餃子



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私たちが住んでいた華南、その街の警察病院の近くに、美味しい「餃子屋さんjiaozi」がありました。白菜やニンジンや青菜、牛肉や豚肉など、実に多くの種類の餃子があるのです。すりニンニクと醤油と酢でタレを作り、茹で汁がスープで、それで、食べていました。中国の東北地方では、特別に何かを食べる時は、家族がみんなで作った「餃子」を食べるのだそうです。ところが華南では、もともと餃子はメジャーな食べ物ではなく、近年になって食べる様になったのだそうです。

〈米食〉の南部、〈粉食(小麦粉)〉の北と言った分け方があって、地域色のある饂飩などの麺類を、華南の人たちは、よく食べているのです。ところが餃子の美味しさを知った華南の人たちが、工夫して美味しい餃子を作って店を出す様になっていきます。その美味しい餃子屋に連れて行ってもらって、私たちも度々行く様になったわけです。

今避難して住ませていただいてる倶楽部の近くに、「みんみん(珉珉)」と言う、宇都宮餃子の名店の支店があります。先週、ちょっと奮発して、家内を誘って行ってきました。戦後、中国東北の満州から引き上げてきたお母さんが、4人の子どもを育てながら、現地の中国人に作り方を学んで、帰国後の昭和33年に、宇都宮市宮島町で始めた餃子店だそうです。噂通り、美味しかったのです。二人で、焼き餃子二人前と水餃子とライスで790円でした。

実は、宇都宮市は、浜松市と競い合う〈餃子街〉なのだそうで、毎年王座をかけて、火花を散らしている様です。そこに、最近は京都市が加わって、三つ巴戦が繰り広げられているのだそうです。宇都宮は50万都市、一方浜松は80万都市で、都市規模の違いがありながら、宇都宮が健闘しているのです。

こう言った〈餃子戦争〉の争いは歓迎ですし、微笑ましいものです。浜松には友人が大勢居ますし、父母が新婚時代を過ごした京都にも思いがあり、わが県都・宇都宮に加勢しなければいけないのか、三者の間で悩んでしまっております。競争は、売り上げの皿数なのか、売上高なのかと言いますと、そうではなく、ちょっと難しい計算がある様です。小さな間口で始めた〈母ちゃん店〉の「みんみん」が、今では大きな企業となっているのです。

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行ってみたい

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アニメの「耳をすませば」を観ていた時のことです。画面は、日が暮れて、辺りは暗くなっていく様子を映し出しています。電車が西に向かって走っていて、鉄橋を渡ってから右に曲がって行きます。そのすぐの所にある駅に、その電車が停るのです。ちょうど空を舞う鳥が、天空から見ているように映し出されていました。そして駅前の夕闇の中を、家路を急ぐ人の様子が映し出されていたのです。

空から見たことなどありませんが、その電車の沿線や駅前様子に見覚えがあったのです。そのあたりを歩いたり、自転車に乗ったり、車を運転していたことが、それまであったからです。それは、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅と、その駅の周辺の様子だったのです。

アニメの監督は、まさに、その多摩市の一地域を舞台に、そのアニメを描き出していたことになります。空想の街ではなく、実際の街が、アニメの物語の舞台になるのだということを、初めて知ったのです。次男が、その夜間の様子を描いた映像の一劃に住んでいたことがあって、なお興味を持ったわけです。

その様に、アニメフアンは、その舞台になっている所が、どこなのかを探すのだそうです。探し当てたり、どなたかが探し出した情報を知ると、写真や動画を撮影に出かけて行くようです。そしてブログにアップしたりしています。アニメには、そのような<後日譚(ごじつたん)>があって、二重の楽しみがあるのだそうです。

そんな今日日の若者の趣味には驚かされます。これは今に限ったことではなく、昔もそうだったのではないでしょうか。映画やドラマの監督か原作者が好きなのかも知れませんが、よく「尾道」や「長崎」を舞台とした作品が多いようです。この2つの街は、坂が多いので有名で、その起伏があることが魅力なのでしょうか。それとも長崎人や尾道人が、魅力的なのでしょうか。さらには地方文化に光を当てたいからかも知れませね。

そういえば、東京や大阪などの大都会のビルやアスファルトよりも、自然や歴史に溢れた街の方が、趣きがあって好いかも知れません。中学生の頃に、名画座で観た、ジェームス・ディーンの”ジャイアンツ"や"エデンの東"の舞台になった街、オードリーヌ・ヘップバーンの「ローマの休日」の映画撮影地には、一度出かけてみたいものです。きっとアメリカにも、イタリアにも、そんな同じ願いの同世代人がいそうですね。

それよりも何よりも、人類の始祖が歩んだ《楽園》が、どこかにあるに違いありません。果たして、どんな所だったのでしょうか。興味津々で行ってみたい、たけなわの秋であります。

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あした天気になーれ!

