霞ヶ浦

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好きな作家に、城山三郎がいます。「落日燃ゆ」で、政治家・広田弘毅を取り上げたのですが、その人物描写に感銘した私は、すっかり広田弘毅の人間性に魅了さ れてしまいました。『こういった人物が、戦時ではなく、平和な時代に政をしてくださったら、誇れる日本を築き上げてくれたのではないだろうか!』と思うこ と仕切りでした。

私 の父は、港を見下ろす横須賀で生まれ育ちました。海軍の軍人の家庭でした。そんな関係からでしょうか、戦争を知らない世代の私なのに、海軍に憧れて少年期 を過ごしたのです。かつての少年たちの愛国主義や軍国主義といった思想的な動機ではありませんせんでした。本を読んだり、聞かされたりして、単に《格好良 さ》に憧れたのです。でも、そればかりではなかったかも知れません。

土 浦の自衛隊基地に隣接して、「予科練記念館」がありますが、そこを訪ねましたときに、父や母や弟や妹を守ろう、その命を捧げた少年兵たちの潔さに、言い表 せない感動がこみ上げてきたのです。時代の子といえばそれだけですが、彼らは純粋な動機で、その時代が要請した務めを一途に果たしたのだろうと思うので す。ここを訪ねたいと願ったのは、少年期だったのですが、実現できたのは、新婚旅行で結婚相手とともに訪問した時だったのです。土浦から、霞ヶ浦を船で 下って潮来に行ったのですが、かつて戦闘機の機影を映した水面を下ったときにも、同じような感覚を覚えたのです。

また、好きな俳優が、鶴田浩二でした。中学の時に、役者の彼が私たちの学校に来て、「不良化防止」のパホーマンスで不良に扮して演じてくれたこともあって、彼のフアンになったのです。しかしそればかりではなく、彼が予科練で特攻隊の生き残りだということを聞いてでした。たしかに鶴田浩二は格好良かったのですが、格好だけでは予科練にはなれませんね。この鶴田浩二と同じように、城山三郎も海軍の軍人の過去を持っているのです。海軍特別幹部訓練生として志願して、「特攻兵」の訓練中に終戦を迎えたそうです。お会いしたり、講演も聞いたことはありませんが、お顔や、お嬢様が著された。「そうか、もう君はいないのか」によると、勇猛な軍人というよりは、やはり「文人」といった雰囲気を持たれた方だと思えるのです。作風からしますと、受洗されていたことも納得させられますが。

膨大な資料をもとに城山三郎の筆で書かれた、「広田弘毅伝」ですが、この稀有な政治家が、自ら裁かれたときに、決して自己弁護や言い訳をしなかったことこそ、広田弘毅の真骨頂ではないでしょうか。「益荒男(ますらお・武人の意)」だと言われていた大将たちが、女々しく自己弁護に躍起になっていたときに、石屋の息子の彼でしたが、同じように裁かれている人の不利になる証言を拒否したのです。

つねづね思うのですが、戦争で隣国から奪ったのは命や物や夢は甚だしく多いのですが、「失ったもの」の多さにも、目を止めなければなりません。大国主義の悪夢から覚めたのはよかったのですが、あの時に逸材を失ったのが、今日の昏迷と停滞と後退の最大の損失ではないでしょうか。彼らの高い理想や夢や幻が分かち合われていたら、次の世代の人材を養い育てることが出来たに違いないと思うのです。きっと豊かな心を育ててくれたことでしょう。

『それにしても、どうして新婚旅行に土浦、霞ヶ浦だったのかしら?』と、来春40周年になるのに、いまだに解せない妻であります。

(写真上は、福建省の「霞浦」、下は、http://news.livedoor.com/article/image_detail/3387282/?img_id=295161の「霞ヶ浦」です)

実感

《頭を丸める》というのは、謝罪とか反省のしるしだとされていているようです。長髪を切ってボウズ頭になることですが、実は、2005年の春に、腱板断裂の怪我をして入院手術を受けたときに、この丸刈り頭にしてしまいした。それ以来、電気バリカンを買った私は、自分で髪の毛を切りながら、ずっと坊主頭を続けております。整髪料は要らないし、汗をかいたらすぐに拭けるし、洗髪も楽です。別に何か悪いことをして反省したわけではありませんが、嫌っていた家内も、見慣れたのか、今ではもう何も言わなくなりました。

