十大ニュース

1.家内が第二医院に入院

出産以外に入院したことのない家内の初めての入院でした。しかも外国の地ででした。ところが、病んだ家内を、多くの友人たちが介護をしてくださったのです。6日間24時間体制で、当番表を作成してくれてでした。大感動でした。『遠くの親戚よりも、近くの他人!』、この他人の中に、しかも中国の地に、真実の友がいてくださったことは、何も勝る祝福なのであります。人の世話をしてきた家内が、人のお世話になったことは、なんという喜びでしょうか。

2.母が93歳の誕生日を迎える

1917年生まれの母は、強く歩くこともでき、食欲もあり、座って人の話も聞くこともできます。至極元気でおります。山陰の地で生を受け、父と出会って結婚し、四人の男の子を産んでくれました。この夏、小さくなった母の背を見ながら、三男の私ですが、親孝行の真似事をさせていただきました。

3.腰痛で授業を休講する

髭を剃って、着替えて学校に行こうとしたら、腰がすくんで歩けなくなってしまいました。都合十日間ほど家の中で這うようにして過ごしてし、授業を休んでしまいました。毎年、秋から冬の季節の変わり目に、決まって起こっています。帰国したら、紹介された板橋の整体師に行こうと思っています。

5.次男が渋谷に会社を建て上げる

出資してくださる方があるほど、仕事を評価され、信頼を寄せてくださったのでしょうか、素晴らしい機会です。力いっぱい、培ったものを発揮して欲しいと思っています。

6.コンクリート・ブロックの破片が投ぜられる

尖閣諸島の漁船の拿捕と船長の逮捕が報じられた晩、我が家の裏庭のポーチに、コンクリートの塊が、いくつも投げ込まれていました。落ちたり置かれたりするはずのないものでした。直情的な気持ち、それが理解できましたので、悩みませんでした。軍靴でこの国土を踏みにじった過去を考えたら・・・・。

7.シンガポールに旅行をする

査証が得られなくて3度も4度も中国大使館に行きました。おかげでマレーシアに2度も行って、滞在時間を延長しました。その滞在期間中の真夜中に、泥棒に入られて、長女の貴重品のほとんど、息子にもらったカメラが姿を消しました。命からがら助かって、『人の物は盗まない!』、そう決心しました。

8.永定の「土楼」に行く

何年も前から、『遊びに来てください!』と誘ってくださった友人の家を訪ね、彼の知人が車で、山道を走って、世界遺産である「土楼」に連れていってくれました。漢民族の驚くほどの知恵に触れることができ、甲州街道沿いに見えた、いくつもの「土蔵」を思い出していました。

9.「鮑の養殖」をみる

福州の北のほうに連江という街あります。自然の美しい、漁業を生業にしていていました。そこに潮騒を耳にしながら泊めていただき、翌日は、船で養殖場に案内していただきました。海水がきれいで、鮑もご馳走していただき心安まる日を過ごすことができました。

10.〇〇義塾の校長先生と会う

偶然の出会いと紹介で、シャングリラ・ホテルで交わりの機会がありました。若い日の共通の知人がいて、話が弾みました。私の若い友人のお世話をしてくださると、この校長先生が約束してくれ、話が進展しています。

脇役


『きっと大人になったらこんな顔になるんだろうか?』と思わされた芸能人がいました。中学3年の時でした。まだ子どもと大人の境界線にいて、体も心も、どちらでもないようなあやふやな時期だったでしょうか。ニヒルな雰囲気を漂わせている男に憧れていた私は、テレビに登場し、ブラウン管の中に映し出されて歌う、水原弘と自分をダブらせていたのです。あの時、彼が歌っていたのは、確か「黒い花びら」だったでしょうか。悲しくて寂しい内容の歌詞でした。誰にも、『似てる!』と言われたことがなかったのですが、坊主頭の自分が、『髪の毛を生やして、お酒を浴びるほどに飲んで、一人前のおとなになって、夜の新宿でもぶらぶらしていたら・・・・』と思ったのです。『旨い!』と思ったことのないタバコをくゆらせ、飲むと頭が痛くなる酒を飲んだのですが、なかなか似てこなかったのです。男っ気のある親分肌で、若者をぐっと引きつけるようなものを持っていた彼の、そんな不良っぽさに憧れたのです。としますと、思春期というのは、あやふやで、危なっかしくって、さだまらない時期なのでしょうか。

