また、今

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高校の同級生に、いくつかの〈グループ分け〉がありました。1つは、幼稚園、小学校、中学校と、上に上がってきたグループです。もう一つは、公立小学校を終えて、中学から入ってきたグループです。もう一つは、高校から入ってきたグループです。因みに、私が高校を卒業した翌年、大学ができましたから、けっこう少人数でしたが、幼稚園から大学まで、〈18年間〉の一貫教育を受けた同窓生がいます。

幼稚園からきた同級生は、その結束や仲間意識が強くて、中学から入った私には、見えない垣があって、どうしても入り込むことができませんでした。やっぱり、彼らには〈エリート意識〉があったのでしょう。また、高校から入ってきた同級生は、都立に入れなくて、第二か第三志望で入ってきている同級生が多くいましたので、若干〈コンプレックス〉が見えました。

その中学から、その地域のトップクラスの都立に合格し、有名国立に行った同級生もいました。その反面、高校に上がれなく、ほかの私立高校に行った者もいました。お父さんが亡くなった経済的な理由や、その他には、素行の問題もあった様です。

世の中って、意外と厳しいものがあるのを、年齢を重ねるにしたがって知ることができます。自分が仲よかった同級生が、他の高校に行き、ヤンチャをやっている噂を聞いたりして、会えずじまいで今日まできています。

高校に入学して、一学期に、途中で入学してきた同級生が数人いました。私立ですから、経営上の問題があって、入学を許すのでしょうか。まさにヤンチャ、いえ不良そのもので、それが少年隊に入れる様な〈いい男たち〉でした。仲良くなって、どんな生活をしてるかを話しの中で聞いたりしました。こちらも目立っていたから、同じ匂いがしたのでしょうか。

洋服屋に行くと、自分の着て行ったのを脱いで、吊るされているお気に入りを着込んで、逃げて、新品を手に入れるとか、女性問題とかで、相当悪どいことをしていたのです。そう言った途中入学者は、転入後、間もなくしてやめていきました。こちらは運動部に入っていたりで、悪交際に深入りしなかったのは、幸いした様です。

自分のことも、そう思われているのでしょうけど、あの連中は、今頃どうしているのかな、と時々思い出します。ちゃんとお爺さんをしているのでしょうか。けっこう真面目になって、好々爺だったりしてるのでしょうか。全く目立たなかった〈いい子〉の方が、悲惨な人生を生きていたかも知れません。人生、悲喜交交(ひきこもごも)でしょう。

やめさせたくなかった、〈工事中/成長途上〉の教え子を、庇ったのですが、教師会の決定は、〈自主退学〉の名目で退学処分にしてしまったのです。庇い切れなかった非力を感じ、翌年、その学校を辞しました。自分の〈工事中〉に、いろいろとあって、今、〈工事中〉の孫たちの無事の成長を願い、そんなこんなで、こんなに素晴らしい《今》があります。

(武蔵野の中程を流れる「玉川上水」です)

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100秒

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ブラジルに農業移民をした、私の家内の長兄は、入植後、同時期に働き始めた仲間の自死、その埋葬を痛烈な悲しみの中で体験します。挫折から立ち上がり、自営を目指したのです。ある時、出会った方に「時計修理」の技術を教えてもらい、サンパウロから1時間ほどの街のマーケットの片隅で、時計修理業の店を始めたのです。

開拓地から、馬に乗って持ってくる時計の修理をしながら、勤勉に働いて、事業を大きく拡張していき、まあまあの成功をおさめた様です。土地を買って家を建て、子育てをし、夫人の家族を呼び寄せたそうです。私は、ブエノスアイレスの大会に参加した帰りに、義兄を、この家に訪ねたことがありました。間口の狭い店でしたが、流行っていました。その義兄の店の名が、「ビッグ・ベン」だったのです。ロンドンのウエストミンスター宮殿の時計台が、そう呼ばれていて、その名を、義兄は借用したのです。

我が家にも、昨秋買った壁時計が、振り子を振り続けて、時を刻んでいますが、世界には、特異な名の付いた時計があります。それが、〈世界終末時計〉と呼ばれるものです。「ニコニコ大百科」に、次の様にあります。

