長兄

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今日は、上の兄を入院先の病院に見舞ってきました。先週末、家の中で転倒し、入院したとの連絡がありました。八王子の病院まで、最寄りの駅から、弟の運転してくれる車に乗せてもらって、家内と出かけてまいりました。早期に救急搬送され、初期処置が良かったようで、ニコリとして家内と私をベッドの上に座って、迎えてくれました。今日は、一般病棟に移り、リハビリもしているとのことでした。父が脳溢血で倒れたままで、入院先で召されていますから、父の子の私たち四人は、脳溢血や脳梗塞に注意しなければならないようです。

私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。長兄として、父の期待を背に、頑張って生きてきました。大学では、運動部のスタメンとして活躍して、大学選手権で優勝したチームの一員でした。下の三人の弟たちの<憧れの兄>だったわけです。着ないで家に吊るしてあった学生服と、大学帽をかぶって、外出したことが、三男の私にはありました。話し言葉も、読んでいる本も、仕草まで真似をしたのです。

国体のラグビーの予選の試合で、タックルをした時に、頭部を打撲して、1週間もの間、この兄は人事不省になったことがありました。父は、つきっきりで、静岡市の病院に入院中の兄の世話をしたのです。それこそが、父の兄への愛や期待の現れだったわけです。その世話があって、兄は奇跡的に回復をしたのです。怖い親でしたが、優しくて涙もろさを併せ持っていたわけです。父を歓喜させるような大出世をしなかったのですが、一人の人として、立派に生きてきたと言えるでしょう。父の腰からの最初の子なのです。父を越えて生きてきたのではないでしょうか。

やり手で仕事の好きな兄は、七十を越えた今も現役で働いていますから、仕事ができない今は、ちょっと辛いことでしょう。『もう若手に仕事を任せて、ゆっくりする時ですよ!』と、体が人生が、今回の入院が語りかけているのではないでしょうか。十二分に働いてきていますから、そんな時期が来ているに違いありません。次兄も、昨年長く働いた仕事を辞めているのです。弟として、まだまだ長生きして、相談ににってもらいたいこともあります。『俺がいなくては!』と、仕事の出来る人は思うのだそうです。でも、後任の器は、十分に育って備えられていて、登場を待っているのです。それで世の中は潤滑に動くのです。西郷も坂本も高杉も、惜しまれて早世し、逸材がいなくても、明治維新政府、近代日本は動いたではありません。

今日は四月の気温だったそうで、着て出た防寒着を脱いでしまい、腕まくりまでしてしまいました。兄を見舞って、そんなことを思っている「節分」の夕べであります。

(写真は、「セツブンソウ」です)

我孫子

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山手線の日暮里から、千葉、茨城、福島、宮城の各県を結ぶJRの常磐線があります。昨日の日曜日、その沿線の「我孫子」まで家内と一緒に、中国で出会った方と、その友人のみなさんを訪ねることができました。話をしたり、みなさんがお作りになられたもので食事会まで開いて下さいました。このご婦人は、私たちが住んでいます街にある大学で、長年日本語教師をされたことがあり、教え子に招かれておいでになられた時に、何度か、私たちを訪ねてくださったのです。学生に慕われていて、日本を訪ねる学生のみなさんのお世話をなさり、交流を続けている、<親中派>です。一昨年、十人ほどのグループで中国旅行の途中に、我が家にも寄ってくださったのです。その時は、お茶と手作りの小さなお菓子でおもてなしをしただけでしたが、昨日は、大ご馳走になりました。

この常磐線の沿線の「馬橋」という駅から、「流山電鉄」という私鉄が走っていまして、その終点駅にある事務所で、次兄が働きながら、都内の大学に通っていたのです。小遣いをもらいに、何度も出かけたことがあります。そのことを、全く忘れていましたので、駅名を見て思い出したわけです。ある時、兄の知り合いの年配の方の宴席に連れて行ってもらって、ご馳走になったことがあって、『いいのかな?』と思いながらお腹をイッパイにしたことがあったのです。豊かな農家のおじいさんだったように記憶しています。