そんな私は、一生懸命に彼に真似て歌うのですが、声が変わったばかりで、オトナの声など出ようはずがありません。疲れて熟睡してしまいますから、万年寝不足で目の周りにクマができてるような表情にはなれなかったのです。水原弘が42歳で亡くなったときには、彼と同い年のアメリカ人の事業家と一緒に、もう6~7年ほど働いていました。この方から、さまざまなことを学んでいたのですが。この方は、マイナスイメージのない方で、水原弘の対局に生きていた人でした。酒もタバコもやりませんで、実に清廉潔白な人格者だったのです。ちょっと近寄り難い雰囲気を持っていますが、笑顔が素敵でした。日本人からでは受けられないような感化を、この方から受けたことは、二十代に蓄えた貴重な宝物だと、今でも思っています。

文壇にも、芸能界にも「無頼派」という枠組みがあるようです。「無頼漢(ならず者)」ではなく、熟成して穏当で日和見的な在り方に添いきれないで、それを逸脱した作風をよしとした、戦後の若手作家を言うようです。太宰治、檀一雄、坂口安吾、織田作之助などがいました。たしかに生き方も、常軌を逸していて、アルコールや薬物中毒だったり、自殺したりの破天荒な生き方もあったようです。水原弘も、破天荒に生きた人でした。『人は憧れたものに似る!』と言われていますが、水原弘に似ていたなら、私も40代の初めに召されていたのかも知れません。しかし20代の中ほどで、お酒もタバコもやめましたし、体が悲鳴をあげたら睡眠をとることにしていたのです。健全な生き方を、その頃、出会ったアメリカ人の方に真似て始めたことは、よい選択だったのだと思うのです。

いったい、どんな男、どんな人間になって今、私は有るのでしょうか。思春期に憧れたイメージとはまったく違った自分が出来上がってしまいました。このような「憧れ」とか「英雄像」は、やはり虚像なわけです。ジェームス・デーン、水原弘、鶴田浩二にと、イメージを求めた心の遍歴は、思い出すと、むず痒さを覚えてしまいます。芸能界のスターたちは、意図されて作られた商業主義の1つの商品なのでしょうね。「龍馬」に、現代の若者の注目が集まっているのは、史実の龍馬ではなく、理想化された虚像であって、この時代に変化を願う人たちのモデルとして登場させられているわけでしょうか。テレビの自分を、龍馬が観たら苦笑いではすまないかも知れませんね。人の外貌から、「心」や「生き方」や「価値観」に、イメージを変えていくのが、大人への道なのかも知れません。脇役から主役を演じて、今再び人生の脇役に戻った自分を思って、『これが人の道なのだ!』と、2010年の大晦日に思わされております。

(写真上は、「水原弘」、下は「坂口安吾」です)

一陽来復

今日は二十四節気の一つ「冬至」です。故郷では、柚子湯に入ってかぼちゃを食べる風俗が残っていて、銭湯や入浴施設の大風呂には、柚子が浮かんで、芳香を放っていることでしょうか。小学校の時、内風呂があるのに、わざわざ街の銭湯に行って入ったのですが、風呂場に立ち込めていた芳しい香りが、東シナ海を渡って漂ってくるかのようです。ここ中国では、かぼちゃを食べたり、柚子湯に入ったりはしないようです。

我が家は、4階建てのアパートの一階にあって、小さな庭の突き当たりは高台になっていて、そこに三階建ての家がある、そういった住宅環境に住んでおります。夏場は涼しくていいのですが、冬場の陽光の少なさには、毎年、この時期に、『引越そうか?』と考えさせられております。それでも今日は、暖かくて燦々と太陽の光が、開け放った裏扉から差し込んできています。そうですね、今日を境いに、昼間の長さが増して行くわけで、この日が起点であるのは、まさに《一陽来復(冬が去り春が来ること。新年が来ること)》の願いが込められていることになります。

