ラザニア

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先日、高根沢町に滞在中に、お隣の矢板市の一軒の家を訪問しました。そこに、消防士に転職された、一人の青年がおいでになっていたのです。消防と救命救急のお仕事を、自分のなすすべき仕事と決めた方です。

国を守る兵士も、国の治安に当たる警察の公安も、この青年の様に、消火活動や救命活動などに就く方たちによって、国の安寧秩序が守られて、安心して社会生活が送られているのを知ります。素敵な顔と考えを持たれた若者でした。

このところアメリカのカルフォルニア州のロスアンゼルスと、オーストラリアの頭部のサウスウエールズ州やクイーンランド州などで、山林火災が起こっているというニュースが報じられています。森林を焼き尽くして行く火が、都市部をも焼き続けている様です。

それは落雷による自然発火だそうです。このところ、火山の爆発、地震、台風、そして火事と、自然災害が頻繁に起こっています。まさに、「地震」、「雷」、「火事」、「親爺(台風のことを言っているという一説があります)」の猛威です。

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台風の暴風雨に熊本の本渡で見舞われ、落雷の危機に八王子で遇い、台風の大波に湯河原海岸で引き込まれ、階上のガス爆発で家具一切が使えなくなる経験を中部山岳の街でしたことが、これまで私にはありました。ところが、この10月の台風19号の浸水被害にあったのには、ほんとうに驚きました。〈100mmの暴雨〉の話は聞いていましたが、風呂桶をひっくり返した様な雨に遭って、家が浮いて流れてしまうのではないかと、ちょっと大げさに思ってしまったのです。

今回、市から「罹災証明書」が発行され、〈家屋の半壊〉という認定でした。そんな経験から、『上階に住みたい!』との家内の願いを汲んで、この家に住むことを決めたのです。被害の大きさは少ないのですが、こんな危機に、手を伸べて助けてくださったみなさんに感謝でいっぱいです。

下の息子が、まだ4歳ほどの頃でしたが、『消防車になりたい!』と言ってたことがありました。消防士の勇気ある活動を、何かで知って、自分も「消防士」になってみたかったのです。「クルマ」も「ヒト」も同じに感じた幼い次男の言葉が新鮮でした。

前の家も今回の家も、メディカルセンターに近いせいで、救急車がサイレンを鳴らして、日に何度も何度も、近くを走って行くのを頻繁に聞くのです。 人の生死に関わるお仕事に従事されるみなさんがおいでで、私たちは安心して、生活することができます。

あの日、この若き消防士が、ラザニアを作って来られました。非番の日に、家内と私が来ると知って、腕を奮ってくれたのです。餃子ではなくラザニアだったのが、素敵で、美味しかったのです。

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楽天的に

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転んでしまって泣いている子どもに、『チチンプイプイ!』とか、『痛いの痛いの飛んでけ!』などと、親が、痛い箇所に手を置いたりして言ってあげると、激しく泣いていた子どもが泣き止むことがありました。同情してもらって嬉しくて激しく泣く子と、かえって泣き止む子とか、色々といるようです。

世界中に、どれほどの種類の「薬」があるでしょうか。その中に、「偽薬(ぎやく)」と呼ばれるものがあります。砂糖や澱粉を薬仕立てにして、『これを飲むと好くなりますから!』と言って病人に飲ませると、治ってしまうことがあるのです。それを「プラセボ効果」と言っています。

医科大学の先生が、こんなことを言っていました。『薬の数が多いのは、みんな効かないからです!』とです。効かないはずの澱粉が、薬効など全くないのに、『鰯の頭も信心から!』と言われるように、信じて飲むと、心理作用で効いてしまうのです。人間とは不思議な存在ですね。

としますと、どんなに辛く悲しいことが起きても、心持ち次第で、それを乗り越えることができるのでしょう。古今東西、恵まれない家庭環境の中で育った子どもの方が多いおいでです。彼らは、それを跳ね返して、たくましく生きていけるのです。もちろん人の一生に、偽物はありません。一回切りの人生を、みなさんが、懸命に生きてきています。

