そろそろ身辺整理をしなくては

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 最近、やけに目につくのは、宝石や時計やネックレスなどを買い取るチェーン店で、この街のそこかしこに出店しているのです。以前、お煎餅屋やクリーニング店だった店が、いつの間にか代わってしまったのです。どこの街も、同じなのでしょうか。きっと眠っているお宝を発掘しているのでしょう。

 どんな生活をしてきたのか、今の生活の改善や整理の方法を、最近は、よく考えるのです。家庭を持って、9年ほど経った時に、住んでいたアパートの上階で、ガス爆発と火災が起こりました。消防自動車と地元の消防団が駆けつけて、消化活動が行われ、おびただしい量の消化用水が放水され、階下のわが家は水浸しになり、ほとんどの物が使えなくなってしまったのです。

 大家さんの奥さんの泣き落としで、まったく保証なしでした。その代わり、東京の母教会が、家財から食器に至るまで、助けてくれ、まさに新しい家財道具が与えられて生活が、引っ越し先で始まったのです。間も無く、次男が生まれたのです。手にした物を失っても、喪失感は、なぜかありませんでした。

 そして、今から20年ほど前に、次のような聖書のみことばに迫られ、隣国に行くことになりました。それは一大決心でしたが、出掛けるように、行って欲しいという要請と共に押し出されたのです。

「我汝らを擄移さしめしところの邑の安を求め、これが爲にヱホバにいのれ。その邑の安によりて、汝らもまた安をうればなり。(文語訳聖書 エレミヤ書29章7節)」

 神さまが、隣国行きを促してくださったと確信した私は、それまでの奉仕の責任を、母教会にお任せして、新しい歩みに進む準備をしたのです。あの日以来の持ち物のほとんどを処分したのです。上の息子の助けで、お借りした軽自動車に積んで、市の処分場に、何度も運び込んだのです。

 子育ての年月に、使ったものも含めて、相当量を捨てたのです。最も辛かったのは、飼い猫二匹でした。もらってくださる方がいませんでしたので、家内の留守の間に、市の施設に引き取ってもらったのです。長野県の飯田で、娘夫婦が、捨て猫を育てていました。3年ほど、県立高校で英語科の講師をして、帰国する時に、私たちに預けていった猫たちでした。

 猫嫌いな私が、飼っている間に愛着を覚え、懐いてくれたのです。家に、私が帰ってくると、その車の物音を聞いて、玄関に二匹で並んで、《お帰りなさい》をしてくれていました。この別れは、辛かったのです。でも、隣国での13年の《新しい人との出会い》には、どうしても必要だったのです。

 私たちには、その「お宝」が、まったくないのです。家内も私もおなじです。宝石も装飾品も株券も見当たりません。家内は、指輪やネックレスや時計を好みません。ブラジルにいた義兄が、結婚30周年の記念に、ダイヤモンドの記念指輪を作ってくれたことがあったのですが、それを、隣国の外国人宿舎の七階に住んでいた部屋で、ストレートに落ちていく、洗面所の管に落としてしまい、探しようがありませんでした。

 物に執着がないのは、実は身軽です。私の父親がそうでした。どうも少しばかり似てしまったのでしょうか。身辺整理の時期を迎え、家内に見舞いで訪ねてくる子どもたち家族用にと、買ってしまった寝具が、開かずの間に収めてあるマットレスや枕や毛布などです。常時は未使用な物を処分しようと思いながら、なかなか決心が着きません。

 これからは、寝袋持参で来てもらおうと思うのです。ただ父に感心するのは、自分のものが、極めて少なかったことです。好くて、必要な物だけを持つ人だったのです。小さな書架、洋服ダンス、その上に載せていた二、三個のケースだけでした。海軍の軍人の家に育ったので、船乗りは、身の回りの物、最小限度の物しか持って、乗船することしかできなかったので、その精神に生きたのでしょうか。

 『まあいいか!』で生きてきて、《明日への栄えある希望》が、胸中に収められていますので、何不足ありません。この日曜日、初物になる葡萄と県都の有名和菓子店のお餅を頂きました。その日の夕刻に、届けてくださったのです。『必要な時に、必要なものが与えられる!』、私たちが一番豊かに生活させていただいているのかも知れません。感謝な夕べでした。

(ウイキペディアの黒猫です)

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あこがれの海

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 ひさしぶりの青空で、心も晴れやかな感じのする、梅雨の終わりの土曜日の朝です。この二日ほど、ホッとさせられるほど涼しくて凌ぎやすかったのは感謝でした。でも湿度の高いのは仕方なしででょうか。

