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もう「死語」になってしまったかも知れませんが、日本家屋に、「縁側」とか「縁の下」とか「濡れ縁」と呼ばれる所がありました。父母と一緒に、一番長く過ごした家には、縁側がありました、板張りで、「廊下」でもありました。外庭と家の中の境界線に、作られた、外と内とを分けた、少々「曖昧(あいまい)」な一郭があったのです。
来客が来ると、部屋から部屋ではなく、隣の部屋に行く「通路」でした。正式なお客さんは、玄関から迎え入れて、畳の客間に案内して、そこに卓(テーブル)があって、座布団を進めて、茶菓でもてなし、談笑するのです。ところが近所の方が、ブラリと寄ると、「縁側」や「濡れ縁」に腰掛け、足は庭におき、迎えるこちらは縁側に座って応対して、世間話などをしたのです。
そう言った一郭は、日本独特の家屋の造りの一部でした。所帯を持ってから、幾度となく引越しをした家には、縁側などがあった試しがありません。武家の家に、縁側が設けられていたら、そこは「緩衝地帯(かんしょうちたい)」、「休戦地帯」のような雰囲気があったのではないでしょうか。
そこで、来客の品定めをし、家の中に迎え入れるか、入れないかを試しているような感じがしないでもありません(私が感じていることです)。しかし、その一郭の持っている使命は、「交流」の場だったのでしょう。日本の「文化」、「縁側文化」が花開いた場所だったのではないでしょうか。
ある時は、作業をする仕事場であったり、収穫した作物を保存するために乾燥させたり、子どもを「日向ぼっこ」させたり、涼をとったり、昼寝までできる所だったのです。俳句を詠む人は、ここで花鳥風月を眺めながら作句し、言葉遊びをしたかも知れません。「畳」でもなく、「土」の上でもない、「板」の上で育まれた情緒に違いありません。
小春日や縁側でねる隣の猫 綾子
玄関よりも、お勝手口よりも、『よいしょ!』と声を出して、上がったり、降りたりするには便利な所だったのです。母が、そこに座って、縫い物をしていたことが、よくありました。そこにランドセルを投げ下ろして、『行ってきまーす!』と、宿題などしないで、遊びに行った日々が懐かしく思い出されます。「縁(えん/えにし)」は、英語だと、” edge ”だけではなく、
“ chance,fate,destiny "だそうです。親子、隣人、友人の関係づくりの場、運命的な出会いの場でもあったわけです。
外のガラス戸、廊下、そして障子があって、居室との境になっていました。障子を通って入り込む明かりは、なんとも情緒があります。和紙一枚が、夏には涼を保ち、冬には暖を保つのです。こんな優れものは、他の国では見られません。カーテンでは味わえない、えも言われない雰囲気があるのです。
父と暮らした家には、床の間もありました。合理的で、持ち物が極端に少ない父の生活様式には、驚かされています。洋服箪笥、小さな本箱だけでした。ワイシャツも、襟がスレて薄くなると、母が裏返しに縫い直して、着続けていました。実に物持ちのよかった父でした。ただし品質の好い物を持っていた父に似ない私は、ユニクロ製が多いのです。明治男の簡素さに学べなかったのは残念なことでした。