鈴蘭水仙

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今朝のテーブルの上の花です。お餅屋のおばあちゃんが、家内のために、ご自分の家の庭から切ってきてくれて、持たせてくれた、「すずらんすいせん」と「ばいもう(この地方の呼び名でしょうか)」です。一週間も、急ごしらえの蜂蜜入れの筒の中で咲き続けています。

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手紙

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最近書かなくなったのが、手で書く〈手紙〉です。義理の父から、グアム(義姉家族を訪問してです)、サンホッケ(ブラジル・サンパウロの近郊/義兄に招かれて召されるまで住んでいました)の消印の手紙を、よくもらいました。身の回りの出来事、ブラジルの風習などを伝えてくれました。実の娘にではなく、義理の息子の私宛のものでした。

手紙と言えば、最も印象的なのが、大統領のアブラハム・リンカーンが、ビクスビ夫人宛に書き送ったものです(本文の引用は岩波文庫の『リンカーン演説集』から)

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                     1864年11月21日
ビクスビ夫人

拝啓 陸軍省の書類綴りのなかにありましたマサチュセッツ州軍務局長の報告書をみまして、夫人が名誉の戦士をされた五人の令息の母上であることを知りました。かくも大いなる損失の悲しみに打ち沈んでおられる貴女をお慰めしようとしても、私の言葉はどんなに力弱く甲斐ないものとなることでしょう。しかし私は、五人の方が命を捧げて護られた、わが共和国の、捧げる感謝の言葉を、あなたの慰めとなりうるかと存じ、申し送らぬわけに参りません。願わくは天にいます我らの父が、肉親を失われた貴女の悲しみを和らげ給わんことを、失いし愛し子の、よき思い出のみを貴女に残し給わんことを、また自由の祭壇にかくも価(あたい)高き犠牲を捧げたため、あなたが持っておられるにちがいない厳かな誇りを、あなたの胸に残し給わんことを。 敬具
                 

                   エイブラハム・リンカーン
                   マサチュセッツ州ボストン市

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南北戦争に従軍した五人の子を戦死させた母親に、この様な手紙を出した気持ちが、大統領でもない私にも、ほんの少しだけ分かります。一国の指導者は、戦争の遂行や終結のために、自分の名で、戦場に兵士を送るための召集令状を出さなければなりません。私たちの国では、「一銭五厘」の令状が、「聯隊区司令部」の名によって招集がかけられ、指定された聯隊に、決められた日時に参着を認められました。それは、国家命令だったのです。

メイフラワー号の乗組員たちが、理想的な国家を建国すると言った幻、「メイフラワー盟約」で始まったアメリカは、どうしても〈奴隷解放〉をしなければなりませんでした。南北対立を治めるために、戦わざるを得なかった戦争だったと、歴史は結論しています。その戦争のさなかに、リンカーンによって出された手紙でした。

1998年に、「プアライベート・ライアン」と言うアメリカ映画が上映されました。次の様な内容です。

『時は1944年。第2次世界大戦の真っ只中、米英連合軍はフランス・ノルマンディのオマハビーチでドイツ軍の未曾有の銃撃を受け、多くの歩兵が命を落としていった。戦禍を切り抜けたミラー大尉(トム・ハンクス)に、軍の最高首脳から『3人の兄を戦争で失った末っ子のジェームズ・ライアン二等兵を、フランスの最前線で探し出し、故郷の母親の元へ帰国させよ!』という命令が下った。』、こう言った顛末の映画でした。

映画の中で、リンカーン大統領の手紙が持ち出されていました。流石、アメリカ映画、一人のライアンのために、八人の兵士が命の危険を冒しながら救出作戦が行われていくのです。こんな映画を生んだ、実際の「一通の手紙の重さ」が感じられます。今日の政治的な指導者にも、こんな手紙を書いて欲しいものです。

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明日に希望をつなぐ

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作詞が松村又一、作曲が上原げんと、歌が岡春夫の「国境の春」と言う歌が、昭和14年に発表されました。

