我孫子

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山手線の日暮里から、千葉、茨城、福島、宮城の各県を結ぶJRの常磐線があります。昨日の日曜日、その沿線の「我孫子」まで家内と一緒に、中国で出会った方と、その友人のみなさんを訪ねることができました。話をしたり、みなさんがお作りになられたもので食事会まで開いて下さいました。このご婦人は、私たちが住んでいます街にある大学で、長年日本語教師をされたことがあり、教え子に招かれておいでになられた時に、何度か、私たちを訪ねてくださったのです。学生に慕われていて、日本を訪ねる学生のみなさんのお世話をなさり、交流を続けている、<親中派>です。一昨年、十人ほどのグループで中国旅行の途中に、我が家にも寄ってくださったのです。その時は、お茶と手作りの小さなお菓子でおもてなしをしただけでしたが、昨日は、大ご馳走になりました。

この常磐線の沿線の「馬橋」という駅から、「流山電鉄」という私鉄が走っていまして、その終点駅にある事務所で、次兄が働きながら、都内の大学に通っていたのです。小遣いをもらいに、何度も出かけたことがあります。そのことを、全く忘れていましたので、駅名を見て思い出したわけです。ある時、兄の知り合いの年配の方の宴席に連れて行ってもらって、ご馳走になったことがあって、『いいのかな?』と思いながらお腹をイッパイにしたことがあったのです。豊かな農家のおじいさんだったように記憶しています。

その頃の車両は、ローカル線だからでしょうか、ずいぶん古かったと思いまます。ところが昨日、何十年ぶりに乗った電車は、小田急、東京メトロ、JRの相互乗り入れの新型車でした。息子の住む家の最寄り駅から、東横線と副都心線直通電車で、明治神宮前で、千代田線に乗り換えて、我孫子まで一本で行くことができたのです。東京近郊に住む人たちの通勤や通学、買い物や訪問などで利用される人にとっては、驚くほどに便利になっているのが、改めて分かったのです。乗り換えが少なくて、少々余裕で乗り継ぎましたのに、1時間半ほどの電車の旅は、実に快適でした。

昨日の食事の折に、一昨年、私たちの家を訪ねてくださった時の様子を、その時の旅行のリーダーの方が、その印象記を日記に残しておいでだったのです。その日記を、ダウンロードされ印刷して読んでお話しされたのです。その一日にあったことを、公私にわたって、翌日の早朝に日記に記しておられるのだそうです。ついぞ、そのようなことをしたことのない私は、『あれは、何時のことだったっけ?』とうる覚えなのです。ところが二年前の三月の訪問の期日と時間と共に、正確に書き残しておられる「律儀さ」に驚かされてしまいました。お聞きしながら、『そんなこと、話したんだ!』と思ったりしたのです。

<親中派>の日本語教師のご婦人の影響でしょうか、中国旅行をされたからでしょうか、みなさんが<親中派>になっておられ、来日されている中国からのみなさんとの出会いもあるようです。一般民衆は、中日双方に良い印象が溢れているようです。昨日の我孫子のように!市内の名所、自然が大事に保存されている「手賀沼」に案内してくださり、日本唯一の「鳥の博物館」、「手賀沼親水広場水の館」に案内してくださいました。軽い疲れを感じながら夕闇の頭頭に、幾つものお土産を手にして降り立ちましたら、日曜日の有名な駅の周りは、ファッション誌から出て来たような若者たちで溢れていました。

(写真は、我孫子にある「手賀沼」です)

リケジョ

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「リケジョの新星」と言うことばを、新聞で読みました。「万能細胞」を作ることに成功した、小保方晴子さんのことです。つまり、「理系女子」のことなのです。IPS細胞研究でノーベル賞を受賞した山中教授に勝るとも劣らない研究をして、脚光を浴びている新鋭の研究者です。これが医学の難病の治療に用いられるとしたら、素晴らしいことになります。科学的な発明や発見は、悪用されかねませんが、人の幸福につながるとするなら、大いに奨励されるべきことになります。

