「故郷」

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日本と関わりのある中国の文人は、何人もおいでです。児童文学者の「謝氷心」、日本語が堪能であった「周作人」、この周作人の兄で、中国では著名な作家の「魯迅」などの名を上げることができます。とくに魯迅は、「近代中国の文学の父」と呼ばれた逸材でした。この彼の作品に、「故郷」があります。短編ですが、彼の生まれ育った「紹興」についての思いを記しています。

その冒頭に、「わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中(さなか)で故郷に近づくに従って天気は小闇(おぐら)くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村(あれむら)があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。」とあるのは、「紹興」の街なのです。浙江省の古都で、そこは、長江のデルタ地帯に位置しているようです。まだ行ったことがありませんが、いつか訪ねて見たいと思っております。

前にも、魯迅の「藤野先生」について書きましたが、医者志望の彼が、魯迅は、医学の道を断念し、文筆の道に進路を転換していますが、そのきっかけとなったのが、藤野源九郎が見せた「幻燈(スライド)」でした。ある時、授業が早めに終わったのでしょうか、残りの時間に、日露戦争の様子を写したスライドが映写されたのです。魯迅は、この中で、スパイを働いたとして、日本軍に処刑される中国人と、それを、ぼんやりと見ている周囲の中国人の様子を見ました。魯迅は、この時の衝撃を、『愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料 と、その見物人になるだけはないか!』と、「吶喊(とっかん)」という作品の中で書き残しているのです。魯迅が感じたのは、医療よりも、まず同胞・中国人の「精神の改造」こそが最重要なことだと心に決めます。それで、医学校を退学し、帰国して文学の道に分け入るのです。

やはり、近代中国の文学界に綺羅星のように輝く魯迅の作品は、日本人の共感を得て、大変好まれています。この「故郷」は、中学三年の「国語」で取り上げられて、学ばれているほどの作品です。自分の故郷を思うのに、良い参考になるのではないでしょうか。魯迅の弟の周作人も優れた人物なのです。隣国中国の文学作品に触れるのも、友好の前進のために必要かと思う、「読書の秋」であります。

(写真は、「紹興」の一風景です)

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今朝、買い物当番で、無料送迎バスに乗って台湾系のスーパーマーケットに行ってきました。このバスは、店までの間の路肩で、手を上げて乗車の意思を示すと、止まって乗せてくれるのです。いつも満員なのですが、今朝は5人ほどしか乗客がいませんでいた。他のスーパーが特売でもしてるのでしょうか。この地域には、フランス系、イギリス系、アメリカ系と、国際色が豊かで、さながら激戦区の様相です。日系がないのが少々寂しいのですが。

買物を済ませて、外のベンチに座って、第二便の到着(このバスが帰りの便になるのです)を待っていました。朝の8時半過ぎでしたから、清掃をしている時間帯で、何人もの方がそれぞれに、担当の場所を掃除をしていました。若い男性が、コンクリートの三和土(たたき)になっているところに、掃除に使った汚水をまいていました。向こうの方では、五十前後の婦人従業員が、同じように汚水の入ったバケツを下げてきました。三和土に流すのかと思ったら、そうではなく、植木のところに行って、「水遣(みずや)り」をしたのです。さすが、若い男性と違って、水の再利用を賢くしていたわけです。

長女が幼稚園に行っていた時、五月頃だったでしょうか、農家の休耕地を借りて、サツマイモの苗を、お父さんやお母さんが助けながら、園児たちが植えたのです。田舎のおじいちゃんは農業をしているかも知れませんが、お父さんやお母さんは勤め人が多かったので、みんなは初めての経験だったようです。土をいじりたがらない子もいましたが、わが家は、家の近くに畑を借りて、「家庭菜園」をしてましたので、長女は慣れていたようです。あのような経験は好いことですね。人が、だんだん土に触れなくなってきているからです。

その時一人の若い先生が、側溝の流れから水をバケツに汲んで、鍬などの農具を洗っていました。そうしたら、その水を、先ほど植えたサツマイモの苗に、やさしく「水遣り」をしたのです。そうしましたら、一人の若いお父さんが、『さすが百姓の娘だ!』とからかい気味に言ったのです。それを聞いて、『そういうもんなのか!』と納得したのです。水を無駄に使ってきた私は、農家が、どんなに「水」を大切にするものなのだということを教えられたのです。