華南の福建省、広東省、江西省などは、「土楼」で有名な《客家》の里です。ここに住む客家人は、16001700年 ほど前、「中原の戦乱」を避けるために南方へ移住した漢族の末裔なのです。客家では今でも、冬至に天の神を祭るならわしが残っているそうです。各家は、門の外に卓を設けて、「冬至圓(汤圆(tang yuan)」と呼ばれる団子や各種のお供え物を並べて、香を焚いてろうそくを点すのだそうです。こうして敬虔に天の神を祭り、長寿や豊作、家族の幸せを祈るのです。 今夏、訪ねました広東省にほど近い永定では、そんな長い風習が守られ、「冬至節」を今日も祝っていることでしょう。なにかキリスト教徒が、「クリスマス(冬至祭の影響といわれていますが)」を祝うのと似ているように感じるのですが。

ところで、中国生活で、ただ一つ残念なことあります。それは我が家に「風呂」がないことなのです。それで一年中、シャワーなのですが、冬場のシャワーは億劫になってしまい、あまり好きではありません。それでも、シャワー室には、「取暖」と記された、高熱ライトが4つ備えてありますから、暖を取ることができて、寒くはないのですが。こういった中で、5年も過ごしますと、食べ物は問題はなくなったのですが、疲れたり、ほっとしたい時には、『ゆっくりお湯に浸かりたいなあ!』と、しきりに思ってしまうのです。これが、ただ一つの中国生活の不満なのであります。ことのほか冬至の柚子湯、こどもの日の「菖蒲湯」を思い出しますと、懐かしさと相まって『入りたい!』との思いが湧き上がって、居ても立ってもいられないのです。

それで、バスの中から、『風呂桶になりそうな物がないかな?』とうかがっていますが、時々、『あっ、あれなら・・・!』と思い当たることがあるのです。降りて買おうと思いますが、『さてどう運ぶの?』と考えてしまうと、自転車も車もない身ですから、我慢してしまうのです。庭に面した三和土の上に小さな小屋を作って、ガス湯沸かし器を設置し、桶を入手すれば、風呂場が出来るのですが。『来年こそは!』と思っておりますが。

さあ、今晩の夕食に、中国のみなさんが「冬至節」を祝って、食べる、米の粉アンを包んだ素朴な団子の「汤圆(冬至圓」を食べることにしましょう。天津にいた頃から毎年、食べておりますからこちらのみなさんと同じ気持ちにさせられて、春到来の願いを込めた《一陽来復》の喜びの輪に加えてもらおうと思っております。

(写真は、兵庫県の城崎温泉の「柚子湯」です)

北風

さすが12月です、急に寒くなりました。冬場の最低気温は、例年ほぼ摂氏5~6度くらいですのに、今冬は、1度を記録して、みなさんも驚きの声を上げています。まだブーゲンビリアが咲き、名のわからない木に花を付けている亜熱帯ですのに、身震いするほどに縮み上がってしまいました。まるで八ヶ岳おろしが吹き下ろす冬場の生まれ故郷のようでした。雪の表面をなぜて吹いてくるから風のように、音を立てていました。なぜ寒いのかといいますと、室内を暖房する習慣がないことが、その1つの理由です。

実は昨日は、私の誕生日でした。昨年も私のために、こちらの誕生日に振舞われる《長寿麺》を作って、お祝いしてくださった方が、今年も招いてくださったのです。1ヶ月以上も前に、お嬢様を我が家に遣わせて、『誕生日に《長寿麺》を作りますからおいでください!』と言ってくださったのです。それで、迎えに来てくださった高校1年生のお嬢様と一緒に、歩いて10分ほどのお宅におじゃましました。お父様が料理をされて、9品ほどの料理に、メインデッシュの約束の《長寿麺》を出してくださいました。贅沢とは言えませんが、中国の誕生日の定番の素朴ながら、優しい心遣いのこもった麺には、ゆで卵が二つも添えて碗の中に入れてありました。格別なお祝いの意思表示が、碗からこぼれ出るかのように溢れそうでした。

