やだやだ!

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私が学んだ学校は、昔は、教師を『チャックさん』、学生を『廣田さん』と呼ぶ習わしだったそうです。アメリカ人の医師が始めた学校でしたから、彼らの考え方で、教師も学生も一線に並べて、上下の意識のない立ち位置を尊重したのです。つまり”Mr”を名前につけて呼び合ったのです。これって、初めて会った人を、『どう言った呼称で呼んだらいいのだろう?』と、いつも悩んでいる日本人の私にとっては、最も好いと思っているのです。

川柳に、「先生と呼ばれるほどのばかでなし」というのがあります。この意味は、人をおだてて「先生!」と呼びますと、呼ばれた人は、『俺って偉いんだ!』と錯覚して、いい気になるのです。そういうことを知っているので、議員さんや老練な流行歌手や麻雀の上手な打ち手、さらには誰にでも、『先生!』と呼ぶわけです。『俺は、そんなおだてに乗らされて、有頂天になるほどの馬鹿ではないんだ!』と、皮肉の籠った川柳なのです。

一昨日も同じ学校で働く同僚ご夫妻をお招きしたのです。いつも招かれてご馳走になってきましたし、今学期で「外教」を辞められ、帰国されますので、ご夫妻を昼食にお招きして、お交わりをもったわけです。お互いを、『山田先生』、『廣田先生』 と呼び合うのですが、いちばん好いのは、”Mr”だと思っています。日本で教員をしていた時に、外線の電話がありますと、電話をとった方が、『◯◯先生は、ただいま授業中で・・・』と受け答えていました。これって、『先生』はないのです。外部の方に対して、同僚に先生をつけるようなことは、おかしなことなのです。世間を知らない教員がよくやる間違いなのだそうです。

名前や二人称代名詞を使わないで話してきた私たち日本人は、相手を、何と呼ぶかに苦慮するのです。先生や社長に、『あなたは・・・』と学生や平社員が呼ぶとおかしいのです。それで二人称を使わないで役職名で呼ぶわけです。『課長!、部長!、社長!』とです。そして、「尊敬語」で、『おいでになられた』、『お話になられる』と言った表現をするのです。まずもって、日本語は難しいことばです。中国語の二人称代名詞には、「你 ni 」がありますが、敬意を表すときには「您 nin」を使うのです。東アジアは面倒な人間の上下関係への拘りがあるからでしょうか。

自分の中にも、『老師(これは教師に対する尊称です)』と、敬意の籠った呼ばれ方をしてもらうと、なんとなく嬉しい気持ちが潜んでいるのを知って、ゾッとします。やだやだ!

(写真は、中国のあちらこちらにある「老子」の像です)

提案

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人の名前に、「君(くん/きみ)」をつけることがあります。ちょっと気取って、上品に相手を呼んだり、手紙の中で書いたりしたことがありました。くすぐったい感じがして、『オレらしくないなあ!』と感じて、使うのを躊躇してしまったのを覚えています。喧嘩の相手を呼ぶ時には、『てめえ!』と呼ぶのに、『クン』や『キミ』はないわけです。

いつ頃から、この「君」が使われるようになったのでしょうか。ウイキペディアには、「君とは東アジアの漢字文化圏、特に中国や朝鮮の王朝で見られた皇族・王族または功臣の称号のこと。中国では、戦国四君の一人孟嘗君が有名。」とあります。例えば、日本でも、「大君」とか「主君/君主」とかは、王や支配者に対して使ったようです。子どの頃に、大人が酔って、よく「軍歌」を歌っていたのを耳にしました。『我が大君に召されたる・・・』、これは「天皇」を意味していて、戦意高揚のための歌だったようです。

スポーツや芸能界では、「さかなクン」、「マー君」などが使われているにを聞くのですが、呼ぶ方は親しみを込めてそう呼ぶのですが、聞く方が、オジさんになっているのに、このままでいいのかなと思ってしまうのです。そういえば、国会の中継を聞いていた時に、衆議院でも参議院でも、議長が、質問者や回答者、演説者を呼ぶ時に、『安部君!』と呼んでいます。これだって、『「君」はないだろう?』と思うのですが、どうなのでしょうか。