『笑う角に福来る!』とも言います。故事ことわざ辞典に、『いつも笑い声が溢れる家には、自然に幸運が訪れる。明るく朗らかにいれば幸せがやってくるという意味。また、悲しいこと・苦しいことがあっても、希望を失わずにいれば幸せがやって来るということ。』とあります。

それは 、浮世の辛さの真っ只中で、生きる現実の厳しさの中で、《楽感的に生きて行くように》との勧めなのでしょう。泣き明かして生きるよりは、朗らかに生きたほうが得策です。生きている限り、生かされている限り、好いことがあるからです。“Hasta mañana/アスタマニャーナ"、スペイン語のフレーズで、『何とかなるさ、クヨクヨすんな!』だそうです。

(地中海原産の「オレガノ」の花からオイルがとれます)

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かんれき

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芸能界には、あまり関心がないのですが、『山口百恵、還暦!』と聞いて、ちょっと驚いています。次男が生まれる頃に、歌手生活から引退して、家庭主婦となった、「稀代の歌手」で、歌の上手さは抜群でした。表彰されることが少なかったりで、妬まれる様なことがあったのでしょうか、ちょっと不運だったのですが、銀幕の舞台から潔く退いて、一般人として、幸せに生きてきた様です。

この山口百恵は、中国の若者たちの心を、強烈に捉えたのです。外国の文化や芸能が受け入れられる様になった時期に、「映画」では高倉健が、「歌」では、この山口百恵が、数億人単位のフアンの心を掴んでしまったのです。

1978年10月に、鄧小平氏の訪日後に、未曾有の〈日本ブーム〉が嵐の様に、中国全土を巻き込みました。その最たる出来事は、高倉健が主演し、中野良子、原田芳雄が共演した、映画「君よ憤怒の川を渉れ(1976年日本で公開)」でした。中国で「追捕(zhuibu)」というタイトルで、1979年以降、上映され、何と3億人が観たと言われています。隣の村まで歩いて出かけて、観たという人にも会いました。

外国映画の中から、日本映画が第一号として解禁上映されたわけです。また、栗原小巻や中野良子、そしてこの山口百恵は、中国青年の憧れのスターとして喝采を受けたのです。私が会った、五十代から六十代以上のみなさんから、「杜丘(duqu)」の名前を聞きました。誰だか分からないでいると、高倉健が演じた主人公の名前だったのです。『 “ shankou” も知ってる!』と聞かれました。『アッ、「山口(百恵)」だ!』と言ってしまったほどです。

その山口百恵が、〈六十歳〉になったのですね。世の中が、まるで無色で、娯楽も何もない時代に、日本人女性、《スター(中国語では〈明星mingxing〉)》の代表の様な彼女でした。この名を言う時に、これ以上できない様な満面の笑顔で、十代の男の子の様に、はじけて、恥じらって、五十過ぎの大学の音楽教師が聞いてきました。

それは、彼には、いえ彼らには衝撃的な出来事だったに違いありません。同じ様なスタイルの服装をし、靴も帽子もバッグも、何もかも〈ニッポン〉への憧れで溢れていた時代を生み出した、山口百恵の《還暦》なのです。

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input

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ここ北関東の農村は、今や、稲刈りのすんだ田圃が、延々と広がっています。石ころや雑木林の地を開墾した時代があって、豊かに生産する時代となったのでしょう。〈穀倉地帯〉とでも言えそうな土地柄です。

県内産のお米が美味しいのです。とくに、台風による川の氾濫で、避難した町、高根沢で食べたお米が、とびっきりの美味しさでした。お邪魔したクラブの二階のゲストルームの台所のテーブルの上に、そのお米が、私たちの食用にと、ご用意くださっていたのです。

滞在した三週間近くの間、ちょうど食べ切ったほどの量でした。避難民への親切さが、より美味しく感じさせられたのでしょう。どなたかの家で獲れたお米でした。近くの農協の即売所に、御当地米が売っていて、きっと、「したつづみ」と言う銘柄米だと思ったのです。

