中国語に、「浪子」と言いことばがあります。きっと海の波のように奔放で、放縦で、自分を波動に任せている様子から、そう呼ばれるのでしょう。日本語に訳しますと「道楽者」とか「放蕩息子」になるでしょうか。模範児でなかった青年期の私も、きっと,世間から「浪子」のように思われていたかも知れません。両親の寵愛を受けて、我侭いっぱいに育てられた井の中の蛙、それが私でしたから。

ある書物に、この「浪子故事(放蕩息子の物語)」があります。その住んでいる世界の「狭さ」と「平凡さ」とに飽き足りなく不満で心を満たしていました。『きっと遠いあの街には、面白いこと、刺激的なことがあって、俺を満ちたらせてくれるに違いない!』と、日がら思い続けていたのです。父の目も親戚の干渉も兄弟たちとの競争も避けたかったのです。それで別世界での生活に憧れ、「新天地」での生活を夢に見始めます。雑誌もテレビも、その世界が、どんなに素晴らしいかを目と思いと、はげしく訴えてきたのです。『広さと刺激に満ち溢れて楽しい世界だ!』と、すべての情報は誘っています。そうなると、日常の義務が手につきません。遠い空を眺めてはため息をつくばかりです。その夢の実現のために、大雑把な計画を立て始めます。どんなに算段してみても、には自立する能力も資金もないのです。それでスポンサーを捜しますが、この未熟な男に用立てる大人は皆無です。叔父や叔母は全く相手にしてくれません。銀行だって貸してはくれないのです

それで父の財産の「男の相続分」に食指を動かします。それは父親の存命中には、相続することはできません。それで父親泣き落としにかかります。その芝居のうまさに、騙されやすい父は負けてしまうのです。それで相当分の財産を分与してしまいましたは旅支度をして、父と母と一緒に育った兄を、故里と共に捨てます。大金が彼の手に握られているのです。憧れの地にやってきたこざっぱりした身なりの彼の周りには、大勢の若者たちが群がってきました金払いの良い彼は、おだてられると湯水のようにそのお金を使っていくのです。彼らと過ごす時間は、夢のように過ぎて行きました。夢から覚めて、ポケットの財布を開き、銀行の講座をの残高を見ますと、一円も残っていません無一物のなったことを知った遊び仲間は、潮がj引いていくように彼の元から離れていきました。完全な金銭的な破産でした。そればかりではなく、精神的にも破綻をきたしていたのです。が、これほど短時間に、しかも容易に砕けて仕舞うとは、夢にも思いませんでした。その現実に直面して、初めて彼の目が覚めるのです

「瞬きの間の独り芝居」という名の幕が上がってしまうと同時に、彼は父の家を思い出すのです。幼い日から、ふるさとを捨てた日までの楽しい思い出が走馬灯のように思いの中を巡ります。父の笑顔と、そのから流れ落ちていた父の汗を思い出します。そして、『きっと父は、私のために涙だって流しているに違いない!』と思い始めると、いても立ってもいられなくなりました。そうだ、父の家に帰ろう!』、そう思うと同時に、彼は、故里に向かって歩き始めたのです。はかない夢から覚めたたのです。父の家に近づいた時、彼が父を見つけるよりも早く、父が見つけてくれていました。彼が走るよりも早く、父が走り寄って来たのです。父は裸足でした。父を裏切り傷つけた彼を抱きかかえ、幼い日にしてくれたように頬ずりをしてくれたのです。まるで私が遠い過去に負った傷を癒すかの様にしてです。

父は何も詮索しませんし、責めもしないのです。彼が、幼い日に「父に愛される子」であり、父を無視し捨てた今でも「父に愛される子」であることを知らせてくれたのです。この父の愛は、彼の行いや時間の経過によって、色あせたり変化したりしないのです。彼の兄も親族も、好き勝手をした彼を受け入れようとはしません。ただ父だけは、『きっと帰って来る!』と信じて待って、無条件で受け入れていてくれたのです。失敗体験と恥体験とによって、自分の実態が分かって帰ってくることをです。次男の回復を天に委ねたのです。父の包容力、父性の豊かさが、どれ程のものであるかを彼は知ることができたのです。彼は《父の財布》にだけ期待していたのですが、帰って来た彼は、祈りつつ待ちつつ走り寄る、《父の思い》を知ることが出来たのです。父の懐って、こんなにふかふかで暖かく、居心地が良かったのを再発見したのです。

