十大ニュース

1.家内が第二医院に入院

出産以外に入院したことのない家内の初めての入院でした。しかも外国の地ででした。ところが、病んだ家内を、多くの友人たちが介護をしてくださったのです。6日間24時間体制で、当番表を作成してくれてでした。大感動でした。『遠くの親戚よりも、近くの他人!』、この他人の中に、しかも中国の地に、真実の友がいてくださったことは、何も勝る祝福なのであります。人の世話をしてきた家内が、人のお世話になったことは、なんという喜びでしょうか。

2.母が93歳の誕生日を迎える

1917年生まれの母は、強く歩くこともでき、食欲もあり、座って人の話も聞くこともできます。至極元気でおります。山陰の地で生を受け、父と出会って結婚し、四人の男の子を産んでくれました。この夏、小さくなった母の背を見ながら、三男の私ですが、親孝行の真似事をさせていただきました。

3.腰痛で授業を休講する

髭を剃って、着替えて学校に行こうとしたら、腰がすくんで歩けなくなってしまいました。都合十日間ほど家の中で這うようにして過ごしてし、授業を休んでしまいました。毎年、秋から冬の季節の変わり目に、決まって起こっています。帰国したら、紹介された板橋の整体師に行こうと思っています。

5.次男が渋谷に会社を建て上げる

出資してくださる方があるほど、仕事を評価され、信頼を寄せてくださったのでしょうか、素晴らしい機会です。力いっぱい、培ったものを発揮して欲しいと思っています。

6.コンクリート・ブロックの破片が投ぜられる

尖閣諸島の漁船の拿捕と船長の逮捕が報じられた晩、我が家の裏庭のポーチに、コンクリートの塊が、いくつも投げ込まれていました。落ちたり置かれたりするはずのないものでした。直情的な気持ち、それが理解できましたので、悩みませんでした。軍靴でこの国土を踏みにじった過去を考えたら・・・・。

7.シンガポールに旅行をする

査証が得られなくて3度も4度も中国大使館に行きました。おかげでマレーシアに2度も行って、滞在時間を延長しました。その滞在期間中の真夜中に、泥棒に入られて、長女の貴重品のほとんど、息子にもらったカメラが姿を消しました。命からがら助かって、『人の物は盗まない!』、そう決心しました。

8.永定の「土楼」に行く

何年も前から、『遊びに来てください!』と誘ってくださった友人の家を訪ね、彼の知人が車で、山道を走って、世界遺産である「土楼」に連れていってくれました。漢民族の驚くほどの知恵に触れることができ、甲州街道沿いに見えた、いくつもの「土蔵」を思い出していました。

9.「鮑の養殖」をみる

福州の北のほうに連江という街あります。自然の美しい、漁業を生業にしていていました。そこに潮騒を耳にしながら泊めていただき、翌日は、船で養殖場に案内していただきました。海水がきれいで、鮑もご馳走していただき心安まる日を過ごすことができました。

10.〇〇義塾の校長先生と会う

偶然の出会いと紹介で、シャングリラ・ホテルで交わりの機会がありました。若い日の共通の知人がいて、話が弾みました。私の若い友人のお世話をしてくださると、この校長先生が約束してくれ、話が進展しています。

脇役


『きっと大人になったらこんな顔になるんだろうか?』と思わされた芸能人がいました。中学3年の時でした。まだ子どもと大人の境界線にいて、体も心も、どちらでもないようなあやふやな時期だったでしょうか。ニヒルな雰囲気を漂わせている男に憧れていた私は、テレビに登場し、ブラウン管の中に映し出されて歌う、水原弘と自分をダブらせていたのです。あの時、彼が歌っていたのは、確か「黒い花びら」だったでしょうか。悲しくて寂しい内容の歌詞でした。誰にも、『似てる!』と言われたことがなかったのですが、坊主頭の自分が、『髪の毛を生やして、お酒を浴びるほどに飲んで、一人前のおとなになって、夜の新宿でもぶらぶらしていたら・・・・』と思ったのです。『旨い!』と思ったことのないタバコをくゆらせ、飲むと頭が痛くなる酒を飲んだのですが、なかなか似てこなかったのです。男っ気のある親分肌で、若者をぐっと引きつけるようなものを持っていた彼の、そんな不良っぽさに憧れたのです。としますと、思春期というのは、あやふやで、危なっかしくって、さだまらない時期なのでしょうか。

そんな私は、一生懸命に彼に真似て歌うのですが、声が変わったばかりで、オトナの声など出ようはずがありません。疲れて熟睡してしまいますから、万年寝不足で目の周りにクマができてるような表情にはなれなかったのです。水原弘が42歳で亡くなったときには、彼と同い年のアメリカ人の事業家と一緒に、もう6~7年ほど働いていました。この方から、さまざまなことを学んでいたのですが。この方は、マイナスイメージのない方で、水原弘の対局に生きていた人でした。酒もタバコもやりませんで、実に清廉潔白な人格者だったのです。ちょっと近寄り難い雰囲気を持っていますが、笑顔が素敵でした。日本人からでは受けられないような感化を、この方から受けたことは、二十代に蓄えた貴重な宝物だと、今でも思っています。

文壇にも、芸能界にも「無頼派」という枠組みがあるようです。「無頼漢(ならず者)」ではなく、熟成して穏当で日和見的な在り方に添いきれないで、それを逸脱した作風をよしとした、戦後の若手作家を言うようです。太宰治、檀一雄、坂口安吾、織田作之助などがいました。たしかに生き方も、常軌を逸していて、アルコールや薬物中毒だったり、自殺したりの破天荒な生き方もあったようです。水原弘も、破天荒に生きた人でした。『人は憧れたものに似る!』と言われていますが、水原弘に似ていたなら、私も40代の初めに召されていたのかも知れません。しかし20代の中ほどで、お酒もタバコもやめましたし、体が悲鳴をあげたら睡眠をとることにしていたのです。健全な生き方を、その頃、出会ったアメリカ人の方に真似て始めたことは、よい選択だったのだと思うのです。

いったい、どんな男、どんな人間になって今、私は有るのでしょうか。思春期に憧れたイメージとはまったく違った自分が出来上がってしまいました。このような「憧れ」とか「英雄像」は、やはり虚像なわけです。ジェームス・デーン、水原弘、鶴田浩二にと、イメージを求めた心の遍歴は、思い出すと、むず痒さを覚えてしまいます。芸能界のスターたちは、意図されて作られた商業主義の1つの商品なのでしょうね。「龍馬」に、現代の若者の注目が集まっているのは、史実の龍馬ではなく、理想化された虚像であって、この時代に変化を願う人たちのモデルとして登場させられているわけでしょうか。テレビの自分を、龍馬が観たら苦笑いではすまないかも知れませんね。人の外貌から、「心」や「生き方」や「価値観」に、イメージを変えていくのが、大人への道なのかも知れません。脇役から主役を演じて、今再び人生の脇役に戻った自分を思って、『これが人の道なのだ!』と、2010年の大晦日に思わされております。

(写真上は、「水原弘」、下は「坂口安吾」です)