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実際に目にした夕陽を、iPadでは、こんな風にしか撮れなかったのです。光陽台を散歩して帰って来た家内が、避難先の倶楽部の二階の西側の窓辺で、20分も見惚れていた、真っ赤な夕陽です。秋の夕陽の美しさは、昨日の強雨の翌日の晴れた一日の夕べに見せた景観ですから、格別だったのでしょう。それは、人の手では出すことなどかなわない、天然、創造の色彩に違いありません。家内が、《乙女してる》のも、ちょっと嬉しい驚きです。『あした天気になーれ!』
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苺と剣

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「剣客」、宮本武蔵や柳生十兵衛や荒木又右衛門たちの様な、剣術に秀でた猛者のことを、そう言います。一度、面や胴着を身につけて、竹刀で、『エイ!ヤア!』と、私もやってみたかったのですが、叶えられませんでした。

江戸を離れて、関東平野の奥深い「壬生の里」に、この「剣客」と呼ばれた侍がいたそうです。剣術といえば、江戸の千葉周作が有名で、「千葉仕込み」の剣の達人は大勢いた様です。江戸を離れて関東平野を北上する奥羽街道を来ますと、野州壬生の城下町がありました。今は城跡しか残っていませんが、壬生氏が開城したそうで、何の変哲もない田舎町です。

この城下町を、柳生新陰流の免許皆伝、22歳の高杉晋作が訪ねています。道場破りではなく、他流試合のためにです。高杉の相手をしたのが、松本五郎兵衛で、神道無念流の剣士でした。三本勝負、松本が三本勝ちをし、高杉が一本も取れずに敗れています。この高杉の写真が残っていますが、眼光鋭く、自信満々、他人を威圧する面持ちです。

22才と言えば大学四年生の年齢です、免許皆伝の自信が、壬生で打ちのめされたわけです。武者修行のために、故郷の萩を出て、江戸に行き、そこからやって来て、他流試合の「試撃行日譜」と言う日誌に、勝ち続けた試合内容を記録していたそうです。ところが、ここで、プツリと記入をやめてしまいます。鼻をへし折られたわけです。

時は幕末、明治に入ってからは「廃刀令」で、腰に剣をさすことが許されなくなって行きます。19才で、長崎で蘭学や英学を学んだ、大分出身の福沢諭吉も、相当な剣客でしたが、アメリカやヨーロッパに行き、明治維新以降、剣を捨て、教育の世界に活路を見出しています。残念ながら高杉は、明治維新を迎えることなく亡くなっています。

家内が入院し、今も通院治療をしています、獨協医科大学病院は、この壬生町にあります。宇都宮に寄ったところにありますが、田圃だらけの中に、そんな剣客が住み、いくつもの剣道場があった様には、150年も年月が過ぎてしまうと感じられないのです。「剣を取る者は、みな剣によって滅びます!」は、江戸も今も同じです。

(壬生町の主要農産物の「いちご」です)
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尊敬

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”Record China“ が、中国メディアの次の記事を配信しています。

23日に行われたサッカーれたAFCチャンピオンズリーグ(ACL)準決勝で中国の広州恒大に勝利した浦和の選手の行動を中国メディアが「感動した」と絶賛した。

ホームで行われたファーストレグ(第1試合)を2-0で勝利していた浦和は、この日も堅守で広州を完封。50分にFWの興梠慎三がヘディングで決めたゴールを守り切り、2試合合計3-0の完勝で決勝に進出した。

サッカー情報を伝えるメディア・中超球評は、「広州恒大は2試合で1ゴールも奪えず、3失点を喫した。技術、戦術面で完敗だった」と評する一方、「日本の名門クラブの選手の行動が中国サポーターに負けを心から認めさせた」と報じた。

記事はまず、81分のシーンに注目。広州の楊立瑜がピッチ内で脚をつり座り込むと、浦和の関根貴大が楊のもとに駆け寄り、脚を伸ばすのを手伝った。記事はこれを「感動的な一幕」と伝え、「この24歳の日本人選手がピッチ上で見せた気遣いは、日本選手のサッカーにおける品格を表すものだ。味方(広州の)選手が誰も楊を助けに行かない中、相手選手が手を差し伸べたのだ!」と強調した。