下の息子と一緒に通過した、新潟県下の高速道路のサーヴィスエリアの売店で買った、「魚沼こしひかり」に匹敵する様な味でした。やはりお米を食べ続けてきたからでしょうか、米の旨さが分かって、食が進んでしまうのです。今では、夕食時に、家内と二人で〈一カップ〉を炊いて食べ続けてきているのです。

華南の街で、黒竜江省産のお米が売っていて、「東北米dongbeimi」を買って食べていました。ある時、「秋田小丁qiutianxiaoding(秋田小町)」と言う銘柄の米が売っていて、それ以来、それを食べていたのです。懐かしくも美味しかったのです。

ところが、若い友人が、日本に出かけて買って帰ってきた、「富山産米」を10kg袋で頂いて食べたのです。その旨いこと、中国産には申し訳ないのですが、旨さの違いがはっきりと分かるほど、美味しかったのです。

ところで、子育て中のわが家では、一番安い米を食べていました。ですから子どもたちの口は、お米の味の音痴になっているのではないかと思ったほどです。ところが、時々、『米が獲れたので食べてください!』と言ってお米を頂いたのです。ある時は、一年近く、買わないで、〈頂き米〉を食べ続けたのです。

冷害に強い米、いもち病などへの研究がなされ、日本のお米は美味しいわけです。冷たい水で、夏場に育ったお米が美味しいのだそうです。今年も収穫を終えた田圃には、〈ひこばえ(蘖)〉が伸びていて、田植え後の様な感じがしています。

子どもの頃に、兄二人、弟一人、そして私の四人の息子に、腹一杯食べさせてくれ、養ってくれた父や母を思い出しています。とりわけ〈死に損ないの私〉の滋養強壮、栄養補給のために、『生きよ!』と祈りながら、市販などされていない、瓶詰めの《バター》を、どこからか手に入れては、私に舐めさせてくれた父でした。兄たちや弟には舐めるのは禁止にしていたのです。

子どもたちは、私が、トーストしたパンに、タップリとバターを塗るので、健康維持のためにでしょうか、『多過ぎるよ!』と注意してくれるのです。そうしてしまうのは、バターの味が、私の人生や脳や記憶に、インプットされているからなのでしょうか。今朝も、タップリと・・・・・!

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ほろほろと

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季節に「音」があるのでしょうか。小林一茶が、

ほろほろと むかご落(ち)けり 秋(の)雨

と詠んでいます。「むかご」は、〈零余子〉と漢字で表記しますが、山芋の蔓になる「実」で、食用として食卓にのることもあります。

林の中の蔓に見付けて、手で摘んだことがあります。頬張って食べた記憶もありますが、茹でて食べるのが一番で、秋の味覚の一つでもあります。山芋を〈自然薯(じねんじょ)〉と言ったりします。

オリンピックのマラソン競技を、札幌で行うと聞きましたが、前回の「東京オリンピック(1964年)で、円谷幸吉が健闘して、《第3位》で、銅メダルに輝いたのを思い出します。私の上の兄と同じ年の生まれでしたが、メキシコ大会での活躍が、過剰に期待されていましたが、腰痛などで、その期待に耐えられず、自らの命を絶ってしまったのです。

責任感も強かったのでしょうか、〈挫折体験〉についていけなかったのかも知れません。人生の重大な決断を、自ら下したスポーツ選手の一生として、重いものがあります。彼の遺書は、次の様な一節で始まっていて、その文面が残されています。

『父上様 母上様 三日とろろ美味しゅうございました』

とです。彼の出身の福島県須賀川では、「三日トロロ」と言うのでしょうか。『「三日とろろ」は、お正月の三日目に、長寿や健康を祈願してとろろ汁を食べる風習です。山芋には整腸作用や滋養強壮作用があるとされることから、お節料理のご馳走に疲れた胃をいたわる効果もあります。(ヤマサ醤油のレシピ)」とあります。

