伊豆大島の南東部に、「波浮(はぶ)」という港があります。野口雨情が、「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ夕焼け小焼け 明日の日和は ヤレホンニサなぎるやら」と作詞して、中山晋平が曲をつけ、1923年に発売された流行歌で、一躍有名になった港なのです。伊豆の島嶼部は、今でこそ観光地になりましたが、かつては「流刑の島」で、鳥と流人しか通わない島でした。もう何年前になるのでしょうか、私の友人が、この波浮港から連絡船の通う、「利島」というところの中学校で英語教師をしていました。彼が、『子どもさんたちと一緖に遊びにきてください!』と、招いてくれましたので、家族6人で、海水浴に行ったことがあったのです。
熱海から大島行の船に乗って、元町港に着きますと、そこから島内をバスで、波浮港まで行き、そこから利島行の船に乗り換えたのです。利島は、平坦な土地がわずかで、島が小高い山そのもののような感じだったのです。どのくらいの世帯数、人口があったのでしょうか、小・中学校がありましたから、わずかながら学齢期の子どもたちもいたわけです。連絡船が入らないと、野菜も果物も肉もない離島でしたが、小さな日用雑貨や食料品を売る店で、食材を買っては料理したのです。きれいな海で数日、泳いだり、小さな島巡りをしたりして過ごし、楽しい一夏を過ごすことができました。
あれから、もう25、6年になるのですが、「波浮港」には思い出があったのです。その時が、私の初めての訪問でしたが、父が好きだった歌手が、『三日遅れの便りを乗せて 船がゆくゆく 波浮港・・・・・』と歌っていた、この歌の歌詞に、「波浮港」とあったのが強烈な印象で残っていたのです。『野口雨情が作詞し、この歌手も歌う、「波浮港」ってどんなところだろう?』と思ったことがあって、利島行が決まって、伊豆大島の港にやって来たときに、『ああ、ここが、あの波浮港か!』と、初めて思い出したのです。『台風などで海が時化ると、連絡船が通わないで、三日も郵便物が遅れてしまう「波浮港」って、ここだったのか!』と感心してしまったわけです。
今日15日、3年生のクラスが始まるとき、一人の学生が、『《教師節》、おめでとうございます!いつもありがとうございます!』と言って、大きなカーネーションの花束をくれました。実は、この《教師節》というのは、中国特有の日で、教師への感謝を表す目的で制定されていて、9月10日なのです(祝日ですが、学校は休みではありません)。今年度は教えていない4年生の学生も、その他の学年の学生も、何人もがメールでお祝いと感謝を伝えてくれました。私の担当する授業は、水曜日ですから、三日遅れではなく、《五日遅れ》で、この《教師節》の感謝を表わしてくれたわけです。嬉しかったのです。ただ単純に感謝しました。以前でしたら、そんな大きな花束を、大の大人が持ち歩くのはきまり悪くて、だれかにやってしまいましたが、今日は違いました。
今日は1時間だけの授業を終えて、その学生に感謝を改めて伝え、自信満々で、キャンパスを横切り、東門のバス停まで歩いたのです。案の定、ジロジロと視線を向けられました。ある見知らぬ学生は、『綺麗!ハッピー・バースデイ!』と声をかけてきました。きっと外国人教師の誕生日だったんだろうとでも思って、祝福の言葉をかけてくれたのです。これって、中国の青年たちのいいところなんです。バスの中でも、バスを降りて我が家までの道筋でも、好奇の目が向けられていました。でも私は、鼻高々で背筋を伸ばして道を進みました。この地方で有名な麺(バン・ミエン)を、たまに食べる小さな食堂のおばさんが、『何処でもらったの?きれいだね!』と声をかけてきましたから、『学生給我!』と答えたのです。
この国に来て、次代を担う学生たちから、感謝と祝福を受けて、ほんとうに嬉しくて感謝したのです。自慢する気持ちではなく、この年齢になっても働く機会が与えられ、教壇に立つことができ、クラスの学生たちに感謝され祝福される特権を、ただただ感謝し、喜んだのです。誕生日には、ケーキを買ってきてくれたり、夏や冬の休み明けには、故里の特産品を、『美味しいですから、召し上がってください!』と渡されたり、教師冥利につきます。中国漁船拿捕で、日本への批判の高まりのこの数日、『外出に注意してください!』と、北京の日本人大使館から勧告が出ていますが、華南のこの街に居る私は、《五日遅れの感謝》を受けて、堂々とし喜悦の水曜日でありました。