こちらでも、台所の水をバケツにとっておき、それをトイレに流したり、掃除に使ったりしておいでです。何となく、人の行動を眺めていて、昔のことを思い出した次第です。学問の中には、「行動学」というのがあるようですが、『人間って面白い、』と、つくづく思わされています。

(写真は、台湾系スーパーの店頭風景<台湾>です)

『何の肉だかわからねーぞ!』

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「場末」と呼ばれるのようなところ、例えば、東京の「山谷」、大阪の「釜ヶ崎」、横浜の「真金町」など、昼間は決して足を入れたくないような界隈(かいわい)ですが、薄暗くなった夕刻には、提灯に灯が灯って、怪しげな匂いがしてくるのです。小汚い食堂があって、お金の乏しかった学生の私は、そう言ったところで食事をしたことがあります。安くて、量も多くて、満腹できたのです。足繁く行った、いいえ連れて行か れたのが、新宿の西口の線路際にあった食堂街でした。中学生など、他には誰一人見当たらなかったのですが、大学生や高校生のあとについて行き、暖簾をくぐって、隣にちょこんと座って、おごってもらう機会が多くありました。

でも、美味かったのです。お腹が空いていて、家に帰るまで持たないないような中で食べたのですから、なんだって美味いはずです。「丼もの」を、よく食べたと思います。大学生が、「何の肉だかわからねーぞ?」と言っていました。そんなことを意に介さずに、パクパクと食べてしまいました。身長が一年に10cm以上も伸びる伸長期でしたから、あの時の食べ物が肉になり骨になっていたに違いありません。

今、「食品偽装」が、マスコミに叩かれて、実に多くのホテルやレストラン、スーパーや食堂の責任者が、「謝罪会見」をしています。何か、異常さを感じるのですが。もちろん赦されることではないのですが。あんな風に叩かれたら、「埃り高い」私などは、次から次へと、人間性の問題や過失が暴露されそうです。この「偽装」に問題は、日本の社会にある、「弱い体質」なのではないでしょうか。それを糾弾する「マスメディア」の「これでもかこれもか!」という攻勢、「徹底的に叩き出さずにはおかない!」という在り方、姿勢も、実に日本的だと思えてなりません。マスコミって怖いものだと思います。

新宿で食べた、あの「ドンブリもの」ですが、食べちゃった後、半世紀以上も昔のことを、「猫だ犬だ鼠だ!」と騒いで見ても、みんな厠に行ってしまったのです。「美味かった!」で好いのはないでしょうか。兎角、この世は嘘がまかり通っていて、嘘のままで真実が明かされないで、満足している人を眠りから起こさない方がいいのかも知れません。あれもこれも叩き出したら、日本国は成り行かなくなるに違いありません。知らない方が、恨まないでいいかも知れません。

小学生の頃、父が渋谷で、「子牛の肉」を食べさせてくれました。合い挽き肉のハンバーグを食べるくらいの牛肉体験しかなかったのに、「ドイツ料理」をご馳走してくれたのです。アメリカでも、アルゼンチンでも、東京でも、あれほど美味しかったビーフは、それ以来一度も食べていません。疑えば、あの肉だって「子牛」ではなく、圧力鍋で柔らかくした「成牛」だったかも知れません。温かくて、今でもジーンと胸にくる父の気持ちを思い出して、「美味かった!」のままが一番です。

(写真は、1952年当時の「渋谷駅・スクランブル交差点」です)

復興を!

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「天変地異」とは、デジタル大辞泉によりますと、「天変と地異。自然界に起こる異変。台風・地震・洪水など。」とあります。この数年、今まで聞いたことのないような、「ゲリラ豪雨」とか、「風呂桶をひっくり返したような豪雨」という言葉を、天気予報やニュースで耳にするようになりました。それも日本だけの気象情報ではなく、世界中から、ハリケーンとか竜巻、異常降雨とか日照りと言ったことが伝えられてきています。先週は、フィリピンが、台風30号の襲来で、甚大な被害を蒙ったとのニュースがありました。1000万もの被災者が、レイテ島などにあり、死者も2300人もあり、今後増えそうだと言っております。