「女子力」が認められ、男女の差別や区別なく、高く評価されることは、21世紀には相応しいことであります。『女性の管理職が欧米に比べて極めて少ない!』と言われてきた日本の社会で、科学の世界で、こう言った研究成果が正しく評価されたことは、女性の「母」から生まれた男として、大いに喜びたいのです。この研究者が、ユニホーム、立場に象徴の制服を身にまとっていないことに、何となく「反骨」を感じたのは私だけでしょうか。母がよく着て、家内も使っていたことがあって、最近は見られなくなった「割烹着(かっぽうぎ)」を、この方が着ていることに庶民性を感じて微笑ましいのです。

昨日、兄の家に向かう途中、夕方のラッシュを、一人の女性がさばいていました。制服からではなく、歩き方を見て、すぐに「警察官」だと認めることができました。『私は国家権力を持った、逮捕権のある者で、吹く笛ひとつで、車を止めさせ、発進させたりできるのよ!』といった声にならない声が聞こえてきました。実を言うと、普通の女性には見られない態度の大きさでした。悪意で言っているのではなく、職務や立場から来る確信なのでしょうか。何度か笛でストップさせられた者の「僻(ひが) み」からかも知れません。立場のない者は、官憲や役人を、そいう風に見るのでしょうか。そういえば昔の役人や警察官は威張っていて、尊大な口を聞いていました。だから、『役人なんかには絶対にならない!』と心に決めていました。いえ、なれなかったのですが。

一時、<理系>が進学先として好まれなかったのですが、最近は変わったのでしょうか。「割烹着の晴子さん」に啓発されて、「リケジョ」が増えて行くかも知れませんね。秀でた女性が、ますます活躍したらいいと思っております。また年配者が研究室を牛耳っているのではなく、若者たちが、縦横無尽に活躍してほしいものですね。子に若き研究者は、優しく見守り支持してくれた研究者の先輩に、感謝の意を表していたのが、よかったですね。一月末の幸先の良いニュースでした。この後の研究をそっと見守っていきたいものです。

(イラストは、小保方春子さんです)

お祝い

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<富士山の隣りに夕日が見られる部屋>を、昨日は訪ねました。家の玄関からは、奥多摩も秩父も丹沢も遠望でき、スカイツリーも見えるのだそうです。学校時代に山が好きで、山仲間とよく歩いた山々を眺めながら、余生を生きて行くのでしょう。私の弟は、好い買い物をしたのです。昨年11月に、自分の誕生日に引越しを済ませたと言っていました。形あるものを、子どもたちや孫に残すことは、良いことだと思いました。長く教師として教育に携わって、心血を捧げてきた彼の永年の汗の結晶の有形の一つなのです。

新築でしょうか、転居になるのでしょうか、その「お祝い」に出掛けたわけです。駅前のスーパーで食材を買って、そこまで迎えに来てくれた弟の車で、連れて行ってもらいました。その11階の玄関で、『あそこに見えるのが・・・』と、その眺望を解説してくれたのです。家内が作ったのは、少々、季節遅れの「お雑煮」でした。彼には珍しくないのですが、『美味しい!』と三人で食べました。帰国する私たちに、『これお土産に持って帰ってください!』と友人が家に届けてくれた、高級中華食材の<干し鮑>入りでした。

奥さんを病気で亡くして十五年、男手一つで三人の子を育ててきました。仕事帰りに食材を買って、賄いをし続けての年月でした。実に良くやってきています。再婚の話も多くあったのですが、顔を縦に振らずに、これまで一人で生きてきたのです。一昨年召された母が、末の息子で可愛いのでしょうか、元気な頃には、針仕事やおかず作りとか、何かと手助けをしてきたようです。今は故あって、可愛くて仕方がないと相好を崩し、また厳しく孫の世話をやいています。学校から戻って来た孫ベーに『はい、ピアノ!』と言って練習をさせていました。第二回目の<子育て>でしょうか。そのピアノの上に、四人兄弟の嫁の中で、最美人の義妹の微笑んでいる写真が置いてありました。退職後も、同じ職場に一室、一つの机を与えられ、週三日ほど出かけては、後輩の相談にのったり、学生の世話をしているのです。

