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「カタクリ」の花です。料理に用いる「片栗粉」の原料になります。今は馬鈴薯を原料に、片栗粉が作られている様です。ここ栃木の三毳山(みかもやま)や出流山(いずるさん)の星野遺跡の近くに群生している、春を告げる草花です。昔の人は、おひたしや味噌汁の具に使ったのだそうです。(送信してくださる「春の里山を歩こう」に掲載されていた写真です。
かたくりの若芽摘まむと はだら雪
片岡野辺に けふ児等ぞ見ゆ 若山牧水
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お元気でしょうか。
昨日、東京に、すぐ上の兄を訪ねました。新宿でお土産と、弁当をデパートの地下の食品売り場で買って行きました。
何年ぶりでしょうか、ずいぶん久しぶりの都会を通過した訪問でした。体調がすぐれないと兄に聞いたので、見舞いでした。
高校野球で、甲子園を目指し、都予選でベスト16で終わったのですが、ずっと元気でした。でも80を超えて、やはり体力が落ちて来たのでしょう、義姉も、夫婦で元気がないようなので、激励でもありました。
よる歳並みでしょうか、老いもまた感謝しないといけないのかも知れません。
家内もボクも、支えられています。家内は、週に一度ほど駅のコンコースにピアノがあって、それを弾きに出かけたり、図書館に行ったりで、最近の治療は、漢方に変えています。良薬もありますが、担当医師の真摯な診断の姿は、家内だけではなく、そばに付き添う自分も癒されているように感じるほどです。
みなさんのお祈りと激励のおかげで、感謝でいっぱいです。ボクは、昨年の十一月に、脳梗塞を起こして一週間入院してしまいました。その後は、体調が良く、先日も、年一度の健康診断の結果が届き、まあまあの報告でした。
お二人も、守られてお過ごしでしょうか。昨日兄の家の近くに桜が咲いていて、いよいよ春の到来です。
お子さんたち、お孫さんたちの健康を願っています。
ご一緒だった頃が懐かしく思い出されます。
その後の隣国の13年も、懐かしい年月でした。
イスラエル戦争、ウクライナ戦争、どう動いていくことでしょうか。主のおいでが近いかも知れませんね。
お元気でお過ごしください。
主の祝福をお祈りしています。
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この下の記事は、私のブログ「悠然自得」に、11年前の今日、掲載したものです。まだ華南の街に住んでいて、日本語の教師をさせていただき、教会に加わっていました。その一部を再掲載します。
『1971年4月4日に、私は家内と「結婚式」を挙げました。「四」が2つ並んだ日だったのです。「縁起」を気にする人が嫌っている日を、ひねくれ者のようにして選んだのではありません。日曜日でもあり、桜の花も咲く頃でしたし、しかも春休み中でしたので、そうしたのです。今日は、その42回目の記念日なのです。昨晩、友人たちと話をしていたら、私たちの結婚の日が話題になり、『実は、明日私達の結婚記念日なのです!』と言ってしまったのです。そうしましたら、『明日の夕方、近くのホテルで結婚記念パーティーをしましょう!』と、その家の夫人が言ってくれ、今夕、家の近くにある大きなホテルでしてくださることになったのです。
実は、今夕、二人で、「日本料理店」に行って、「にぎり寿司」を食べる約束をしていたのですが、急遽、変更することになりました。『42年も忍耐してくれてありがとう!』と、今朝、家内に言いましたら、『私の方こそ忍耐してくださって・・・』と返事がありました。もう、朝の9時の今から、「夕方」のことを思って、そわそわしている私であります。』
そして、今日は、その記念日で、上の娘が、二人で撮った写真を送信してくれました。婚約式の日のものもあったり、長女が当時いたシンガポールで撮ったもの、華南に住んでいた住宅の庭でのもの、この街のルピナスの花園でのもの、退院した母親を訪ねてくれた子どもたち家族と記念撮影した折のものもあります。あの少年も少女、青年たちも、だいぶ歳を重ねています。
今日は、「ちらし寿司」を作ろうと思っています。数日前に、『あのちらし寿司が食べたいわ!』と、家内が言ったからです。この頃は、同信の漢方医と出会って、この医師の勤務する病院に通って、漢方治療を受けていて、家内は元気を取り戻しつつあります。人を訪ねたり訪ねられたりし、短歌の会に所属し、図書館に行ったり、駅中にある街ピアノで讃美歌を弾いたり、市役所の一階にあるスーパーに出かけたりして、家内は過ごしています。私は、散歩、時々温泉行き、一昨日は隣町まで20kmの自転車行をしました。