厳格な私の父を、ときどき思い出しますが、そのほほを流れる涙を見たことがあります。そんな父を見て、『男だって泣いていいんだ!』と思わされたのです。だれの人生にも、さまざまなことがあるのでしょう。自分も、何度泣いたことでしょうか。涙とは、心の思いを洗ってくれるものなのかも知れませんね。この物語のお父さんのほほにも、子を思って流す涙があったにちがいありません。

(写真は上は、「東シナ海」です)、下は「霞浦(福建省)」です)

望郷

私たちの四人の子供たちにも、孫たちにも、帰って行く「実家」がありません。というのは、私たちが5年前に中国に来る時に、家財一切を処分して、家を畳んでしまったからです。世帯を持ってから、持ち家に住んだ経験はなく、いつも借家のアパートや市営や県営の団地に住んできたからです。結婚してから35年の間、子どもたちの想い出のこもった物もほとんどを処分してしまいました。長男は、手狭な家に住んでいましたし、長女はシンガポールに本拠地を置き、次女はアメリカに嫁ぎ、次男は聖蹟桜ヶ丘のワンルームマンショに住まいでしたから、親の持ち物を置く空間がなかったからです。わずかな物を預けておいたのですが、迷惑になることもあって、その後、帰国時に処分してしまいました。

そんなこんなで日本を出ましたから、最後に、家族全員が集まったのは、2006年の正月だったでしょうか。長男が中学を卒業して以来、ハワイの高校に入学してから、家族六人が、団欒を共に過ごす時間が徐々に少なくなってきてしまったのです。この正月の時期、ここ中国でも、「春節」には、故郷の家族のもとに戻り、その団欒を楽しむ習慣があるようです。私たちも、友人が安い家賃で貸してくださった家、狭い二間に、娘の家族を迎えたりしましたが、結構、正月の寒い時期にも、みんなで寝たり交わったりすることが出来たのが不思議でした。

ここ中国でも、友人の家をお借りして住んでおりますから、まるで「寄留者」か「巡礼者」のようにして生きていることになります。もちろん、「外国人」でありますが。『不安にならないですか?』と言われますが、こういった生き方も慣れますと、身軽で快適なのです。不思議なものです。ただ、家族が一緒に集まる場所がないのは、子どもたには、『帰って来れる家がなくてごめんね!』と思ってしまうのです。

昨日今日、正月恒例の「箱根駅伝」が日本では行われていました。今年は、パソコンでラジオ放送を聞くことができましたので、『早稲田総合優勝!』という結果を、NHK第一放送で聞くことができました。これを聞いていたとき、ミカンをむきながら、おせちり料理をつまみながらテレビの放映を、『家族で見られたらなあ!』、との思いが湧き上がってきてしまったのです。日本を発つ直前に、挨拶に来てくださった、日本人の女性と結婚されたアメリカ人の友人が、『我が家は、お子さんたちの実家ですから、そう思ってくださいね!』と、うれしいことを言ってくれたのです。

と言っても、もうすでに世代交代の時期でしょうか、ある方から、最近、『息子さんの扶養家族になられたらどうですか?』と勧められました。『そうか、もう息子の家に集まればいいのか!』と思えばいいのでしょうか。アメリカにいる次女が、『ここに来ればいいよ!』と言ってくれたり、次男も、『俺が面倒みるから!』とも言ってくれています。

まだまだ元気に働くことも出来ていますから、健康が支えられている間は、問題がないのですが、昨秋、家内が病みましてから、ちょっと弱気になってしまいました。子どもたちの意見に耳を傾けないで、自分で思うように、大分頑なな生き方をしてきましたから、最近は、いろいろとクレームがつき始めています。日本人と正月の関係には、意外と微妙な情緒的な面があるのでしょうか。昔読んだ本の中だったと思いますが、正月は、普段賑やかに生きている人にとっては危機の一つなのだと書いてあったのを思い出しました。

でも懐かしい故国があって、そこに懐かしい人たちがいますし、そればかりではなく、友情を示してくれる友人たちがこの大陸にいてくれるのですから、『遙かなる永遠の故郷に帰るまで、巡礼の旅を続けていこう!』と、年頭にあたり、そんな決意をしたところです。ご心配なく!




