夕陽

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この写真は、ブエノスアイレスの「オベリスク(仏: obélisque、英: obelisk)」です。この街で、研修会があって、訪ねたことがありました。イタリヤ移民の多い街で、ヨーロッパに行ったことになかった私に、ヨーロッパを感じさせてくれたのを、昨日の様に思い出します。

それでも、陽が沈んだ街の中は、薄暗かったのが意外でした。また男性もお洒落で、きちんとスーツを着ている人が多かったのですが、形が崩れたり、古そうでした。豊かな煌びやかさ、輝きがなく、くすんだ様な雰囲気が満ちていました。最悪なのは、その暗がりで、娼婦に袖を引かれたことです。そんな願いなどなかったので、物凄くガッカリしたのです。豊かな日本人に見えたのかも知れません。

17の時に、南十字星に憧れた私は、アルゼンチン協会から、パンフレットを送ってもらい、貪る様に見入ったのです。そして、スペイン語の勉強を始めてみました。それからの半世紀ほどの後に、ブエノスアイレスとサンパウロを訪ねたわけです。ブエノスアイレスから、パンパと呼ばれる大草原、大穀倉地帯、牧羊の草原を、バスである街を訪ねたました。日本に強い関心を街ぐるみで持っていて、それで表敬訪問をしたのです。

行けども行ども草原が連なっていて、決して日本では見られない光景でした。滞在中に、草原の牧場で、“アサド(バーベキュー)” をして頂いて、牛を半身にして、薪火で照り焼きをしてくれました。ふんだんに食べれると思っていたら、皿に盛ってくれたのはほんのわずかだったので、またガッカリでした。

ヨーロッパ航路の離発着の船の波止場にも連れて行ってもらいました。“ラ・ボカ “ は、横浜や神戸などとは違って、実に裏寂れた港街だったのです。望郷の思いが積み上げられているのが感じられ、遠くからやって来て、帰ることのできない多くの人が、海の彼方のヨーロッパの祖国を思う思いが溢れていました。

そんな港街に、あの情熱に溢れた、“ アルゼンチン・タンゴ ” が生まれたのだそうです。18で、アルゼンチンに渡っていたら、自分の人生は、どんな風な展開があったのかと思ってみましたが、望郷の念に駆られながら、大草原に沈んでいく夕陽を眺めててばかりなんだったかも知れません。沖縄からの移民が多いそうで、クリーニング屋や花屋をしながら生計を立て、子弟を教育させて、この国に社会で勤勉に働いているみなさんが、食事に招いてくれました。
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移民の国、移民の街、そんなことを感じましたが、『ずいぶん遠くに来たもんだ!』と思ったのですが、サンパウロのリベルダーテの地下鉄の駅前で、日本人の一世のみなさんが、何を語るでもなく群れ集まって、深い皺を額に刻んで、寡黙だったのが印象的でした。

(下の写真は、最近のサンパウロの日本人街です)

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