今日日、《小日本》と揶揄されている仇敵の日本人の私のために、江西省出身のお父様が、腕を奮ってくださったのです。その料理に、家内と二人で、感謝にあふれて舌鼓を打たせていただきました。 食後には、きれいにデコレートされたケーキに、10本ほどの蝋燭をさして、灯をつけてくれてテーブルの上に置いてくれました。『吹き消して!』と言われた私は、一息で消しましたら、『#你的生日快乐・・・(ハッピーバースデイツゥユーの中国語版)』と、お母様とお父様といとこの中学2年生、そして家内が歌ってくれたのです。さしもの北風に凍えていた私の体も心も、いっぺんに温められて、溶かされて、喜ばしい誕生日を祝っていただいたのです。この家にも暖房器具がありませんでしたから、着ていった暖房着を脱がずに席につき、日本ではみられない食卓風景でした。室温は低かったのですが、その部屋は愛や感謝や喜びでどれほど暖かかったことでしょうか。『你是我们的一家人(あなたは私の家族の一人です!)』と、社交辞令ではなく、真心をこめて言っていただくことの多い私と家内は、北風の吹く中を、お土産と誕生日カードを手にしながら帰宅したのです。

中国の片隅で、中日友好の花が咲いていることを、みなさんに知らせたいのです。国家間のそれは、相互に様々な条件や案件が障碍となって、なかなか成就は難しいのでしょうけれど、民間では、着々と前進しているのだということをお伝えしましょう。阿倍仲麻呂も、こんな暖かな友情や、家族愛に触れたのでしょうか。この一月ほど、帰国を考えた私でしたが、来年も《長寿麺》をご馳走いただけることを期待して、新しい査証の申請に取り掛かる覚悟をした次第です。愛は凍てついた大河を押し流すほどに力あるものなのでしょうか!

(写真は、http://tonyjsp.com/food/yatai/menu-20.htmlの「長寿麺」です)

仕事

これまで、多くの業種の仕事をさせてもらってきました。別に貧乏学生ではなかったのですが、どちらかというと、学業よりも、実社会で学ぶ機会のほうがだいぶ時間的に多かったのでではないかなと思います。つまり本分である勉強を、あまりしなかったことになりますが。働いた時間だけバイト料が多いという実益があり、世の中の変化や面白さがあり、『よくやってくれるね、君たちは!』と煽てにのせられますから、どうしても単純な私にとっては、アルバイトに比重が偏ってしまったのです。いろいろな人と出会って、様々なところに出掛け、社会の仕組みの一面を覗き見られたことなど、お金には替えられない、学校では学べないことを学べたと、まあ言い訳しております。

そんな私には、一つの信条、決心がありました。兄の友人たちが、アルバイトをして学業放棄をして中退していく様子を見聞きしていましたから、彼らの轍を踏むまいとして、あることを心に決めたのです。それは《水商売》では働かないという決心でした。で、体を使う力仕事をしたのです。兄の友人が、失敗したのは、女性でした。恋に落ちたのか、誘惑に負けてしまったのか、それらが勉強への関心を薄れさせてしまうか、様々な理由で学校を続けられなくなって、学問を諦めたからです。

何時でしたか、地方の大学で教壇にという話があって、学長と面談したことがありました。20頁ほどの小論文を持参して行きましたら、『あなたは、これまで何を学んで来られましたか?』と問われて、『私は2つのことを学んできました。』と、答えたのです。その1つというのは、人間が生来もつ《可能性》を教わったことです。『僕が、琵琶湖にある施設でボランティアをしたときに、重度の心身に障碍を持っている方が、普段は何の感情も表現しないのに、お風呂に入ったときと、日光浴をしたときに、なんとも言えない喜びの表情を見せるんだ。君たち、人間には、どんな情況に置かれていても、誰にでも《可能性》があるんだ。その可能性を信じて、人と接していくこと、これが教育であり、福祉であり、命の道なのだ!』と、三十代なかばの専任講師が、顔を紅潮させながら、烈々と訴えたのです。そのことをお答えしました。

