子育ての頃に

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Pearl Harbor, Hawaii (Aug. 29, 2003) — Sailors and Marines aboard the amphibious assault ship USS Peleliu (LHA 5) render honors to the USS Arizona Memorial and the Battleship Missouri. Peleliu will be inport for a couple of days before heading out with Expeditionary Strike Group One (ESG 1) on deployment. An ESG constitutes a new naval strike force designed to equip amphibious forces with added firepower and operational capabilities. The seven ships of ESG 1 include, USS Peleliu (LHA 5), USS Germantown (LSD 42), USS Jarrett (FFG 33), USS Ogden (LPD 5), USS Port Royal (CG 73), USS Decatur (DDG 73), and USS Greeneville (SSN 772). U.S. Navy photo by Photographer’s Mate 1st Class William R. Goodwin. (RELEASED)

 

 「ピューリタン(清教徒)」の信仰を受け継いだのでしょう、アメリカ人の宣教師さんは、テレビを持ちませんでした。ジョージアの田舎町で、GEの大きな電気店の御曹子でしたが、日本語が分からないこともあり、テレビを観ませんでした。アメリカ建国初期の信仰者の生き方を受け継いだのでしょう、けっこう世俗から距離を置いて生活をしていた様です。でも禁欲主義者ではありませんでした。よくマクドナルの店で、ハンバーグを美味しそうに食べてるのを、通りがかりに見かけました。

 この方と九歳違いの私は、世俗の人間で、巷をウロウロしながら生きてきて、25でやっと母の信仰を継承しました。この宣教師と一緒に働きましたから、子育て中、テレビを置きませんでした。それでも子どもたちは、友だちの家に遊びに行っては観ていた様です。私は、その自由を彼らに与えました。

 テレビのこれでもかこれでもかの攻勢に勝てなかった私は、個人的な理由もあって、テレビを置かなかったのです。そんな家庭で育った子どもたちでしたが、親の信仰を継承し、決して変人にはなりませんでした。長男は、牧師になってしまいました。ハワイの高校で、『真珠湾攻撃を、どうしてくれる?』と責められた彼は、それに抗して、『それでは広島と長崎はどうしてくれるのだ!』と言い合いをして、それが喧嘩になってしまったのです。そんな喧嘩のできる子で、安心したのを思い出します。

 喧嘩両成敗で両者が停学になっています。それでも、牧師夫妻が息子を理解してくれて、次の学年は、カリフォルニアの学校に転校したのです。三年時には、再びハワイの学校に戻ることができ、なんと優等生で卒業したのです。その学校側の言い方が、面白かったのです。『日本人なのに、よくがんばったで賞!』だったのです。

 「蹉跌(さてつ)」という言葉があります。主に青年期に、未熟さが原因するのでしょう、物事がうまく運ばないで、失敗経験をすることがあります。挫折やつまずきのことです。そんな風に決定した学校も寛容だったのでしょうか、復学の機会を与えてくれたのです。失敗で、一生を棒に振ることがなかったのは、彼にとっては救いだった様です。

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 学校を終えて親元に帰って来て、その秋に、オレゴンのコミニティー・カレッジに入学をしたのです。授業料が安かったからです。けっこう地味な科目を専攻して、三年時に、州立大学に編入し、卒業をしたのです。留学時には、中学での英語は得意でしたが、ハワイ英語に慣れるまでは、チンプンカンプンだったそうです。親の援助を当然とは考えず、彼を受け入れてくださった教会と牧師さん、ホームステイをさせてくださった教会のメンバーの方の好意があった学びの時でした。

 家内と彼の卒業式に参列しました。日本で見られる様な、きちんと整列などしない卒業生たちは、思い思いに自己表現をしていました。後ろの席で、風船を膨らませて飛ばしてもいたのです。式の流れを損なうことのない、その自由さを見て、アメリカ教育の良さを再評価した時でした。

 ハワイに戻った彼は、その牧師さんの勧めもあって、教会スタッフとなって、教会の中で多くを学びながら、奉仕をし、神学校で学ぶ機会を得たのです。15の日本の男の子を受け入れて、お世話くださったみなさんとの関わりで、彼は伝道者の道を選んだのです。その牧師さんの人格的、信仰的な感化を受けたからでした。その経験は、彼の生涯の宝物に違いありません。

 今は、一緒に学んだ方と、一つの教会を導いて、次世代の二人の子の父親として、子育てにも当たっている今であります。人との出会いは、その人の人生を変えるのでしょうか。ビジネスマンになって生きていくのだろうと思いましたが、自分と同じ道を選んだことを、家内と感謝しているのです。

 この兄の進んだ道に倣って、妹たちと弟は、ハワイやオレゴンで、同じ様に学び、教会と関わりながら、それぞれの道で生き始めて、今や子育ての後半期に至っています。もう40〜50代の彼らなので、家内も私も歳をとるわけです。この二人、テレビなしで、今でも生きているので、やはり変人なのでしょうか。

(ウイキペディアによる神獣湾のアリゾナ・メモリアル、ハワイ島にあるカメハメハ大王像です)

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