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私が、ある学校の招聘を受けて、教師になった時に、こんなことがありました。学卒で教員になっていた同年の男が、私のことを、『 廣田クン!』と呼んだのです。すぐに分かりました。『俺が先輩で、お前は後輩だ!俺は一流大学を出ていて、お前は三流大学卒だ!俺は学卒の就職で、お前は転職だ!・・・』と、腹の中で思って、そう呼んだことがです。こう言った接し方をする男が、時々いるからです。まだ血気盛んだった私は、「坊っちゃん」ではありませんが、ぶん殴ってやろうと思ったのですが、可哀想に思ってやめました。

『マサちゃん!』と、父や母や兄や弟が呼んでいました。この『ちゃん!』の響きはいいですね。親愛の情が籠っていて好いものです。中国語にもあります。「小xiao」を名前につけて呼ぶのです。その他にも、「幼名」で家族内では呼ぶのだそうです。今の日本ではなくなりましたが、戦国武将などは、生涯に何度か名前が変わっているようです。その他には、「渾名(仇名とも書く<あだな>)」もありますね。『マサボー!』と呼ばれたことがありましたが、一生物(いっしょうもの)ではありませんでした。

一つの提案ですが、あの襲来するハリケーンに女性名をつけて呼び、台風にも名前がつくように、年末に、過ぎた一年に、「名前」をつけて 歴史に刻むのはどうでしょうか。漢字の一文字で言い表すことより、面白そうなのですが。

(写真上は、「裸の王様」、下は、「さかな君」です)

2014年

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祝福に満ちた2014年の始まりです。
難しい課題もありますが、好い方向に向かうと信じているのです!
悩んでいても解決しないことを、悩むことはないから。
『きっと、好くなる!』と信じることにしました。
自分のことも、自分の家族のことも、自分を養い育ててくれた祖国のことも、心配していません。
この私ですが。
『こんなに、長生きできるとは思いもしなかった!』のです。
六歳で、召されても不思議でなかったからです。
十七の時に、波にさらわれていたかも知れないのです。
十九の時に、雷に打たれなかった。
33年前に、ガス爆発の事故で九死に一生を得た・・・・そうでした!
10年近く前に、自転車で転倒して歩道側に投げ出されて助かりました。
これって「悪運」が強いのではありせん。
『し残したことがあるからよ!』と、妻が言います。
これこそが私です。
時間がゆったりと流れていきます。
誰もせかさないからです。
自分に何かを強いることをしなくなったからでしょうか。
何処に向かうのでしょうか?
どの街も、どの家も、歓迎してくれることでしょう。
体はね。
この心は、何処に向かって羽ばたくのでしょう?
まだまだ翔ぶ力があるでしょう。
翔びかける鷲のようになれたらいいのですが。
そう、もう一飛びしたいのです。
大晦日に、何か報告できるでしょうか。
平和、安心、安堵の一年であることを願って。

(写真は、「ハクトウワシ」です)

2013年

大晦日にupできなかったものです!

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「この日を喜び楽しむ。」、やって来た日、迎えた日を、『この俺のために用意された日と思って、一日一日を喜び楽しみながら生きていこう!』と決心した日から、ずいぶんと年月が経ちました。そのように生きてこれて、好かったと思うのです。

父や母からあふれるような愛を受けたこと、満天の星を藁草の中から見上げて息を飲んだこと、兄や弟と嬉々として遊んだこと、通学路に脇の小川でザリガニ採りをしたしたこと、どうして地球が浮いてるのか考えあぐねたこと、鬼ごっこに夢中になって暗くなるまで遊んだこと、母の作ってくれたかた焼きそばや父の買ってきてくれたソフトクリームの美味しかったこと、泳ぎ疲れた帰り道にしゃぶったボンボン、空も川も空気も、そして人の心もきれいだった日々・・・数えきれなく過ごした日々が思い出されます。