その講師の話を聞いた時、自分の《可能性》を信じて、それを引き出そうとしてくれた先生たちの顔が、この講師の顔にダブったのです。席に落ち着いて座っていられないで、教室をうろうろし、いたずらをして廊下だけではなく、校長室にでさえ立たされた小学時代がありました。10番以内を確保していたのに、魔の中2に、タバコを覚えて非行化して、国鉄の通学駅で盗みをして捕まって、学校に通報されたり、ピストルを暴力団を介して手に入れようとしたことも発覚し、まったく勉強が手に付かなくなった私を、処罰する代わりに激励して、3年になってから立ち直らせてくれた担任がいました。『そうだ、だれだって可能性が溢れているんだ!』そんなこんなで、高校の教師をさせて頂いたことがありました。

もう一つは、私たちの学校に「百番教室」という学内一の座席数の多い教室でしたが、そこを満堂にしていた30代後半の、ひげ剃りあとの青々とした、目の澄んだ痩せて凛々しい講師が、ある講義の時に、『みなさん。みなさんは《詩心》を忘れないで生きて行きなさい!』と講じたのです。私は、その学長に、この二つのことを話したのです。

この言葉だけが、その4年間で記憶に残った教えでしたが、それは卒業後のずっとの間、私の心の思いから離れませんでした。難解な学問的な教義ではなく、だれにでも言える言葉でしたが、それはお二人の講師の人格とは不分離だったからで、若かったからもあって、強烈に迫ったのでしょうか。その生き方が、結婚し、子どもが一人、二人と四人与えられて、徐々に分かって来たようでした。何だか、重いテーマを負わされて、『このことを考えながら生きていきなさい!』と挑戦を感じたのです。これを聞いた学長は、『あなたは、まだそんなことを言われるのですか!』と意外さと、驚きを表していました。そんな青臭い信条を持つことの甘さがいけなかったのか、本業がありましたから、それを犠牲にしてはいけないとの声なき声なのか、その講師への戸は開きませんでした。

そんなこんなで、アルバイト経験と、この二つの金言を携えて、私は社会人となったのです。いまだに青臭いものを持ち続けて生きているのですが、教育効果というのは、驚くべき力を持っているというのが実体験です。学問を学ぶというのか、学問を教える人の人格に触れるというのか、教育とはなんなのでしょうか。私の人生の残りの部分に、再び教壇に立つ機会が与えられて、中国の大学生に、人生ではなく「日本語」を教えさせていただいています。彼らの日本観を変えたいというのが、私の内なる願いですが。制限もあって、思想や宗教倫理をテーマにはできませんが、『こんな日本人もいるのだ!』と見てくれるようにと、このことはいつも忘れずに、教壇に立たせていただいています。私の中学3年間の担任が、教壇を降りて、私たちと同じ床に立って、挨拶されたのに倣って、私も教壇の下に降りて、彼らの足が踏んでいる床の上から挨拶をさせてもらっています。変でしょうか?そういえば、あの二人の講師が、白髪を戴いて、NHKのテレビに出ているのを、それぞれに見たことがありました。目の輝きと澄んだ様は、全く変わっていなかったのが印象的でした。

(写真上は、「琵琶湖」、は、よくアルバイトをした「やっちゃ場(青果市場)」です)

白髪三千丈

李白の詩の中に、「秋浦曲」という有名な詩があります。

白髪三千丈  白髪三千丈
縁愁似個長  愁に縁(よ)って個(かく)の似(ごと)く長し
不知明鏡里  知らず明鏡の里(うち)
何處得秋霜  何れの處にか秋霜を得たる