この家の一間は、実は、家内と私の帰国時のための<宿舎>なのだそうです。車も蔵書も家も所帯道具も、一切を処分して出掛けた「レカブ人」、旅人然として生きている私たちのために、引き上げて来た時に住むことも考えていてくれているのです。そう思っていてくれる彼の気持ちが嬉しくて、どんなに励まされていることでしょうか。そう言えば、小さい頃に、父に叱られて、家から追い出されると、一緒に出てくれ、一緒に泣いてくれたのが、この弟なのです。六十年経っても、意地悪でいじめっ子だった兄貴の私なのに、同じ気持ちを向けていてくれるのです。私の愛読書に、こんなことが書いてあります。

「友はどんな時にも愛するものだ。
兄弟は、苦しみを分け合うために生まれる。」

『夕方になったら、賢ちゃんのところに行こう!』との彼の提案で、彼の孫べーと私たちで、次兄を訪問しました。『今晩はすき焼きだよ!』と言って義姉がご馳走してくれました。お腹をお肉や焼き豆腐、そして愛とで満たしました。弟は、「保護者会」のために早めに帰り、私たちは兄に駅まで送ってもらって帰ったのです。有形、無形の「愛」があるのですね。そんな満たされた一日でした。駅前のコンビニで、<ミートソース・スパゲッティー>を息子に買った宵でした。

(写真は、「奥多摩連峰」です)

基点

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どこの国にも、「基点」となる中心地があるのでしょう。アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスに行きました時に、大統領府の近くに「オベリスク」と言われる塔を見上げたのです。それは「記念碑」の一つで、67mの高さがありました。その旅の帰途、家内の上の兄が長く暮らしているブラジルを訪ねました。その首都のサンパウロの中心地にも、「オベリスク」があって、「ここを起点に、ブラジル全土に、道路網が広がっているのです!」と聞きました。

そうしますと、ラテン系の国によく見られる、この「オベリスク」の日本版というのは、「日本橋」ではないでしょうか。「江戸五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道)」の基点で、明治維新以降は、日本の「道路元標」が置かれているからです。あの弥次さん喜多さんが東海道を歩いた、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の旅は、この「日本橋」が出発点でした。

1
お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す
こちやえ こちやえ
2
恋の品川女郎衆に 袖ひかれ
のりかけお馬の鈴が森
こちや 大森細工の松茸を
3
六郷あたりで川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ
(以下省略)

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父の会社が、この日本橋にありました。何度か行きましたが、首都高速道路ができてからは、高架道路の下に隠されてしまいました。東京の町の最も大切にしなければならない場所であるのに、そんな風にせざるを得なかった「近代化」や「便利さ」というもには、文化や伝統や風情の保護の仇敵なのでしょう。曙を遮ってしまうコンクリートの橋脚は、弥次喜多の旅立ちには似合わないからです。そういえば、私の同級生が数人で、日本橋から京都まで、空手着に高下駄を履いて上洛したことがあったのを思い出しました。また、ブラジルに行きました時に、サンパウロの空港に迎えてくれた義兄も、人生の旅を終えて、祖国に帰ることなく、天のふるさとに帰って行ってしまいました。

(写真上は、ブエノスアイレスの「オベリスク」、下は「日本橋」の夜景です)

東京音頭

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「東京の市民が誰でも歌えるような歌を作ろう!」ということで、1933年に、元歌から、西条八十の作詞、中山晋平の作曲で作られたのが「東京音頭」でした。

ハア 踊り踊るなら
チョイト 東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の真中で サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア 花は上野よ
チョイト 柳は銀座 ヨイヨイ
月は隅田の 月は隅田の屋形船 サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア おらが丸の内
チョイト 東京の波止場 ヨイヨイ
雁と燕の 雁と燕の上り下り サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア 西に富士ケ嶺
チョイト 東に筑波 ヨイヨイ
音頭とる子は 音頭とる子は真中に サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア 昔ゃ武蔵野
チョイト 芒の都 ヨイヨイ
今はネオンの 今はネオンの灯の都 サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