その頃の車両は、ローカル線だからでしょうか、ずいぶん古かったと思いまます。ところが昨日、何十年ぶりに乗った電車は、小田急、東京メトロ、JRの相互乗り入れの新型車でした。息子の住む家の最寄り駅から、東横線と副都心線直通電車で、明治神宮前で、千代田線に乗り換えて、我孫子まで一本で行くことができたのです。東京近郊に住む人たちの通勤や通学、買い物や訪問などで利用される人にとっては、驚くほどに便利になっているのが、改めて分かったのです。乗り換えが少なくて、少々余裕で乗り継ぎましたのに、1時間半ほどの電車の旅は、実に快適でした。

昨日の食事の折に、一昨年、私たちの家を訪ねてくださった時の様子を、その時の旅行のリーダーの方が、その印象記を日記に残しておいでだったのです。その日記を、ダウンロードされ印刷して読んでお話しされたのです。その一日にあったことを、公私にわたって、翌日の早朝に日記に記しておられるのだそうです。ついぞ、そのようなことをしたことのない私は、『あれは、何時のことだったっけ?』とうる覚えなのです。ところが二年前の三月の訪問の期日と時間と共に、正確に書き残しておられる「律儀さ」に驚かされてしまいました。お聞きしながら、『そんなこと、話したんだ!』と思ったりしたのです。

<親中派>の日本語教師のご婦人の影響でしょうか、中国旅行をされたからでしょうか、みなさんが<親中派>になっておられ、来日されている中国からのみなさんとの出会いもあるようです。一般民衆は、中日双方に良い印象が溢れているようです。昨日の我孫子のように!市内の名所、自然が大事に保存されている「手賀沼」に案内してくださり、日本唯一の「鳥の博物館」、「手賀沼親水広場水の館」に案内してくださいました。軽い疲れを感じながら夕闇の頭頭に、幾つものお土産を手にして降り立ちましたら、日曜日の有名な駅の周りは、ファッション誌から出て来たような若者たちで溢れていました。

(写真は、我孫子にある「手賀沼」です)

リケジョ

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「リケジョの新星」と言うことばを、新聞で読みました。「万能細胞」を作ることに成功した、小保方晴子さんのことです。つまり、「理系女子」のことなのです。IPS細胞研究でノーベル賞を受賞した山中教授に勝るとも劣らない研究をして、脚光を浴びている新鋭の研究者です。これが医学の難病の治療に用いられるとしたら、素晴らしいことになります。科学的な発明や発見は、悪用されかねませんが、人の幸福につながるとするなら、大いに奨励されるべきことになります。

「女子力」が認められ、男女の差別や区別なく、高く評価されることは、21世紀には相応しいことであります。『女性の管理職が欧米に比べて極めて少ない!』と言われてきた日本の社会で、科学の世界で、こう言った研究成果が正しく評価されたことは、女性の「母」から生まれた男として、大いに喜びたいのです。この研究者が、ユニホーム、立場に象徴の制服を身にまとっていないことに、何となく「反骨」を感じたのは私だけでしょうか。母がよく着て、家内も使っていたことがあって、最近は見られなくなった「割烹着(かっぽうぎ)」を、この方が着ていることに庶民性を感じて微笑ましいのです。

昨日、兄の家に向かう途中、夕方のラッシュを、一人の女性がさばいていました。制服からではなく、歩き方を見て、すぐに「警察官」だと認めることができました。『私は国家権力を持った、逮捕権のある者で、吹く笛ひとつで、車を止めさせ、発進させたりできるのよ!』といった声にならない声が聞こえてきました。実を言うと、普通の女性には見られない態度の大きさでした。悪意で言っているのではなく、職務や立場から来る確信なのでしょうか。何度か笛でストップさせられた者の「僻(ひが) み」からかも知れません。立場のない者は、官憲や役人を、そいう風に見るのでしょうか。そういえば昔の役人や警察官は威張っていて、尊大な口を聞いていました。だから、『役人なんかには絶対にならない!』と心に決めていました。いえ、なれなかったのですが。