 そろそろ学校は夏休みでしょうか。林間学校や臨海学校に行ったのを思い出しています。千葉の海で、真っ赤な褌で泳いで、泳ぎ疲れて、宿舎で飲んだ牛乳の味が忘れられません。フタに牛乳の固形成分がついていました。家では飲んだことのない、何か栄養がいっぱいそうで、元気が回復してくるのを感じたのです。

 海なし県に生まれ、今また海に遠い内陸に住んでいますが、ここから小山に出て、JR水戸線に乗ると、茨城の海に行けるのですが、まだ行ったことがありません。波の音、潮騒が恋しい、七月の中旬、エイッと、出掛けようかと思いますが、一人ではつまらないかな、そんな朝です。

 ひさしぶりの青空で、心も晴れやかな感じのする、梅雨の終わりの土曜日の朝です。この二日ほど、ホッとさせられるほど涼しくて凌ぎやすかったのは感謝でした。でも湿度の高いのは仕方なしででょうか。

 そろそろ学校は夏休みでしょうか。林間学校や臨海学校に行ったのを思い出しています。千葉の海で、真っ赤な褌で泳いで、泳ぎ疲れて、宿舎で飲んだ牛乳の味が忘れられません。フタに牛乳の固形成分がついていました。家では飲んだことのない、何か栄養がいっぱいそうで、元気が回復してくるのを感じたのです。

 海なし県に生まれ、今また海に遠い内陸に住んでいますが、ここから小山に出て、JR水戸線に乗ると、茨城の海に行けるのですが、まだ行ったことがありません。波の音、潮騒が恋しい、七月の中旬、エイッと、出掛けようかと思いますが、一人ではつまらないかな、そんな朝です。

(“Illust image” の海のイラストです)

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いつまでもあると思うな

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 何度聞いたか分からないほど、口癖のように、私の父の言っていた言葉があります。

 『いつまでもあると思うな親と金 ないと思うな運と災難!』

 親に頼って生きてきて、やがて親元を離れて、一社会人として働き始め、いわゆる独立の歩をとり始め、そして家庭を持ちました。家内と一緒に、四人の子どもたちを育てることができたのです。親になった時に、何かくすぐったい気持ちを感じたのですが、彼らは育ての親からやがて離れていき、彼らが独立して、もう二〜三十年が経ちます。

 父と私、私と子どもたちとのあの「距離感」が懐かしいのです。具合が悪くなった家内を気づかって、今では孫たちが、家族チャットで発信してきては、様子を聞いたり、元気でいる様にと言ってくれるのです。昨日の散歩の帰り、暑くて、冷たいものが飲みたくなって、自販機で、サイダーを買ってしまいました。あの喉元の爽快感が欲しかったからです。

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 『ジジ、何が欲しいの?』と、前回の訪問の時に、買い物に行く孫ベーが言ったので、とっさに答えたのが《サイダー》でした。1リットルのボトルを買って来てくれ、何年、いえ十何年ぶりに飲んだ時、懐かしさが喉元を通っていったのです。その味を、昨日も思い出させられて、実に美味しく、500ml缶を飲み干してしまいました。

 自分の父が、やがて独立していく私に、訓戒のためでしょうか繰り返して語った言葉が、これなのです。その意味を、今になって思い返しています。明治の終わりに生まれ、関東大震災、日華事変、太平洋戦争、敗戦、戦災からの回復、高度成長の時代を生きて、これからと言う六十一の誕生日を、入院先で迎え、退院する、その朝に、あっけなく召された父でした。

 「いつまでもある」と思って油断していた時に、父が、無断で去っていきました。別れの挨拶、感謝もさせてくれませんでした。何度かしか泣いたことのない私ですが、勤め先から父が亡くなった病院まで、電車の中で泣き通しでした。これが、「いつまでもあると思うな父親」との辛い実体験でした。

 『これからは親孝行を!』と思っていた矢先だったのに、孝行相手は召されてしまったのです。父の一生も、「一場の夢」の如く過ごした日々でありました。父の六十年は短かかったわけです。今や老いて、父よりもニ十年も多く生きてきた自分が思い返すと、さまざまな父との場面が思い返されてくるのです。でも、あのことばは、忘れように忘れられない遺訓だったわけです。

 きっと、父も、自分の父から、そう諭されていたのかも知れません。そう言った教訓を、「道歌(教訓的な和歌のことです)」と言うのだそうです。江戸では「狂歌」として、巷で言い伝えられてもいたのでしょう。