明るくて、リズミカルで、さらに日本伝統の民謡で、幼児から老人に至るまで歌えた、あの時代を反映した歌です。ある時、私の義母が、突然、この歌を歌い出したのです。少々痴呆症が出てきた頃だったでしょうか。手を打ちながら、歌い出したのです。ついぞ聞いたことのない歌と歌声に、家内も私も目を丸くして驚いてしまいました。青年期だったのでしょう、きっと懐かしく楽しい出来事があって、当時流行っていた、この歌の歌詞とメロディーと共に、記憶の中に組み込まれていたのでしょうか。ふと思い出して、唇から突いて出てきたに違いありません。

長生きして、子どもや孫たちが、「ジイジが変な歌を歌い始めたよ!」という<ボケ期>が、やがて来ることでしょう。健全な歌でしたら無害ですが、戯れ歌を歌っていた過去のある私ですから、自分の本性が露わにされてしまうのでしょうか。恥ずかしさは本人には、もうないのでしょうけど、子や孫には恥ずかしい思いはさせたくないものです。「ジイジはどう生きて来たのだろうか?」と訝しがる彼らの顔が見えてくるようです。まあ、そんなことにならないように、今を、きちんと生きていかなければなりません。そんな心配までするようになったことが、信じられません。年齢を重ねることにも、素晴らしいことがありますので、ご心配なく。

(写真は、地下鉄の「銀座駅」です)

都バス

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誇り高い、「ゴールデン免許所持者」となって、もう相当な年数になっています。実に名誉なことですが、ある人に言わせますと、「捕まらないだけのこと!」なのだそうです。日本を離れて、今夏で満八年、九月からは<九年>に入るのですが、この間、運転をしたのは、ほんのわずかな時間しかないのです。捕まるには運転時間を要しますから、ネズミ捕りにかかりようがないわけです。それで、優良運転者なわけです。先週も、レンタカーで出掛けることも考えたのですが、運転感覚を戻すためには、数日の慣らし運転をしなければならないのですから、首都圏や東名を走ったら、多くの運転手に迷惑をかけるにちがいありませんので、やめたのです。電車とバス、今日は病院まで奮発してタクシーに乗ってしまいました。さすがの私たちも、帰り道は、人民元換算の「50元」のタクシーを節約して、二人で「18元」の都営バスに乗り、そこからスーパーに寄って買い物をし、歩いて帰ってきたのです。

あれば便利、なくても大丈夫なのが都心で生活する者の強みなのでしょうか。バスにタクシー、地下鉄もJRも私鉄もあって、これで息子の自転車がありますから、自家用車など不要なのです。今夕は、都バスの運転席の左の一番前の一人席に座って、小学校の低学年の子どものように、また田舎者のようにじっと運転ぶりを観察していました。ハンドル操作、ブレーキの踏み方、カーブのスピード加減、両脇を走る車への気配り、右折時の対向車の通り過ぎるのを待っている様子、信号遵守、歩行者や自転車へのいたわり、どれ一つ取っても、素晴らしい運転技術でした。今更ながら驚かされてしまったのです。けっして苛立ったり、怒ったり短気を起こしたりしません。五十代でしょうか、職業運転手の在り方、生き方のモデルのようでした。自己を律して、感情を穏やかに保てるから、こう言った仕事を長年し続けられるのでしょう。自分は「失格だ!」と思ったのです。