また、「試合終了後、日本人選手による2つのシーンが、すべての人のリスペクトを集めた」とし、試合終了のホイッスルの瞬間、ボールを保持していたGKの西川周作が味方と勝利を喜び合うことなく、まず近くにいた相手FWエウケソンを抱き締めてねぎらい、励ましたことを紹介した。

そして、整列した両チームの選手が握手を交わす場面で、槙野智章が相手選手一人ひとりを抱き締めたことを「最も感動的な瞬間」に挙げ、「珍しい一幕だ。彼は自ら広州恒大の選手を抱き締め、心から慰めた。日本選手のこうした行動から、広州恒大と日本の名門クラブの差は技術だけではないことが見て取れる。彼らはピッチの内外での行動によってリスペクトと感服を勝ち得ているのだ」と伝えた。

中国のネットユーザーからも、「日本のクラブは尊敬する」「日本は時間稼ぎをしないし、わざと倒れたり、起き上がらなかったりもしない」「ああいう行動が自然に出るのは、個人の素養が高いからだろう」「中国の選手と日本の選手との差はちょっとやそっとじゃない。唯一勝ってるのが不必要に多くもらっている給料」といったコメントが寄せられている。(翻訳・編集/北田)

❤️ 私は、広東省広州を2度訪ねたことがあります。最初は、ずいぶん昔で、街中に、鄧小平氏の大きな上半身の写真の看板が掲げてあったのが印象的でした。まだ深圳の街が工事中でした。二度目は、わが家に出入りしていた若者が、『一緒に行って!』と言われて、悟州に行った時でした。新疆ウイグルの方とアフリカからの方が多くいました。この時は、遠距離寝台バスに乗ったのです。

(広州の下町の景観です)

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詩心

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寺山修司が、自分の職業を聞かれた時、何と答えるかを話していたことがあります。『詩人です!』と言うのだそうです。今、社会的な責任から離れて、隠居生活をしている私は、何かの書類に職業欄があって、記入しなくてはならないことがあったら、「無」と書くのも味気ないので、寺山に倣って「詩人」と記入しようと思っているのです。

『詩心をもって生きよ!』と、〈百番教室〉を、他の学部生で満室にさせるほどの名物教師が、二十代初期の私に、そう言いました。いえ、その講義を受講していた学生全員に言いました。その言葉は、私の生涯の課題の一つで、今だに、課題の答えを尋ねる宿題を負わされている様な気持ちになっています。

この一言を聞くために4年間を、アルバイトで授業料を稼いで、学んだと言ってもよいのかも知れません。その学び価値の大きさに、この身も心も引きづられて、いまだに、その課題を生きています。「詩心の五つの特質」ということが、“ 美しい言葉辞典 ” にあります。

「詩人」「詩心」と聞いても、多くの人は、その意味を説明できないでしょう。以下、「詩心の特質」をあげてみます。
1)すべてのものから自由な精神(自由)
既成概念、固定概念、先入観、宗教、イデオロギー、あらゆる洗脳、謀略工作から自由な精神を詩心と呼ぶ。
2)美を感じる(もののあはれを知る)心(審美)
豊かに美を感じ、もののあはれを知る繊細な心を、高い審美眼と美意識そのものを、詩心と呼ぶ。
3)生きとし生けるものへ愛情(慈愛)
すべての生命に対する無条件の愛を有する心を詩心と呼ぶ。
4)物事の本質を見ぬき未来を予見する洞察力(直観)
事象の核心をつく、未来を予知する鋭い直観力、洞察力を、詩心と呼ぶ。
5)幸を分け合う、和の精神(調和)
人と街と自然との調和を希求する精神を、詩心と呼ぶ。

そうだなと思うのです。私の恩師は、自分のことよりも他者を、物よりも精神を、瞬間よりも永遠を考えながら生きて行く様に、祝福したんだと思うのです。恩師の年齢を数えてみますと、まだ三十代でした。まさに溢れる情熱の青年講師の言葉でした。『こんなに目の綺麗な人っているんだなあ!』と思っていました。だからでしょうか、女子に人気があったわけです。

恩師に薫陶や影響を与えた方がいたに違いありません。自分も、それに似たようなことを言って、お隣の国の学校の教壇から話していたのです。〈受け売り〉ではなく、とくに青年が持ったら素晴らしい心だからです。激烈な競争社会を生きて行くには、甘っちょろいと思う人が多いのですが、結局は、人は心や精神や信念に生きる様に造られているに違いありません。