生まれてから、これまでで一番驚いたのは、「東日本大震災」の「津波」でした。映像で見ただけですが、まさに、「海と波があれどよめく」と言った自然の猛威でした。その様子を見ていた私も、その津波を高台から、驚きの声をあげて見入っている人の顔も、「不安」で一杯にさせられてしまいました。これまでの時代は、雨の降る量も風速も、気温も気圧も、「制限」されていて、その垣根を超えることは、まずほとんどと言って好いほどなかったのではないでしょうか。大きな手が、阻止していたのです。それなのに、その手が引っ込められてしまっているかのように感じてなりません。島根県の西、山口県に隣接するところに、「津和野」という町があります。「小京都」と言われる街並みで名を馳せていますが、今夏は、その豪雨のニュースで有名になった町です。ほとんどニュースになったことのない町なのですが。

気象異常だけではなく、日本やアメリカやヨーロッパ諸国からのニュースを聞きますと、「発砲事件」、「殺人事件」が多発して、人心が乱れて、待ったり我慢したりできない現代人と特徴のように思えてなりません。「人の愛が冷えている 」のでしょうか。それが間接的な原因で、自然界の正常な運行を狂わせてしまっているようにも思えるのです。

静かな秋に、「木枯らしが吹き始めました!」とニュースを聞いた途端の「台風襲来」の衝撃のニュースでした。「最大瞬間風速105m」とは想像を絶する勢力です。ここも日本も、間もなく冬になりますが、どなたも来年が心配になってきているのではないでしょうか。ただ、受けるだけで、人間の強い願いも思いも、自然の猛威を防ぐためには、どうすることもできません。自然の力の前に平伏する以外にないのでしょうか。「恐ろしさのあまり気を失う」ようなことにならないように願う、悲しいニュースが、フィリピンから伝えられている十一月の中旬です。被災者のみなさんの健康と、被災地の復興をこの華南の空の下からお祈りいたします。

(写真は、「台風」の衛生写真です)

『ニッポンって好いなあ!』

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亡くなった父の名前が、「むねはる」でした。伊達政宗の「宗」を一字をもらています。その名前は、私たちへのメッセージでもあったのです。『男の子は<胸を張って>生きるんだぞ!』と、父のことを思う時に、そう語りかけられて育ったのです。それは、『誇りを持って生きるんだ!』 と言っているのです。『俺は金は残さないが、教育だけ受けさせてやる。あとは自分で生きていけ!』と常々言っていました。学校を出て、母校の教師の紹介で勤め始めた職場の長の家に、『一緒に挨拶に行こう!』と父が言って、一緒に出掛けたことがありました。父の力をかりずに、生き始めた私を、この方に任せたかったのです。父親って、そんなものなのかと思ったりしたのです。

関西圏の「大阪テレビ」で制作し、全国で放映されている番組に、「和風総本家」があります。日本の「誇るもの」、物や技術や精神を取材し、クイズ形式で進行して行くもので、とても興味深い番組です。番組のはじめに「豆助」という子犬の柴犬が、磨き上げた木板の廊下を滑りながらやってくる場面があります。仕草や表情が可愛くて、この豆助は人気者なのだそうです。時々、世界で使われている「日本製品」を追って、世界の街を取材のために出かけたりしていて、使い手の感謝、製作し提供する人たちの誇りと喜びの交流があって、感銘が与えられます。

また、毎回、「旬の魚」や「野菜」などが紹介され、その名の由来が語られ、国語の勉強にもなるのです。この場面が終わろうとするところで、『 ニッポンって好いなあ!』と感嘆する言葉が織り込まれています。それを聞きますと、『日本には、世界に誇るものがあるんだ!自信を持って生きて行くんだぞ!』と言われているように感じてしまうのです。もう一仕事やり終えて、第二の人生を生きている私ですが、青年たちが聞くように聞こえてくるのです。

先日、文化勲章を受けた高倉健が、『日本人に生まれて、本当によかったと、きょう思いました。』と、記者会見で語っていました。良いにつけ、そうでないにしても、この国に生まれ育ったことを感謝しているのでしょう。自分を産んでくれた父母の生まれ育った国ですし、二人の兄と一人の弟、さらに家内も、私たちに与えられた四人の子どもたちが生まれた国であるのです。偏屈で、独善的な愛国心は欲しくはありませんが、「母国への思い」を持つことは好いことではないでしょうか。野望が砕かれて、滅びそうになった時に、かつての敵国から多くの物資が寄贈されました。兄や弟や私も、「ララ物資」の「粉末ミルク」で育った世代です。美味しくはなかったのですが、あれで「背骨」が育ったのだと思い返しています。