 でも、私の人生の導き手が「運命」や「偶然」などではなく、創造者で、いのちの付与者である神さまであって、全行程の「導き手」であると信じることが、二十五の時にできたのです。ですから、人生に弄ばれ、意地悪をされるなどと思ったことはありませんでした。また〈幸運にも〉などと思うことも、まったくありませんでした。

「 『なんぢら心を騷がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。  わが父の家には住處おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために處を備へに往く。  もし往きて汝らの爲に處を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん爲なり。  汝らは我が往くところに至る道を知る』。(文語訳聖書 ヨハネ伝14章1-4節)」

 どうして生まれ来て、二親が、あの様に育ててくれたのか、あんな経験もこんなこととも、今の自分のことも、ありのままに受け入れています。そう、残された自分の時間も、そう長くはないかも知れませんが、どこに導かれていくのかが、分かっているつもりの猛暑、酷暑の七月であります。

(“ Christian clip arts “ の父と弟息子の帰還のイラストです)

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小鳥の囀りを

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 住んでいるアパートの西に窓があります。その外は、塾やNPO法人の作業所や美容室のある部分の平たくなっている屋上なのです。そこに、セグロセキレイが、ときどき飛んできて鳴くのです。

 川面を、餌取りで素早く飛ぶ鳥で、けっこう警戒心が強いのでしょう。餌付けをしてみたいと思っているのです。子どもの頃に、鳥を捕まえる仕掛けの「バッサリ」や「かすみ網」と言う捕鳥用の道具を、すぐ上の兄が仕掛けていたことがありました。

 獲ってきたことはなかったのですが、いつもなにかして遊んでいた兄でした。電気釜の底に残ったご飯を、お酒につけて、それを乾飯にして、撒いておくと、それを啄んだ小鳥が、酔ってしまって捕まえられるのだそうです。それは邪道ですからしませんが、子育て中に、籠で飼ったことはありました。

 あの鳴き声は、心が休まるのです。カラスの声は、ちょっと騒音気味ですが、小鳥の囀(さえず)りを聞くのはよいものです。セグロセキレイ、カワセミ、そしてカラスなどが懸命に囀(さえず)り、餌を啄ばみながら生きている姿は、尊いなと思わされます。

 それにしても、最近はカラスを見かけません。暑いからでしょうか、どこへ行ってしまったのでしょうか。野口雨情の作詞、本居長世の作曲の「七つの子」が懐かしいです。

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からす なぜ啼くの
からすは山に
可愛い七つの子があるからよ

可愛い 可愛いと
からすは啼くの
可愛い 可愛いと
啼くんだよ

山の古巣に
いってみてごらん
丸い眼をした
いい子だよ

 あのカアカアのかすれ声を「可愛い可愛い」と聞いている有情の優しさに驚かされますが、「山の古巣」に戻ってしまっているのでしょうか。秋になって、涼しくなったら、きっと帰ってくることでしょう。

(ウイキペディアのセグロセキレイ、カラスです)

オプティミストの勧めを

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 上智大学で、「死生学(死の哲学)」を講じた、アルフォンス・デーケンさんが、「老いと死とユーモア」という題で講演されたことがありました。その中で、「基本的な楽観主義を身につける」と言うことで、次のように言っておられました。この方の講義を受けることができたのは感謝でした。

 『もう一つ、Optimist(オプティミスト楽観主義者)とpessimist(ペシミスト/悲観主義者)では、同じ体験に対しても、全く見方が違います。ある人は物事をただネガティブにしか見ませんが、ある人はポジティブにそこから何かしら新 しい知恵を学び取ります。いま私はちょうどグラスの水を半分飲んでしまいましたけれど、この同じグラスを見ても、ペシミストは上の無い半分を見ますし、オ プティミストならまだ半分もあるというところを見ます。同じ対象を、ペシミストはいつも暗いメガネを通して見ていますが、オプティミストは、明るいいい面 を捉えます。ですから豊かな第三の人生を送る一つの大切なポイントは、基本的なオプティミズムを身につけることではないでしょうか。 

 生きがいに関して私の最も尊敬するドイツの哲学者、アルフレッド・デルプ神父は、反ナチ運動のリーダーの一人としてヒットラーの命令で逮捕され、37歳の若さでベルリンで処 刑されました。ベルリンの刑務所で殺される直前、彼は自分の生きがいについて、こんな美しい言葉を書きました。

 「もし一人の人間によって、少しでも多くの 愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、その一生には意味があった のである」。

 彼には5冊の著作があり、とても創造的な哲学者でした。彼は37歳で亡くなりましたけれど、人間はどれほど長く生きるかよりも、どれほど意義のある人生を送ったかのほうが、彼の評価の基準だったのです。

