっていたことがありますが、隔離反対のみなさんからは厳しい評価が下されていたのです。

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 偉人と言われているシュバイツアーも、野口英世も、マザー・テレサも、キング牧師も、実に功罪二面の人でした。貢献が先走りして、隠されていた部分、公に表沙汰にされないままで、看過されてきた暗部や陰を持ち合わせていることを忘れてはなりません。私は、この名だたるみなさん、を引き摺り下ろそうとしたいのではありません。故意に隠された事実なのです。

 敢えて隠されてきた、成功的な人物の scandalous な部分、その「事実」に触れないのは、不公正なのではないでしょうか。あの織田信長が、戦国武将の中では高評価を、いまだに得ているのですが、彼が覇権を握る段階でしていた、破廉恥で、非人間的なことごとを隠蔽するのと同じように思えるのです。『仕方がなかった!』と言うのは、追随者の言い訳なのです。

 『事実、真実を語るとパニックが起こるから!』、と公表を控えて、事実を隠蔽してしまうのは、正しいことではありません。今回のコロナ騒動の中で、政府主導で行われたワクチン接種で、安全性を確かめる期間をおかないで摂取した結果、多くの死者や後遺症患者が出て、その実数を知らせないでいたりしているのも、そう言ったことの一つだからです。事実は、知らされるべきです。人や出来事を糾弾するためではありません。薬害から守られるためですし、「思い違い」から解放されるためでもあります。事実かどうかを調べる必要がありそうです。

(ウイキペディアの瀬戸内海の風景、近所の病院の待合室の生花です)

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美の極みの神の都と華の東京と

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 作詞が西條八十、作曲が中山晋平、唄が佐藤千夜子の「東京行進曲」が、昭和初期に流行りました。近代化していく東京の変化を歌ったもので、大流行りしたと言われています。 

1 昔恋しい 銀座の柳
仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃ ダンサーの涙雨

2 恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘(こ)の 思い出に

3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ

4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る

 父は、中学生の頃に、大森駅の近くにあった親戚の家から、学校に通っていたそうで、青年期を東京で過ごしています。この歌の歌詞のように、「華やかな都会」の雰囲気が溢れた銀座や渋谷や池袋や新宿、そして浅草に、その街々に憧れて、都会を求める人々を集まって来ていたようです。

  この「丸ビル」は、東洋一のビジネス・ビルでした。日本の経済界の中心地で、主要な企業の本社がビルの中に、事務所を置き、日本経済を動かしていく本拠地だったのです。若者たちは、この街で働くのをstatusにしていたようです。われわれ世代で、都会の雰囲気を知ってる者たちは、地方に目を向け、今も昔も地方の若者たちは、東京に憧れるのでしょうか。

 「銀座」は、商談や接待やショッピングや食事や喫茶のための街として拓けていき、流行の発信地だったのでしょう。学校の裏門から出ると、世田谷方面からくる都電があって、銀座にすぐに行けました。時々、私たちは、それに跳び乗って、都会の空気を吸いに行ったのです。やはり日本一の繁華街で、なんでもがあふれた街でした。

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 1923年創業の小田原急行鉄道、今の「小田急」電鉄が、東京から横浜や小田原や湘南を結んで、東京の西の郊外から東京で働いたり、買い物や娯楽に利用された鉄道会社で、その基点駅が、「新宿」でした。そこは武蔵野になるのですね。京王も小田急も西武も旧国鉄の前身の甲武鉄道も、ここを起点にしていました。もともと甲州街道の江戸の街への入り口で栄えた街だったのです。

 鉄道網が広げられていく中で、同じように、「池袋」は西武鉄道で、川越や秩父市方面の起点であり、「上野」や「浅草」は、北関東への起点でした。「渋谷」は、相模神奈川や東京都下の三多摩への起点だったでしょうか。

 忘れてはいけないのが、「品川」でした。東海道の主要な宿場で、江戸の大木戸のあった高輪からすぐの街でした。ここから三浦半島の横須賀や堂ヶ島と結んだ、1899年創業の京浜急行鉄道が敷かれました。日本の海軍の基地となった横須賀と結んでいました。今も、アメリカ軍の軍艦の寄港地で、海上自衛隊の基地でもあります。

