要塞

ここ中国では、灼熱の街を「竈(かまど)」に例えるようですが、今年の調査で最も暑い街が、「福州」に決まったそうです。杭州も武漢も重慶も暑いのですが、今年の「東京」もカマドでした。何年も住んだ街ですが、一ヶ月の帰国滞在で感じた東京の暑さは、まれに見るものでした。しかも私の次兄の家は、多摩川の流れと多摩丘陵の間の自然の豊かな地域なのですが、それでも感じたことのない猛暑だったのです。子どもの頃も暑い日があったのでしょうけど、『暑い!』 という思い出は全くないのです。同じように多摩川の河畔の街で少年期を過ごした私ですが、兄たちのあとについて、川で泳ぎ、帰りに《アイスボンボン》や《アイスキャンディー》をなめながら、炎天下を歩いた記憶があっても、『暑い!』と感じなかったのは、子どもだったからでしょうか。それとも、あの頃は、そんなに暑くなかった時代だったのでしょうか。家に帰っても空調や扇風機などありませんから、日陰が一番涼しかったのだと思うのですが。

結婚した私は、その街で所帯を持ちましたが、仕事をやめて、アメリカ人実業家の事業の開始の備えで、待機していた時期が4ヶ月ほどありました。知人が大型トラック製造の日野自動車の溶鉱炉の部品を製造し、取り替えなどの業務をされていました。時間があり、収入もなかったので、この会社で働かせていただいたのです。生まれて初めて、高いというのでしょうか、深いというのでしょうか、溶鉱炉の中に入ったことがありました。顔も作業服を真っ黒になりましたが、燃やされませんでした。もちろん火が落とされていたからです。仕事は、冷却器の交換と設置だったと思います。いろんな仕事をしてきた私ですが、小学校の社会科で学んだ八幡製鉄所の大溶鉱炉を想像できないままだったので、実物の溶鉱炉に入る機会を得た私は、やっと納得した時でした。

そんな仕事をしていた5月に、長男が生まれました。親になって、くすぐったいというのでしょうか、ムズ痒いような感じを覚えました。どこから見てもまだ学生っ気の抜けない青二才でしたから、周りが心配していました。この子が2ヶ月の時、私はアメリカ人の実業家に従って、中部圏の一つの街に引っ越したのです。そこは私の生まれ故郷を吸収合併した街で、小学校一年の夏まで住んでいましたから、原点回帰だったことになります。目抜き通りに、果実店があり、その店の一部分を父が間借りして、事務所としていた懐かしい家です。すでに父は召されていましたが、このおじさんを頼って、何度も家内と長男を連れて遊びにいきました。店に行きますと、幼い私を可愛いがってくれた彼は、『雅ちゃん、天丼を食いに行こう!』と、必ず品を替えてはご馳走してくれたのです。彼は県の青果商組合の責任者をされていて、朝方、時間のあった私は、このおじさんの紹介で、青果仲卸商の手伝いを市場で始めたのです。運動にもなるし、收入もあるし、それに果物や野菜を、いつもたくさん頂くことができました。この方は、私と同い年で、子どもさんも私の長男と同年でした。転職をして故郷に戻って、東京とは比べられないほど豊かな自然の溢れる街に住み始めて、結局、私たちは、そこでもう3人の子どもを与えられ、34年を過ごしたのです。そこは、中部山岳の急峰に囲まれて、まるで自然要塞の中にいるようで、台風の猛威にさらされたという記憶がほとんどなかったのです。

ところが、今、台湾に「11号台風」が襲来し、まもなく海を渡って上陸しそうな気配がしています。竈の中のような暑さを吹き飛ばしてくれて、凌ぎやすくなったのは感謝なのですが、外は強風が吹き荒れて、窓を打ち叩いています。歓迎したくいない台風が、今年は9月の半ばで、もうすでに三度も襲来してきています。日本を覆っている高気圧の勢力が強いせいで、北に進路を取れない「11号」が、西寄りにコースをとっているからですが。自然の猛威の前に、人間は何もできないのですね。されるまま、通り過ぎていくのをじっと待っているしか方法のないわけです。来週は「中秋節」で、三連休ですが、この台風は、今後、どんな進路を取るのでしょうか、予断を許せません。アジア圏の中国も韓国も北朝鮮(朝鮮人民共和国)も日本も、同じ自然の猛威の前に、共にさらされている「親密感」や「運命共同体意識」を感じさせられてなりません。

