「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(新改訳聖書 ピリピ3章3~14節)」
これは、十数年前になりますが、アメリカのフラー神学校の研究報告の一部です。
- 毎月1500人の牧師が辞めていく。理由は道徳的失態、霊的枯渇、教会内での対立など。
- 結婚した牧師のうち半数は離婚に至っている。
- 牧師のうち8割は自信喪失や失望を感じている。
- 5割の牧師は失望して職を辞したいと考えるが、代わりに生計を立てる職の見込みはない。
- 神学校、聖書学校卒業生で牧師になった者のうち8割は、最初の5年以内に職を去る。
- 7割の牧師たちは鬱を抱えている。
- 約4割近い牧師が牧師になって以降不倫を経験している。
アメリカという社会と、キリスト教世界と同じように見るべきではないのですが、教会もまた例外なく、この世の動きに強く影響され、反応しています。一旦牧師になって、生涯、その召命を全うするには、その人の努力ではなく、「召命の確かさ」が必要だと言うことでしょうか。その召命を確かにされるのは、「教会の主」であるキリスト・イエスさまでいらっしゃいます。
主に仕えたい願いは、誰にもあります。すでに亡くなられましたが、ビリー・グラハムやアフリカ伝道をされたドイツ人のラインハルト・ボンケなどの働きに啓発されて、献身した人たちが大勢おいでです。グラハムの場合ですが、第二次世界大戦の終わった後、アメリカのキリスト教界に、三人の若い伝道者が立ち上がりました。
その一人が、ビリー・グラハムでした。他の二人は目覚ましい働きをして、アメリカ社会から脚光を浴びました。一人は、Hollywoodの映画スターの様に光輝いた働きをしたのです。ところが残念なことに、女性問題を起こして、伝道の世界から間もなく消えて行きました。もう一人の若き伝道者も、たくさんの人を救いに導いた成功的な伝道者だったのですが、大いに用いられながらも、麻薬問題で身を誤り、成功的な伝道を終えてしまいました。
残ったグラハムは、その二人に比べて目立つことのない、地味な奉仕をしました。それは堅実で、その99年の生涯、伝道の働きに留まり続けました。主なる神さまは、彼を用いられたのです。もちろん人間的な弱さは、グラハムにもありましたが、主の名を汚すことなく、主のみ許に帰ったのです。
貶されたり、非難されたり、非難を受け、また叩かれ、鍛えられ、純化され、《謙遜さ》を身に付けられるようにして、グラハムは奉仕を続けたのです。成功しても驕ることなく、たとえ失敗しても卑下しないでいました。神に召された人は、その神に依り頼み続けることが肝要です。忠実さが、彼の働きの輝きだったと言えます。
キリスト教伝道は、自分の願いではなく、たとえ自分の願いであっても、時間と経験によって試されて、「召命されたこと」が、多くの教役者たちによって、承認される必要があります。そして、これが大切な要点ですが、複数の教役者が、その人に、務めへの召しがあるかないかについて、証明してもらう必要があります。教会の主でるイエスさまは、聖霊なる神さまと共に、主に仕える者を、「按手」によって膏油注ぎをされます。
すでに主に支えてきた経験豊富な教役者たちの按手によって、霊的な承認がなされる必要があるのです。「教会の主」に仕え、主の働きの責任を確かにすることです。その任職が、人間や団体によるだけではなく、「教会の主」から出たことであることを立証する必要があるからです。
また、伝道者として奉仕する上で、“ mentor ” を持つ必要があります。もし人格上や行動の中に、相応しくないところがあるなら、端的に指摘し、責めてくれる人を持つことです。涙を流して祈って、助言してくれる器です。また同輩の教役者がいて、霊的にも人間的にも、互いに感化し合い、刺激し合い、指摘し合い、叱責し合うことを必要とします。
パウロは、宣教奉仕の上で、起こった問題の解決を、エルサレムに上って、そこにいる使徒団(イエスさまの弟子たち)に、相談したり、意見を求めて、委ねました。また、宣教の働きが一段落すると、アンテオケの教会(多分母教会でしょう)に帰ったのです。そこでは、一人の信徒としてでしょうか、その群れの中で時を過ごしています。