『白髪は、三千丈にもなってしまった。それは憂愁が原因してしまって、これほどの長さなってしまったようだ(白髪の長さというよりは多さを誇張して、そう言ったのでしょうか)。曇のない鏡のような川の水面に、秋の冷たい霜が映っている。あゝ、私も人生の晩年にいたって、思いの中に憂いが広がっていくのが分かる!』との思いを詠んだのでしょうか。杜甫も、「春望」の中で、髪の毛の薄さにこだわり、李白は、白髪の多さを言い表しています。人生の来し方を振り返って、この二人の詩聖(李白は「詩仙」とよばれます)は、想像もしなかった老境の現実に、戸惑いを見せているのようです。

若い日の李白は、老いを想像することなど、まったくありませんでしたから、豪放磊落、水の流のように奔放な生き方をし、若さや力強さを誇り、酒や女を愛し、杜甫のように諸国を流浪して、詩を詠み続けました。40を過ぎた頃には、長安の都で、朝廷詩人としてもてはやされます。しかし社会性が乏しかったのでしょうか、ふたたび浪々の身となるのです。浮沈の多い生涯を生き、一説によると、酒によって船から落ちて亡くなったとも言われています。

日本人は、この李白の詩を好みます。「早發白帝城」や「静夜思」を、漢文の時間に学んだことがありました。私は、それほどの素養はありませんで、中学や高校で学んだ範囲ですが、「漢詩」が大好きです。無駄を省いたことばの簡潔さがいい、日本語で読んでも歯切れが良く、韻をふむ小気味良さが伝わってきていいのです。「望郷」の思いが込められているのも、日本人の「ふるさと回帰」につながり、太陽の光よりも「月光」を好み、「山の端の月」を望み見たい心情も、共感と共鳴を呼び起こして、うなずいてしまうのです。「早發白帝城」の「猿声」ですが、私は、中部地方の山懐の深い山村で生まれて育ちましたから、聞き覚えがあって、李白が聞いたように聞けるということも楽しめるわけです。

さて、洗面所の鏡に映る私の髪の毛も、少なくなり、細くなり、白くなっているのが歴然としております。父が、トゲ抜きで、白髪を抜いていたのを思い出しながら、父のあの心境がわかる年頃になったようです。でも、年を重ねるのは後退と衰退だけではないのです。『より輝いて生きたい!』という願いをなくなさないようにしていたいのです。イスラエル民族の著作の中に、『老人の前では起立を!』と、記されてあります。昨日も、バスに乗りますと、学生がスッと立ち上がって、席を譲ってくれました。最近は、会釈したり、『謝謝!』と言って好意を受けています。それでも、初めて席を譲られたときに、戸惑ったりしたのを思い出します。『俺って、そんな年に見えるの?』と思ったからです。とかく言われる中国と中国人ですが、《敬老の心》、《敬愛の情》、《母国への誇り》などには、感心させられております。

杜甫や李白の詩作の心境に共感を覚える私ですが、財布の中には、『俺にだって、こんな時代があったんだぜ!』という証に、中学入学の時に、兄に撮ってもらった一葉の写真をしまってあるのが、私のはかない老いへの抵抗でもあります。

(写真の上下は、百度による「詩仙」といわれた「李白」です)

卯建(うだつ)


『あ の人は、何時まで経っても、《うだつがあがらない》な!』という言葉を聞いたことがあります。辞書で引いてみますと、『出世したり、金銭に恵まれたり しない。良い境遇になれない。[家を建てて、棟上することを、「梲が上がる]といったことから。また、梲が金持ちにならなければ作れなかったことから も]』とありました(大辞林)。

私たちの住んでるところからバスに乗って、鼓楼の近くの「南街」というバス停で降り、大通りから路地に入りますと、そこに「三坊七巷」 と呼ばれる古い街並みがあります。何と、唐代(618~907年)に建てられたといわれる古蹟ですから、千年から千四百年もの時を超えてきた街並みで、華 南では有名な旧跡なのです。今、観光名所として建て替えが行われ、整備されています。これまで何度か、この街並みを散策したことがありますが、最近、「ス ターバックス(星巴克珈琲)」が新規開店しまして、授業のなかった昨日、ちょっと懐かしくて、若い友人と二人で入ってみました。天津や成都でも、コーヒーが飲みたいの と、物珍しさで利用したことがありますが、この店は、なかなか居心地がよいのです。もしかしたら、これまで、子どもたちのいる東京やオレゴンやシンガポー ルにあった店よりも、居心地が、はるかに良いかも知れません。きっと、こういった《スタバ》と若者が略称する雰囲気を持つ空間が、この街には、これまでなかったので、 ことさら、そう感じたのかも知れませんね。