初夢

お江戸日本橋 七つ立ち 初のぼり 行列そろえて アレワイサノサ
コチャ 高輪 夜あけて 提灯けす
コチャエ コチャエ

六郷わたれば 川崎の万年屋 つるとかめとの 米(よね)饅頭
コチャ 神奈川 急いで 保土ヶ谷へ
コチャエ コチャエ

これは、江戸の民謡「お江戸日本橋」です。「七つ立ち」というのは、今の早朝四時頃のことですが、上洛や伊勢参りや箱根巡りの旅の出発時間だったのでしょう。この六郷川は、江戸五街道の一つ《東海道》の渡し場の一つでした。私は、この川の上流の多摩川の河畔の街で育ちました。かつて、この街は、甲州街道の宿場だったのです。この宿場の本陣だった家に住んでいる上級生もいましたし、新選組の土方歳三の生家もこの近くで、彼の親族の子孫が級友にいました。この甲州街道も日本橋を起点に、内藤新宿(現在の新宿)を経由して甲府にいたり、中山道に繋がっていたのです。

さて、この日本橋を起点に、トルコとブルガリアの国境に至る、総延長20,322 kmの「アジアンハイウエー1号線(AH1)」のあるのをご存知でしょうか。昨年末、初めて私は知ったのですが。その路線は、次のようです。

東京福岡・・・フェリー ・・・釜山[プサン]平壌[ピョンヤン]瀋陽[シェンヤン] 北京[ペキン]武漢[ウーハン]広州[グアンゾウ]深セン南寧[ナンニン]ハノイプノンペンバンコク)ダッカニューデリー イスラマバード)イスタンブールカピクレブルガリア国境

アジア圏の国々、街々を一本の道路で結んでいるハイウエーがあるのですから、東シナ海を渡った阿倍仲麻呂が、このことを知ったら、きっと驚くだけではなく、喜ぶのではないでしょうか。かつて日本は、「五族協和」とか「大東亜共栄圏」を叫んだ時代があったようですが、銃器による領土拡張の野心ではなく、国際協調や民間友好の陸路を、人々が行き来できるのですから、画期的なことではないでしょうか。もしかすると、福岡と釜山とは、壱岐や対馬の島々を経由して、海底トンネルで繋がる時代が来るのかも知れませんね。

それが実現したら、日本橋を《七つ時》に立って、首都高から東名高速に出て、玄界灘の海底を潜って、ヨーグルトや果物のおいしいブルガリヤに、車の旅をしてみたいものです。日本の街にも、ベトナムナンバーや印度ナンバーの車を見掛けるのが日常、当たり前のことになって、交際交流が盛んになるに違いありません。美しい日本の四季や温泉や日本料理を楽しんでいただきたいものです。そんな「初夢」を見たかったのですが、残念なことに何を夢見たのか覚えておりません。ただそんな友好の夢だけは、いつまでも持ち続けたいものです。

(写真上・中1は「葛飾北斎の日本橋と富嶽」、中2は「アジアン・ハイウエーの標識」、下は「ブルガリアのセネバル」です)

新年快乐

おめでとうございます!

2011年、日本、中国、アメリカ、シンガポール、ブラジル、すべての国と民族に広がります、私の家族、友人、知人、そして、みなさんの上に、平安と健康と繁栄を、ここ華南の空の下からお祈りしたします。私たちは、5回目の新年を、ここ華南の地で迎えることができました。あいにく今日は断水で、お昼には若い友人たちを、「お雑煮会」に招いたのですが、残念ながら取り消さなくてはならないようです。

日本の社会に起こっていますことを、こちらから眺めますと、今まで分らなかったことが理解され、以前、外から見ていた中国も、こちらで見聞きしますと、さらに鮮明に理解されてきております。

ここから上海に至る道の途上に、「寧波」という港町があります。かつて中国と日本とを、経済や文化や宗教などの交流で強く結びつけた街なのですが、今年は、この街を訪ねてみたいと思っております。日中関係は、隋や唐(紀元600年頃からでしょうか)、元や明の時代(日本では鎌倉から江戸初期の時代になるでしょうか)から、この寧波を出入口にして、脈々として密接につながっているのが分かります。

さらに福建省からは、多くの福建人が船に乗って渡って行き、日本に定住しているのですから、私たち日本人の出自の一つの地が、ここにあることになります。一緒に食卓についてくださる友人たちの所作を見ていますと、アメリカの知人宅でテーブルについて感じるのとは違って、同じ家族の一員であるような、親しみを覚えるのです。昨年末、家内が病気で入院しましたときに、こちらで出会った友人たちが示してくださった愛に、私たちの魂の深いところが、ギュッと握られ掴まれてしまったようです。「你們是我的一家人吧」だと言ってくださる彼らに、家族や親族の血縁以上のものを感じさせられている日々です。

この国が、さらなる喜びにあふれて、心のそこから感謝の笑顔に満ちていくことを願っています。

愛するお一人お一人に感謝し、ご挨拶を申し上ます。今年もよろしくお願いいたします。

(写真は、遣唐船、遣隋船が出入りした「寧波の港」です)