遠い故郷は はや春なれど
ここはソ満の 国境(くにざかい)
春と云うても 名のみの春よ
今日も吹雪に 日が暮れて
流れ果なき アムールよ

ペチカ燃やして ウォッカ汲(く)めば
窓に流れる バラライカ
祖国離れて 旅する身には
なぜか心に しみじみと
響くやさしの セレナーデ

たとえ荒野(あれの)に 粉雪降れど
やがて花咲く 春じゃもの
咲けよオゴニカ 真赤に咲けよ
燃ゆる血潮の この胸に
明日の希望の 花よ咲け

中国東北のロシア(かつてのソヴィエト)の国境あたりの情景が、この歌に歌い込まれています。かつて、広大な地に誘われて、多くの青年たちが、狭い日本を抜け出して、出掛けて行きました。私の父もその一人でした。決して満洲国建設の野望のためではなかったのだろうと思います。あのブラジルに理想を掲げて、多くの移民が出掛けた人たちと、変わらない夢を果たそうとして出掛けたのでしょう。

その満洲の北端に、幻の花とでも言えそうな、《アゴニカ(別名オゴニカ)》が咲いていました。どんな花だったのでしょうか。雪の中を咲きだす、雪割草や雪中花(水仙)の様な、淡い色ではなく、『真っ赤に咲けよ』と歌われるのですから、実に綺麗だったのでしょう。ネットで探すのですが、どこにも見当たりません。

『男命の捨て所!』、こんな歌詞で、誘われ、煽られて、きっと父は海を渡って、満洲の荒野を駆け巡ったのかも知れません。鉱山学を納めた父でしたから、満洲の鉱山開発や試掘のために、朝鮮半島や満州に呼ばれた様です。あの時代に生きようとした若者の選択肢の一つが、「満洲行」だったに違いありません。

父は、その頃のことは、あまり語りませんでした。きっと封じて置きたかったのかも知れません。家にいる時は、炬燵にあたったり、横になって、じっと目をつむりながら、何かを思い出している様な姿を覚えています。父も、《明日に希望をつないで生きる若者》だったのでしょう。この「国境の春」が歌われ始めた年に、兄が生まれ、「満」と父に名付けられています。

(満洲開拓期の幼子の写真です)

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メル友

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このブログを読まれて、コメントくださった方が、私の《メル友》になってくださています。「合戦場」の記事にコメントしてくださって、この地の地誌や歴史を教えてくださっています。ブログで、名前が分るのでしょうか、ご子息と同じ名前なのだそうで、なんだか近くなった感じで、日に二、三度の交信があります。

私が引っ越して住み始めた家の近くの出身だということが分かって、子どもの頃には、正月に私たちの家族写真を撮ってもらった写真館の庭で遊んでいたり、巴波川周辺が遊び場だったり、山本有三や吉屋信子の生家、山口智子の住んでいた辺りを教えてくださっています。

この街の歴史や地誌に詳しく、色々と教えくださって、栃木理解が深められているこの頃です。今朝のメールではトンカツの下ごしらえの話まであり、料理当番の私に知恵をつけてくれています。同じ自転車乗りで、どこへでも、自転車をこいで行かれる、健康志向に生きておいでの方です。

時代なのでしょうね、電子メール上で、こんな出会いがあり、意思の交換や疎通ができる時代に、驚かされています。弟と同じ、兄上と同じで、同じ時代の空気を吸いながら生きてきたわけです。

ここ栃木は、古いものを残そうとする気風の街で、小山や佐野の方が、新しいものを受け入れて、豹変して行くのに、拘りを持ち続ける《頑なさ》が、家内も私も好きなのです。ここに人がやって来て、疲れた心を癒され、往時を懐かしむのは、私たちの世代には似合っていそうです。