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今頃でしょうか、母がよく作って食べさせてくれました。手伝いで、摩った長芋を、摺鉢の中に入れ、〈摺りこぎ棒〉で摺ったのです。そこに、母が作った〈だし汁〉を入れて合わせていました。麦飯の上にかけて、ツルツルと飲む様に食べたものです。円谷にも、私にも、美味しい夕食だったのです。これも《お袋の味》で、どんな料亭の「とろろ汁」もかなわない味でした。

「ほろほろ」の音は想像の音でしょうけど、そう聞こえてきそうな情景が浮かんできます。山椒の木の枝で作られた、イボイボの〈摺りこぎ棒〉が、摺鉢を擦る、「ゴロゴロ」の音が、秋を秋らしく思い出させてくれる、ちょっと物悲しい曇り空の晩秋です。

マジカルキッチンからとろろ汁ご飯、“ photohito ” の零余子です)

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強かに

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猫、犬、ウサギ、馬、牛、山羊、羊、豚、たまに鹿や熊や猪くらいが、これまで私の身の回りにいた動物でしょうか。小学校の頃に、上野の動物園に遠足で行きました。写真とか絵本でしか見たことのない動物を見て、新しい感動を覚えた日だったのです。中学校二年生の頃に、「多摩動物公園」ができて、出掛けてみました。その大きさと、動物の種類の多さ、柵のない檻の中で、自由に行動したり、バスの乗車して園内を見学する様子は、今までの動物園にないことでした。

子育てをした街にも、小さな動物園がありました。白熊が、左右に頭を振って、不快感を表していて、何と無く気の毒に持ったりしたものでした。圧巻だったのは、長女が、あの大きな象を見たときに、へたり込んだではありませんか。絵本の象と、本物との違いに驚いてしまったからでした。あの姿は忘れられません。

先日、動物の習性を聞いたのですが、草食動物のキリンの睡眠時間、熟睡時間は、三十分にも満たないのだそうです。弱肉強性の世界で、常に警戒心を怠らないためなのだそうです。惰眠を貪ってしまう人間との違いに驚かされます。でも、なかなか眠れない方も、多いそうですが。

札幌の病院に入院していた時、北海道民の自慢は、やはり「旭川動物園」でした。廃園の危機から、日本でも一、二を争う様な、人気を勝ち取ったことへの誇りなのでしょうか。映画にもなって、観たことがありました。もう少し長く入院していたら、抜け出して、旭川まで行って、入園してみたかも知れませんが、叶えられませんでした。

ある動物園に、〈一番怖い動物〉の檻があるそうです。猛獣でしょうから、興味津々で、檻の中を、みなさんが覗き込むのだそうです。そこには猛獣の代わりに、鏡が置いてあって、見学者の顔が映る様にしてあったとか。本当なのか、冗談なのか分かりません。

人間って、〈したたか(強か、健か〉ではないでしょうか。生まれてから、物を掴むことも、立ち上がることも、歩むこともできないまま、完全に受け身であったのにです。〈したたか〉について、“ goo辞書に、「[形動][文][ナリ] 粘り強くて、他からの圧力になかなか屈しないさま。しぶといさま。「世の中を―に生きる」「―な相手」 強く、しっかりしているさま。「―な後見役」「―な造りの家」 p 強く勇猛であるさま。「力が強く勇気があって―な豪傑である」〈魯庵社会百面相 程度がはなはだしいさま。「いと―なるみづからの祝言どもかな」〈・初音〉 分量がたいへん多いさま。「国の事など―に申し居たるさま見るに」〈夜の寝覚・一〉」とあります。

いい意味で、『この人は〈強か〉に生きている!』と言われる様に、残された日を生きていくことにしましょう。

(“ creema ” の木製の象です)