先週末、散髪をしました。きれいに刈れたのだと悦に入っていましたが、翌日、頭のてっぺんの左側の髪をつまんでみますと、そこだけ長い《虎刈り》でした。それに気付かなかった私は、月曜日に、そのままで学校の4コマの授業に出かけてしまいました。後ろ向きになって板書をするとき、学生たちには、私の左後頭部のいただきの《虎》には、気づかなかったのか、何も言われませんでした。これに気付いたその晩、きれいに掃除してしまったバリカンを取り出して、もう一度丁寧に髪を切り直したのです。頭の後ろには目がないのは不便なものだと思わされました。

先日、知人が東南アジアを回って、香港を経由してわが町にやって来ました。大きなリュックを背負って遠距離バスに乗ってでした。会いたくなって訪ねてきてくれたのです。その日の夜9時過ぎの始発で、16時間もかかる汽車に乗って香港に帰って行きました。この彼が高校の2年間、我が家で、家族の一員として生活したのです。名門の高校に通い、ラグビー部に籍を置いていたのですが、少々問題がって私がお世話することになったのです。その彼が、問題を起こして一週間の停学処分になりました。学校のきまりで、《頭を丸める処罰》を受けたのです。その彼と同じようになってあげたくて、自分も、当時、まだフサフサだった髪を切って《ボウズ》になったのです。そうしましたら、それを聞いた級友たちやクラブの仲間が、『どんなおじさんだろう?』と興味津々、我が家に大挙してやってきたのです。それ以来の付き合いですから、30年以上になるでしょうか。

実は、5年前の《丸刈り頭》の決行には1つの理由がありました。人と会ったり、人の前で話をしなければならないことが多かったのですが、意を決して、決行したのです。私の病室に、同じ年の同じ月に生まれ、幼少期を同じ山里の沢違いで育った◯人さんが、坊主刈りになったのです。事故にあって歩けないばかりか、右手は効かず、左手だけが不十分ですが使えるような情況でした。そんな彼の配膳や片付けを、歩けて左手は使える私は、お手伝いをしていたのです。『同病相哀れむ』だけではなく、何か近いものを感じた私は、病友の彼に友情を感じたのです。その彼がきれいに散髪したときに、『僕も!』と看護師さんにお願いして、切ってもらったのです。それを知った長女が、『◯人さんのせいで、お父さんがボウズになったんだから、どうしてくれるの?』と、冗談半分の抗議をしたのです。彼は苦笑いをしていました。

それ以来の坊主頭に、私は満足です。ある方が、中国に行こうとしていた私に、『日本兵を彷彿とさせるからやめた方はいい!』と言ってくれましたが、そのような心配がなく、5年目の北風が吹き始めましたが、帽子をかぶりますと、まったく問題はありません。そんなことを思っていましたら、杜甫の詠んだ「春望」を思い出してしまったのです。

国破山河在   国破れて山河在り
城春草木深   城春にして草木深し
感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月   烽火 三月に連なり
家書抵万金   家書 万金に抵る
白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く
渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す

中学1年で学んだ時には、まったく分からなかった、この『白髪頭は薄くなって、カンザシを付けるのに、もう充分な髪がないほどの年齢になってしまった!』、杜甫の気持ちですが、今まさに、それが分かるだけではなく、実感している、中国の初冬であります。

(写真は、詩聖「杜甫」です)

当番表

『いつまでもあると思うな親と金!』、これは父が常々言っていた言葉です。子どもをさとす実際的な格言と言えるでしょうか。そう言わないときに、父は、『金が木になるとでも思ってるのjか?』とも言っていました。正しく経済的な観念をもって生きるように願った父を、北風が木の葉を拭き落とす初冬の華南のちで思い出しております。

そんな父でしたが、中学に進学する前の年の暮れに、何を考えたのか、『雅、〇〇中に行け!』と、説明なしに一言いったのです。大正デモクラシーの自由な風が、教育界にも吹きこんで、新しい理想に燃えて建学された私立の中学に入って学ぶようにと、六年生の私に挑戦したのです。当然、兄たちが学んでいた地元の中学に入るものだとばかり考えていたのですから、寝耳に水の話でした。父が冗談を言ってると思わなかった私は、小学校の教科書や参考書を入念にみなおしながら、いわゆる進学準備にとりかかったのです。昭和31年の12月だったと思います。