防人(さきもり)を送り出し、清和源氏の八幡太郎義家も、この下野国を訪ねたことがあり、時代が降って、芭蕉も訪れていますし、歌麿も栃木のお大尽に招かれ、萩藩の高杉晋作も、お隣の壬生を訪ねています。

蕎麦が美味しく、干瓢や下駄や湯葉を産し、例幣使や大名が、家康の墓所を詣でを往来した街です。水と空気が美味しく、野菜も果物も美味で、葱などは、下仁田に勝るも劣らない程に、抜群に美味しいのです。父が自分で割り下を作って、霜降りの牛肉に、焼き豆腐、しらたき、春菊、たっぷりの長葱で作っては食べさせてくれた《すき焼き》を思い出して、時々作りますが、この《宮葱》に栃木牛で作ると、極上の味なのです。

北の方には、源氏に追われて、住み着いた平家の部落が残されています。野岩鉄道線に、湯西川温泉駅があって、そこからバスが通じています。ひっそりと何百年も住み続けてきた部落です。朝一で鳴き出す鶏を買うことを、頑なに拒んだと聞きます。まだ行ったことがないのですが、湯西川温泉で、鶏肉の《すき焼き》を食べてみたいな、と思う晴れた三月の朝です。そう言えば、今日は東日本大震災のあった日ですね。

(観光地化した湯西川の河岸の風景です)

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恨みを超えて

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「恨み骨髄に徹する」、人の感情の中で、最も激しく破壊的なのが、「恨み」でしょうか。

父親の寵愛を一身に受ける弟に、十人の兄たちが抱いた感情が、「恨み」だったとあります。これは、イスラエル民族の族長たちの、子どもの頃から青年期に至るまでの出来事なのです。弟だけへの父親の偏愛に業を煮やして、ついには、弟殺しを企んでしまいます。この民族の歴史の中に、そう言った「恨み」が横たわっているわけです。

太平洋戦争中、フィリピンに侵攻した日本軍兵士によって、高地で仕事に従事していたアメリカ人夫妻が、殺害されました。情け容赦のない残忍な処刑でした。その両親の悲報を、お嬢さんが聞きました。「恨み骨髄に入る」のだろうと思われたのですが、彼女は違いました。日本軍の兵士の捕虜収容所に出かけて、ボランティアを始めたのです。父を殺した日本軍の捕虜の戦病兵の傷の世話のためでした。

戦後になって、この女性のことが記された書を読んだ一人の人が、「敵をも赦す」、その思いと行為に甚く感動して、人生が変えられてしまうのです。その体験話ーを、東京の中野で、直接聞いたことがありました。まだ二十代の私でした。この方は、『本十二月八日未明、我が軍は米英と戦闘状態に入れり!』で始まった、太平洋戦争への真珠湾攻撃の攻撃隊長の淵田美津雄でした。

『奇襲攻撃に成功せり!』と打電した《真珠湾の英雄》の淵田美津雄の戦後は、手の裏を返す様な取り扱いを受けて、故郷の奈良の村に蟄居して、畑を耕す日を送ったのです。そんな中での変化でした。彼は、アメリカを横断しながら謝罪の講演の旅をしたのです。
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07 Dec 1941 — Mortally Wounded and Sinking — Image by © Bettmann/CORBIS

恨まれるべき身の自分を、鼓舞して、アメリカ合衆国で公演旅行を繰り広げ、謝罪を訴えたことも、その講演旅行を受け入れたアメリカの社会も、「恨み」を、「赦し」に変えられるものがあったことにも、驚かざるを得ません。ソウルのバスの中で、『あなたのバス代を払わせてください!』と言ってくれた青年の顔が思い出されて仕方がありません。息子の大学進学時に、大金の援助をしてくださった、日本で生まれ在日本の友人もいます。確かに「赦し」は、難しいのは分かります。それが、人を縛り付けている歴史が、確かにあるからです。赦さない限り、赦されない限り、何も生まれてこないからです。