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今年の復活節には、宇都宮の教会に出かけ、二人で証詞の機会が与えられました。主のよみがえりを感謝して、会衆の中で、思いっきり賛美したのです。この頃は、出会った人や出来事を思い返し、生かされてきた日々を思い返し、聖書に約束された、これからの日に、迎えに来てくださるお方を待ちたいと思っております。
(Christian clip arts のイラストです)
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『古への人に「殺すなかれ、殺す者は審判にあふべし」と云へることあるを汝等きけり。 されど我は汝らに告ぐ、すべて兄弟を怒る者は、審判にあふべし。また兄弟に對ひて、愚者よといふ者は、衆議にあふべし。また痴者(新改訳聖書は「ばか」と訳しています)よといふ者は、ゲヘナの火にあふべし。 この故に汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思ひ出さば、 供物を祭壇のまへに遺しおき、先づ往きて、その兄弟と和睦し、然るのち來りて、供物をささげよ。 なんぢを訴ふる者とともに途に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴ふる者なんぢを審判人にわたし、審判人は下役にわたし、遂になんぢは獄に入れられん。(文語訳聖書 マタイ伝5:21〜25)』
1953年(昭和28年)3月14日、昭和27年度が終わろうとしていた時期に、衆議院が解散されてしまったのです。まだ小学生だった私も、大人が、罵倒語に「ばか」を使ったことを、うっすらと聞いたような覚えがあります。
それは、予算委員会が開かれている時に、内閣総理大臣の吉田茂が、社会党の西村栄一議員との間で質疑応答をしていました。そのやりとりを、“ wikipedia "から引照してみます。
西村 |
「(前略) 総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求めになりましたか。」 |
吉田 |
「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウワー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じたのであります。 (以下略)」 |
西村 |
「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。 (中略) イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、 (中略) 日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。 (中略) やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか、こう思うのであります。」 |
吉田 |
「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたのであります。私は確信するのであります。」 |
西村 |
「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか。」 |
吉田 |
(無礼なことを言うな) |
西村 |
「何が無礼だ。」 |
吉田 |
(無礼じゃないか) |
西村 |
「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。国際情勢の見通しについて、 (中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ。答弁できないのか、君は……。」 |
吉田 |
(ばかやろう) |
西村 |
「何がばかやろうだ。ばかやろうとは何事だ。これを取消さない限りは、私はお聞きしない。議員をつかまえて、国民の代表をつかまえて、ばかやろうとは何事だ。取消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある。」 |
吉田 |
「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取消します。」 |
西村 |
「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取消された上からは、私は追究しません。しかしながら意見が対立したからというて、議員をばかやろうとか、無礼だとか議員の発言に対して無礼だとかばかやろうとかと言うことは、東條内閣以上のファッショ的思想があるからだ。静かに答弁しなさい。 (以下略) |