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 時代とともに、人の移動方法が大きく変化していきました。交通手段は、歩くか籠か牛馬か舟によっていましたが、燃料革命が起こると共に、石油を用いたエンジンが発明され、木炭から石炭、そして石油が利用され、電気発電が行われてから、電動電車が誕生し、長足の進歩がありました。

 東京には、電車になる以前は、人力鉄道、馬車鉄道が敷かれます。東京の場合、市電が走る前は、馬車による路面鉄道でした。家内は東京が都になってからの都電と呼ばれるようになり、これで通学していたのです。今では一路線だけが残されていて、早稲田と荒川の三ノ輪橋を結んでいるのです。

 今では、都電の路線後の地下に、地下鉄が入っていて、東京は、地下鉄網が縦横に張り巡らされていて、乗り換えに何度も苦労して、迷子状態になったか知れません。とくに渋谷は、地下迷路のようになってしまっていて、行きたくない、乗り換えたくない駅になってしまったのです。

 この「地下鉄」の最初の路線は、1902年(昭和2年)に、「浅草」と「上野」で開業されています。日本中の地下鉄の総路線は851.5kmで、令和4年の実績で、1日あたり1454万人の利用者がいるそうです。栃木からは、東武日光線、東武伊勢崎線で、地下鉄相互乗り入れで、渋谷にも町田にも東急線乗り入れの路線で行くことができます。
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 昔、東京浅草周辺の小学校は、東武日光線に乗って、この街の大平山に遠足でやって来たそうです。そして、同じ鉄路で、沿線市民は、華のお江戸、国都・東京の「浅草」に芝居や落語やレヴューの観劇や買い物や食事に出掛けたようです。今、私にとっての都会も、この「浅草」なのですが、まだ直通電車で出かけたことがありません。いつか東武特急の「スペーシアX」に乗車して、行ってみたいものです。

 私の父にとっても、当時の若者の心が向いていたのも、御多分に洩れず、「浅草」だったのではないかと思っています。駒形の「どぜう(泥鰌)屋」に行きつけていたようですから、この街を熟知していたに違いありません。自分にとって、「新宿」が青春の時間を過ごした街だとするなら、父にとっては、「浅草」だったのでしょう。みんな自分の時代のページがあって、そこには、書き込めないようなこともあって、過ぎていったことでしょう。

『若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。・・・あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(新改訳聖書 伝道者の書11章9節、12章1節)』

 そして、後の日になって、創造者と不思議な出会いをして、人生を締めくくるのが最善の道なのでしょう。父は、自分の腰から最初に出た子に導かれて、悔い改めて、キリストへの信仰をもって、自分の61年の旅路を終えております。やがて、美の極み「神の都」の大通りをを、二親と家内と子供たち、兄弟、そして、主にある愛兄姉のみなさんで、共に歩めるのが楽しみなのです。

(ウイキペディアの江戸期の浅草、東武浅草駅、最初の東京の地下鉄開業ポスター、東京スカイツリーです)

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アケボノソウ

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 「アケボノソウ(曙草)」、中国大陸、朝鮮半島、日本列島の山野の湿地に、広く分布する花だそうです。10月ごろが花時です、長く住んだ東京の南多摩にも、中国の華南にも咲くのでしょうけど、見かけたことがありませんでした。

 綺麗に、幾何学的に咲く姿が、何とも言えません。そう言えば、数学の中でも「幾何」が好きで、理工系の学びがしたかった時期がありましたが、物にならずじまいでした。おばあさんになっても英検に挑戦する方がいるそうで、シビレた頭をほぐすのに、高校生の頃の学びに帰ってみたいものです。

 昨日、散歩の途中で、中学校の校庭の脇の道を通っていたら、中学生のみなさんが、何か声を出し合って、賑やかにしている様子を見かけました。いいものです。何十年前の彼らの年齢の頃が、おぼろげに思い出されてしまいました。じつに小生意気だったのを恥じてしまったのです。

