立ちん坊

1960年代に、面白い歌がありました。東京オリンピック(1964年10月1日)の開催が決まり、東京の街が建築ラッシュに沸いていた時期に、多くの労働者を抱えていたのが「山谷」という街でした。いわゆる「ドヤ街」でと呼ばれ、オリンピック開催に伴なう都市整備が急進行していました。ビルや競技場や新幹線や高速道路など建設にために、膨大な量の労働力を必要としていたのです。そのために、日本中の田舎から労働力が求められ、日雇いの労働者が、首都東京に集まっていたのです。そんな彼らを収容する「ドヤ街」の1つが、「山谷」にありました。そこで寝起きをして、建設現場に通う住人たちを歌いこんだのが、「山谷ブルース」でした。

『今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ                                                                       どうせどうせ山谷のドヤ住まい 他にやることありゃしねえ

一人酒場で飲む酒に かえらぬ昔がなつかしい
泣いてないてみたってなんになる  今じゃ山谷がふるさとよ

工事終わればそれっきり お払い箱のおれ達さ
いいさいいさ山谷の立ちん坊 世間うらんで何になる

人は山谷を悪く言う だけどおれ達いなくなりゃ
ビルもビルも道路も出来やしねえ 誰も分かっちゃくれねえか

だけどおれ達や泣かないぜ 働くおれ達の世の中が
きっときっと来るさそのうちに その日は泣こうぜうれし泣き日

1963年、学校入ってから、最も日当のよかったのが、そういった現場で働く《日雇い》でした。それで、「上野」、「横浜」、「芝浦」で、まだ真っ暗な早朝に、《立ちん坊》をして、仕事にありついたのです。冬など、焚き火を囲んで、みんな黙りこくってるところに、何人もの手配師がやって来て、『あ、お前、お前、お前・・・・!』と言って、一日の必要人数を雇い上げていくのです。仕事にありついた者は、『よーし!』と嬉々として一日の仕事の現場に向かいます。しかし、雇われなかったら、「売血」して、一日の食事代と宿賃を得る人も少なくなかった時代です。

敗戦の負い目で、何もかも失ない、《一億総自信喪失》の日本と日本人とに、アジアで初めて開催された一大イヴェントの「オリンピック東京大会」の成功が、自信を取り戻させたのではないでしょうか。東海道新幹線が開業し、首都高の高速道路網が整備され、焼夷弾で焼かれた街に、ニューヨークにも引けを取らないようなビルが林立していました。『どうなるのか?』と戦々恐々として、世界中が注視し続けてきた、《危なっかしい日本》です。20年余り、終戦後を地を這うように忍んで過ごしてきて、やっと経済的に精神的に復興回復をしていることを、この大会は、世界に示すことができたわけです。《平和の祭典》であるオリンピック大会の趣旨にかなって、東京で開くことができ、成功裏に終わったことを、世界は賞賛し、高く評価して、変えられていく日本に安堵したのではないでしょうか。

『成功の裏に、こういって生きている日雇いたちがいるんだぜ!』と、かつて、《フォークの神様》と異名をとった岡林信康は歌ったのです。同志社大学を中退し、反骨青年の頭領のように、反戦、反権威主義、反社会を歌っていました。そんな彼が、NHKの「SONGS」というテレビ番組に出ていて、久しぶりに彼の歌声を懐かしく聞いたのです。弟と同年齢で、まあ同時代に青年期を生きた人だからでしょうか。

この番組を録画してもらったのですが、中国の学生たちに、私に託された授業で、どう使おうかと悩んでいるところです。歌の最後の部分に、『・・・ 働くおれ達の世の中が きっときっと来るさそのうちに その日は泣こうぜうれし泣き』と、夢が託されていますから、教材になるかも知れません。今はもう七十代、八十代になっている《立ちん坊》たちも、好好爺になって、『・・・誰も分かっちゃくれねえか』とかつては歌っても、理解して慰籍してくれる家族に囲まれながら、思い出を嬉し泣きしながら歌っていることでしょうか。

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