生を思う

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おっちょこちょいを自他ともに認める私は、膝や弁慶の向こう脛を、テーブルや机の角にぶっつけては、しゃがみ込むほど痛い思いをして生きてきました。刃物を使うと、よく手傷を負いました。無数の手傷を、いまでも手指や腕に認めることができ、ちょっとやそっとの傷や痛さは、苦にならないほどになっています。

この「痛さ」ですが、体が痛くなる感覚というのは、実に大切な感覚だということを、ある時に知ったのです。ハンセン氏病という病があります。かつて恐れられ、忌み嫌われたのですが、私の周りで、この病気の方を見聞きしたことがなかったのです。もちろんライ園やライのみなさんの施設のあることは知っていました。

この病は、その伝染性の問題で、いったん罹病されると、隔離収容さてるのです。山梨県の出身で、ライ患者のみなさんの治療に献身された小川正子がいました。この方は、「長島愛生園」で治療に当たっていて、その手記が、「小島の春」でした。そこには次の様に記されてあります。

『・・・この山中に十年、二十年と病み住めば男といえどもどうして山を下れよう。ましてや家には純朴な一徹な無智善良な肉親と周囲があって伝染ということさえ知らずに同じ炉を囲んで朝夕。そして悲劇は何時の日までも果てしなく続けられていく。(中略)母に寄り添って立っていた十一歳という女の子、まととない愛くるしい顔、背中の二銭銅貨大の痛みのない赤い部分、白い跡はおできのあとと母親はいうのだが、水泡を疑うのは非か。七つの子をあやしつつ、いぶかしいと思うところをつついてみると痛くない。(中略)病人のほかに二人とも異常があることになった。私は言い出す術をしらなかった。強いて微笑んではきたけれど、すべてが「手遅れ(ツーレート)」であった。』

ここに「痛みのない赤い部分」という箇所があります。この病の大変さは、〈痛みが無い〉ことにあるのだそうです。痛みが無いことで、外科的に指が欠けても、分からないのです。痛い思いを繰り返してきた私にとっては、それは驚きのことでした。それで、痛い思いをすることに、感謝の念を覚えられる様になったのです。

私の生涯で、耐えられない痛さの経験が二度ありました。一度は、その年の暮れに40になろうとしていた夏の終わりに、腎臓の摘出手術をした後のことでした。手術が終わって目覚めたのは、強烈な痛みによってでした。麻酔が切れて、痛さの感覚が突如として戻ってきたのです。体の底の底からくる、耐えられないほどの痛さだったのです。とっさに、私の顔を覗き込んでいた看護婦さんに、『痛み止めを打って!』と言ったほどでした。

その痛さを和らがせ、忘れさせた出来事が、数年経った頃にやってきたのです。その長島愛生園のライの施設にいらっしゃる方たちが、私の「腎移植」の話を、何かの経路でお聞きになって、感動したと言って、八万円ほどを募金して、送金してくださったのです。もったい無くて使えず、病んで入院していた恩師の治療のために差し上げさせてももらいました。あんなに嬉しく感動したことはありません。

もう一つは、右肩の腱板断裂の縫合手術をして、手術を終えて目覚めたのが、右腕を上げた状態で、ベッドに括り付けられていた時でした。これも麻酔が切れた時でした。2日ほど、その状態が続いたのです。傷の痛さと体を固定された苦痛とでの激痛でした。『自殺者がいたほどの痛みがある!』と聞かされていたものでした。

今年になっての〈コロナ禍〉は、心痛む現象です。世界中で、不安と恐怖が満ちていて、心が爆発寸前です。感染して死を恐れることだけに、もはや人の心が捕らえられてしまっています。でも冷静に見ますと、感染したら死んでしまう確率は低いのです。もっと怖いことは、人を憎んだり、否定してしまう方が、人を死に追いやる要因で、恐るべきことかも知れません。実は、私たちは、いつも死と対峙しながら、今を生きているという事実です。今落ち着いてこの状況下で、自分の《生》を思う時にしたら好いのではないでしょうか。与えられたこの一日と、残された日々とを生きようと思う、4月1日です。

(瀬戸内海に浮かぶ島です)

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