十大ニュース

1.家内が第二医院に入院

出産以外に入院したことのない家内の初めての入院でした。しかも外国の地ででした。ところが、病んだ家内を、多くの友人たちが介護をしてくださったのです。6日間24時間体制で、当番表を作成してくれてでした。大感動でした。『遠くの親戚よりも、近くの他人!』、この他人の中に、しかも中国の地に、真実の友がいてくださったことは、何も勝る祝福なのであります。人の世話をしてきた家内が、人のお世話になったことは、なんという喜びでしょうか。

2.母が93歳の誕生日を迎える

1917年生まれの母は、強く歩くこともでき、食欲もあり、座って人の話も聞くこともできます。至極元気でおります。山陰の地で生を受け、父と出会って結婚し、四人の男の子を産んでくれました。この夏、小さくなった母の背を見ながら、三男の私ですが、親孝行の真似事をさせていただきました。

3.腰痛で授業を休講する

髭を剃って、着替えて学校に行こうとしたら、腰がすくんで歩けなくなってしまいました。都合十日間ほど家の中で這うようにして過ごしてし、授業を休んでしまいました。毎年、秋から冬の季節の変わり目に、決まって起こっています。帰国したら、紹介された板橋の整体師に行こうと思っています。

5.次男が渋谷に会社を建て上げる

出資してくださる方があるほど、仕事を評価され、信頼を寄せてくださったのでしょうか、素晴らしい機会です。力いっぱい、培ったものを発揮して欲しいと思っています。

6.コンクリート・ブロックの破片が投ぜられる

尖閣諸島の漁船の拿捕と船長の逮捕が報じられた晩、我が家の裏庭のポーチに、コンクリートの塊が、いくつも投げ込まれていました。落ちたり置かれたりするはずのないものでした。直情的な気持ち、それが理解できましたので、悩みませんでした。軍靴でこの国土を踏みにじった過去を考えたら・・・・。

7.シンガポールに旅行をする

査証が得られなくて3度も4度も中国大使館に行きました。おかげでマレーシアに2度も行って、滞在時間を延長しました。その滞在期間中の真夜中に、泥棒に入られて、長女の貴重品のほとんど、息子にもらったカメラが姿を消しました。命からがら助かって、『人の物は盗まない!』、そう決心しました。

8.永定の「土楼」に行く

何年も前から、『遊びに来てください!』と誘ってくださった友人の家を訪ね、彼の知人が車で、山道を走って、世界遺産である「土楼」に連れていってくれました。漢民族の驚くほどの知恵に触れることができ、甲州街道沿いに見えた、いくつもの「土蔵」を思い出していました。

9.「鮑の養殖」をみる

福州の北のほうに連江という街あります。自然の美しい、漁業を生業にしていていました。そこに潮騒を耳にしながら泊めていただき、翌日は、船で養殖場に案内していただきました。海水がきれいで、鮑もご馳走していただき心安まる日を過ごすことができました。

10.〇〇義塾の校長先生と会う

偶然の出会いと紹介で、シャングリラ・ホテルで交わりの機会がありました。若い日の共通の知人がいて、話が弾みました。私の若い友人のお世話をしてくださると、この校長先生が約束してくれ、話が進展しています。

脇役


『きっと大人になったらこんな顔になるんだろうか?』と思わされた芸能人がいました。中学3年の時でした。まだ子どもと大人の境界線にいて、体も心も、どちらでもないようなあやふやな時期だったでしょうか。ニヒルな雰囲気を漂わせている男に憧れていた私は、テレビに登場し、ブラウン管の中に映し出されて歌う、水原弘と自分をダブらせていたのです。あの時、彼が歌っていたのは、確か「黒い花びら」だったでしょうか。悲しくて寂しい内容の歌詞でした。誰にも、『似てる!』と言われたことがなかったのですが、坊主頭の自分が、『髪の毛を生やして、お酒を浴びるほどに飲んで、一人前のおとなになって、夜の新宿でもぶらぶらしていたら・・・・』と思ったのです。『旨い!』と思ったことのないタバコをくゆらせ、飲むと頭が痛くなる酒を飲んだのですが、なかなか似てこなかったのです。男っ気のある親分肌で、若者をぐっと引きつけるようなものを持っていた彼の、そんな不良っぽさに憧れたのです。としますと、思春期というのは、あやふやで、危なっかしくって、さだまらない時期なのでしょうか。