私の住んでいる華南の街の公共バスの運転手のみなさんの運転テクニックは抜群に優れています。横から近付いてくる電動自転車を、ちょっとしたハンドルさばきで交わしてしまうのです。すんでのところ、衝突寸前数十センチほどで、急停車ができます。大ハンドルを使って前の車の前に出ることもしています。ところが乗客は、急ブレーキと急ハンドルで、前後左右に大きく振られ、揺すられて、踏ん張ったり、しがみついたり、家内などは横転しそうで、座ってるおじさんの膝の上に飛ばされて、ちょこんと座ったりなのです。上手ですが、みんなのことをあまり考えていません。私は、今日の夕方、あの都バスの運転手を観察していて、こう考えたのです。彼にお願いをして、「日本的運転技法講習会」の実演講師になってもらおうと真剣に考えたのです。

天津でバスに乗っていた時のことです。バス停かと思ったら、「包子」を売っている店の前にバズを止め、美味しくて贔屓なのでしょう、その「包子」を買いに行ってしまいました。乗客は、文句ひとつ言わないで、そんな彼を眺めていました。店から袋を下げ、ひとつを食べながら戻って来て、運転を再開したのです。「えっ、こんなのありなの?」と思ったことでした。「礼」を教えてもらった国の「礼」の回復のために、ぜひ開催したいものだと、東京の空の下で思っている一月末の夕べです。

(写真は、東京の「都バス」です)

あの時があって

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記憶の中には、「におい」もあるに違いありません。あの時の、あの場所の、あのにおいです。今回、訪ねた街に、電車から降り立った途端、自分の記憶の中にあるのと同じにおいを、「あっ、あの時の匂いだ!」と感じたのです。駅の横にあった食堂からでも、ガソリンスタンドや、喫茶店からのにおいではありませんでした。

1970年に、初めて、この地域を訪ねたのです。同じ一月だったでしょうか、研修会が開かれて、参加したのです。ニューヨークの会社から講師を迎えて、持たれたものでした。「遠江(とおとうみ)」と呼ばれてきた静岡県西部の街です。遠州灘から吹いてくる潮風、真っ青に澄み切った空、まっ帰路に熟したみかん、お茶の香が何となくしてくる街で、四日間ほど一緒に寝泊まりをして学んだり、話し合ったりしました。

当時は、公民館や結婚式場などを借りて、セミナーが持たれていました。経費を節約しなければならなかった中小企業だったからです。それはそれなりに、懐かしく、しかも充実し、習得したことも驚くほどのものがあったのです。あの時の講師は、東南アジアやアフリカの支社にも出かけて、同じようなセミナーを持っていたようです。ボクサーの過去を持った異色のビジネスマンだったのです。あの頃の情景が、においと共によみがえってきたのです。

若かった私たちは、夢を語り合ったり、将来を自分の心中に思い描いたり、結婚や家庭などと言った個人的なことにも思いを向けていたのです。四十数年も前のことですが、あの時があって今があるのだということが分かります。先週末、その頃の同僚の家を訪ねたわけです。「朋(とも)あり、遠方より来たる。また楽しからずや!」とは、「論語」にある一節だったでしょうか。孔子も、友を歓迎し、友と語らうことを楽しんだのです。彼と夫人も、私たちの来訪を喜んでくださったのです。こんな嬉しいことはありません。生きているって素晴らしいことですね!

(写真は、「温州みかん」です)

旧交を温めて

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静岡県の西に、掛川と新所原を結ぶ、第三セクターの「天竜浜名湖鉄道」があります。かつては、浜名湖の北側を通る旧国鉄のローカル線でした。この土曜日に、家内と二人で、品川から新幹線の「こだま」に乗車して、掛川で降りました。そこから、この路線の電車(ジーゼル車だったでしょうか)に乗り継いで「天竜二俣駅」まで、電車の旅をしたのです。以前の旅は、車でしかしませんでしたが、今は、電車やバス利用になっております。

一両編成で、土曜日の午後でしたから、クラブ活動帰りの学生や小さな子ども連れのお母さんが前の席に座っていました。家内は、自分の孫を見るように、目尻を下げて、三人の男の子のすることを見ていました。一番下はヨチヨチ歩き、次男は幼稚園児、上の子は小四くらいだったでしょうか、若いお母さんは、怒鳴ることもキリキリすることもなく、たんたんと世話をしていたのです。次男の行動は、「やっぱり、」で一番面白かったのです。