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わたしも乗れる様な

テレビの挿入歌に、「心のふるさと(作詞・池田綾子、作曲・平井真美子、歌・池田綾子)」があります。

心の地図 思い出の道
変わらない景色の中で
見つけた想い

眠る前の優しい声
まぶたが閉じた後まで
見守ってくれた

帰ろうよ
あの日あなたと過ごした場所へ
懐かしい匂い 心のふるさと

次の風が吹いてくる
ふわり飛んでゆく綿毛
あなたの街へ

私はここで待っている
遠く疲れたその時
思い出して

帰ろうよ
見慣れた景色 こんなに優しい
笑顔を見せて 心のふるさと

大切なものに出会った日
心疲れて涙の日
振り返れば そこにある宝物

晴れた日に
大好きだったあの歌を
ふと口ずさむ いつかの子守唄

帰ろうよ 草の音
帰ろうよ 朝露
帰ろうよ 夕映えの空
懐かしい場所 心のふるさと

これは、NHK・BSで放映している、火野正平出演の「にっぽん縦断こころ旅」で聞こえてくる歌です。誰にもできそうで、やってみたくなる「自転車旅行」で、日本に帰って時間のある時に、時々観ていた番組なのです。3年ほど前の帰国で、姪の自転車を借りて、結婚した時に住んでいた家の近所や市役所に行ったり、買い物に出かけてみました。本当に久し振りに乗ってみたのです。実に便利なのが、また分かった次第です。

自転車はスピードを出さないかぎり、どんなに長く乗っていなくても、すぐ利用ができます。そのまま、「心のふるさと」を目指して、遠くに乗り出してみたく誘われてしまいました。今回、帰国してから、知人の自転車を使わせていたのですが、自分用にと買ったのです。家内が、『わたしも乗れる様な自転車を!』と言ったので、婦人用の自転車でした。何と、家内は、治ったら、自転車に乗るつもりになっているのです。それがすごく嬉しかったのです。

この自転車の旅は、坂道や雨降りの泥道は大変ですが、風を切って走る火野正平の姿に憧れてしまいます。もう少し若かったら、中部山岳のふるさとの流れに脇の小道を、自転車で走って上がれるかも知れませんが、無理は承知でも、やってみたくなってしまいます。自転車乗りに初めて挑戦し、兄に支えられ、教えられて、父の自転車に《三角乗り》できた日が懐かしいのです。

(“ ロックに生きる ” からママチャリです)

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オムレツにスープ

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『朝晩は冷えるなあ!』と思ったら、「立冬(11月8)」も過ぎ、もう暦の上では冬になった様です。8年ほど働いた学校の図書館の前に、紅葉の木があって、街の名所になっていました。カメラを手にしたみなさんが、よく撮影に来られていました。華南の地では、珍しく色鮮やかな紅葉が見られるからです。

年を越えても落葉しないでいるのには、さすが亜熱帯気候だからでしょうか。大きな河川のほとりに、学校があって、日本の学生なら羨ましがるほど広大なキャンパスの中に、教室棟が点在していました。学生さんたち自転車で移動しているのが、不思議な光景に、私には見えました。

「作文」の授業を担当していて、今頃の季節に教えていた文章がありました。中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書刊)に、日本が生んだ最も優れた哲学者の一人と言われている、今道友信(いまみちとものぶ 1922~2012年)が、書き下ろした一文が掲載されています。

中学校3年生が、読んで学ぶようにと、心を砕いて書いたものだと言われています。著者が、フランスの大学で講師をしていた時期は、戦後ということで、フランスで生活をする上で、つらい経験が多かったそうです。

           「温かいスープ」  今道友信

 第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、一九四五年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世 界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そ ういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなければならない。そのような状況であったか ら、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日j本人もみじめな時代があった。そのころの体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き 記しておきたい。

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  一九五七年、私はパリで大学の講師を勤めていた。しばらくはホテルにいたが、主任教授の紹介状で下宿が見つかり、訪ねあてたところ、そこの主婦は、私が 日本人だと知るや、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。そ の気持ちを理解してください。」と言い、私が下宿するのを断った。しかたなく、大学が見つけてくれた貧相な部屋のホテル住まいをすることになった。