そんな私は、一生懸命に彼に真似て歌うのですが、声が変わったばかりで、オトナの声など出ようはずがありません。疲れて熟睡してしまいますから、万年寝不足で目の周りにクマができてるような表情にはなれなかったのです。水原弘が42歳で亡くなったときには、彼と同い年のアメリカ人の事業家と一緒に、もう6~7年ほど働いていました。この方から、さまざまなことを学んでいたのですが。この方は、マイナスイメージのない方で、水原弘の対局に生きていた人でした。酒もタバコもやりませんで、実に清廉潔白な人格者だったのです。ちょっと近寄り難い雰囲気を持っていますが、笑顔が素敵でした。日本人からでは受けられないような感化を、この方から受けたことは、二十代に蓄えた貴重な宝物だと、今でも思っています。

文壇にも、芸能界にも「無頼派」という枠組みがあるようです。「無頼漢(ならず者)」ではなく、熟成して穏当で日和見的な在り方に添いきれないで、それを逸脱した作風をよしとした、戦後の若手作家を言うようです。太宰治、檀一雄、坂口安吾、織田作之助などがいました。たしかに生き方も、常軌を逸していて、アルコールや薬物中毒だったり、自殺したりの破天荒な生き方もあったようです。水原弘も、破天荒に生きた人でした。『人は憧れたものに似る!』と言われていますが、水原弘に似ていたなら、私も40代の初めに召されていたのかも知れません。しかし20代の中ほどで、お酒もタバコもやめましたし、体が悲鳴をあげたら睡眠をとることにしていたのです。健全な生き方を、その頃、出会ったアメリカ人の方に真似て始めたことは、よい選択だったのだと思うのです。

いったい、どんな男、どんな人間になって今、私は有るのでしょうか。思春期に憧れたイメージとはまったく違った自分が出来上がってしまいました。このような「憧れ」とか「英雄像」は、やはり虚像なわけです。ジェームス・デーン、水原弘、鶴田浩二にと、イメージを求めた心の遍歴は、思い出すと、むず痒さを覚えてしまいます。芸能界のスターたちは、意図されて作られた商業主義の1つの商品なのでしょうね。「龍馬」に、現代の若者の注目が集まっているのは、史実の龍馬ではなく、理想化された虚像であって、この時代に変化を願う人たちのモデルとして登場させられているわけでしょうか。テレビの自分を、龍馬が観たら苦笑いではすまないかも知れませんね。人の外貌から、「心」や「生き方」や「価値観」に、イメージを変えていくのが、大人への道なのかも知れません。脇役から主役を演じて、今再び人生の脇役に戻った自分を思って、『これが人の道なのだ!』と、2010年の大晦日に思わされております。

(写真上は、「水原弘」、下は「坂口安吾」です)

一陽来復

今日は二十四節気の一つ「冬至」です。故郷では、柚子湯に入ってかぼちゃを食べる風俗が残っていて、銭湯や入浴施設の大風呂には、柚子が浮かんで、芳香を放っていることでしょうか。小学校の時、内風呂があるのに、わざわざ街の銭湯に行って入ったのですが、風呂場に立ち込めていた芳しい香りが、東シナ海を渡って漂ってくるかのようです。ここ中国では、かぼちゃを食べたり、柚子湯に入ったりはしないようです。

我が家は、4階建てのアパートの一階にあって、小さな庭の突き当たりは高台になっていて、そこに三階建ての家がある、そういった住宅環境に住んでおります。夏場は涼しくていいのですが、冬場の陽光の少なさには、毎年、この時期に、『引越そうか?』と考えさせられております。それでも今日は、暖かくて燦々と太陽の光が、開け放った裏扉から差し込んできています。そうですね、今日を境いに、昼間の長さが増して行くわけで、この日が起点であるのは、まさに《一陽来復(冬が去り春が来ること。新年が来ること)》の願いが込められていることになります。

華南の福建省、広東省、江西省などは、「土楼」で有名な《客家》の里です。ここに住む客家人は、16001700年 ほど前、「中原の戦乱」を避けるために南方へ移住した漢族の末裔なのです。客家では今でも、冬至に天の神を祭るならわしが残っているそうです。各家は、門の外に卓を設けて、「冬至圓(汤圆(tang yuan)」と呼ばれる団子や各種のお供え物を並べて、香を焚いてろうそくを点すのだそうです。こうして敬虔に天の神を祭り、長寿や豊作、家族の幸せを祈るのです。 今夏、訪ねました広東省にほど近い永定では、そんな長い風習が守られ、「冬至節」を今日も祝っていることでしょう。なにかキリスト教徒が、「クリスマス(冬至祭の影響といわれていますが)」を祝うのと似ているように感じるのですが。