この質疑応答の後に、内閣不信任案が提出され、それが可決されて、衆議院が解散されたのでした。それでこの解散を、「バカヤロー解散」と呼んだのです。
ところが、85才になった、自民党和歌山県選出の衆議院議員で、自民党幹事長をしたことのある二階俊博議員が、次期衆院選への不出馬を語ったのです。昨今、大賑わいの「政治資金パーティー裏金事件」で、二階派の事務局長や秘書が立件されたことに、『政治責任は全て監督責任者である私自身にある!』と言ってでした。『不出馬は不記載問題の責任をとったの?それとも、ご年齢の問題?』と、年齢の問題に触れた新聞記者に対して、気を害したのでしょう、『・・・お前もその歳来るんだよ。』と言い返した後に、少し小声でしたが、『バカヤロー!』と言ってしまいました。
捨て台詞のような言い方に聞こえたのですが、国会議員ではなくとも、相手が、報道関係者であっても、言ってはいけない、禁句を発してしまったのです。
人の怒りを引き起こす、最悪な言葉が、これです。関西弁では、『アホ!』と言うのだそうですが、毒度からすると、随分違う結果をもたらすのです。この『バカ!』は、子どもの頃の喧嘩で、よく使った覚えがあります。兄弟喧嘩で、兄に殴られた時などには、かなわない相手に、言葉でそう言ってはわめいたのです。大人になっても、お腹の中で、何度も言ったかも知れません。
イエスさまは、この言葉を禁句にされたのです。「ばか者」というのは、相手への軽蔑です。それは怒るだけでなく、その相手を蔑むわけです。まさに、それは、自分を神の位置に置いた、言い回しになってしまいます。「高慢」になっているのです。それは、神の前で裁かれる言葉だと、主は言われたのです。憎しみは、殺人に値するほどの感情だと言うのが、聖書の基準です。
私たちの長男が、隣家の和歌子ちゃんに、「ばか」と言ったことがありました。それが悪い言葉で、使ってはいけないと教えていたのです。それで、親の顔を見た彼が、咄嗟に『わかちゃん!』と言い直したのです。4才くらいだったのですが、その誤魔化し方に、呆れたり、笑ったりだったのを思い出します。「ば」を「わ」に変えたのには驚かされたのです。今、二人の子の父親をしている息子です。
(ウイキペディアの首相の記者会見場の様子です)
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「母という字を」
母という字を書いてごらんなさい
やさしいように見えて むずかしい字です
格好のとれない字です
やせすぎたり 太りすぎたり ゆがんだり
泣きくずれたり…笑ってしまったり
お母さんにはないしょですが
ほんとうです(サトウハチロー作)
明後日、3月31日は、母の誕生日です。大正6年(1917年)のこの月のこの日に、島根県出雲市で生まれています。娘時代は、群是(GUNZE グンゼ)の繊維工場で働いていたそうです。
小学校の同級生に誘われて、カナダ人宣教師の始められた教会の日曜学校に行くようになり、14才で、イエスをキリストと信じています。「父無し子(ててなしご)」だった母は、聖書の神、イエスさまの父が、「自分の父」であることを知り、信じたことにより、本物の父親を得て、95年の生涯、その信仰を全うしています。
『汝ら見られんために己が義を人の前にて行はぬやうに心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報を得じ。 さらば施濟をなすとき、僞善者が人に崇められんとて會堂や街にて爲すごとく、己が前にラッパを鳴すな。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。 汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。 是はその施濟の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。 なんぢら祈るとき、僞善者の如くあらざれ。彼らは人に顯さんとて、會堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり。 なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。 (文語訳聖書 マタイ伝6:1〜6)』
喧嘩ばかりの私たち兄弟4人の母は、いつも、この「父なる神」に、イエスさまの名で祈る人でした。聖書を読み、賛美をし、パートで得たお金で献金をし、イエスさまを隣人に伝え、そして週の初めの日曜日には、教会で礼拝を守っていました。週日の夕べにも、集会が母の教会であって、食事を用意し、家事を怠ることなく、片付けを済ますと、その集会に出ていたのです。