 そのころの話である。私は平生は大学内の食堂でセルフサービスの定食を食べていたが、大学と方向の違う国立図書館に調べに行くと決めていた土曜は、毎 晩、宿の近くの小さなレストランで夕食をとるほかなかった。その店はぜいたくではないがパリらしい雰囲気があり、席も十人そこそこしかない小さな手作りの 料理の店であった。白髪の母親が台所で料理を作り、生っ粋のパリ美人という感じの娘がウェイトレスと会計を受け持ち、二人だけで切り盛りしていた。毎土曜の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。

 若い非常勤講師の月給は安いから、月末になると外国人の私は金詰りの状態になる。そこで月末の土曜の夜は、スープもサラダも肉類もとらず、「今日は食欲 がない。」などと余計なことを言ったうえで、いちばん値の張らないオムレツだけを注文して済ませた。それにはパンが一人分ついてくるのが習慣である。そう いう注文が何回かあって気づいたのであろう、この若い外国生まれの学者は月末になると苦労しているのではあるまいか、と。

 ある晩、また「オムレツだけ。」と言ったとき、娘さんのほうが黙ってパンを二人分添えてくれた。パンは安いから二人分食べ、勘定のときパンも一人分しか 要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、人差し指をそっと唇に当て、目で笑いながら首を振り、他の客にわからないようにして一人分しか受け取らなかった。私は何か心の温まる思いで、「ありがとう。」と、かすれた声で言ってその店を出た。月末のオムレツの夜は、それ以後、いつも半額の二人前 のパンがあった。

 その後、何ヶ月かたった二月の寒い季節、また貧しい夜がやって来た。花のパリというけれど、北緯五十度に位置するから、わりに寒い都で、九月半ばから暖房の入るところである。冬は底冷えがする。その夜は雹が降った。私は例によって無理に明るい顔をしてオムレツだけを注文して、待つ間、本を読み始めた。店には二組の客があったが、それぞれ大きな温かそうな肉料理を食べていた。そのときである。背のやや曲がったお母さんのほうが、湯気の立つスープを持って私 のテーブルに近寄り、震える手でそれを差し出しながら、小声で、「お客様の注文を取り違えて、余ってしまいました。よろしかったら召し上がってくださいま せんか。」と言い、やさしい瞳でこちらを見ている。小さな店だから、今、お客の注文を取り違えたのではないことぐらい、私にはよく分かる。

 こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中 に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私が フランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。

 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じ らいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人 一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。

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何て言いますか

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子育て中の四人の子どもたちが、通学していた頃、朝は、一つのトイレを、六人で共用していたので、まるで戦場の様な、わが家でした。家内は、『忘れ物ないの?気をつけていってらっしゃい!』と言うのを常にして、彼らを送り出していました。

誰でしたか、忘れ物をして、学校の裏門の鉄格子から、それを何度か届けたことがりました。小学校も中学校も、住んでいた家から目と鼻の先にありましたから、子どもたちに油断や甘えがあったのです。

『親が、子を送り出す時に、何て言うか?』との聞き取り調査を、いくつかの国でした結果があります。私が読んだのは、中国と韓国と日本だけでした。その結果は、次の様でした。

中国人の親は『騙されない様にしなさい!』

韓国人の親は『頑張って勉強して一番になりなさい!』

そんな感じで言うのだそうです。では、日本人の親は何と言うと思いますか。そう、『みんなと仲良くしなさい!』と言うのです。「和」とか「協調」を願うからなのでしょう。『出る釘は打たれる!』ことを知っている親は、処世術を、その様に学んで、次世代に伝えるのでしょう。

国の在り方も、これに似ていないでしょうか。「国際協調」が行き過ぎて、没個性的になって、相手の出方ばかりを気にして、自己主張ができないままなのです。考えている内に、相手の強引さに押し切られてしまっているわけです。