ところで、中国生活で、ただ一つ残念なことあります。それは我が家に「風呂」がないことなのです。それで一年中、シャワーなのですが、冬場のシャワーは億劫になってしまい、あまり好きではありません。それでも、シャワー室には、「取暖」と記された、高熱ライトが4つ備えてありますから、暖を取ることができて、寒くはないのですが。こういった中で、5年も過ごしますと、食べ物は問題はなくなったのですが、疲れたり、ほっとしたい時には、『ゆっくりお湯に浸かりたいなあ!』と、しきりに思ってしまうのです。これが、ただ一つの中国生活の不満なのであります。ことのほか冬至の柚子湯、こどもの日の「菖蒲湯」を思い出しますと、懐かしさと相まって『入りたい!』との思いが湧き上がって、居ても立ってもいられないのです。

それで、バスの中から、『風呂桶になりそうな物がないかな?』とうかがっていますが、時々、『あっ、あれなら・・・!』と思い当たることがあるのです。降りて買おうと思いますが、『さてどう運ぶの?』と考えてしまうと、自転車も車もない身ですから、我慢してしまうのです。庭に面した三和土の上に小さな小屋を作って、ガス湯沸かし器を設置し、桶を入手すれば、風呂場が出来るのですが。『来年こそは!』と思っておりますが。

さあ、今晩の夕食に、中国のみなさんが「冬至節」を祝って、食べる、米の粉アンを包んだ素朴な団子の「汤圆(冬至圓」を食べることにしましょう。天津にいた頃から毎年、食べておりますからこちらのみなさんと同じ気持ちにさせられて、春到来の願いを込めた《一陽来復》の喜びの輪に加えてもらおうと思っております。

(写真は、兵庫県の城崎温泉の「柚子湯」です)

北風

さすが12月です、急に寒くなりました。冬場の最低気温は、例年ほぼ摂氏5~6度くらいですのに、今冬は、1度を記録して、みなさんも驚きの声を上げています。まだブーゲンビリアが咲き、名のわからない木に花を付けている亜熱帯ですのに、身震いするほどに縮み上がってしまいました。まるで八ヶ岳おろしが吹き下ろす冬場の生まれ故郷のようでした。雪の表面をなぜて吹いてくるから風のように、音を立てていました。なぜ寒いのかといいますと、室内を暖房する習慣がないことが、その1つの理由です。

実は昨日は、私の誕生日でした。昨年も私のために、こちらの誕生日に振舞われる《長寿麺》を作って、お祝いしてくださった方が、今年も招いてくださったのです。1ヶ月以上も前に、お嬢様を我が家に遣わせて、『誕生日に《長寿麺》を作りますからおいでください!』と言ってくださったのです。それで、迎えに来てくださった高校1年生のお嬢様と一緒に、歩いて10分ほどのお宅におじゃましました。お父様が料理をされて、9品ほどの料理に、メインデッシュの約束の《長寿麺》を出してくださいました。贅沢とは言えませんが、中国の誕生日の定番の素朴ながら、優しい心遣いのこもった麺には、ゆで卵が二つも添えて碗の中に入れてありました。格別なお祝いの意思表示が、碗からこぼれ出るかのように溢れそうでした。

今日日、《小日本》と揶揄されている仇敵の日本人の私のために、江西省出身のお父様が、腕を奮ってくださったのです。その料理に、家内と二人で、感謝にあふれて舌鼓を打たせていただきました。 食後には、きれいにデコレートされたケーキに、10本ほどの蝋燭をさして、灯をつけてくれてテーブルの上に置いてくれました。『吹き消して!』と言われた私は、一息で消しましたら、『#你的生日快乐・・・(ハッピーバースデイツゥユーの中国語版)』と、お母様とお父様といとこの中学2年生、そして家内が歌ってくれたのです。さしもの北風に凍えていた私の体も心も、いっぺんに温められて、溶かされて、喜ばしい誕生日を祝っていただいたのです。この家にも暖房器具がありませんでしたから、着ていった暖房着を脱がずに席につき、日本ではみられない食卓風景でした。室温は低かったのですが、その部屋は愛や感謝や喜びでどれほど暖かかったことでしょうか。『你是我们的一家人(あなたは私の家族の一人です!)』と、社交辞令ではなく、真心をこめて言っていただくことの多い私と家内は、北風の吹く中を、お土産と誕生日カードを手にしながら帰宅したのです。

中国の片隅で、中日友好の花が咲いていることを、みなさんに知らせたいのです。国家間のそれは、相互に様々な条件や案件が障碍となって、なかなか成就は難しいのでしょうけれど、民間では、着々と前進しているのだということをお伝えしましょう。阿倍仲麻呂も、こんな暖かな友情や、家族愛に触れたのでしょうか。この一月ほど、帰国を考えた私でしたが、来年も《長寿麺》をご馳走いただけることを期待して、新しい査証の申請に取り掛かる覚悟をした次第です。愛は凍てついた大河を押し流すほどに力あるものなのでしょうか!