『世界終末時計(Doomsday clock)とは、核兵器や戦争、環境破壊などを原因とする人類の「終末」が発生する時刻を午前零時とし、それまでの「残り時間」を象徴的、仮想的に表した時計である。・・・地球になぞらえた(あるいは単に無地の)文字盤をした時計。

ただし、実際に動き続ける時計ではなく、45分から0時までの部分を切り出した、もしくはその部分だけが描かれた絵として表される。誕生は米ソ冷戦時代であり、日本への原子爆弾投下から2年後の1947年。アメリカの科学誌『原子力科学者会報』(原題は『Bulletin of the Atomic Scientists』)の表紙絵として描かれている。

また、アメリカイリノイ州のシカゴ大学には世界終末時計のオブジェが存在する。その後も同誌は定期的に委員会を設けて時刻の修正を行っており、創設以来起こった様々な出来事を元に22回の修正がなされている。1989年からは核の脅威だけでなく、環境破壊などの脅威も針の動きを決定する要因となった。実際2012年には、福島第一原子力発電所事故などを理由に1分間進んでいる。』とです。

2020年現在、世界の終末まで、〈100秒〉になったと、先日発表されました。BAS(原子力科学者会報)の委員会のジェリー・ブラウン元カリフォルニア州知事は、『超大国間の危険な対抗や敵意が、核をめぐる大失態を犯す可能性を高めている。気候変動はこの危機的状況を悪化させている。目を覚ますべき時があるのだとすれば、それは今だ!』と述べています。

私の愛読書には、『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり・・・大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。』とあります。大変な時代の只中に、今はあるのかも知れません。絶望だけではなく、逃れる道が残されているとしたら、そこにも将来と希望が見出されることでしょう。〈100秒〉を厳粛に覚えつつ、今日を、今週を、今月を、望みをもって生きていきたいものです。今日は、二十四節気の「立春」、このところの陽の光は、もう春の様です。

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お粥

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武漢は、中国でも有数の古都で、長い歴史を持っています。長江の流れに位置する内陸の街で、武昌・漢口・漢陽の「武漢三鎮」を、「武漢特別市」と呼ばれています。1938年、旧日本軍は武漢を占領しているのです。

在華中、訪ねてみたい街の一つでしたが、訪ねないまま帰国してしまいました。工業都市として発展しています。今、『武漢加油!』の声が、世界中であげられています。暖かな一杯のおかゆをお届けできたらと思う朝です。

(武漢の街の光景です)
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ワシントン州と品川戸越

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北米、ワシントン州のフリーウエーから、長女が、出張の折、撮ったものです。日本もアメリカも、例年に比べ、雪が少ないのだそうです。ここ栃木の北端、湯西川では、少ない雪をかき集めて、「かまくら」を作ったと、ニュースが伝えていました。

昨晩、華南の街の省立病院に、入院中の家内のお世話をしてくださった友人が、品川にいらっして、戸越公園に咲く、「水仙」と「梅」が咲いていたと、写真を送ってくださいました。

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週末

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落日の北関東から、南に富士を望み見て、今日の無事を感謝したところです。暖かな二月です。東に筑波山、西に大平山、北に日光男体山を眺めることができ、街中ですが、静かな佇まいの中で、生活できる幸に、心安らかです。

三週振りに、次男が、家内に蓬餅、私にキンツバ、その他、夕食にと「穴子と稲荷寿司」を持って、親を喜ばそうと、特急電車に乗って来て、特急電車で帰って行きました。「PET検査」を終え、2月13日の「MRI検査」を控え、今後の母親の治療計画の思うところを、医学界の動きも交えて、話してくれました。彼なりに精一杯の情報を収集しているのです。

巴波川で、母鴨が鳴き声を上げ、小鴨を呼んでいるのでしょうか。やがて世代交代で、小鴨も独立していくのでしょうね。今日は、白鷺が遠くで飛んでいましたが、眼下の川面や対岸のアパートの屋根には来ませんでした。季節の変わり目が、きっとつかめないのかも知れません。よい週末であります様に。