ほぼ満員の店内で、学生らしき若者たちが数人、テーブルにPCを 置いて、その脇でスタイル雑誌を開き、コーヒーを飲みながら操作している様子は、ホノルルでもポートランドでも見かけた、お決まりの若者の所作であり、ア メリカ的な文化のニオイがしていました。目黒の駅前や、渋谷の道玄坂や、新宿の東口にあった喫茶店にたむろして、試験前になるとノート写や勉強の真似事を した頃を、懐かしく思い返しながら、年を忘れて、その雰囲気や文化を楽しんでしまいました。気持ちは、大学生だったでしょうか。この店は、新しい観光ルー トの中ほどにあって、その路の両側には土産店や食べ物屋が軒を連ねていました。外側は中国風の作りでしたが、店内は《美華折衷(中国語でアメリカは「美 国」といいますので)》で、とても気の利いた店内装飾がなされていて、実に寛げて3時間も、その友人と話をしてしまいました。

さ て、この旧跡の街の中に、《梲》が残されているのです。司馬遼太郎が書き著した「街道を行く」で、揚子江(長江)の南に位置して、「江南」と呼ばれる華南 の地域が取り上げられています。その記事の中に、《梲》を上げた家々があると言っていましたが、まさにその実物が、見上げた軒の上に、残されていたのです (写真をご覧になってください)。司馬遼太郎は、「卯建」という漢字を当ていますが、この漢字の方が、意味が伝わりそうですね。『卯(ほぞ穴)を建てる!』と読めるのですから。これは江戸の町にも見られた建築様式で、中国、とくに華南の地域に倣ったことが分かるのです。中国語では、「防火墙(墙は壁とか塀とか仕切りのことです)」といい、火事が起こったときに、密集している街中で、隣家への延焼を防ぐための、生活の知恵であったわけです。

文字ばかりではなく、このような《生活上の実際的な知恵》も、この国から学んだことを思って、この中国は、私たちにとっては《父なる国》だという証を、また知らされた次第です。私は昨日、この《卯建》を見上げて、写真を撮りながら、父の家を出てからの年月を思い返していました。借家住まいを続けてきて、自分の家を持ったことがないのです。そうしましたら、だれかが、『雅、お前は、いつまでたっても《卯建》の上がらない男だな!』と、囁くような声が聞こえるようでした。何も持って行けないのですから、家を建てようと思ったことは一度もなかったのです。だから、帰って行っても家のない日本には未練がない、そう強がってみたいのです。ただ、居場所がないだけなのです。それでも年老いた母と、子どもたちと孫たち、愛する者たちには、切に会いたい気持ちは本物ですが。そう、もう一つありました、伊北の中央道の出口の近くにあって、たびたび食べに寄った、プリンのような舌触りの「蕎麦がき」だけには執着があって、食べに帰ってみたいと思う、年の暮れです。

(写真上と中は、「三坊巷」に街並みの《卯建》、下は、「スターバックス」、一番下は「スタバの室内装飾」です)

裸の王さま

ずいぶんのことですが、「裸の王さま」の話を、自分で読んだか、誰かに読み聞かせしていただいたことがありました。『見えない者は愚か者なのです!』という仕立て屋の言葉にだまされる王が主人公だったと思います。特別な人にしか見えないという豪華な布で、仕立て屋は特別仕立ての素晴らしい服を縫い上げその洋服を王に献上します。それを喜んだ王は得意満面で着たのです。そして国民が見まもる中を、誇らしく城下を闊歩するのです。家来も国民も、『なんと素晴らしくお似合いでしょうか!』とほめるのです。ところがお愛想なんか言うことのない正直な一人の子どもが、『王さまは裸です!』と言いました。その一言によって、自分の裸の現実・事実を、王も国民も認めるのです。『変だ!』とは思っていましたが、「愚か者」になりたくなかったので、言はれるままに王は着続けてしまったわけです

