「学恩」、読んで字の如しで、人としてどう生きるか、道理や学問の初歩や深淵を学ぶに当たって、恩義のあること、恩人のことです。一に「広辞苑」、二に「ラジオ放送」、三に「ばいぶる」です。「広辞苑」が、1955年に岩波書店から刊行されました。私の父は、その初版本を買い求めて、『さあ、雅、確り勉強しろ!』と無言で手渡されました。文学部に学んだ人に比べれば格段に語彙数が少ないのですが、この辞書のおかげで、母国語に対する興味を引き出された私は、いたずらをしないときには、辞書の中を彷徨いながら、新しい言葉に触れる喜びを楽しんでいたのです。同級生に比べて、大人の世界を垣間見て、あたりを見回しては、ゾクゾクしたり、ドキドキしたのを思い出します。
テレビが我が家に侵入したのは、兄が入部していた大学のアメリカンフットボール部が、東西対抗に出場するという時でした。《子バカの父》は、その試合にスタメンで出る息子見たさに買ってしまったのです。それ以前は、真空管を内蔵したラジオが、テレビの代わりに、我が家のタンスの上に鎮座していました。これに耳を済ませては、新しい言葉を聞き取り、意味を調べたりしていました。そのラジオからは、ボードビリアン・川田晴久の『地球の上に朝が来る・・・その裏側は・・・』と歌う歌声、NHKの「新諸国物語」や「一丁目一番地」の番組が聞こえていました。たくましく想像力を働かせては、食い入るように聞き入っていたのです。
「ばいぶる」、これは母が14歳から愛読してきた書物です。『読みなさい!』と言われたことはなかったのですが、紙片に短い文を書き写しては渡されたことがありましたが、やがて、自ら読み始めるようになり、《座右の書》となって、今日に及んでいます。知的な好奇心を満足させてくれ、生きていくための骨や肉を付けてくれたのは、この三つでしょうか。
さらに、私には、感恩を謝したいと願う方が三人おります。一人は内山先生、田舎から転校してきた私を小学校2年の2学期から担任してくださった方です。幼稚園も行かず(山奥でなかったからですが)、病気がちで登校日数の極めて少なかった私は、登校した日には、じっとイスに座ることができずに、立ち歩いては同級生にちょっかいを出していました。多動性の問題児だったのです。国語の授業の時でした。教科書の記事の擬音を、『電車の切り替え線で起こる音です!』と答えた私を聞いて、『よく分かったわね!』と、山内先生は褒めてくれたのです。それから自分が変わったのを覚えています。褒めるって、褒められるって、すごいことなんですね。
もう一人は、中学江三年間担任をしてくれた小机先生です。髪の毛が薄くて、明るい目を眼鏡の下に見せていた方で、社会科を担当していました。この方は、挨拶を交わすときに、私たちが立つ床に降りて、深く頭を下げていました。『まだ毛も生え揃わない私たちを、一人の人として敬意をもって接してくれている!』と思わされたのです。今日も、F大で授業があり、小机先生に倣って、はじめと終わりの挨拶を致しました。三つ子の魂、60までですね。
さてもう一人は、宣教師さんです。狭量で、井の中の蛙のような、日本主義に凝り固まった小生意気な私を、世界に通用するひとりの人間に矯正してくれたのです。一民族の優秀性を棄て切れずにいた私に、すべての人種・民族・国家が独自の優秀性を持つことを教えてくれたのです。妻の愛し方もです。どう考え、どう思索し、何を構築すべきかもです。つまり、《人間》を教えてくれたと言えるでしょうか。この方は、先生と呼ばれることを固辞されたのですが、敢えて私は言葉を変えて、「お師匠」と呼びたいのであります。2002年に召されたのですが、年月が過ぎていくに連れ、このお師匠への感恩は増し加わるのです。今夏日本に帰国した折、彼の書き表した書籍を、立川の書店で一冊買い求めてまいりました。読書の秋に、この書を紐解くのは、時宜を得たことのように思えてなりません。彼の夢・幻の追随者でありたいと、改めて身を引き締めて覚悟を決めた夕べであります。