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二月に思う

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『そんなに人材がいないのですか?』、これが正直な印象です。幕末には、土佐にも、薩摩にも、長州にも、さらには江戸にも会津にも前橋にも、逸材がいたではありませんか。戦国期には、「群雄割拠」、信玄も謙信も勝家もいたではありませんか。

それなのに「令和の御代」に、人がいないのでしょうか。中国での話を、若い頃に聞いたことがあります。日本では、若者の発言は、ハナから聞こうとしないのに、中国では、若者の発言に、年長者たちが、〈一応〉ではなく、真面目に傾聴するのだ、と言う話でした。

私の息子を連れて、ある大会に出掛けたことがありました。会の途中の休み時間に、居室に戻ると、おじさんたちが将棋を打っていました。棋板を見ていた、藤井君ではない、4歳の息子が、『おじさん、違う、違うよ!』と言ったのです。差手が間違ってると言ったのです。それを聞いたおじさんは、それを聞いて考え込んだのです。いえ考え込んでくれたのです。そう、中国人をしてくれたわけです。

親の私がハラハラする前に、そんな接し方をしてもらった子が、今、そんなことがなかったかの様に、東京で働いています。相模原にも、鳥取にも、熊本にも、伊予三島にも、室蘭にも、優れた人材が育っています。国政を担える、企業を動かし得る、若者を立派に教育できる人材がいるのです。国の存亡の危機に、忽然と現れてくる人が、備えられています。

この世の現実は、順番待ちをしている人がいるのです。でも、《救国の士》は、人の思惑やご都合ではなく、月光仮面のおじさんの様に、忽然と現れて、疾風のように去って行くのです。一国、一町、一時代の危機の時に、そう、あのジョーイの憧れであった「シェーン」の様な人物です。ピストルを抜かずに、「知恵の籠もったことば」と「決断」とを駆使できる人です。

歴史の中に輩出した人は、その時代の要請に従って、出て来て、いつでもいました。そして事をなし終えて、舞台から降りて行きました。そう言った人が、備えられているのです。私利私欲によってではなく、公明正大で、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって・・・ともに歩む、そう言った人が、世界中の名のない街にいるのです。そんなことを思う二月です。

(「土下座グラヒフィクス」によります)

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誤解

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東京都下、多摩地区で育った私は、「べえべえ言葉」の影響を受けて、『行くべえ!』とか『すんべえ!』とかが混ざった標準語を、小学生の頃に話していました。神奈川県の東京寄り、武蔵野、埼玉、群馬県、そして今住んでいる栃木も、言葉尻に、『・・・べえ!』を加えて言うのです。〈関東方言〉で、方言を研究されている方は、古語や和語の名残だと言っています。

私の母の故郷の出雲には、『だんだん!』と言う言葉があります。漢字で、「段々」と書くのだそうで、『ありがとう!』を、そう言うのだそうです。「いろいろ」と言う意味で、『だんだんありがとう!』の前の部分が残って、後ろの部分が省略されて、『だんだん!』と言う様に変化したと言います。

父がからかっていただけで、母の口から、出雲弁を聞いたことは一度もありませんでした。心の中では、そうつぶやいていたのかも知れませんが、けっこう緊張して、「ふるさとことば」を隠しながら生きていたのかも知れません。95歳で亡くなった母は、歳を重ねても、「出雲弁」を話さなかった様です。

母のふるさとの隣の岡山県には、『はよーしねー!』があるそうです。決して、『早よー死ねー!』と言ってるのではなく、『早くしなさい!』の意味なのです。言葉、とくに方言は誤解されることがある様です。

誤解といえば、今回の玄関の水漏れの一件で、大家さんに電話をした時に、私の誤解、いえ早とちりがあったのです。大家さんが電話口に出られた時、呂律(ろれつ)が回らないお話をされていたのです。『朝からお酒を飲んでいらっしゃるのだ!』と思っていました。生活習慣ですから、よしわるしの問題ではないわけですが。