祈りの必要を、自分を委ねた群れへの奉仕を、物心両面で支援してくれることを、その教会に要請し、祈って支えてもらいました。その様な時を過ごして、再び宣教のビジョンを持って、他の地に出掛けて、宣教を再開し、継続したのです。テント(天幕)を作りつつ、実業にもついて宣教をしています。一匹狼的な牧師は、神の国の進展のためには、奉仕を続けることは困難なのです。
本当の意味で、叱責してくれる先輩教役者、同輩、霊的な頭が必要です。そう言った器を持っていないなら、それを、主から頂かなければなりません。それで、「謙遜」を学ぶことができるのです。イエスさまこそ、謙遜なお方でいらっしゃったからです。
教役者、主の働き人は、主が選ばれて、任職されます。選ばれたら、それを奉仕によって証明しなければなりません。そのためには教会の中に、祈ってくれる兄弟姉妹が必要です。霊的にも、精神的にも、経済的にも支えてくれる兄弟姉妹を持つことです。エジプトの奴隷の家から、同胞を導き出したモーセは、義理の父親の助言を受け入れました。主が、モーセを教え、導くのに、異教徒の義父を用いられたのです。
教役者は、その選びの故に、尊敬されるべきです。人間的には、低い教育しか受けていなくても、話し方が上手でなくても、主と人とを愛しているなら、主の御用に用いられます。不足やおかしいところがあれば、主は、様々な方法で、その器を変えて、矯正してくださいます。
牧師が信徒を育てるだけではありません。信徒が牧師を育てて行くのです。神学校が育てただけではありません。遣わされた地方教会で、育つていくのです。そう言った献身、奉仕の道があっていいのです。学位とか教科の履修も必要かも知れませんが、主の僕としてのあり方は、初代教会に見られた養成のかたちでも良いのです。
ある一人の牧師にあったことです。神学校を出たてで、牧会者になった方が、まだ経験的に若かった頃、いつも反対意見を言い、自分の言うことを聞いてくれない老信徒がいたのです。ところが主の日、日曜日の礼拝になると、その方は、早めに教会に来て、いつも座る自分の席に着いていました。『今朝の日曜礼拝で、主は、この牧師を通して何を語ってくださるか!』との怖れと期待とを持って傾聴したのだそうです。
「神のことば」を待ち望み、経験の浅い教役者の語る説教を、真剣に聴いてくれたそうです。長い牧会をへて、この方は、教団の議長にもなるほどでした。この牧師は、その若い頃に、自分の教会にいた年配の老信者が、『私を育ててくださいました!』と述懐していました。
ホーリネス信仰に立つ、牧師のお父さんは、戦時下の弾圧で入獄中に獄死しています。15歳で刑務所に、お父さんの亡骸を、お母さんと二人で貰い受けに行きました。戦争が終わり、彼は献身し、叔父さんに導かれて神学校に行き、お父さんと同じ牧会の道に進みます。
お父さんの再臨一辺倒な聖化だけ、伝道の熱心さを強調する教えの信仰上の不足、脆弱さを反省したのです。しっかりした「信仰告白」の大切さを大事にして、立派な教会を作り上げられたのです。
どこの国にも、特別な事情や背景があります。でも、どのような体制下の教会でも、「教会の主」は、イエスさまです。聖霊は、十字架に死んで、贖いを成就されたイエスさまの働きを、共に継続して行われます。「教会の主」は、教会を確立されるのです。その証を強くされます。そして待ち望む私たちを、やがて迎えに来てくださるのです。伝道者の必須の経験は、「聖霊に満たされること」ではないでしょうか。
神学校で学んで、優秀な成績を修めた方は、優越感と闘い、そういった教育を受けないで伝道者となった方は、劣等感と闘うのです。不足を覚えているということが、健全性や霊性や品性を保ってくれるのです。人を自分よりも優った人と認めつつ、自分を卑下し過ぎないことも大切です。そこに健全な「福音」に従う群れ、教会が起こるのです。
人の集まる教会には、様々なことがあります。それでも、教会は、「主の教会」、「キリストの教会」であります。人間の集合体でありながら、神に属するのです。この教会を、間も無く迎えに、イエスさまはきてくださいます。それゆえ、教会は『マラナ・タ(1コリント16章22節、主よ来てください)』と言うのです。
(Christian clip arts によるイラストです)
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