南北に分断された朝鮮半島、すべての韓民族は、南北を平和理に統一したいことでしょう。三島のある家で、一緒に食事をした平壌(ピョンヤン)出身の方が、『何時か、対立と遺恨を超えて、南北統一がなったら、平壌陸上競技場で、大きな集会を開いて、そこでお話をしたい!』と夢を熱く語っておられました。この方は、もう亡くなられたと聞いています。

(その「平壌競技場」、真珠湾攻撃の記念写真です)

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花三月

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ロスアンゼルス近郊に咲く早春の花です。騒然とした世相でも、自然界は、それに煩わされたり、躓いたりしないで、時節が到来すると、何時もに年の様に、何千年もの間繰り返して、蕾を忠実に開くのです。

今頃、ロシアと中国の国境にある満州里では、“ アゴニカ ” が咲く準備をしてるのでしょうか。真っ赤な花が、真っ白な雪の中に咲き出して、〈春遠からじ〉を告げるのでしょう。

わが家のベランダでは、チューリップが芽を大くして、咲く準備中です。球根になるまで、種を蒔いてから5年もの年月を過ごすのだと、この日曜日に聞きました。ほとんど、ベランダでは、そんな年月を知らないで、球根から始めているのです。

木年は染井吉野の桜の開花が、例年になく早く、今週末には、東京で開花すると予想されていますから、ここ下野国・栃木でも、間も無く咲き始めるのでしょう。高遠の桜、目黒川の夜桜、そして華南の街の金山公園の桜、どれも綺麗でした。今年は、大平山に観桜を予定しています。若き友人が、お連れくださるそうです。

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事実を!

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「流言蜚語(飛語/りゅうげんひご)」とは、“ デマ"のことです。人が不安になると、恐怖心からでしょうか、間違ったことを言い始め、その間違ったことが拡散して、聞いた人が、その間違いを信じて、収拾のつかない様な社会混乱を生み出すことがあります。

古代ローマでは、キリスト教徒の増加に怯えた、皇帝ネロが、キリスト教徒の放火によると見せかけて、市中に火を放たせて、大火が起きたことがあります。そして、『火を放ったのはキリスト教徒だ!』と、嘘の情報を放ったのです。そのデマによって、怒りに燃えたローマ市民を、キリスト教徒への憎しみと殺害に駆り立てていったのです。

また、関東大震災が起こった直後に、『鮮人(朝鮮半島から来て日本で生活していた人への蔑称)が放火をしたり、暴動を起こそうとしている!』というデマが駆け巡り、当時の大手の新聞も、そのデマを記事にして、煽ったことによって、瞬く間にデマが拡散して行きました。地方新聞もそれに追随していたのです。そして朝鮮半島からの人たちへの暴行や虐殺事件が多発したのです。そのデマに、新聞というメディアが動かされてしまったことは、致命的なことでした。

今回の〈新型コロナウイルス〉による肺炎の伝染、発病、死亡などで、無関係と思われる、マスクやトイレットペーパーや米などが不足する事態が起こっています。それを手に入れたくて、奪い合い、つかみ合うほどの醜態が、そこかしこで見られています。その原因は、デマの情報によります。これから不安な時代が続くなら、巧妙なデマに、人々は、大きく踊らされてしまいそうです。

不安が、人を、想像を超えた行動に走らせてしまうのです。ナチスドイツの宣伝相だったケッペルは、心理操作に長けていたそうです。ナチスの躍進、政権奪取などに、彼の果たした策は、驚くほどの力がありました。人心収攬(じんしんしゅうらん)の術にも優れた人でした。第二次世界大戦中に開催された、ベルリンオリンピックの成功(?)は、ケッペルの演出によるものでした。ところが、〈第三帝国〉は崩壊し、ヒトラーもケッペルも、自ら命を絶ってしまいます。彼の才能の背後にあったのは、〈劣等感〉だったと言われています。