2013年も今日と明日、364日目の朝を迎えました。息がゼエゼエしています。体がだるいのです。この数日は風邪気味で、元気がありません。こう言った日は、『そうだ、<休め>と言われているんだ!』と思うことにしています。昨日、体調がすぐれないことを聞いた若い友人が、<香港で買ってきた効く風邪薬>を、別の友人に託して届けてくれました。「一日三回10粒」とあります。知り合いの夫婦が、リンゴとミカンを届けてくれました。そばに「愛人(中国語では妻のことを、こう呼びます)」がいてくれます。つくづく幸せだと感じております。

今朝は、もう大丈夫です。昼前に着くように、バスに乗って、1月2日に行われる「試験」の問題用紙を、学校に取りに行きます。日本だったら、ほとんどの機関が休みなのですが、ここは旧暦の国、「いつもの日」です。それでも元旦は、国の決めた祭日で休みになっているのです。下のバス通りから、クラクションやタイヤ音が聞こえてきます。慌ただしく電動自転車と人が行き来しています。

『さあ、この日を喜ぼう!』と、自分に語りかけた朝です。2013年に起こった「好いこと」を思い返して、好いお年をお迎えください。

(写真は、私の「故郷の山と太陽と空」です)

年の瀬に思う(10)

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「融和」という言葉を、辞書(コトバンク)で調べますと、<[名](スル)1 とけてまじりあうこと。また、とけ込んで調和すること。「周囲の色と―する」、2 うちとけて互いに親しくなること。「―をはかる」「仲間と―する」>とあります。今年亡くなった人の中に、南アフリカで「アパルトヘイト」の撤廃に尽力した、ネルソン・マンデラがいます。世界中から極めて高い評価を受けている人物で、その影響力は絶大なものがあります。彼の語った言葉に、『美しい南アフリカについての夢があるならば、その夢につながる道もまた存在します。そのような道のうち、2つの道の名前はきっと「善良(Goodness)」と「赦し(Forgiveness)」でしょう。』というものがあります。

私は、高校時代の冬場、この時期に、「府中刑務所」をひたすらに三周する、運動部の練習をしていました。灰色の高い塀の周りをただ走るだけでした。『このムショの中に、自分の生涯で入ることがあるだろうか?』などとぼんやりと思いながら、早く三周の走りが終わるのを待ちながら、薄汚れた塀を左手に見ながら走っていました。その薄ぼんやりした思いが、実現したのです。四年ほど前になるでしょうか、私たちの住んでる街から南に行った海岸部の街から、五十代のご夫婦が訪ねて来られました。どなたかから、私の帰国の時期を聞いたからでした。

この夫妻の息子が、日本に密入国をし、窃盗罪を犯して懲役刑になり、その「府中刑務所」に入獄していたのです。『持病があるので、様子を見てきて欲しいのですが?』とのことで、次兄の家から自転車でこの刑務所を訪ねて、足を踏み入れたのです。刑務官がしばらく検討されたようでしたが、結局、親族以外の面会はできないとのことで、預かってきたご両親の写真を、刑務官に託して辞したのです。

そのような刑務所が、ケープタウン近くの洋上の「ロベンス島」にあります。ここにネルソンは、国家反逆罪で28年も収監されたのです。その小島で、長い年月、憎しみや恨みの思いから、「赦し」の思いに変えられていったのだと、彼自身が語っています。肌の色の違う者同士が、「融和」していく道を探り、それを実現し、選ばれて大統領職を果たしたのです。この「融和」が、今日の国家間や民族間の紛争と対立を、平和裡に解決していく、最も優れた道であることを、ネルソンは示したのです。年の瀬になって、また一悶着、日中間の問題が起こってきました。『日本人同士で声高な会話には、十分に気を付けなさい!』と注意されています。在華、在韓の日本人の難しい立場を、しっかり考え、「融和」を実現するのも為政者の責務であることを忘れることなかれ!少々緊張の年の瀬であります!!