(寺山修司の生まれた弘前市の岩木山と市木の林檎です)

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朝顔便り/10月23日

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今日六時半に家を出て、宝積寺駅まで歩いて、JR宇都宮線の電車に乗って、宇都宮駅で降りました。そこから東武宇都宮駅前までバスに乗り、東武宇都宮線の電車に乗って、栃木に行ってきました。真っ青、紺青の秋空でした。

栃木の家の自宅の庭に、朝顔がちょっと縮こまっていましたが、花開いていてくれました。主はいないで、水遣りもないのに、遠慮がちに咲いていたのです。その生命力は素晴らしいものがあるのに感心してしまいました。

帰りは、JR両毛線で小山駅に出て、そこで東北線(宇都宮線)に乗り換えて、石橋駅で途中下車し、タクシー乗り場で、運転手に、獨協医科大学病院までのキロ数と運賃を聞いたのです。もしかしたら、次回の家内の通院日は、電車とタクシーとで行ってみようと考えたからです。

そこから宇都宮に行き、黒磯駅行きに乗って、乗車駅に戻ったのです。けっこう交通の便の良い地域で、住めば都の感を強くしたところです。昼過ぎには、今お世話になっている宿舎に戻れたのです。
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同級生

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子育て中の頃、同じ街で、一時期を共に過ごした、私たちと同じ6人家族の奥方から、写真が送られてきました。彼は、街中の “ YMCA ” で英語を教えながら、私はスーパーマーケットの床清掃事業をし、家族を養いながら、〈私塾〉で一緒に学んだ〈同級生〉です。

三人とも孫を持つ〈ジイジ〉になって、まあ孫自慢の写真でしょうか。それで、私も〈写真庫〉から探し出してメールの添付して送信したところです。彼は、アメリカの名門大学を卒業していて、飛切り頭脳明晰でした。瞬く間に日本語を覚えてしまいました。小さなメモを常に携行して、それに書き込みながら学んでいました。

お父上も、有名な大学の教授でしたから、親の良い遺伝子を受け継いでいたのでしょう。私は40点、彼はほぼ満点の試験成績で、私の刀の大和魂では太刀打ちできない、アメリカン魂の機関銃の優等生でした。ちょうど事務所の建設をしている頃で、京都からやってき来た、もう一組の夫婦も、後から加わって同級生でした。

短気な私、優秀な彼、穏やかな福井県人で、揉まれ揉みながら、しばらくの間、共に過ごしたのです。懐かしい方たちです。この二人は、私から忍耐を学んだのでしょうか、素敵な家庭を築き上げて、孫に目を細めている今です。『病中の百合さんを見舞いに行きたい!』と電話がありましたが、通院の間隔が短くて、お招きする手をこまねいてる間、共に過ごした地の名産の〈白桃〉とお見舞いを送ってくださったのです。

助け合いながら、研ぎ合いながらの年月が懐かしくて仕方がありません。アメリカからの彼はギターが上手で、奥方は、〈スズキ・メソッド〉のバイオリンの名手でした。法螺しか吹けない私と違って、情緒的にも落ち着いたみんなの中で、『浮いていたかな?』の私です。孫たちはみんな、この世の嵐の中で只今、〈工事中〉なのでしょう。どことなくジイジとバアバに、どこか似ていて、面影がある、マゴたちです。

正しい価値観を身につけて、この世に染みてしまわずに、まっすぐに育っていってほしいと願う、台風20号が熱帯低気圧に変わり、大雨を降らせている昼過ぎです。(22日記)

高徳の人

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羽前・米沢藩に、『この人あり!』と言われた、上杉鷹山(ようざん)は、十七歳で米沢藩主になります。小藩の大名の子は、「養子」として上杉家の家督を相続しますが、思い上がることなどありませんでした。鷹山は、人に恵まれたのです。母方の祖母の感化を受け、「もの静かで、利発で、孝心篤い性格」を宿したのです。また師として仰いだ、高潔の士・細井平洲から「忠順」を学んでいます。

結婚相手の上杉家の令嬢は、先天的な知的障碍があり、十歳ほどの知力だった様です。この方との二十年ほどの結婚生活について、何一つ不満を持つことがありませんでした。自分の運命を、ありのままで受け入れたのです。妻の遊び道具や人形を、自らの手で作って上げ、心から妻への愛と敬意を表しています。ですから、世嗣ぎの子を産むためだけの側室を一人だけ米沢に置き、江戸の上屋敷に住む正妻とは、はっきりと区別をしたのです。正妻との間には子を成しませんでした。