決して自分だけで生きてきたのではありません。そんなことを考えながら、『日本って好いなあ!』、『日本人に生まれて好かった!』と言いたい気持ちの今朝です。

(写真は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」です)

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先週、近くのスーパーの果物売り場で、「柿」を見つけました。早速買ってみたのです。美味しいかどうかは、食べてみないと分からないので、二個ほど買って食べてみました。以前、たくさん買って帰ってきて、皮をむいて食べたら、渋かったことがあったので、ちょっと警戒して慎重だったのです。食べましたら、何と、日本にいる時、この季節に食べていた「富有柿」と同じ歯応えと甘みがあるではありませんか。美味しくて満足したので翌日は、15個ほど買って帰ってきました。こちらでは「硬柿」と表示されていて、驚くほどの安さでした。家内は、「百匁柿」を天日で干した、「干し柿」や「アンポ柿」が好きですが、私は歯応えのあるのが好きなのです。

子どもの頃に、農家の庭には、柿の木があって、たわわに実っているのが実に羨ましくて仕方がありませんでした。枇杷とか庭グミとか無花果(いちじく)もあって、「農家の子になりたい!」と本気で考えていたのです。美味しく柿を食べましたら、父が話してくれた、「石田三成」の逸話を思い出したのです。豊臣秀吉の家臣だった彼は、秀吉の死後、徳川家康の仕えるのですが、逆鱗に触れて京都の河原で処刑されることになったのです。ちょうど今頃の季節だったようで、最後に柿を食べるように進められるのです。ところがそれを固辞したのです。柿は体を冷やすので、三成は食べたことがなかったのです。もう間も無く斬首される「末期の柿」ですから、体を冷やすも何もないのです。ところが三成は、食べないまま果てたのです。

柿好きの私には信じられないことで、私が進められたら、この世の終わりに、三つも四つも美味しく食べてしまうに違いないと思うのです。しかし三成は死の間際まで、節を曲げることがなかったのです。「すごい信念の人だ!」と思ったことです。でも一方では、「柿が赤くなると、医者が青くなる」とも言われるように、柿は病人を回復させるほどに、滋養に富んでいるのですが、三成は、それを認めなかったのでしょうか。

冷蔵庫に入れておいた最後の柿を、今夕食べてしまいました。明日は、学校の帰りに、「柿探し」に出掛けてみようと思っている、「秋深し」…の月曜の宵であります。

(写真は、日本の「柿」です)

明日への夢

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先日亡くなった、私たちの時代のスター選手・川上哲治は、どんな選手だったかを<ウイキペディア>で調べてみました。そこで新発見をして、ちょっと驚いているところです。というには、子どもの頃に、『うわ、すげー!』と憧れて見上げていたプロ野球選手は、「大男」だと思っていたからです。もちろん、グランドに降りて、肩を並べたことなどありませんでしたが、意外だったのです。ここで、何人かのプロ野球選手の「生まれた年」、「身長」、「体重」をアップして見ましょう。

沢村栄治➡1917年ー174cmー71kg
川上哲治➡1920年ー174cmー75kg
大下弘➡1922年ー173cmー70kg
王貞治➡1940年ー177cmー79kg
前田智徳➡1971年ー176cmー80kg
イチロー➡1973年ー180cmー77kg
田中将大➡1988年ー188cmー93kg
廣田雅仁➡1944年ー173cmー72kg

という違いです。最後は誰かと言いますと、この私です。川上も沢村も大下も、私と変わらない体格だったことが新発見だったのです。前田やイチローは、私の二人の息子たちの世代で、私よりもはるかに背が高いので納得ですが。今年のプロ野球で、綺羅星のように輝いて、大活躍をした田中将大投手の大きさには驚かされてしまいます。これだけの体格でしたら、米球界でも引けを取らないでしょう。栄養事情の違いでしょうか、戦後のプロ野球で、川上と並んで、「青バット」でホームランを数多く打った、「大下弘」と、ほぼ同じ体格の自分のことを改めて考えて、「野球をやっておけば好かったのに!」と思ってしまいました。