ここに、古くからの友人夫妻がいて訪ねたわけです。<旧交を温めた>ということになるでしょうか。彼の家に泊めて頂くつもりでしたが、久しぶりに帰国した私たちにと言うことからでしょうか、隣町にある、森林公園の中にある宿泊施設に泊めて頂いたのです。静かで景観がよい宿で、ゆっくりと旅の衣を解くことができました。翌日の昨日は、彼らの友人たちとも交わることができたのです。二十代に出会ったのですから、ずいぶんと長い交流になります。お互いに、髪の毛は白くなって外貌は変わっていますが、生き方や情熱や目の清さは変わらないでいたのです。さざ波のように懐かしさがこみ上げてまいりました。お昼には、息子がお世話になった方の奥様の手作りの「麻婆豆腐」をご馳走になり、この地域で有名なお茶や羊羹や源氏パイなどのお土産を頂いてしまいました。

この方たちもアメリカ人の企業家と一緒に働いてきたのです。その企業家は、私が一緒に働いた方の親しい友人の一人だったのです。そういうことから出会って、よく行き来してきたわけです。もう、私たちを世話してくれた方たちは、召されててしまいましたが、このことも、また懐かしい思い出話に、花を添えてくれるわけです。訪ねたのは、諏訪湖から流れ下る天竜川が二俣になっている地形に位置している街ですが、ついでくださった緑茶を飲み、みかんを食べますと、そう言った出会いや交わりをした日々が、昨日のことのように思い出されてきました。日本が近代化し豊かになって、家並みも道路も綺麗になってしまい、古い日本の佇まいを見ることができなくなって、ずいぶんと寂しい思いをするのですが、旧友に再会して、その心が変わっていないこを知ることは、大きな慰めでした。

昨日の夕方、掛川の駅まで車で送って頂きました。道道四人で、それぞれの今を語らいながら、これからを覚え合えることは、嬉しいことと感謝した次第です。彼の事務所の玄関には、奥様が生けられた「ロウバイ(蝋梅)」の香りが満ちて、私たちの訪問を歓迎されているようでしたが、その残り香が、車内に漂っているかのようでした。駅頭で、奥様と家内はハグを交わし、彼と私は握手して再会を願い合いました。

(写真は、「蝋梅」の花です)

靴音

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今回の帰国の目的の一つは、家内の病院での診察にための通院でもあります。この数日、家内の贔屓の病院、広尾にある日赤医療センターに通院のお供をしております。何度も大怪我で入院したり、リハビリでの通院の私のお供をしてくれた家内のために、謝礼の気持ちで、手を取って同伴しております。数年前に、救急搬送してもらった板橋の病院で、胆嚢摘出手術をした彼女の術後の診察や、「緑内障の疑いがあります!」と、駅ビルで診断された再診察、中国の市立病院に入院中に、医師に言われた脳神経科系の診察のためです。軽い風邪ひきの他は、4回の出産入院しか病院や病気との関わりしかなかった家内ですが、念のための診察に出かけております。「病院ずくめ」のこの頃です。

昨日は、脳神経外科と眼科にまいりました。眼科では、「緑内障の疑いはありません!」との診断でした。最近では、一人の医者の診断だけでなく、<セカンドオピニオン>を聞くことが勧められていますので、良い結果を得られて安心したようです。彼女の診察のために、廊下の椅子に座って、二時間半ほど待ちました。時をあがなうために、ノートとペンを持参しましたので、依頼されている講演の原稿書きをしていました。結構充実した時間だったのです。私の前を、医者や看護婦、医療検査や事務の職員、掃除をされる方、患者と付き添いの家族など、ひっきりなしに右左に行き来していました。歩き方や靴音が、実に個性的で様々なのを、今更のように興味津々に感じたのです。