父は、そういう母の信仰生活を認めていました。そして、父も私たち4人も、その母の信仰を受け継いだのです。
『是なんぢに在る虚僞なき信仰をおもひ出すに因りてなり。その信仰の曩に汝の祖母ロイス及び母ユニケに宿りしごとく、汝にも然るを確信す。 (テモテ後書1:5)』
母ユニケの信仰を、テモテは受け継ぎ、伝道者の勤めを果たし、パウロと共に伝道に従ったのです。今でも、祈られて育ったことを、母に、私は感謝しています。自分を捨てた両親にも、不正を仕掛ける人にも、悪口を言ったりしたのを聞いたことがありません。婦人週刊誌なんか読むようなこともありませんでした。
2012年3月31日、母の95才の誕生日に、父なる神のみ元に帰って行きました。でも約束に従って、再会の望みが、私たちにはあります。母が、よく作って食べさせてくれた「カタ焼きそば」、「ハンバーグ」、「ちらし(ばら)寿司」の味が思い出されて、唾を飲み込んでしまう今朝であります。人差し指で、私も「母」という字を書いてみたところです。
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先日、戦争責任はともかく、誰もが戦争に巻き込まれ時代の一つの産物で、軍用爆撃機の防弾ガラスが、群馬県下の村の納屋から発見されたようです。
実は、戦時下、父が軍需工場の仕事に携わって、金峰山の麓の石英の鉱床から掘り出した原石が、京浜地帯の工場に原料として運ばれ、それを原料として作られたのが防弾ガラスなのです。終戦を目前にした時期に、群馬県下の工場で組み立てられた試作機として作られた「連山」という爆撃機のために製造された物でした。実戦に用いられる前に、戦争が終結して、群馬県の大泉町の農家で、長く保管されていたのが、先頃、納屋から出て来たのだそうです。
今の「SUBARU(スバル)」という自動車メーカーの元の会社が、戦時下に軍用機を製造した「中島飛行機」で、群馬県の出身で、海軍の将校の中島知久兵が、アメリカとフランスで飛行技術や製造法を学んで、軍籍を持ったまま興した会社だったのです。家内のお父さんも、戦時中、この会社の通訳をしていたようです。その会社が作った爆撃機に加えられたのが、父の掘った原材料で作られた防弾ガラスだったわけです。その記事を、偶然見て、父と義父とを思い出したのです。
索道で、山奥から運ばれた鉱石が、隣り村の貯石場に集積されてあり、それをトラックで最寄りの貨車駅に運び、そこから貨物列車で、東京の工場に搬送されていたのだそうです。その索道の終点に、索道を動かす大きなモーターが置かれてあって、そこに父の事務所と家もありました。
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朝鮮半島の京城や山形県などで、父は仕事をしてきて、最後の任地に移って、そこで戦争が終わったのです。そんな経緯がありますので、生まれたばかりの頃に掘り出した鉱石が、このガラスの原材料とされていたのだと思いますと、どうしても私も戦争とは無関係ではなさそうに思い続けて来たのです。
『先生とわが国への侵略戦争とは関係がありません。当時の日本軍と軍人の暴挙だったのですから!』と、私は、授業を始めるあたって学生さんたちに、戦争の過去を詫びた時に、そう彼らに言われたのです。軍部の予算の中から父の俸給が与えられていて、それで買った物品で養われていた自分と、あの戦争と無関係とは言えないからです。
在華中、大学の教師のみなさんの夏季修養会があって参加したことがありました。同じ省や街の諸教会からの参加者が、秘密裡に集まって、開かれていたのです。最初の年の修養会で、証をする機会がありました。侵略戦争に関わった者の子としての償いの気持ちを、来華の一つの理由としてお話しさせていただいたのです。
父が軍需工場で爆撃機の部品製造のために、その原材料の掘削を、軍名で行ったこと、その部品を搭載した爆撃機が、みなさんの奉仕している大学のある街を、日中戦争の折に爆撃して、多くの命を奪ったことをお話しして、赦しを請いました。
そんな思いを、私の内に入れて下さったのは、主に違いありません。でもみなさんは、戦争責任を私に問うことはしなかったのです。でも、父の時代の償いの思いで来てくれたこと、同じ信仰に立っていることなどで、かえって感謝されたのです。数枚の爆撃用のガラスの写真と記事を見て、さまざまな思いが去来してまいります。
(ウイキペディアの特攻機、石英の写真です)
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