(写真は、http://tonyjsp.com/food/yatai/menu-20.htmlの「長寿麺」です)

仕事

これまで、多くの業種の仕事をさせてもらってきました。別に貧乏学生ではなかったのですが、どちらかというと、学業よりも、実社会で学ぶ機会のほうがだいぶ時間的に多かったのでではないかなと思います。つまり本分である勉強を、あまりしなかったことになりますが。働いた時間だけバイト料が多いという実益があり、世の中の変化や面白さがあり、『よくやってくれるね、君たちは!』と煽てにのせられますから、どうしても単純な私にとっては、アルバイトに比重が偏ってしまったのです。いろいろな人と出会って、様々なところに出掛け、社会の仕組みの一面を覗き見られたことなど、お金には替えられない、学校では学べないことを学べたと、まあ言い訳しております。

そんな私には、一つの信条、決心がありました。兄の友人たちが、アルバイトをして学業放棄をして中退していく様子を見聞きしていましたから、彼らの轍を踏むまいとして、あることを心に決めたのです。それは《水商売》では働かないという決心でした。で、体を使う力仕事をしたのです。兄の友人が、失敗したのは、女性でした。恋に落ちたのか、誘惑に負けてしまったのか、それらが勉強への関心を薄れさせてしまうか、様々な理由で学校を続けられなくなって、学問を諦めたからです。

何時でしたか、地方の大学で教壇にという話があって、学長と面談したことがありました。20頁ほどの小論文を持参して行きましたら、『あなたは、これまで何を学んで来られましたか?』と問われて、『私は2つのことを学んできました。』と、答えたのです。その1つというのは、人間が生来もつ《可能性》を教わったことです。『僕が、琵琶湖にある施設でボランティアをしたときに、重度の心身に障碍を持っている方が、普段は何の感情も表現しないのに、お風呂に入ったときと、日光浴をしたときに、なんとも言えない喜びの表情を見せるんだ。君たち、人間には、どんな情況に置かれていても、誰にでも《可能性》があるんだ。その可能性を信じて、人と接していくこと、これが教育であり、福祉であり、命の道なのだ!』と、三十代なかばの専任講師が、顔を紅潮させながら、烈々と訴えたのです。そのことをお答えしました。

その講師の話を聞いた時、自分の《可能性》を信じて、それを引き出そうとしてくれた先生たちの顔が、この講師の顔にダブったのです。席に落ち着いて座っていられないで、教室をうろうろし、いたずらをして廊下だけではなく、校長室にでさえ立たされた小学時代がありました。10番以内を確保していたのに、魔の中2に、タバコを覚えて非行化して、国鉄の通学駅で盗みをして捕まって、学校に通報されたり、ピストルを暴力団を介して手に入れようとしたことも発覚し、まったく勉強が手に付かなくなった私を、処罰する代わりに激励して、3年になってから立ち直らせてくれた担任がいました。『そうだ、だれだって可能性が溢れているんだ!』そんなこんなで、高校の教師をさせて頂いたことがありました。

もう一つは、私たちの学校に「百番教室」という学内一の座席数の多い教室でしたが、そこを満堂にしていた30代後半の、ひげ剃りあとの青々とした、目の澄んだ痩せて凛々しい講師が、ある講義の時に、『みなさん。みなさんは《詩心》を忘れないで生きて行きなさい!』と講じたのです。私は、その学長に、この二つのことを話したのです。

この言葉だけが、その4年間で記憶に残った教えでしたが、それは卒業後のずっとの間、私の心の思いから離れませんでした。難解な学問的な教義ではなく、だれにでも言える言葉でしたが、それはお二人の講師の人格とは不分離だったからで、若かったからもあって、強烈に迫ったのでしょうか。その生き方が、結婚し、子どもが一人、二人と四人与えられて、徐々に分かって来たようでした。何だか、重いテーマを負わされて、『このことを考えながら生きていきなさい!』と挑戦を感じたのです。これを聞いた学長は、『あなたは、まだそんなことを言われるのですか!』と意外さと、驚きを表していました。そんな青臭い信条を持つことの甘さがいけなかったのか、本業がありましたから、それを犠牲にしてはいけないとの声なき声なのか、その講師への戸は開きませんでした。