 これは今日の私たちが、意義のある一日を送れたかどうかを考えるときに、一つの基準にできると思います。 

 私の努力によって少しでも愛と平和、光と真実が 世にもたらされたなら、今日は意義のある一日だったと言えるでしょう。でももし愛の代わりに夫婦喧嘩をしたり、平和の代わりに隣の人と争いを起こしたり、 光の代わりにペシミズムを広めたり、真実の代わりに誰かの悪口を言ったとしたなら、意義のある一日ではなかったということを反省すべきです。

 そういう意味 でも、英語でlife review therapy ドイツ語でLebensbilanzと言いますが、自分の人生を定期的にちょっと振り返って、本当に意義のある生き方であるかどうか、見直してみることが 大切ですね。』

 悲観的な出来事ばかりの昨今に、必要なことに違いありません。暗いニュースではなくて、最暗黒なニュースの溢れた、いわば世紀末のような時の只中で、迎える新しい日に希望を持って生きることができる、これは勧めではないでしょうか。

(”Loose Drawing “noフリーイラストです)

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番傘さしと下駄履き

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 作詞が北原白秋、作曲が中山晋平の「あめふり」は、この季節になると思い出されてきます。竹製で油紙をはった番傘の時代、その傘をかざして、足には下駄を履いて学校に出掛けました。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 2019年の正月から、下駄の商いで栄えた街に住み始めて、6年目になりました。もう閉めてしまった問屋さんの家屋が、シャッターを下ろして、図書館への道の際にあります。桐や朴木(ほうのき)や杉が材料でした。きっと、杉並木の多い土地柄で、素材入手が容易だったからでしょうか、一般向けには、杉下駄が作られていたのでしょう。盛んだった頃が偲ばれます。

 今、住むアパートの以前の大家さんは、下駄屋さんだったそうです。家も道具も、木で作る日本では、木から作った紙も、生活の中で重用されてきました。触っても、つかんても、嗅いでも、唇で触れても、何にでも馴染むのは、木、草、藁からなる日本文化なのでしょうか。

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 実は、あるご婦人からいただいた木目の美しい下駄を持っているのです。亡くなられたご主人が履こうと、しまっておいた物だそうです。これを履いて外出したいのですが、アスファルトの上では、けっこう大きな音がするので、履きそびれて、宝の持ち腐れでおります。もう目立ちたがりたい年齢ではないからなのでしょうか。

 通学で、新宿駅の乗り換えの地下道、西口と東口を結んでいた通路があった1960年代の中頃、この下駄履き(弟の朴葉下駄を借りて)で、通学したことが何度かありました。高下駄で、鼻緒を足指で掴んで、カランコロンと音を立ててでした。目立ちたがりの年頃だったのでしょうか、恥じずに自慢げに履いていたのを思い出すと、赤面の至りです。

 まるで江戸や明治の時代に、タイムスリップしてしまいそうな話ですが、六十年も前の話は、おとぎ話か、異星人の話のように聞こえそうです。

 お隣の国にいた時に、公園の中の売店に、この傘が売られていました。買おうか、買うまいか悩んだ末、諦めてしまったのです。日本だって、浅草辺りに行けば、下駄だって番傘だって、もしかしたら、雨具の簑(みの)だってあるかも知れませんね。

 昔の道具や日用品が懐かしく思い出されるのは、それだけ歳を重ねてきたからなのでしょうか。鋳型で作ったプラスチック製の履き物が、ベランダの出口に置いてありますし、ゴミ捨てに行く時に、ちょっとつっかけて履くために、玄関にもありますが、ごく近距離移動用です。そのかわりに下駄を玄関に置いてみましょうか。

(ウイキペディアの傘張り風景です)

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散歩道の七月の花々

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 昨日は、通院日で、散歩ではなく、電車で外出しました。何と気温が36℃もあって、驚かされてしまった〈うだるような〉暑さだったのです。駅にも電車の中にも、暑そうな賑やかな高校生たちで溢れていました。何せ、乗車駅は、JR両毛線と東武日光、宇都宮線の「ハブ駅」で、七つも高校があるからです。

 そろそろ期末試験の頃でしょうか。はるか昔、制服姿で通学した日を思い返して、『こんなに暑くなかったよなあ!』と、思わされたのです。来八月にかけて、このまま猛暑が続くのでしょうか。夏人気の「かき氷」が食べたくなってしまいました。鹿児島の天文で食べた「しろくま」を思い出します。本番の夏に到来です。

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