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「ですから、私(パウロ)は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(新改訳聖書 2コリント12章10節』
六十一の時に、家内を誘って、お隣の国に参りました。念願の中国の学校に留学して、中国語を学習し、教会の活動に参加するためでした。天津の街の外国人専用の「中国語中心」の学校でした。交通大学の附属校だったのです。イギリス、ドイツ、ニュージーランド、オーストラリア、カナダ、アメリカなどからの留学生たちがおいでで、同じアパートに住んで、交流もあったのです。
自転車通学で、大通りを懸命にこいで、通学したのですが、帰りには、街中に行ったりしました。日本の牛丼の「吉野家」が開店されていて、ドイツから夫妻で来られておられた方に誘われてお昼御飯時にうかがったのです。漢字の屋号は、まさか日本の店だとは気づかないでいたので、『この店は日系なんです!』と、得意になって教えてあげました。
ここには、トヨタ自動車の工場があって、そこに勤務する日本人が多くおいでで、「日本面包(mianbao/パン)店」や「伊勢丹」まであったのです。アンパンを、家内が小一時間の距離を、よく出かけて買ってくれたのです。寸分違わない味がして、急に日本が恋しくなってしまいました。
その様な日系企業の展開を、身をもって触れてみた反面に、明治以降の日本の大陸進出、侵略の名残も目にしたのです。この街の中に、博物館があります。語学学校の研修の一環で、見学会があって参加したのです。どこも同じなのですが、その規模の大きさに驚かされるほどで、有史以来の街の歴史が、「panoramaパノラマ」の様に工夫されて、展示されてありました。
日本軍の放った火で、街が真っ赤に燃え落ちる様子が、壁面に大きな規模に描かれていたのです。当時の天皇や政府の指導者や軍の幹部の名前も写真も掲げられて、そこにありました。
この街に、「五大路」と名付けられ、表示のある交差点があります。この近辺は、「租界(そかい)」のあった地域でした。その岐路の食べ物屋やホテルや商店があった様な、街並みが現存していました。goo辞書に、「租界」が次の様に記されてあります。
「中国の開港都市において、外国人がその居留地区の警察行政権を掌握した組織および地域。1845年、英国が上海に設けて以来、一時は8か国27か所に及んだが、第二次大戦中にすべて返還された。一国が管轄する専管租界と複数国による共同租界があった。」とあります。日本の租界の入り口には、『中国人と犬は入るべからず!』と掲出されてあったそうです。」とです。
上海の他に、天津、漢口、杭州、蘇州、重慶などに租界があって、いわゆる治外法権の「外国」だったのです。いろいろな蛮行が行われた街だった様です。私は、この博物館に滞在した間、頭を上げられないような思いで過ごしたのを、昨日に様に覚えています。
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先日、友人牧師の便りの中に、100年前に開催された「パリオリンピック」の400m競走で、金メダリストに輝いた、Eric Liddell (エリック・リデル )が活躍したことが記されてありました。このエリックが生まれたのが、この天津でした。エジンバラ大学に進学して、陸上競技選手として花開き、イギリス代表として活躍しました。その彼を主人公に、「炎のランナー」という映画が、上映されました。
エリックは、大学を捨業すると、両親のいる天津に、宣教師として出かけました。カナダ人の婦人宣教師と結婚して宣教を開始しますが、間もない1931年に満州事変が勃発し、1941年には、本国のイギリスから、退避の勧告がなされ、夫人と子どもは帰国させ、リデルは単身天津に留まるのです。1943年には、天津から遠い、山東省濰坊にあった「捕虜収容所」に送られ、そこで病を得て、1945年2月21日に、エリック・リデルは亡くなるのです。
この収容所でに出来事を、次の様に期した記事がありますので、引用してみます。
『・・・敵国人収容所でも、エリックは聖書の勉強会を開き、子どもや若者たちの心を魅了します。その中に17歳の少年もいました。「汝の敵を愛せ」と、エリックは説きます。が、敵である日本人を愛することなどどうしてできるでしょうか。スティーブン(Steve Metcalf)の自伝によれば、日本人の中国支配は凄惨を極めます。西洋人は闇市で捕まっても1~2週間の独房入りで済みますが、中国人は電気柵で首を吊るされ、見せしめにされたそうです。無抵抗の中国人漁師が日本軍の戦闘機に銃撃され、殺害されるのをスティーブンは間近で目撃したこともあるといいます。
この若者は「汝の敵を愛せよ、という言葉は理想に過ぎない。日本人、特に日本の憲兵を愛することなど現実的には不可能だ」という結論を出そうとしていました。そのとき、エリックは静かに語ります。「聖書には『汝を迫害する者のために祈れ』という言葉があります。私たちは愛する者、好きな人のために祈ります。しかし、イエスは、好きではない人のために祈りを捧げなさいと教えています」。そして、こう続けます。「人を憎むとき、あなたは自己中心的になります。祈りを捧げるとき、あなたは神中心の人間になります」、と。
スティーブンは伝説の金メダリスト、エリックと二度一緒に走り、一度だけ勝ったことがあるそうです。エリックはスティーブンに「君のシューズはもう修理できないほど擦り切れているね」と言ってランニングシューズを手渡してくれました。その3週間後の、1945年2月21日、エリックは他界します。スティーブンはエリックからプレゼントされたランニングシューズを履いて棺を担ぎます。「日本人のために祈りなさい」。この言葉を神からの「啓示」として受けとったスティーブンは、後にエリックのバトンを受け継ぎます。
広島、長崎への原爆投下で、戦争は終わります。スティーブン少年は生き延びて、オーストラリアに移住しますが、マッカーサー連合国軍最高司令官が1948年、日本へのキリスト教伝道のために若い宣教師を募っているのを知り、神学を学んで、1952年日本へ行く決心をします。戦争の「隠された記憶」の一つです。私たちはこの記憶を若い世代に継承していく責任があります。それもまた教会の宣教の重要な責務の一つではないかと思うのです。』(真駒内教会 高橋 一牧師記)
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青森市で伝道した方の、その様な証を読みますと、自分の母教会を開拓してくださった宣教師、その宣教師の証に啓発して、日本に来てくださった宣教師たちが、この方に続いたのです。私の知っている婦人宣教師は、日本軍が、戦場で繰り広げた兵士たちの酷い行いを目撃し、こんな蛮行をしている日本人には、「キリストの福音」だと信じ、戦争が終わってから、日本にやって来られて、「十字架に死なれて蘇られたキリスト」を述べ伝え始めたのです。
日本占領軍の司令官が、日本宣教に、多くのアメリカ人宣教師を送ったのです。その内の一人が、母教会を始められた宣教師さんでした。病んだ若き日の家内を、大変支え、仕えてくださったご夫妻でした。ここから、幾つもの教会が、各地に建て上げられて行きました。教会は、多くの苦労を経て、その地域に確立されて行きます。どの働きも困難の後に、この牧会を任される日本人牧師の伝道の基礎を築かれたのです。尽きるところ、教会は「キリストの体なる教会」なのです。天津にあった教会も、華南にあった教会も、米英から遣わされた宣教師のみなさんによって始められていました。
(ウイキペディアによるエリック・リデル、天津の位置、青森市の市街地です)
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