十年ほど前に、中国の辺境の貧しい人たちに、生活物資や衣料品を持って来たことがありました。知人が、「大連」にいて、彼の元を訪ねたのです。一月の厳冬期でしたので、路面は降った雪が踏み固められて凍っていました。それで、街の中のショッピングセンターに、家内の滑り止めのついた靴を買うため行ったのです。そこで気付いたのは、東北地方の男性たちが、私より頭一つ、いえ一つ半ほど背が高いことでした。日本で、私の世代では、まあ少し背が高い部類だったでしょうか。ところが、中国の東北人の男性が、こんなに身長が高く、肩幅も広く、顔もキリッとして凛々しいのには驚かされたのです。

まあ人間の価値は、身長にはないことは分かっていますが、完全に見劣りがしてしまっていました。人は、際限なく大きくなるのでしょうか。馬上に雄々しいナポレオンも、旧ソ連のスターリンも、背が高くなかったそうですから、気にしないことにしておりますが。それでも、「英雄」のように憧れていた、大下や川上が「大男」に見えたのは、やはり、芋ばかり食べていた国民が、やっと「コロッケ」を食べ始め、みな自信喪失の時代に、「明日への夢」を与えてくれ、「輝いていた」からに違いありません。

(写真は、「青バット」の「大下弘」です)

漢語

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私たちが住む公寓が建てられたのは、七年ほど前だったようです。今日の自家用車ブームの到来を予見して、駐車場を作っておけば良かったのにと、他人事のように思うのですが、どうしても今、駐車スペースが不足しています。構内の道路上に、青空駐車をする車でひしめいているのが現状です。きっと車の所有者は、「今日は、どこに停めようか?」で頭が痛いのではないでしょうか。 どうも早い者勝ちの感が否めません。その反動でしょうか、もう乗らなくなった古自転車が、そこかしこに埃をかぶって放置されています。経済発展がもたらした今日日の様子です。

そんな車も、日本のメーカーのものが一番多く目につきます。高嶺の花のクラウンやレクサス、ベンツやアウディーやBMWなども結構あります。青空駐車をするような車ではないのに、高級車がかわいそうに見えます。大通りのロータリーに、昨日から信号が付きました。「こんな所で渋滞?」と思ったら、これまで無かった所に、信号が設置されていたわけです。これでハラハラが少なくなったのようです。じょじょに、渋滞などの対策が講じられてきているのはよいことです。

自動車の増加に伴って、ガソリンスタンドも多くなってきています。これを中国語では、「加油站」と表記しています。まさに「油」を「加える」ための「站(ステーション)」であるのです。この「加油」は、『頑張って!』という意味をもって使われています。「油」を注入することを日本語では「注油」といいますから、「激励」や「応援」の言葉としては理にかなった言葉だと思います。

中国語を少しずつ理解できるようになってきて、「漢語」がなかったら、日本語が成り立たないことを切に感じるのです。文字だけではなく、思想も文化も教育も法制も、これほど影響されている中国との近さを、今更ながらに思わされております。日本古来の「やまとことば」だけだったら、日本語はどうなっていたのだろうかと考えさせられてしまいます。「新聞」は、<ニュース>のことであり、「手紙」は、<鼻紙>のことだったりしますが、とても面白さを感じております。明治期に、ヨーロッパ言語が日本語に翻訳されたのですが、その翻訳語が、中国語の一部になってもいるわけで、「民主」、「主義」、「共和」という言葉は、その一例だそうです。

この何年もの間、学生のみなさんの「作文」を指導させていただいて、思うことが多くあります。これほどに深い交流をしてきた両国、DNA検査をするまでもなく、「民族の血」にしても、私たちは、純血種の「やまと民族」ではなく、漢民族や韓民族の血を受け継いでいるのを感じるのです。中国のみなさんは、日本人よりも、はるかに「外向的」な民ですが、時折り「はにかむ」素振りは、まさに日本人そのものです。大陸に育ったのと、島国に育ったにとの違いだけでしょうか。更なる「友好」の回復を心から願う晩秋の十一月です。