(写真は、ケープタウンから12kmほどにある「ロベンス島」です)

年の瀬に思う(9)

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甲府盆地に、釜無川と言われる川が流れています。笛吹川と合流して、冨士川となり、静岡県下を流れ下る川です。この釜無川の支流に、南アルプスから流れ下る御勅使川(みだいがわ)があります。この川が増水期には、氾濫して、釜無川に流れ込むあたりで洪水を起こして、大きな被害を起こしていたのです。戦国武将として名高い武田信玄は、この治水のために、中国の四川省にある、「都江堰」に倣って、「堤」を構築しています。その功績で、信玄人気は、近在のお百姓たちからは絶大なものが、いまだにあるようです。それで、この堤を「信玄堤」と呼んでいます。

この信玄は、『戦国の世で、もう少し遅く生まれていたらい、きっと天下をとっていただろう!』と言われる人物で、それほどの器だったそうです。この信玄には、山本勘助という「軍師」がいました。戦国時代屈指の武将で、この勘助の戦術の助言が信玄を強力に支えたと言われています。

『どんな部下をもっているか?』、これが戦国大名だけではなく、王や企業経営者に問われていることで、成功の秘訣なのだそうです。良い参謀を持った指導者は、良い指導をすることができたのです。これとは逆に、良くない参謀を持った国の国民の悲劇は絶望的です。ある書物にこんなことが書かれてあります。父に代わって王となった若い王が、民の訴えに、どう答えたらいいかと相談しました。彼とともに育った若者は、『私の小指は父の腰よりも太い。』と言って、圧政を行うように勧めたのです。

この王は、彼の父親に仕えた長老たちにも、これ以前に相談していました。国民に向かって、「親切な言葉をかけてやってください」と、長老たちは進言したのですが、彼らの言葉を無視して、若者たちの<おべんちゃら>に気を良くして、圧政をさらに強めて国民を苦しめたのです。小心翼翼とした王様は、どこにも、どの時代にもいるものです。部下の下心を見抜けないで、間違った政(まつりごと)をして、滅びてしまった国の例が多くあります。

『「人の心を自分になびかせられる王」が統治している国は、国民が殖産興業に身を入れて、国を富ませ、安心した国民生活を楽しんで送ることができる!』、こんな進言をする部下を持つ指導者を願っている国と国民のあることを思い、来年こそは変化があることを願う年の瀬です。

(写真は、四川省にある「都江堰」です)

年の瀬に思う(8)

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「地球」を乗り物に見立てて、「地球号」と呼び始めたのは何時の頃からでしょうか。衛星からみれば、空中に浮く「飛行船」や「宇宙船」のように見えることでしょう。24時間かけて自転しながら、決まった軌道を正確に運行するためのペダルやエンジンや翼を持たないのに、太陽の巡りを一年かけて回っていることほど、神秘なことはありません。虚空に浮いていること自体が、不思議でなりません。子どもの頃に、『どうして?』と思っていたのですが、まあ故意に忘れたふりをしながら、生活の必要を満たしながら生きてまいりました。ですが、答えを得られないまま、年月が過ぎてしまい、納得しないままでいるのです。きっと、「大いなる意志」があるに違いありません。

そんなことは、つゆも思わないで、人は人と、国と国は、小競り合いをし、関係を恢復させ、それをまた繰り返しながら過ごして、一年一年と過ぎて行き、人だけは七十年、八十年のサイクルで消えていくわけです。支えも、ホックもなく浮いている地球、これをどう考えたらいいのでしょうか。太古の昔から、人はこんな疑問を持ちながら、天空を見上げて、考えあぐねてきたわけです。この「太陽系」のようなものが、無数、小学校の授業で<黄河砂>という単位を学んだのですが、とてつもない数で、この十本の指では数えきれない「無限大」の数量だったわけですが、それほどに大宇宙にあるのだそうです。

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先日、中国の無人衛星が、月に着陸したというニュースが伝えられていました。またNASAに探査機が、月の裏側を撮影した映像が配信されていました。大宇宙の広大さから言いますと、それは、ほんのお隣の様子に過ぎないのですね。「お隣」といえば、一番近いのは、この「自分」です。これこそが、一番、「未知」の存在なのです。光学電子顕微鏡は、何億光年もの彼方の惑星を捉えることを可能にしました。ところが、人間こそが、「知られざる世界」で、『何?』、『どうして?』、『それで?』と研究未分野なわけです。