あの溶鉱炉の中、火さえ落ちていれば、そこで風雨をしのげる「要塞」なのでしょうけど、台風の当たり年(!?)に、あちらこちらに散って生活している四人の子どもたちのことが、ちょっと気にかかる週末です。

立ちん坊

1960年代に、面白い歌がありました。東京オリンピック(1964年10月1日)の開催が決まり、東京の街が建築ラッシュに沸いていた時期に、多くの労働者を抱えていたのが「山谷」という街でした。いわゆる「ドヤ街」でと呼ばれ、オリンピック開催に伴なう都市整備が急進行していました。ビルや競技場や新幹線や高速道路など建設にために、膨大な量の労働力を必要としていたのです。そのために、日本中の田舎から労働力が求められ、日雇いの労働者が、首都東京に集まっていたのです。そんな彼らを収容する「ドヤ街」の1つが、「山谷」にありました。そこで寝起きをして、建設現場に通う住人たちを歌いこんだのが、「山谷ブルース」でした。

『今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ                                                                       どうせどうせ山谷のドヤ住まい 他にやることありゃしねえ

一人酒場で飲む酒に かえらぬ昔がなつかしい
泣いてないてみたってなんになる  今じゃ山谷がふるさとよ

工事終わればそれっきり お払い箱のおれ達さ
いいさいいさ山谷の立ちん坊 世間うらんで何になる

人は山谷を悪く言う だけどおれ達いなくなりゃ
ビルもビルも道路も出来やしねえ 誰も分かっちゃくれねえか

だけどおれ達や泣かないぜ 働くおれ達の世の中が
きっときっと来るさそのうちに その日は泣こうぜうれし泣き日

1963年、学校入ってから、最も日当のよかったのが、そういった現場で働く《日雇い》でした。それで、「上野」、「横浜」、「芝浦」で、まだ真っ暗な早朝に、《立ちん坊》をして、仕事にありついたのです。冬など、焚き火を囲んで、みんな黙りこくってるところに、何人もの手配師がやって来て、『あ、お前、お前、お前・・・・!』と言って、一日の必要人数を雇い上げていくのです。仕事にありついた者は、『よーし!』と嬉々として一日の仕事の現場に向かいます。しかし、雇われなかったら、「売血」して、一日の食事代と宿賃を得る人も少なくなかった時代です。

敗戦の負い目で、何もかも失ない、《一億総自信喪失》の日本と日本人とに、アジアで初めて開催された一大イヴェントの「オリンピック東京大会」の成功が、自信を取り戻させたのではないでしょうか。東海道新幹線が開業し、首都高の高速道路網が整備され、焼夷弾で焼かれた街に、ニューヨークにも引けを取らないようなビルが林立していました。『どうなるのか?』と戦々恐々として、世界中が注視し続けてきた、《危なっかしい日本》です。20年余り、終戦後を地を這うように忍んで過ごしてきて、やっと経済的に精神的に復興回復をしていることを、この大会は、世界に示すことができたわけです。《平和の祭典》であるオリンピック大会の趣旨にかなって、東京で開くことができ、成功裏に終わったことを、世界は賞賛し、高く評価して、変えられていく日本に安堵したのではないでしょうか。

『成功の裏に、こういって生きている日雇いたちがいるんだぜ!』と、かつて、《フォークの神様》と異名をとった岡林信康は歌ったのです。同志社大学を中退し、反骨青年の頭領のように、反戦、反権威主義、反社会を歌っていました。そんな彼が、NHKの「SONGS」というテレビ番組に出ていて、久しぶりに彼の歌声を懐かしく聞いたのです。弟と同年齢で、まあ同時代に青年期を生きた人だからでしょうか。

この番組を録画してもらったのですが、中国の学生たちに、私に託された授業で、どう使おうかと悩んでいるところです。歌の最後の部分に、『・・・ 働くおれ達の世の中が きっときっと来るさそのうちに その日は泣こうぜうれし泣き』と、夢が託されていますから、教材になるかも知れません。今はもう七十代、八十代になっている《立ちん坊》たちも、好好爺になって、『・・・誰も分かっちゃくれねえか』とかつては歌っても、理解して慰籍してくれる家族に囲まれながら、思い出を嬉し泣きしながら歌っていることでしょうか。