「自分は、どんな靴音を立てながら歩いているのだろうか?」と気になり始めたのです。すぐに立って歩いてみようと思いましたが、家内が診察を終えて出てきましたので、会計までの廊下を、自分の靴音に聞き耳を立ててみたのです。忍者のような忍び足だと思って期待したのですが、履き古した靴音が、結構高かったのは意外でした。椅子に座っている方には、きっとそう聞こえていたのでしょうか。

ずいぶんと長く歩いて来ました。「這えば立て、立てば歩め!」と両親に期待され、激励されて歩き始めて、昨日は病院の廊下を歩いている自分が、何と無く不思議な感覚に捉えられていました。意気揚々と小躍りしながら、また意気消沈しながら歩いた日があります。父に叱られて家を追い出されて、寝ぐらを探し歩いたこともありました。そういえば、母を背負って通院のお供もして歩いたことだって思い出されます。これから、どれほどを歩数を積み重ねるのでしょうか。

今日は、家内と一緒に、何度もお邪魔した静岡の友人のところに行くことにしています。東海道をテクテクと「草鞋ばき」で歩いて行けたら面白いのですが、二十一世紀の私は、娘に買ってもらったお気に入りの靴を履いて、新幹線の「こだま」に、品川から乗る予定でおります。夕方までに着くつもりですが、車中で駅弁を食べてみようと思っているところです。そんなことを思っていたら、煙をはきながらせわしなく車輪を回していた蒸気機関車の「ポッポー!」の音が聞こえてきそうな、朝ぼらけの床の中であります。

(写真は、「草鞋(わらじ)」です)

大寒

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あれこれと考えた末、『蕎麦を食べたい!』ということになって、長女と次男と四人で、お昼に出かけました。大通りからちょっと奥まった路地裏に、「生蕎麦」と染めた暖簾(のれん)のかかった店がありました。路地に入ったとたん、あの出し汁の醤油の匂いが、立ち込めていて、そこはかとなく懐かしさを感じたのです。『お母さんは?』、『お父さんは?』、『けいちゃんは?』で、天ぷらそば、うどんすき、カツ丼、おごってくれる長女は、うな重とかき揚げそばを注文したのです。うな重はみんなで一味づつとのことでした。

『雅、蕎麦を喰いに行こう!』と、よく父に誘われたり、電話のない頃には、自転車にまたがって店に注文しに行かされました。駅前と、逆方向の坂を登りつめた都営住宅の前とに、二軒あったのです。父が好きだったのが、「カレー南蛮」でした。『ボクはザル!』、『俺は卵とじ!』と母以外、我々四人兄弟が口々に食べたいもにを言っていたでしょうか。決まって母は、『何でもいいわ!』でした。まだ時間の流れが<のたり>としていた時代の、子どもの頃が懐かしく思い出されてしまいました。店主が、片手ハンドルで左肩に、注文品全てを盆にのせて自転車で配達してくれました。汁一滴こぼすことのない器用さは圧巻でした。

気前のよかった私の父に似ている長女が、この頃は「仕切り役」になっています。我が家は、こう言った食事時には、「突っつき合い」になってしまうのです。これって非難し合うのではなくシェアーです。『それ、どんな味?』と言っては、食べ比べして、『次は、これにしよう!』と言うわけです。これは、父親の私がし始めて、家族の間で伝染してしまった<悪習慣>の一つなのです。昨日も、テーブルの上を丼が行き巡っていました。久しぶりの日本蕎麦とうどんと鰻を、汗をかきながら食べて、『おいしかったです!』、『ごちそうさま!』と店主に、それぞれ言って店を出たのでした。

「大寒」の頬に当たる路地裏の風が心地よかったのです。『甘いもを食べようか!』と言って、ケーキ屋に入ってコーヒーと紅茶とで、<別腹>を満たしたのです。息子は、『仕事!』と言って先に家に帰って行きましたので、彼にショートケーキを土産に買って帰りました。美味しい日本の一日を、家族で過ごせて幸せを満喫させられた一日でした。長男と次女の家族がいなかったのは、ちょっと物足りなかったのですが。幸せの日本でもあります。

(写真は、「山茶花(さざんか)」です)