子育てにも心を向け、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしないこと!』、『貧しい人々への思いやりを持つこと!』と教えています。また、性犯罪が起こると危惧する中、鷹山は、米沢にあった「公娼(売春)」を廃止してしまいます。結果は、何の問題も起こらなかったそうです。医療制度を整備し、医学校を立て、西洋医学を導入しています。貧しいながら有為な青年を、奨学金を与えて育てています。さらに多くのことを行っています。

陸奥の辺鄙で山深い地で、こんなに高邁な志と、高潔な人格で藩政を行ったのは、封建下ではありながら、「日本の誇り」ではないでしょうか。経済政策で藩を豊かにするのは、誰にもできるかも知れません。でも、人の道徳心を高めたことは、特筆に値します。七十歳で亡くなった葬儀の時には、何万もの会葬者が、道に溢れていたそうです。深く哀悼を示す声が藩内を満たしたのです。

自分の居室の畳替えも後回しにするほどの質素と倹約の生涯であったと聞いています。詳しくは、「代表的日本人(内村鑑三/岩波文庫)」をお読みください。このように徳の高い鷹山こそは、この時代が求めている指導者、いえ現代人全ての模範的な在り方、生き方なのではないでしょうか。

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 黄河流域の氾濫原に、古代文明が誕生します。定住して農耕が行われ、文明が起こり、「黄河文明」と呼ばれる文化活動が展開して行きました。その中で誕生したのが、「漢字」でした。ある意味では、祭祀的な背景の中から誕生するのですが、私たちに現代生活と、切ってもきれない役割を、この独特な文字は担っています。

自分の名前は、「廣田準」と表記するのですが、きっと祖先は、大百姓で、広大な田畑の所有者だったのでしょうか。それとも、広がる扇状地に住んで、田畑を開墾した過去があって、そんな苗字をつけたのかも知れません。田んぼの真ん中に住んでいた人は、「中田」とか「田中」、川の沢に田を持った人は「沢田」、「佐和田」とか名乗ったかも知れません。

親がつけてくれた「準」は、次のような意味がある様です。「会意と形成文字です(氵=水、それに〈隼〉で成っています)。〈流れる水〉の象形と〈鳥に象形の下に〈一〉を加え、人が腕に止まらせ、狩に使う鳥を示す文字〈隼はやぶさ〉の形をした〈水準器〉、〈平たいら〉を意味する。」のだそうです。「準備」、「準拠」、「準用」と言う言い方で使われ、「準会員」もありますから、主力でない、二の次のような意味があるようです。父は、「二番手」、「補欠」でいい、そんな平凡で目立たない生き方を、私に願ったのでしょうか。

この1週間ほど、「大雨」、「増水」、「浸水」、「水害」、さらには、「氾濫」、「洪水」など、「氵」や「水」のつく出来事に翻弄されています。そんな体験の中、もう一つの漢字が思いの中に浮かんでまいります。「愛」です。浸水の報を聞いて、「焼きそば」、「お寿司」を持って駆けつけてくださったり、闘病中の家内の衛生上の問題で、『ここにいてはいけない!』と、家探しをしていただいたり、部屋を提供してくださったりして、多分の「愛」をお受けしているのです。

こんなに静かで、落ち着いた疎開先で生活ができて、家内も私も感謝でいっぱいです。「愛」という漢字には意味があります。「本字は、会意形声。夊(すい)(あるく。夂は変わった形)と、㤅(アイ)はふりかえろうとする気持ち。㤅は変わった形)とから成り、ふりかえりつつ歩く、ひいて、心にかける意を表す。のち、?に代わって、愛が用いられる。」と漢字辞典にありした。「心にかける」、関係や繋がりのない者への、心遣いは、病んで、衛生上の必要のある者には、何とありがたいことでしょうか。

人の心から流れ出る美しい感情、優しい感情を、「愛」と言うのでしょう。親の愛、朋友の愛、兄弟の愛を身にしみて感じている最中です。子どもたちが、様々に気を使ってくれるのは感謝なことです。『子が4人います!』と言って、若い頃に笑われたことがあり、『4人は多過ぎるかな?』と、チラッと思ったことがありました。でも《矢筒を矢で満たしていること》 が、こんなに素敵なことであるのだと喜ぶ今です。《温かな漢字》にも感謝しないといけませんね。

(「矢」と「矢筒」です)

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