それで、今週になって、水漏れの現場を見ていただきたくて、大家さんに電話をしたのです。夕方、奥様とお二人でみえられ、玄関の様子を見ていただいたのです。その時、大家さんは、お体が不自由で、後遺症が、歩き方や手の動き、言葉に残っておられたのです。そう、お酒に酔っているのではないことが分かって、声を聞いただけで判断してしまった私は、申し訳なく思った次第です。
 
チャーチルという大英帝国の首相をされた方は、フランス語も、ドイツ語も堪能だったそうです。それでも、外国の要人と、公務で話をする時には、必ず通訳者を通して話を聞き、話をされたそうです。言葉の「誤解」を避けるためでした。面と向かってお会いするまで、早っとちりしないように、学んだ一月でした。

(武蔵野の「くぬぎ林」です)
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あの頃は 俺がお前の 盾だった

この川柳には、『でも今は お前が俺の 盾になり』とつながるのでしょうか。あんなに丈夫だった家内が、闘病している今、家内が、一番気にしているのが、私のクシャミと咳なのです。コロナウイルスではないのですが、風邪で倒れて欲しくないからです。それだけ、再び「盾」にと、頼り甲斐にされて、家内の世話をさせてもらってるからです。

来年の4月は、私たちの“ golden year ” なのです。結婚以来、掃除、洗濯、ご飯作りの家事、妻業をしてもらい、後半の13年間は、私の念願、恩師の勧めの〈中国行き〉にも付き合ってくれた年月でした。働いて糧を得、社会的な責務を果たしてきた私を、影になって支えてくれたのが家内でした。

昨日は、昨年の正月以来かかっています、獨協医科大学病院に、「PET検査」に参りました。転移の有無の検査です。一年経ちましたので、『そろそろ2度目の検査しましょうか!』と主治医に、そう促されましたので、朝、タクシーを呼ぼうとしていたのです。そこにメールが入ってきたのです。『病院まで送ります!』と言って、ご夫婦で、県南の町から30分も車を運転してきてくださったのです。

それは、昨年の台風に被災して、ボランティアで来てくださって、助けてくださった夫妻でした。奥様は、私たちが過ごした華南の街の隣の省の出身で、日本に留学し、日本人の男性と結婚されています。初めは、両毛線、宇都宮線、路線バスで行くか、タクシーにするか迷っていたところへの《助け舟》でした。

昨年は、多くの「盾」に支えられ、守られ、励まされた年でした。私は、洗濯や掃除をし、洗濯物を取り込み、買い物をし、食事を作り、茶碗を洗い、また市役所や郵便局にも行く日を過ごして、『何も仕事していないな!』と思っていました。そうしたら、『準、今していることがあなたの〈仕事〉だよ!』と言う声が聞こえてきたのです。それで、『そうか!』と、思いを強めたのです。

何もしていないのではなく、50年あまりしてくれた家内への《お返し》だけでもなく、彼女が《妻》だから、そうするのだと得心がいったのです。中国の華南の街で、歳を重ねた日本人の夫婦が、一緒に街を歩き、人を訪問し、倶楽部に出掛けたりする様子を、けっこう多くの人が見ていた様です。若い人たちが、羨ましそうに、それを見ていました。

新しい年の最初の月が行こうとしています。中国語で、『时间过了很快 shijianguolehenkuai/時間ってこんなに早く過ぎていくんだ!』と言うのですが、時間だけは誰にも公平に備えられているのですから、無駄にしないで刻一刻、日一日、年一年と、《生一生》を過ごしていくことにします。そう、盾同士だったら、矛盾は起こり得ませんから。

(湖北省武漢の市花の「梅」です)

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竹馬の友

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幼児期に見上げたり、抱きかかえてくれた自分の父親は、体は大きくて逞しく、何でもできて、何でも知っている、そんな「絶対的存在」でした。鞍馬天狗や月光仮面やスーパーマンなどの英雄に、勝るとも劣らない、実に頼り甲斐があった父でした。ただただ『すごい!』存在でした。子どもの発達段階で、この様な父がいてくれることは、必要だと言います。