不安と恐れは、どんな知性も意識も経験も狂わせて行きます。私たちは、情報に対して正しく伝え、聞く必要があります。

① 真実かどう
② 発信元は誰か?
 関東大震災の時は、警察情報が傍受されて新聞に掲載されています
③ この情報は有益かどうか?
 自分、家族、親族、友人、地域住民に益かどうかを考えることでし
④ 半信半疑だったら要注意せよ
 疑わしさがわずかでもあったら信じないことです
⑤ 人には事実だけを告げる!
 事実だけを人が聞く時、ベルリンオリンピックの成功(?)は、ケッペルの演出によるものでした。正しく判断が下せます

少なくともも私の経験から、そう言った判断を、自分で下す様に努めて生きています。人は、不安に駆られ、恐怖に苛まれる様な、パニックになると、正しい視座や思いで、見たり聞くことが難しくなります。このことに注意したいと思っています。

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太郎次郎

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悪戯を諫められた太郎が、『次郎くんだってやってらー!』と言っています。これって、次郎を引き合いにして、自分への責めを弱めさせてしまおうとの太郎の魂胆が、見え見えです。

これを、「矛先逸らし論法」、「争点外し論法」と言っても好いのではないでしょうか。人々の関心を、重要な案件よりも、派生問題に向けさせようとする働きを言います。自分の立場が不利になったりすると、他の人や出来事に、思いや目を変えさせようと、故意にする駆け引きに使われます。

こう言うことって、子どもたちだけではなく、昨今の大人にも、企業にも、国家間にもあるのではないでしょうか。失政や失敗を隠そうとして、正直に認めるほど正義感を持たない人は、人の失敗を槍玉に上げて、自分の非への攻撃を逸らすのです。卑怯なやり方です。

『タバコを吸った仲間の名を教えてくれたら、処分を撤回してやる!』と言われた子が、教師からの裏取引を拒んで、学校を辞めてしまいました。その子の気持ちを理解し、処分に反対した他の教師が、翌春、退職してしまいました。

交通事故を犯した時、『自分の非を認めないこと!』、これが、定式、常識なのだそうです。これは、「ダンマリ論法」と言えるでしょうか。謝罪の気持ちなど表すことは禁物なのだそうです。警察官が入って、検分して判断を下すまで、禁句なのだそうです。私も何度か、自動車事故を起こしましたが、相手に謝り、すぐに医者に連れて行ったりしていました。責任を取ったのです。

「うやむや論法」もあります。物事を、はぐらかせてしまって、いつも間にか立ち消えにさせてしまうやり方です。『えっ、あの問題はどうなったの?』と、思い出すことが時々あります。人って、ずる賢くできているのでしょうか。そう言えば何度も、『すみませんでした!』とか、『ごめんなさい!』とか言って生きてきたなと思うのです。損をしたのか、得をしたのか、責められることのない良心を持って生きて行くことを教えられたのは、感謝なことです。

自分の父親は、人がよかったのか、よく騙されていたのです。東京の大田区に、家を見つけて、手金を打ったのに、土地も家も手にすることがなかったのです。人を騙して、平然と生きるよりは、騙される方がはるかにいいのだと思って生きてきました。

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強風下

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日本の諺に、「遅かりし由良之助」があります。“ 逆引き故事ことわざ辞典 ” に、次の様にあります。

『待ちかねていたのに、時機に遅れて間に合わず、用を成さないときに残念がって使うことば。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の一場面より。塩谷判官(えんやはんがん)は切腹の前に無念の思いを大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)に伝えたくて、到着を待ちかねていたが、なかなか現れないのでついに腹を切ってしまう。そのとき遅れてかけつけてきた由良之助に、まだかろうじて息のある塩谷判官が苦しみながらいった台詞(せりふ)から。なお、忠臣蔵で知られる浅野家の家老は大石良雄、通称 内蔵助(くらのすけ)であることから、「遅かりし内蔵助」といいがちだがそれは誤り。歌舞伎が元になっているので「遅かりし由良之助」というのが正しい。』