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(「里山を歩こう」からの送信分とウイキペディアによります)

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Chicken game

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 「Chicken game(日本ではChicken race と言います)」、今年のMLBのDodgersの最終戦に、国歌斉唱の後に、グランドに向かって両チームから一人の代表選手が、マウンドに向かって立ち続けるゲームをしていました。最初に諦めた方が負けだったのです。そんな動画で、それがChicken game だと言うので、あるアメリカ映画を思い出してしまいました。Chicken とは「弱虫」の若者たちの slang 用語です。

 中央線の国分寺駅北口の近くに、名画座がありました。学校をサボって、何度、映画を観に行ったか分かりません。中学生でした。だいたい仲のよい友人を誘って、制服を着たまま入館したのです。アメリカ映画に魅せられたからです。スクリーンに映し出されるジェームス・ディーンを観て、いっぺんに共感したからでした。

 24歳のジミーが、ジムという17歳の高校生を好演した、「理由なき反抗」を観てでした。1955年10月26日に、アメリカで公開され、翌年春には、日本でも公開されています。当時の日本の社会に、アメリカ社会の50年代の十代の生態を描いた映画が、大きな衝撃を与えたのです。

 引越しを繰り返していたジムの家族が、その街に引っ越して来たのです。家族とか兄弟とか両親の間、豊かさの陰に問題があったのでしょう。高校生のジムが主人公でした。酒を飲んで酔ってしまって、路上で寝ていたところを見つけられ、その日、まちで暴力事件が起こっていたので、その容疑者と疑われ、警官署に連行されます。

 そこから始まって、不良に絡まれて、そのグループのトップのバズと、ナイフを持って対決するのです。そんな諍(いさか)いがあって、街外れの崖に呼び出されます。そこで度胸試しを挑戦されるのです。二台の中古車に、それぞれ乗って崖に向かって爆走するゲームです。

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 先にブレーキを踏み、運転席を飛び出し、そして死んだ方が負けという、度胸と運転スキルを賭けたレース、それを” Chicken game“ と呼ぶのです。実に無謀なgameでした。〈危機の中二〉だった私は、それを観て度肝を抜かれたのです。ずいぶん心理的にはタイトなゲームでした。この良い子ではない、不良に何か憧れがあった時期だったのですが、アメリカの高校生のレースに度肝を抜かれて、びっくりしたのです。

 game中に、競争相手のバズのジャンバーの袖だったと思うのですが、何か突起に引っかかって、脱出できなくなって、断崖の底に車ごと落ちて死んでしまう、実に悲しいレース結果で終わるのです。自分は度胸のある男だと自負していましたが、その場面を見て、自分を置き換えては震えてしまったのです。もちろん映画で演出された場面ですが、アメリカでは、そんなことをすることに驚かされたわけです。

 度肝を抜かれたのは、ジムも同じで、しでかした重大さに身を潜めて、空き家に隠れるのです。そう言ったところを通りながら、ジムは、更生していき、家族とも和らぎ、普通のアメリカ社会の高校生に戻る、そんな物語でした。どこの国でもありうる青年期の危機を通過して、人は大人になっていくのでしょうか。

 まだ日本では、ジーパンを履いているのは稀だったでしょうか。その映画で、ジムたちが履いていたのが、”Levi’s”  製の物でした。それを真似したくて、御徒町のアメ横の商店街に出かけて行って、そこで買ってきたことがありました。チキンレースの真似はしなくても、とりあえず格好だけはつけたかったのです。まだ14歳、そろそろヒゲもうっすらとしてきた時期でした。

 学校や近所のみなさんを、このバカ息子はハラハラさせていたようです。まさに、今言われるように「中二病」に罹っていたのです。中3になって、担任が三学期末に成績表に、『よく立ち直りました!』と書いてくれました。そんな時期を通過しながら、憐みで生きて参りました。

(ウイキペディアによる「理由なき反抗」の写真、旧型のアメリカ車です)

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