ところが、そんな父親に欠点や弱さが見え始めてくる頃になると、次には、「友」が必要とされてきます。〈親離れ〉をして、家庭からも一歩出た外の世界で、子どもは「友」を求め始めていきます。これは、《社会性の発達》のために不可欠なことなのです。異性愛に向かう前に、この過程を踏む必要があります。「女の愛にも勝る友情愛」に触れられたら素晴らしいことです。

「竹馬(ちくば)の友」とか「畏友(尊敬する相手のこと)」とか「刎頚の友(ふんけい/生死を共にして、その友のためなら首〈頸〉をはね〈刎ね〉られても悔いのないほどの相手のこと)」とか言います。肩を組み合って歩き、自分の好きな女の子の名を告げ合え、自分の心の中を見せることができ、秘密を露わにでき、その秘密を厳守し合える友を、そう呼んだりするのでしょうか。

中国の「晋書 殷浩伝」に、殷浩(いんこう)と桓温(かんおん)という二人の軍人が登場します。この両者は、幼い日を共に、親しく関わって過ごしていました。「三国時代」の終わり、「太平の時代」を迎えようとしていた頃のことです。その晋王朝が、異民族の襲来に滅ぼされてしまいます。そんな状況下で、「殷浩」の方が名声を上げていたのです。幼馴染みの「桓温」が、『幼き頃、殷浩とは、竹馬で遊んだものだ。私が竹馬を棄てたら、殷浩がそれを拾って遊んでいたのだから、私の方が上だった!』と立場を主張したと言うのです。

それで、幼い日の友のことを、「竹馬の友」と言う様になったのだそうです。私は、竹馬も自転車も、乗り方を、兄に教えてもらったのです。私が好きな格言は、『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。』です。歳を重ねた今も、そんな友や兄や弟がいるのは、なんと言う幸いでしょうか。それでも親爺の背中は、子どもの私の目に大きく広かったのです。
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武漢加油! 衛生の普及

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毎年、インフルエンザが流行し、昨年末からは、「コロナウイルス」による肺炎が、湖北省武漢から、世界に蔓延しています。

世界中から、「武漢加油wuhanjiayou『ガンバッテ!』」という声が上がっています。武漢への思いを、次の様に表している方がいます。

武汉!武汉!你不孤单,⇨ 一人じゃないよ
武汉!武汉!擦干泪眼,⇨ 涙を拭いて
武汉!武汉!你要壮胆 ⇨ 強く雄々しくあれ

古来、「疫病」とか「感染症」である、ペストの流行や、黒死病の蔓延などで、人類は、多くの「疫病」の脅威にさらされてきています。その原因は、劣悪な衛生状況にあると言われています。私たちの国の「衛生」の普及や確率のために貢献した人に、長與 專齋がいます。

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長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよせんさい、天保9年8月28日(1838年10月16日) – 35年(1902年)9月8日)は、日本の医師、医学者、官僚。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。

肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。

文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任する。明治維新により同館は長崎府医学校(現長崎大学医学部)となったが、マンスフェルトと共に、自然科学を教える予科と医学を教える本科に区分する学制改革を行った。

1872年、ベルリン留学時代の長與   明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダの医学および衛生行政を視察した。
明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任する。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務する。同年、東京司薬場(国立医薬品食品衛生研究所の前身)を創設した。
明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任する。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また衛生思想の普及に尽力した。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。しかし明治16年(1883年)に内務卿となった山縣有朋とは肌が合わず、衛生局は業務に支障を来したため、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持った。石黒の紹介で、愛知医学校長兼愛知病院長であった後藤新平を見出して明治16年(1883年)、衛生局に採用し、明治25年(1892年)、衛生行政の後継者として後藤を衛生局長に据えたが、後藤が相馬事件に連座して失脚するとこれを見捨て、以後は石黒が医学界における後藤の後ろ盾となった。
1886年(明治19年)4月27日、元老院議官、1890年(明治23年)9月29日、貴族院勅選議員に就任する[2]。明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任した。また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任するなど、医学界および衛生行政に重きをなした。また、種痘の普及に甚大な功績があった。

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