ツバキ

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公寓の庭の植え込みに植えられた「椿」の蕾が、このところ、膨らみを増してきました。暑さの中では咲かないで、木枯らしが吹く中に咲くので、「耐寒性植物」と呼ばれますから、「反骨の花」の様に感じるのです。中国の花だとばかり思っていたのですが、日本原産なのです。そうしますと、海を渡って大陸にやってきたことになります。

後輩が伊豆諸島の利島で働いていて、「遊びに来ませんか!」と誘われまして、子育て真っ最中に、家族で出かけたことがありました。船が着岸して、住宅のあるところまで、だらだら坂を登って行くと、「クサヤ」という魚の加工場がありました。これは、トビウオなどを開きにして、独特のタレに漬けて、天日干しをしたものなのです。だいぶ臭いのですが、実に美味しいのです。そこからすぐの所に、この方の家があり、高台まで歩いていくと、「椿畑」が山すそに広がっていました。

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熱海からだったと記憶しているのですが、そこから大島に船で行き、大島で乗り換えての船の旅でした。この島の主要産業は、この「椿」の種を原料にして絞り出した、「椿油」なのです。ほとんどの食料は、大島を経由して、運ばれてきていました。波止場の近くに泳げる場所があって、夏休みを利用して出かけましたので、防波堤で波の静かな内海で海水浴をして遊んだのです。

これと同じように秋から冬にかけて咲く花に「山茶花」があります。これも日本原産で、巽聖歌の作詞、渡辺茂の作曲による「たきび」の歌詞の中にでてきます。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
そうだん しながら あるいてく

そういえば、濡れた手が北風にさらされてできる、「しもやけ」とか「あかぎれ」の痛痒さを、子どもの頃に覚えたことがありましたが、手袋をする現代の子どもたちには、もう見られなくなったようです。母用の「椿油」をすり込んでもらったことがありました。椿の膨らんだ蕾を見ていたら、そんな昔を思い出しました。

(写真上は「椿」、下は「利島全景」です)

男の好い顔

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男として、『好い顔だ!』と言うのは、この「高倉健」ではないでしょうか。カメラの前に立った時に、演じている顔ではなく、八十二年間生きてきた化粧のない顔です。その顔で、『ほとんどは前科者をやりました。そういう役が多かったのにこんな勲章をいただいて、一生懸命やっていると、ちゃんと見ててもらえるんだなと素直に思いました。』と、<文化勲章>受賞後の記者会見で話していました。

半世紀前に、初めてこの人の映画を観た時に、『不器用だなあ!』と、正直に思いました。でも、「八九三(やくざ)」の悪(わる)を演じていても、真剣に生きている男の「真実」や「意気」、小説風にいうと、「男気」を感じたのです。六十年近くも、「人の夢の代役」を演じ続けたことへの褒賞を得たことになります。ダムや橋梁やビルを作ったり、工業機械作ったりはしなかったのですが、「義理」や「人情」の冷えた社会に、人の「心情」を表現したことにも「文化的な意義」があるのでしょうか。

1976年に、日本で「君よ憤怒の川を渉れ」という映画が上映されました。濡れ衣を着せられる、地検の検事である、「杜丘冬人」を、高倉健が演じたものでした。この映画が、文革後の1979年に、中国で上映されたのです。驚くことに、数億人が見たと言われるほどの空前の人気を博したと言われています。それででしょうか、中国に来ました時に、『杜丘(duqiu)を知ってるか?』と聞かれて、何を聞かれたのか皆目分からなかったのです。その人は、若い時に、この映画を観た人だったのです。高倉健の名前よりも、主人公の「杜丘冬人」の名前の方が有名だったほどです。この映画を見た青年の一人が、「紅いコウリャン」を監督した「張芸謀」だったのです。彼を映画の世界に誘ったのが高倉健でした。彼の夢は、『いつか高倉健と・・・・!』とで、2006年に、高倉健の主演で「単騎、千里を走る。」を監督し、夢を果たしたのです。

中国の五十代以上では、圧倒的な知名度がある日本人が、この高倉健なのです。きっと、大きな活字で、文化勲章の受賞が報じられることでしょう。スクリーンを通してでも、日中友好が前進したことの強い証左であります。健さん、受賞おめでとうございます。

(写真は、文化の日に受賞した後の会見の模様<産経新聞>です)