しなければならないことが、後手後手になってしまって、ちょうど好い時期を失ってしまうことを言っています。一人ひとりの人生も、国を導く国策も、時期を逸してしまうケースが多くあります。けっきょく、迷った末の決断は、『今さらになって何の意味があるの?』と言うことになってしまいます。

なぜ、後手になってしまうかと言いますと、〈風〉ばかり見ているからです。『そんなことをしたら、何か言われないか?』と思い悩んでいて、八方美人になりたくて、時期を失ってしまうのです。自分の評判が、一番大切な人に多そうです。損得ばかりを考えている人にも多いかも知れません。失敗を恐れ、名を汚したくないからです。けっきょく決断力がないのです。

どこに越しても、その家には、あった試しがないのですが、屋根の尖塔に「風見鶏(かざみどり)」のある家があります。風向きを示す可動の鳥の作り物です。“ ウイキペディア ” に、次の様にあります。

『風見鶏という言葉は、元々は「風に向かって雄々しく立つ」という肯定的な意味で用いられていた。しかし戦後の日本政界で中曽根康弘が「風向き次第で態度がすぐ変わる風見鶏」と揶揄されたため、日和見主義という意味合いを持つようになった。その後は中曽根に限らず、態度がすぐ変わる政治家が批判的に「風見鶏」と呼ばれることが多い。例として2012年12月23日の産経新聞では、ジョン・ケリーが米国国務長官に指名された際の記事に、「民主党重鎮 “風見鶏”批判も」との見出しがある。』

昨日、強風が吹き荒れていました。洗濯物が飛ばされてしまい、拾いに降りたほどでした。それで、「風見鶏」を思い出したのです。風や風の向きばかりに気を向けてると、時期を失ってしまうわけです。上に立たされている者が、正しく決断するなら、それでいいのではないでしょうか。人の目ばかり気にしていたら、指導力を働かせなくなってしまうからです。

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退屈

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一昨日、息子がFaceTimeをしてきて、新コロナ旋風吹きまくる御時世、当県下でも感染者が出たと聞いたからでしょうか、両親が、どうしているかを問安してくれたのです。その画面の息子の後ろに、二、三度部屋を出入りする、登校禁止令下の孫が写っていました。所在無げに、狭い家を行ったり来たりしている、かわいそうなほどに暇を持て余しているのが歴然でした。

徳川の治世下で、旗本や御家人たちに、病気に罹ったら、「お目見え禁止令」と言う命令があったのだそうです。将軍を、流行病や疫病の災禍から守るために、『出仕あいならぬ!』が下されています。家屋敷に綴じ込められて、外出が禁じられていたのです。『病気になったら仕事を休め!』と言われて、長い時は百日も休んだ事例もあったそうです。

今回の騒動で、小学校から高校まで、休校措置が下されたことに賛否が分かれています。家内が、昼前にドラッグストアーに買い物に行ったのですが、お母さんに連れられてか、お母さんについて来てか、何組もの母子の姿を見掛けたのだそうです。日本社会に、ストレスのガスが立ち込めて、爆発寸前なのではないかと心配です。

私の弟は、退職後の今も、現役で、渋谷や新宿や秋葉原などの盛り場を徘徊する青少年の指導を続けてきていますが、今回の休校措置に、危機感を募らせています。親が世話できない子どもたちが、時間を持て余して、儲けよとする大人の餌食にならぬ様にと、気が気でない様です。

ウイルスの害よりも、もっと致命的な結果が起きてしまわないか危惧されます。こう言った予想できることを熟考して、打ち出した休校措置なのでしょうか。残念な結果が起こらない様に願う、強風下の今日です。

昨日の夜、宅配がありました。何かと言いますと、「罹災者救援物資」です。去年の10月の台風19号に罹災した家庭への市役所からの援助品の送付でした。休校中の子どもたちのいる家庭にも、ケーキとかクッキーの差し入れなどを、首相官邸は気を利かせて送ったら、少しはストレス解消になりそうですが。ご提案まで。

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