一時、<理系>が進学先として好まれなかったのですが、最近は変わったのでしょうか。「割烹着の晴子さん」に啓発されて、「リケジョ」が増えて行くかも知れませんね。秀でた女性が、ますます活躍したらいいと思っております。また年配者が研究室を牛耳っているのではなく、若者たちが、縦横無尽に活躍してほしいものですね。子に若き研究者は、優しく見守り支持してくれた研究者の先輩に、感謝の意を表していたのが、よかったですね。一月末の幸先の良いニュースでした。この後の研究をそっと見守っていきたいものです。

(イラストは、小保方春子さんです)

お祝い

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<富士山の隣りに夕日が見られる部屋>を、昨日は訪ねました。家の玄関からは、奥多摩も秩父も丹沢も遠望でき、スカイツリーも見えるのだそうです。学校時代に山が好きで、山仲間とよく歩いた山々を眺めながら、余生を生きて行くのでしょう。私の弟は、好い買い物をしたのです。昨年11月に、自分の誕生日に引越しを済ませたと言っていました。形あるものを、子どもたちや孫に残すことは、良いことだと思いました。長く教師として教育に携わって、心血を捧げてきた彼の永年の汗の結晶の有形の一つなのです。

新築でしょうか、転居になるのでしょうか、その「お祝い」に出掛けたわけです。駅前のスーパーで食材を買って、そこまで迎えに来てくれた弟の車で、連れて行ってもらいました。その11階の玄関で、『あそこに見えるのが・・・』と、その眺望を解説してくれたのです。家内が作ったのは、少々、季節遅れの「お雑煮」でした。彼には珍しくないのですが、『美味しい!』と三人で食べました。帰国する私たちに、『これお土産に持って帰ってください!』と友人が家に届けてくれた、高級中華食材の<干し鮑>入りでした。

奥さんを病気で亡くして十五年、男手一つで三人の子を育ててきました。仕事帰りに食材を買って、賄いをし続けての年月でした。実に良くやってきています。再婚の話も多くあったのですが、顔を縦に振らずに、これまで一人で生きてきたのです。一昨年召された母が、末の息子で可愛いのでしょうか、元気な頃には、針仕事やおかず作りとか、何かと手助けをしてきたようです。今は故あって、可愛くて仕方がないと相好を崩し、また厳しく孫の世話をやいています。学校から戻って来た孫ベーに『はい、ピアノ!』と言って練習をさせていました。第二回目の<子育て>でしょうか。そのピアノの上に、四人兄弟の嫁の中で、最美人の義妹の微笑んでいる写真が置いてありました。退職後も、同じ職場に一室、一つの机を与えられ、週三日ほど出かけては、後輩の相談にのったり、学生の世話をしているのです。

この家の一間は、実は、家内と私の帰国時のための<宿舎>なのだそうです。車も蔵書も家も所帯道具も、一切を処分して出掛けた「レカブ人」、旅人然として生きている私たちのために、引き上げて来た時に住むことも考えていてくれているのです。そう思っていてくれる彼の気持ちが嬉しくて、どんなに励まされていることでしょうか。そう言えば、小さい頃に、父に叱られて、家から追い出されると、一緒に出てくれ、一緒に泣いてくれたのが、この弟なのです。六十年経っても、意地悪でいじめっ子だった兄貴の私なのに、同じ気持ちを向けていてくれるのです。私の愛読書に、こんなことが書いてあります。

「友はどんな時にも愛するものだ。
兄弟は、苦しみを分け合うために生まれる。」

『夕方になったら、賢ちゃんのところに行こう!』との彼の提案で、彼の孫べーと私たちで、次兄を訪問しました。『今晩はすき焼きだよ!』と言って義姉がご馳走してくれました。お腹をお肉や焼き豆腐、そして愛とで満たしました。弟は、「保護者会」のために早めに帰り、私たちは兄に駅まで送ってもらって帰ったのです。有形、無形の「愛」があるのですね。そんな満たされた一日でした。駅前のコンビニで、<ミートソース・スパゲッティー>を息子に買った宵でした。

(写真は、「奥多摩連峰」です)