この不思議さよ

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 『 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19:5~6)』

 新しい年を迎え、晴天続きで毎朝、東の空から、陽がの昇って参ります。これまで雲や嵐で見えない日はありましたが、私の78年の生涯で、一日も欠かさず、この地を輝かせ、暖かめ続けてくれています。それでも今朝方、雨が降ったようで、地面が濡れていました。

 これまで学んだ天体の有り様は、不思議でならなかったのです。驚くべき不思議さに圧倒され続けてきました。つっかえ棒も、フックもなしで、中天に浮いている事実は、信じることができませんでした。

 太陽は動かず、地球が動き、それでも天文学者は、太陽も公転して、宇宙空間を旅していると言うのには、この小さな頭では推し量ることができません。聖書は、「喜び走る」と言う、喜びの感情を太陽が持つ気とを言っています。のです。地球は、時速1600kmで自転しながら、その太陽の周りを10km/hで公転していることが分かっています。

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 まだ車を運転していた頃、無謀にも140km/hで運転記録を出した覚えがありますが、あの速度感覚の怖さを思い出して、それがどれほどの速度だったのかを思うと、地球の動く速度を感じられないことが不思議でなりません。

 物理では、物が動くには、「動力」が必要とされていますが、地球を動かしている機関が、南米に行っても、中国に行っても、シンガポールに行っても、地上のどこにもありません。太陽然りで、定まった「走路」を、ハンドルなしでまったくぶれないで動くのです。

 「果て」のない広大な宇宙なのだと言うこと、この詩編19篇は、ダビデの牧童の経験をもって、被造の世界を謳っています。ダビデは、陽の光が、冷えた自分の身体を温めてくれるのを思い返しているのでしょう。瞬間に過ぎない「今」の時を、「永遠」へと思いを広げていますし、創造者の目からも見ているのです。これほどの宇宙を、自分も含めて、存在しうるのは、神以外には考えられなかったのです。

『太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。  あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。 (イザヤ60:1920)』が

 この私の思いの中では、太陽系の規模だけでも、いえ地球が自転し、公転し、存在していること自体が、不思議でならないのです。ところが聖書は、太陽がもたらす恩恵以上、「永遠の光」、「光栄」である、創造主、神さまのおいでのことを謳うのです。この神さまの「恩寵」は、「あなたの嘆き悲しむ日が終わ」らせてくださるのだと言うのです。

 今朝は、太陽が昇ってきますと、−3℃の栃木の地をじょじょに温めてくれ、太陽の光の入り込む部屋は、もう暖房がいらないくらいになって来ています。この光とは比べられないほどの恩恵を、神さまが与えてくださると約束してくれています。あのヨブが、地球がフックなしに天空に書けられているのを驚き記しましたが(ヨブ記 26710節)、太陽も同じ、星々も同じで、フックなしなのが、私も不思議でなりません。

(車道を走るトラックの「エンジン」です)

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