私の父親は、『喧嘩に負けて泣いて帰ってきたら家に入れない!』をモットーに、四人の男の子を育てました。『男は敷居をまたぐと七人の敵がある!』を、身を持って学んだからでしょうか、そんな乱暴なことを、父は子たちに願ったのです。それで、泣かないで帰れるために、腕を磨いて、勝つ算段を身につけて生き始めたわけです。

私の母の故郷では、私たちが、『行って来ます!』と言う代わりに、『行って帰ります!』と言うのです。行って行きっぱなしではなく、『必ず帰って来ます!』と約束して出かけたのでしょう。私は、『行って、勝って、帰ってきます!』と、心の中で言い聞かせて出かけたのです。泣いて帰ったのは、そう言った父が亡くなったことを、母に聞いて、父の死を受け入れるために、病院に駆けつけた時でした。

それで私は、これから、『行って〈負けてもいいから〉必ず帰ります!』と言うことにしようと思っています。それにしても、『ただいま〈帰りました〉!』と言って帰って来ない子どもたちには、帰るべき固定した新しい実家が、今回できたので、そう言う様になることでしょう。13年も、実家が外国住まいだったからです。

(母の故郷の近くを舞台にした漫画の表紙です)

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何と言われたら

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高根沢町にいた時に、「沈没船ジョーク」を聞きました。沈没しかけている船から、船長が乗船客を、緊急に海に飛び込ませるために、何を言うか、というお話でした(フランス人、中国人、韓国人、北朝鮮人は、サイトで見つけた分です)。

アメリカ人に「飛び込めばヒーローになれますよ」

ロシア人に「海にウォッカのビンが流れていますよ」

イタリア人に「海で美女が泳いでいますよ」

フランス人に「決して海には飛び込まないで下さい」

イギリス人に「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」

ドイツ人に「規則ですので海に飛び込んでください」

中国人に「おいしい食材(魚)が泳いでますよ」

日本人に「みなさんはもう飛び込みましたよ」

韓国人に「日本人はもう飛び込みましたよ」

北朝鮮人に「今が亡命のチャンスです」

どなたが思いついたのか、国民性とか心情から、的確な勧告の言葉なのだそうです。日本人には、そう言った言い方がいいのは納得できそうです。

ある倶楽部にいた時に、中学生や高校生が出入りしていたのです。そこで、ある催しが行われている時に、そこに入る前に、誰が来て、何人来ているかを、ほとんどの人が確かめていたのです。『みんなが来ていれば、俺も入る!』と言う考え方です。まさに日本人的な心理だと思ったのです。

太平天国の乱やアヘン戦争後の混乱していた時代、中国に、列強諸国が「租界」を、次々と作りました。そう言った国際的な動きの中で、列強諸国に伍そうとした日本も、幾つもの街に「租界」を設けたのです。

私たちが一年過ごした天津の街の、「五大道」と言う一廓に、「日本租界跡」があって、語学学校の教師に案内されて見学に行ったことがありました。『みんながやっているので!』と言うのが、やはり大きな動機付けであった様です。

『みんなが行く(食べ、見る、やる)から、俺も、私も!』が日本人の行動心理にあります。多分、東アジアの人たちに共通している心理なのかも知れません。〈個人主義〉が自分のものになっていないので、大衆に迎合して生きていくのが、安心、安全なのでしょう。別な言い方をしますと、〈主体性〉が育っていないからなのです。

寒さを感じ始めて来ると『今日は何を着ようかな?』、雨が降りそうになると『傘を持って行こうかいくまいか?』、食事の支度でスーパーに行くと『こんばんは何を食べようかな?』と思うと、窓から道行く人を見て、何を着ているか、傘を持っているか、隣の客は何を買っているかを、私たちは確かめてしまうことが多いのです。〈みんな〉の傾向に動かされているわけです。

さて、私は、何と言われたら、従うことができるでしょうか。

(日本の歴史上犠牲者最多の艱難事故の「洞爺丸」です)

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