江戸の街には、「木戸」があって、夜間の市中の出入りを禁止していました。それは地区ごとに、街中の夜間の江戸の街の治安を守る目的だったのです。小学校で学んだ、「出女入り鉄砲」の取り締まりのためでした。諸大名の謀反を未然に防ぐために、江戸への鉄砲類の持ち込みの禁止、江戸に留め置いた大名の妻子が城外に出ることを禁止するのが主だったようです。高輪(東海道)、四谷(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光街道)などに「大木戸」を設けたのです。
この栃木宿にも、「木戸」があって、巴波川の幸来橋(以前は念仏橋と呼んでいました)があり、その近くに西木戸があったそうです。その西側の巴波川の河岸に公園があって、その真ん中ほどに、小塚がありまあう。祠のようなものがあって、『何だろう?』と思った箇所ですが、それは岐阜出身の西川謙之助の供養塔だとあります。この付近で、慶応3年に、宿場の出入りの箇所、「西木戸」の近くで、斬り合いがあって、その被害者なのです。
物騒な時代があり、二度の世界大戦があり、戦争に負けて、与えられた平和な国ができて、感謝ですが、また、きな臭い匂いが、世界のあちこちで立ち込み始めています。私たちが過ごした華南の街の住宅には、「木戸」ではなく、どこにも頑丈な門扉がありました。住宅街の巡りは鳥のケージのように、鉄製の高い囲いがあって、鉄条網の箇所もあったりで、正門と裏門がありました。その門には、番をする係員たちが、出入りする人や車を見張っていたのです。
よその住宅を訪ねると、初めての来場者だと分かるのでしょう、呼び止められて、誰を訪ね、どんな用かなどと職務筆問をされたのです。檻の中に住み、勤めた学校も同じで、鉄製の網や柵の中に置かれるのです。
帰国してからの今の住宅は、鉄筋六階建てですが、どこにも鉄柵も木戸も監視所もありませんが、残念なことには、最近では防犯用の監視カメラは作動しているようです。だんだんと、お隣の国と同じ監視社会になって、何か居心地が悪くなってきてります。
移動のための交通機関を利用するためにチケットを買うには、隣国では身份证shenfenzheng(身分証明書)なしには買えませんが、ここでは、どこへも自由に行き来できます。でも、監視カメラが増えて、きっと顔認識されて、誰がどこにいて、今どこに向かって移動中と言った事が、ITシステムによって分かる時代が、間もなく私たちの国でもできそうです。
でも行動や生き方に、疾しさがなければ、恐れたり、恥じたりする必要はなさそうです。『ああ昔は良かった!』などと言っても、もう手遅れでしょうか。まあ感謝を忘れないで、一日一日、一週一週、一年一年と生きていけば好いのですね。
(江戸四谷の「大木戸」跡です)
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