これまで、多くの業種の仕事をさせてもらってきました。別に貧乏学生ではなかったのですが、どちらかというと、学業よりも、実社会で学ぶ機会のほうがだいぶ時間的に多かったのでではないかなと思います。つまり本分である勉強を、あまりしなかったことになりますが。働いた時間だけバイト料が多いという実益があり、世の中の変化や面白さがあり、『よくやってくれるね、君たちは!』と煽てにのせられますから、どうしても単純な私にとっては、アルバイトに比重が偏ってしまったのです。いろいろな人と出会って、様々なところに出掛け、社会の仕組みの一面を覗き見られたことなど、お金には替えられない、学校では学べないことを学べたと、まあ言い訳しております。
そんな私には、一つの信条、決心がありました。兄の友人たちが、アルバイトをして学業放棄をして中退していく様子を見聞きしていましたから、彼らの轍を踏むまいとして、あることを心に決めたのです。それは《水商売》では働かないという決心でした。で、体を使う力仕事をしたのです。兄の友人が、失敗したのは、女性でした。恋に落ちたのか、誘惑に負けてしまったのか、それらが勉強への関心を薄れさせてしまうか、様々な理由で学校を続けられなくなって、学問を諦めたからです。
何時でしたか、地方の大学で教壇にという話があって、学長と面談したことがありました。20頁ほどの小論文を持参して行きましたら、『あなたは、これまで何を学んで来られましたか?』と問われて、『私は2つのことを学んできました。』と、答えたのです。その1つというのは、人間が生来もつ《可能性》を教わったことです。『僕が、琵琶湖にある施設でボランティアをしたときに、重度の心身に障碍を持っている方が、普段は何の感情も表現しないのに、お風呂に入ったときと、日光浴をしたときに、なんとも言えない喜びの表情を見せるんだ。君たち、人間には、どんな情況に置かれていても、誰にでも《可能性》があるんだ。その可能性を信じて、人と接していくこと、これが教育であり、福祉であり、命の道なのだ!』と、三十代なかばの専任講師が、顔を紅潮させながら、烈々と訴えたのです。そのことをお答えしました。
その講師の話を聞いた時、自分の《可能性》を信じて、それを引き出そうとしてくれた先生たちの顔が、この講師の顔にダブったのです。席に落ち着いて座っていられないで、教室をうろうろし、いたずらをして廊下だけではなく、校長室にでさえ立たされた小学時代がありました。10番以内を確保していたのに、魔の中2に、タバコを覚えて非行化して、国鉄の通学駅で盗みをして捕まって、学校に通報されたり、ピストルを暴力団を介して手に入れようとしたことも発覚し、まったく勉強が手に付かなくなった私を、処罰する代わりに激励して、3年になってから立ち直らせてくれた担任がいました。『そうだ、だれだって可能性が溢れているんだ!』そんなこんなで、高校の教師をさせて頂いたことがありました。
もう一つは、私たちの学校に「百番教室」という学内一の座席数の多い教室でしたが、そこを満堂にしていた30代後半の、ひげ剃りあとの青々とした、目の澄んだ痩せて凛々しい講師が、ある講義の時に、『みなさん。みなさんは《詩心》を忘れないで生きて行きなさい!』と講じたのです。私は、その学長に、この二つのことを話したのです。
この言葉だけが、その4年間で記憶に残った教えでしたが、それは卒業後のずっとの間、私の心の思いから離れませんでした。難解な学問的な教義ではなく、だれにでも言える言葉でしたが、それはお二人の講師の人格とは不分離だったからで、若かったからもあって、強烈に迫ったのでしょうか。その生き方が、結婚し、子どもが一人、二人と四人与えられて、徐々に分かって来たようでした。何だか、重いテーマを負わされて、『このことを考えながら生きていきなさい!』と挑戦を感じたのです。これを聞いた学長は、『あなたは、まだそんなことを言われるのですか!』と意外さと、驚きを表していました。そんな青臭い信条を持つことの甘さがいけなかったのか、本業がありましたから、それを犠牲にしてはいけないとの声なき声なのか、その講師への戸は開きませんでした。
そんなこんなで、アルバイト経験と、この二つの金言を携えて、私は社会人となったのです。いまだに青臭いものを持ち続けて生きているのですが、教育効果というのは、驚くべき力を持っているというのが実体験です。学問を学ぶというのか、学問を教える人の人格に触れるというのか、教育とはなんなのでしょうか。私の人生の残りの部分に、再び教壇に立つ機会が与えられて、中国の大学生に、人生ではなく「日本語」を教えさせていただいています。彼らの日本観を変えたいというのが、私の内なる願いですが。制限もあって、思想や宗教倫理をテーマにはできませんが、『こんな日本人もいるのだ!』と見てくれるようにと、このことはいつも忘れずに、教壇に立たせていただいています。私の中学3年間の担任が、教壇を降りて、私たちと同じ床に立って、挨拶されたのに倣って、私も教壇の下に降りて、彼らの足が踏んでいる床の上から挨拶をさせてもらっています。変でしょうか?そういえば、あの二人の講師が、白髪を戴いて、NHKのテレビに出ているのを、それぞれに見たことがありました。目の輝きと澄んだ様は、全く変わっていなかったのが印象的でした。
(写真上は、「琵琶湖」、下は、よくアルバイトをした「やっちゃ場(青果市場)」です)