だれでも人は、「愚か者」と思われたくないのです。ですから、おかしいのが分かっていても、人の目や言葉を気にするあまり、この王さまのような行動を取ってしまう傾向があります。人の目を気にするのですが、その奇異な行動がもっと人の目をひきつけてしまって、大恥をかいてしまうことになります。この王さまのことを考えていて、思わされるのは、『王さま、あなたは裸です。だまされているのです!』と、はっきりと指摘し忠告してくれる妻や子ども家来や国民、そして友を持っていなかったことが、彼の一番の不幸なのではないでしょうか

今年、日本が誇る高級車の欠陥が原因で、アメリカの高速道路上で、死亡事故を起こすといったニュースが伝えられました。我が国だけでなく、多くの国の自動車会社が、欠陥箇所の部品交換や取替を公告しているのをニュースサイトで、たびたび見ます。《人の命を無事に、遠くに運ぶ》だけでいい文明の利器が、速度や技術革新で、あまりにも複雑なメカニズムで作られるようになってきています。ちょっとした操作の違いやミスで、これまで想像しなかったような原因で、事故が起きているのです。販売競争の激化が、一番大切な《安全性》を蔑ろにして、外形や性能に重きが置かれている傾向が続けば、想像を絶した大事故が起こるのは避けられないのではないでしょうか。

日本の自動車業界で名を馳せた本田宗一郎氏が、『私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。しかし、全世界の覇者となる前には、まず企業の安定、精密なる設備、優秀なる設計を要する事はもちろんで、この点を主眼としてもっぱら優秀な実用車を国内の需要者に提供することに努めてきた・・・』と言っています。彼は「安定さ」、「精密さ」、「優秀さ」を求めたのです。そして自動車生産の相手である「需要者」に焦点を合わせて、企業努力を重ねたのです。業界の覇者になるのは、本来の目的や意味を第一にして、誠心誠意で製造していくなら、後から付いてくることだと、考えを改めたのでした。今、それが忘れられて、販売台数、売り上げ額、従業員や工場の数などの多さ、つまり業界第一位の地位への飽くことのない野望が、初心を忘れさせているのが現状でしょうか。どの業種にも、このことは言えるようですね。

私は、人の命に関わる仕事に従事している生産現場の人たちに、《生命第一》の切なる思いが残されていることを知って安堵しているのです。ある会社の欠陥自動車が死亡事故を起こしたときに、その欠陥を告発したの内部者だったと聞いたからです。『黙っていればいいのに!』と思われるでしょうか。会社やユーザーや家族を愛するがゆえに、言わざるを得なかった、その社員の苦渋の選択と決断と勇気をほめたいのです。凶器にも変わる自動車を作り、売る者が持っている当然の社会的責任を果たしたわけです。しかし、そうさせない組織の重圧、嫌われ者になりたくない!』との誘惑だってあったことでしょう。でも、『これ以上、このような事故を起こしてはいけない!』との内なる声を消さなかったことを褒めたいのです。利用者だけではなく、きっと、育てている子どもたちに《正直なオヤジ》であることをを知ってもらうためにも、内部告発たのではないでしょうか。その決断こそは、良心の声を消さなかったということでもあるに違いありません。

これまで、罪や過ちや欠点を指摘して、叱責してくれた師や友や妻がいたことを、私は感謝したいのです。もう一線を退いて、社会的な責任から解かれた私ですが、私が師と仰いだ多くの方々が召されてしまっている今ですが、それでも、『雅仁、あなたは裸ですよ!』と言ってくれる友が、まだまだ必要なのを感じるのであります。

(写真上は、「裸の王さま」、下は、昔乗ったことのある「ホンダ・初代スーパーカブ」です)