生命の起源、生きること、死ぬこと、記憶、願い、意思、知性、感情・・・・・、分からないことだらけで、まったく『人間、この未知なる者!』です。科学万能の時代、こう言ったテーマについての研究がなされていないのか、できないのか、人は、そのままで死にゆく以外に仕方が無いのでしょうか。きっとこれは、哲学や宗教の主題なのでしょうね。昔、何処かの王様は、長寿や富を求めないで、「知恵」を願い求めたのだそうです。その王様のように、未知なることを解き明かす「知恵」や「理解力」が欲しいものです。『俺って何で、誰で、どうして生きていて、あれやこれやと思い巡らしたり、喜んだり悲しんだり怒ったりするのか?』と、考えている年の瀬の私であります。

(写真上は「アンドロメダ銀河」の像、下は「人間学の祖・哲学者カント」です)

年の瀬に思う(7)

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昨日、窓辺で書き物をしながら、ふとベランダに目をやりますと、雀が三匹遊んで(?)いました。いえ食べ物を探していて、わが家に寄って、一休みしていたのでしょうか。人の気配を感じたのでしょうか、しばらくして飛び去って行きました。

我と来て遊べや親のない雀

雀を見て、遊んでるのか食べ物を求めているのか、そんなことしか想像できない私に比べて、一茶は、親鳥からはぐれてしまった子スズメの孤独を感じ取っていたのです。自然観察の目は、驚くほどに鋭かった俳諧師だったのです。

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

棒を持って追い掛けいる悪戯小僧から、『馬に蹴られて死んじまえ!』 と、罵り言葉を浴びせかけられていたのでしょう。そんな雀に、『さあ、お馬がくるよ。危ないからおどき!』と言葉をかける一茶の優しい心に、ほっとさせられてしまいます。

おとろへや榾(ほた)折りかねる膝頭

「榾折り」と言うのは、お風呂をたくのでしょうか、竈(かまど)にくべるのでしょうか、薪を膝で二つに折ることだそうです。若い時のように、そうしてみるのですが、年老いてしまった今は、『ああ、わしも衰えてしまった!』と嘆息している一茶の顔が見えるようです。先日、ちょっと高いところから飛び降りてみたのですが、膝がガクンとしてしまいました。『こんなことなかったのに!』と思ったことですが、何時までも若いと思っていてはいけないのでしょう。

ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)

当時も、年の瀬には、誰もが追いかけられているように感じ、『し残したことがないか?』とか、『新しい年をどう迎えるか?』と言った思いをしていたのでしょう。ところが、この一茶には「人任せ」な年末を過すごす、ゆとりと落ち着きを感じていたのかも知れません。貧しさが彼を、決して卑屈にはしていなかったようです。命の保持者に、すべてを任せて、新しい年を迎えることにしましょう。

(写真は、「雀(ウイキペディア)」です)

年の瀬に思う(6)

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私たち四人兄弟は、祖父母と一緒に生活をしたことがなかったのです。ただ母のふるさとに出かけた小学校一年の時に、4、5日一緒に生活したことがあっただけでした。もちろん友人の家に、遊びに行くと、奥におじいちゃんやおばあちゃんがいたのが窺えただけで、話をした覚えがないのです。ただ、父が『○○!』と呼び捨てしていた、父の養母の葬儀に行ったことがあるだけでした(その養母を『さん』付で呼んで、『料理が上手な人だったよ!』と懐かしんでいた数週間後に父が召されました。憎んでいた「継母」を赦したのです。人の一生には、色々な愛憎劇があるのだということを、父や母から学んだのだと思います)。

昔の日本映画界に、おじいさん役をすると抜群で、喋りも独特な名優がいました。この俳優の演技は、間延びがしていて、のんびりと悠長な雰囲気に満ちていたのです。ところで「中国のみなさん」を、何かの絵で見たことがありました。それは、長いキセルをくわえて、牛の手綱を引いている絵だったのです。実際に会ったこともなく、近くで一緒に生活もしていない私は、「中国人」のイメージを、その俳優で作り上げていたのです。つまり、「のんびりした中国人」でした。子どもの頃に作り上げたイメージというのは、いつまでも引きずるのでしょうか。2006年から中国で生活し始めて、あのイメージと違って、中国のみなさんは、日本人よりも勤勉で、働き者だということが分かったのです。何処でも、何時でも昼寝をするので、「怠け者」と誤解しているようですが、これは生活習慣であって、仕事の合間、休みの時には、のんびるするだけなのです。ですから、「意外」だったのです。

