孫と私とランドセル

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「また」というのは、以前にあったことや起こったことが、今度も、繰り返される時に用いる言葉でしょうか。日本のニュースを見ますと、この週末に、ある地域では百年ぶり、百二十年ぶりの大雪が、『また雪が降った!』と伝えていました。私たちがいた、先週末の東京にも、結構な雪が降り積もっていました。『明日は出かけて行って、孫兵衛に、約束のランドセルを買って上げなければいけないけど、雪で行けるかな?』と心配したのですが、翌朝、交通機関に乱れはないと、ニュースが伝えていました。降り積もった雪に足を取られながら、私にぶら下がる家内と一緒に、東急東横線ー地下鉄副都心線ー東武東上線で、孫兵衛の待つ駅に降りることができました。

駅前も除雪が思うようにいっていないで、スパイクの付いていない靴でしたから二人とも、滑り滑りで駅前の大型スーパーに入り、そこの地階のフードコートで、長男と孫たちと落ち合ったのです。午前中でしたので、外は、まだ深々と雪が降っていましたが、店内は効き過ぎた暖房で、コートを脱いで、汗を拭うほどでした。一緒に、「ランドセル特売コーナー」に行って、品定めをしたのですが、『これがいい!』と言ったのは、昨年の売れ残り値引き品でした。すぐに、『これね!』と言って買うことにしたのです。何と爺孝行の孫ではないでしょうか。この店も、正直に去年物と今年物とを区別して売っていたのは、大手のスーパーだけあって『流石!』と思ってしまいました。

在米の孫兵衛たちにも買ってあげたかったのですが、「ランドセル」は日本文化の産物、『要らないわ!』と言われて、「外孫」には何の入学祝いもせずじまいなのです。これって不公平でしょうか。不公平といえば、外孫たちの母親、私たちの次女が小学校に入学した時のことです。着る服は、巡りめぐって従姉妹のお下がりでした。また、新一年の定番のランドセルも、上の兄の長女が六年間使った「卒業済みランドセル」の代物だったのです。くすんだ赤で、所々に傷がついて、それなりに年代物でした。『歌織が使ったのでいい?』と次女に聞きましたら、『うん、いいよ!』と言ってくれました。『嫌!』と言ったら新しい物を買おうと考えていたのですが、親の意向、経済状況(!?)を理解してくれたのでしょうか。不満や不平を何一つ言うことなく、<ピカピカの新一年生>が<お下がり>で身を調えて入学式に出て、それ以来6年間使い通したのです。

授業参観に行きました時、教室の後ろの物入れに、たくさんのランドセルが並んで光り輝いて収まっていたのですが、次女のだけが、異様にくすんでいました。でも一番居心地がよさそうに、『デン!』と座りこんでいたのは見事だった。「まだ使える物を使うこと」、「物を大切にすること」を、次女は学ぶことができたのだと思っています。「みんなと違う自分の物」を持って使うことは、性格や人種や才能などの違う人々の中で生きていかなければならない彼女にとっては、良い学びだったのでしょうか。絵を描くのが遅い子の絵を描く手伝いをして、自分の絵が描けないで、先生に怒られてしまった次女でしたが、相手を顧みることにできる心があったことからして、「ランドセル事件」は落着したようでした。

あのランドセルは、何度もした引越しの後で、何処かに行ってしまったようです。そう言えば、まだまだ貧しかった戦後間もない頃、ランドセルを買ってもらえなかった級友たちが何人もいました。彼らは、ズタ袋に教科書や筆箱を入れて登下校していたのです。彼らは、どんなその後を生ききているのでしょうか。彼らの消息を知りたい思いに駆られている、『日本では、また雪が降った!』のニュースを聞いた日曜日の午後であります。

(写真は、教室の机に下げられた「ランドセル」です)