この中学の校訓は、「健康・真面目・努力」でした。暁の星が暗闇の中から踊り出て、世界を照らし、輝かせ、暖かくすることができる人材を育成することを願って建てられた中学でした。たまたまでしょうか、100人ほどの入学者の列に加えてもらって、合格することができました。この中学校は、幼稚園から高校まであって、今では四年制大学もあります。ですから小学校から持ち上がってきた20人ほどの級友も、この他にいました。私が学んでいた小学校から、私立の中学に進学したのは、もう一人、同じ街で会社を経営する社長の娘でした。同じクラスの彼女は、私が入学した中学の女子部に入ったのです。同じ敷地の中にありました。そんな男女別学の学校も、時代の趨勢にみ合って、今では、男女が机を並べた共学校になっています。

その学校で、中学高校と6年間、のんびりと過ごすことが出来たことは、大きな感謝の一つです。まだまだ経済的に力のなかった時代に、私立中学に息子を進学させることは大変なことだったのだと思うのです。同級生たちは、中央競馬会の調教師や、医者や社長の息子たちでした。

そんな父に倣って、私も四人の子どもたちに教育を受けさせることができ、一応の社会人として自立した彼らを送り出すことができたのです。親業を卒業したと判断し、ほっとした私は、『今度はわれわれの番だ!』と一念発起して、天津の語学学校で中国語を学び始めたのです。それが2006年の秋でした。健康にも恵まれて、五年目の秋を華南の地で迎えた今月、家内が「胆石性膵炎」を発症し、市第二医院に入院してしまったのです。

軽率というのでしょうか、脳天気というのでしょうか、幸い健康が与えられて、病気になるということを想定しないで生きてきた私たちにとっては、その軽卒さから目覚めさせる発病と入院でした。『備えあれば憂いなし!』との格言が、思いをよぎるのですが、もう若くない自分たちの軽率さで、4人の子供たちに心配をかけてしまったことを、ほんとうに申し訳ないと思っております。

家内が猛烈な痛みと戦っています時に、私たちの友人が三人、車で駆けつけてくださって、医院(中国では病院を医院といい医院を診療所といいます)に、支えか抱えながら連れていってくれました。点滴を受けながら、救急外来の担当医は、『入院したほうがいいでしょう!』とのことで、急遽入院になった次第です。14日の日曜日のことでした。入院しましたら、日本のように完全看護ではありませんから、私たちの友人が「当番表」を作って、1週間分の表を作成し、それに従って、19日の夕方の退院の時まで、途切れることなく夜昼、交代しながら、一人、二人、三人と介護してくれたのです。

「魚釣島」の一件が起こり、中国各地で反日・抗日のデモの噂が高まっている中、かつての侵略者「日本鬼子」の末裔の私たちを、温かく支えてくださったのです。点滴が一週、間断なく行なわれていましたから、夜間に眠ることなく、無くなると看護婦を呼び、家内の下の世話、乾ききった唇をぬらし、手や顔を拭くといった愛の行為を続けてくださったのです。『遠くにいる家族よりも近くの他人』という諺がありますが、歴史的に、感情的に最も距離のある彼らが、家族にするように接してくれたことは、万感胸を打って感謝に耐えないのであります。

発病する前に、面識のある中華系のマレーシア人の方から、お金が送られてきていました。それを、病院に払い込むことによって、診察が開始され、投薬が始まったのです(中国では精算払いではなく、入金を確認しないと治療が始まらないのです)。感謝な出来事でした。また、ある方も経済的に援助してくれました。だれが、敵の子を援助するでしょうか、でも彼女たちは、『あなたたちは、私たちの家族だ!』と言って助けてくれるのです。

一応の治療を受けた家内の、これからの治療についても、四人の子供たちは、中国で治療を継続する派、日本に帰ってきて治療すべき派と双派に分かれていますが、こちらの友人たちも心配してくれています。この金曜日は、一人の友人叔母さんの知人が、大きな漢方薬局をしているそうで、そこに連れていって下さり、医院での治療の経過を聞きながら漢方薬を調剤してくれるというのです。そんな、もったいないほどの愛に、蒼白だった家内の顔に赤みが戻り、食欲も出てきております。愛には国境も、過去のわだかまりもなく邪魔なものの一切を押し流してしまう力があるのでしょうか。つくづく『この国に来てよかった!』と思わされる、「勤労感謝の日(日本)」であります。

(写真上は、「お見舞いの花篭」、下は、友人たちがつくって貼り出してくれた「介護当番表」です)