『中国人のみんなが日本人を嫌いなのだ!』と思われるかも知れませんが、これも誤解です。少なくとも、天津の一年、きちらに来てからの六年半、出会った人から、『日本鬼子!』と呼ばれたことも、石や卵を投げつけられたことも、ツバをかけられたこともありません。一目で日本人と、さとられてしまいますから、分かっていても、そういった行為を受けたことは、全くないのです。私が、「のんびり中国人」だと決めつけていたのが誤りであったように、「鬼子の日本人」だと聞き、学んできたのに、実際に目にする日本人は、『違う!』と思っておられるのです。

『日本には鬱の人が多いそうですね。どうしてでしょうか?』と、時々聞かれることがあります。確かに日本の精神風土からすると、多いのです。ところが、最近では、こちらでも精神的な疾患が多くなっているそうです。国や国民によってではなく、そう言った時代になっているのでしょうか。どの国にも、「精神衛生」が必要な時代なのでしょうか。そんなことを考えている年の瀬です。

(写真は、十二月の花の「セイタカアワダチソウ」です)

年の瀬に思う(5)

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『子ども叱るな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ。』

これは、有名な標語です。子どもの頃は悪童で、いたずらばかりしていて、親や近所のおじさんやお巡りさんに叱られていたのに、親になった途端、『俺みたいになったらいけない!』との自己反省から叱ってしまうのです。私たちの最初の子が男の子でした。『俺に似ないように!』と子育てを決心して、ずいぶん要求が多かったのではないかと、今、反省しています。もう一度、彼を育てる機会が与えられたら、もっと余裕を持って育てたいものです。初めての親をして、意気込みも強かったのでしょう。また、ある親は、子供の頃のことを、すっかり忘れてしまって、生まれてきた子に、必要以上に何かを要求したりするようです。そう言ったことのないように、親に気付きを与えているのです。<来た道>にあったことを忘れないことなのでしょう。

一方、年配者は、足腰や握力などが弱くなってしまい、物を落としたり、転んだりして、粗相(そそう)することが多くなります。『また、やってる!』と、子や孫が顔をしかめるのです。若い人も、今は力に満ち溢れていても、年を重ねると弱くなるものなのです。『それは<行く道>なのだから、忍耐して接してあげなさい!』との勧めなのです。最近、時の経つのが極めて早いのです。この2013年は、特別でした。おっちょこちょいの私ですから、子どもたちに笑われないようにしなければなりません。

この数年、中国のみなさんの「旅行熱」が高まって、世界中に出掛けて行かれています。素晴らしいことです。でも、外国の生活習慣が分からないので、ちょっとトラブルになっていると聞いています。これって、私たち日本人が<来た道>なのです。豊かになった日本人が、大挙して欧米諸国に出かけて行きました。<○○様御一行>という小旗を振ってパリやロンドンやローマの街を闊歩して、ブランド品を買いまくった時に、顔をしかめて非難されたことが多くありました。国際問題にもなっていました。若者が、落書きをして、親と一緒に、それを消しに出かけて行った、とのニュースを聞いたのは、つい昨日のことです。私たちには、非難したり批評する資格はないのです。

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今、<礼儀正しい日本人>だと高い評価を諸外国から頂くようになりました。中国のみなさんは、もうすでに、<行く道>の途上にあるのではないでしょうか。私たちは、様々な物事を、中国から学んできました。その最たるものは、「礼儀」でした。学んで、生活の中で実践してきたのです。源は、「中華思想」、「儒教」にあるわけです。ですから感謝こそすれ、非難などできないのです。日本を越して、「礼儀大国」になりつつある現今であります。

足が擦り切れることもなく、ずいぶん長く歩き、生きて来たものです。これからも、許される限り、感謝な心と、尊敬の思いをもって、中韓両国の友好のために、精一杯生きようと、この年の瀬に、切に思うのであります。

(写真上は十二月に咲く「プリムラ・マラコイデス」、下は「礼記」です)