そんなこんなで、アルバイト経験と、この二つの金言を携えて、私は社会人となったのです。いまだに青臭いものを持ち続けて生きているのですが、教育効果というのは、驚くべき力を持っているというのが実体験です。学問を学ぶというのか、学問を教える人の人格に触れるというのか、教育とはなんなのでしょうか。私の人生の残りの部分に、再び教壇に立つ機会が与えられて、中国の大学生に、人生ではなく「日本語」を教えさせていただいています。彼らの日本観を変えたいというのが、私の内なる願いですが。制限もあって、思想や宗教倫理をテーマにはできませんが、『こんな日本人もいるのだ!』と見てくれるようにと、このことはいつも忘れずに、教壇に立たせていただいています。私の中学3年間の担任が、教壇を降りて、私たちと同じ床に立って、挨拶されたのに倣って、私も教壇の下に降りて、彼らの足が踏んでいる床の上から挨拶をさせてもらっています。変でしょうか?そういえば、あの二人の講師が、白髪を戴いて、NHKのテレビに出ているのを、それぞれに見たことがありました。目の輝きと澄んだ様は、全く変わっていなかったのが印象的でした。

(写真上は、「琵琶湖」、は、よくアルバイトをした「やっちゃ場(青果市場)」です)

白髪三千丈

李白の詩の中に、「秋浦曲」という有名な詩があります。

白髪三千丈  白髪三千丈
縁愁似個長  愁に縁(よ)って個(かく)の似(ごと)く長し
不知明鏡里  知らず明鏡の里(うち)
何處得秋霜  何れの處にか秋霜を得たる

『白髪は、三千丈にもなってしまった。それは憂愁が原因してしまって、これほどの長さなってしまったようだ(白髪の長さというよりは多さを誇張して、そう言ったのでしょうか)。曇のない鏡のような川の水面に、秋の冷たい霜が映っている。あゝ、私も人生の晩年にいたって、思いの中に憂いが広がっていくのが分かる!』との思いを詠んだのでしょうか。杜甫も、「春望」の中で、髪の毛の薄さにこだわり、李白は、白髪の多さを言い表しています。人生の来し方を振り返って、この二人の詩聖(李白は「詩仙」とよばれます)は、想像もしなかった老境の現実に、戸惑いを見せているのようです。

若い日の李白は、老いを想像することなど、まったくありませんでしたから、豪放磊落、水の流のように奔放な生き方をし、若さや力強さを誇り、酒や女を愛し、杜甫のように諸国を流浪して、詩を詠み続けました。40を過ぎた頃には、長安の都で、朝廷詩人としてもてはやされます。しかし社会性が乏しかったのでしょうか、ふたたび浪々の身となるのです。浮沈の多い生涯を生き、一説によると、酒によって船から落ちて亡くなったとも言われています。

日本人は、この李白の詩を好みます。「早發白帝城」や「静夜思」を、漢文の時間に学んだことがありました。私は、それほどの素養はありませんで、中学や高校で学んだ範囲ですが、「漢詩」が大好きです。無駄を省いたことばの簡潔さがいい、日本語で読んでも歯切れが良く、韻をふむ小気味良さが伝わってきていいのです。「望郷」の思いが込められているのも、日本人の「ふるさと回帰」につながり、太陽の光よりも「月光」を好み、「山の端の月」を望み見たい心情も、共感と共鳴を呼び起こして、うなずいてしまうのです。「早發白帝城」の「猿声」ですが、私は、中部地方の山懐の深い山村で生まれて育ちましたから、聞き覚えがあって、李白が聞いたように聞けるということも楽しめるわけです。

さて、洗面所の鏡に映る私の髪の毛も、少なくなり、細くなり、白くなっているのが歴然としております。父が、トゲ抜きで、白髪を抜いていたのを思い出しながら、父のあの心境がわかる年頃になったようです。でも、年を重ねるのは後退と衰退だけではないのです。『より輝いて生きたい!』という願いをなくなさないようにしていたいのです。イスラエル民族の著作の中に、『老人の前では起立を!』と、記されてあります。昨日も、バスに乗りますと、学生がスッと立ち上がって、席を譲ってくれました。最近は、会釈したり、『謝謝!』と言って好意を受けています。それでも、初めて席を譲られたときに、戸惑ったりしたのを思い出します。『俺って、そんな年に見えるの?』と思ったからです。とかく言われる中国と中国人ですが、《敬老の心》、《敬愛の情》、《母国への誇り》などには、感心させられております。

杜甫や李白の詩作の心境に共感を覚える私ですが、財布の中には、『俺にだって、こんな時代があったんだぜ!』という証に、中学入学の時に、兄に撮ってもらった一葉の写真をしまってあるのが、私のはかない老いへの抵抗でもあります。

(写真の上下は、百度による「詩仙」といわれた「李白」です)