分断

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 1945年8月15日に、天皇による終戦の詔勅の「玉音放送」があり、9月2日、戦艦ミズーリーの甲板上で、重光外務大臣が日本国を代表し、アメリカ側からはニミッツ元帥が代表して調印式が行われました。それで無条件降伏を受諾して、日本が占領されることになったのです。
 
 占領当初、ソ連が北海道と東北地方を、アメリカが本州中央(関東、信越、東海、北陸、近畿)を、中華民国が四国を、イギリスが西日本(中国、九州)を統治し、東京は四カ国共同占領という分割統治案がありました。その分割案は、当時のアメリカ合衆国のトルーマン大統領の分割案拒否で、アメリカ一国による占領となったのです。

 私は、1961年の春、修学旅行で、青森から青函連絡船で函館に着き、北海道を訪ねました。もし日本が分割されていたら、樺太や北方四島だけではなく、北海道も、当時のソ連の占領になっていたでしょうから、修学旅行で行くことはなかったし、よしんば行くにしても査証が必要だったことでしょう。

 しかし、まだ未舗装の道内の国道を、砂埃を立てて函館から大雪、網走と周遊することができました。旅館で初めて食べた、〈イカ素麺〉の旨さに味了(魅了)されてしまいました。沖縄が返還される以前は、沖縄から本土の大学に来るためには、面倒な手続きをし、ドルを円に換金する必要がありました。北海道がソ連領だったら、同じだったのでしょうか。

 朝鮮戦争によって、南北が分断された朝鮮半島は、今に至るまで統一は見込めなさそうな現状です。私が初めてソウルに行きました時は、夜間外出禁止で、厳戒令がしかれていました。韓国映画に、「網に囚われた漁民(The net)」という映画があります。北朝鮮の漁民が、エンジンのトラブルで南北国境を超えて、韓国領侵犯で海岸警備隊にスパイ容疑をかけられ、拘束されます。

 朝鮮戦争で父親を殺された取調官は、暴力や拷問によってスパイに仕立て上げ様とします。連れ出されたソウル(京城)市内で、放置されたりします。結局、北に帰ることを許されるのです。ところが、祖国の北に帰っても、南の逆スパイとして送り返されたとの嫌疑で、同じ様な執拗な取り調べと拷問をうけるのです。やっと解放されますが、食べるために漁以外に生業のないこの人は、けっきょく網を打とうと出た洋上で射殺されてしまいます。
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 貧しいその日の漁でやっと家族を養って生きている漁民が、自由な国に行っても、独裁国家に戻っても同じ様な嫌疑をかけられる、そう言った描写に、考えさせれることが多かったのです。分断国家の不条理さ、疑心暗鬼が描かれて、北に拉致された日本人のみなさんは、様々な酷い待遇や洗脳を受けていることを思わされるのです。

 日本軍による外国人捕虜に対する行き過ぎた取り調べや拷問もあった様です。何よりも捕虜として投降する恥を避け、自死を進めた日本軍の軍紀の生命軽視には驚かされました。一度、スエーデン人のご夫婦と一緒に食事をしたテーブルに、ピョンヤン(平壌)出身の方がおいででした。彼には強烈な南北統一の悲願があって、ご自分の故郷の陸上競技場に溢れる様に人を集めて、『講演会を開きたい!』と言っていました。

(青森駅の青函連絡船への線路跡です)

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遜る

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 「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6章8節)」

 「遜る」と言う学課についてです。貶(けな)されたり、褒められたりして、今日まで生きてきました。” balance sheet “ にしてみますと、圧倒的に、貶されたことが多かったなあの今までなのです。それだけ欠点や短所が目立って多かったからなのです。

 貶されると、私は、『何のその!』と言って、自分の良いところを思うことにしたのです。欠点は、いつか変えられると言う希望を持ってでした。

 先週、第46代アメリカ大統領のバイデン氏の就任式が行われていましたが、第39代カーター大統領が選ばれた時、お母さんから送られたのが、冒頭の言葉でした。大統領の重責を果たす上で、こんなに的確で、素晴らしい理念は他にありません。大統領職に就任する息子を産んだ、母の誇りや得意満面さは母の口に一言もありませんでした。四年間の職務を、どんな心で過ごすべきかを、このお母さんは知っていたのです。

 ミカの時代、経済力や地位を持つ一握りの人たちの支配下にありました。人々は、その抑圧下にあって、不当な扱いを受けていたのです。裁判官も宗教家も金儲けが第一になるほど堕落していました。そんな只中、預言者として、神のことばを発したのがミカでした。

 真の預言者は、国家権力を恐れませんし、阿(おもね)ることもしません。「義」を貫き、「義」を行うことを語ります。お金や地位や誉を求めたり愛したりしないで、「誠実」を愛することを勧めます。さらに謙遜に生きることに祝福を語ります。人の顔色や財布の中に思いを向けずに、神と共に遜って歩むことこそ、大切だと言ったのです。

 カーター大統領は、大向こうを唸らせ、歴史にことを残す様な、政策的な大芝居を打つことはなかったのですが、誠実に任務を果たしたのです。まさに、カーター大統領は、

 「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。(箴言1章18節)」

を守って生きたことになります。ピーナッツ栽培農家の息子でしたが、パレスチナの寒村の村民に向けて語った預言のことばを、輝けるアメリカ合衆国の大統領に、お母さんが語ったと言うことは、特筆に値します。預言者の声に耳を傾けて、「謙遜」に生きる勧めだったわけです。

 カーター時代のホワイトハウスの住人は、ホテルのモーニングを食べたり、有名ステーキ屋のステーキを食べる、どこかの首長とは違って、貧しかったそうです。なぜかと言いますと、特権の濫用をしなかったからです。ホワイトハウスを飾る花でさえ、野に咲く花を積んで活けたとの逸話も残されています。カーター大統領は、私の恩師と同じ、ジョージア州の出身でした。ちなみのこの州のニックネームは、” The Peach State “ だそうです。

 
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四六の蝦蟇

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 東の空から太陽が昇るのを、ベランダから眺めるのが、毎日一日の始まりです。夕日だけではなく、日の出の空は茜さす神秘さに溢れた情景なのです。太陽を拝むことはしませんが、創造主の業である《日輪》を眺めるのは、実に《創造の神秘》を感じさせくれ、畏怖さえも覚えてしまいます。

 太陽が昇るのは、ここ北関東下野国から見える「筑波連邦」の背後なのです。この筑波山(877m)には登ったことも訪ねたこともないのですが、遠い山容は美しく、訪ねる様に誘われているように感じながら、遠望で満足しております。画家の安野光雅が書きました「大志の歌」の中に、本当の校歌ではなく、架空、想像上の学校が取り上げられ、それを歌った校歌が、次の様にあります。

前を流れる桜川
後ろは深き筑波山
蓮咲く沼のほとりこそ
わが故郷の誇りなれ

痔の妙薬といつわりて
がまの油をこねくりまわし
あるは刀の刃をとめて
人をあざむく悲しさよ

 島根県に、小京都と親しまれる「津和野」があります。安野光雅は、この街の出身の画家で、昨年末に亡くなられています。筑波は、〈蝦蟇(がま)の油〉の産地でだという前置きで、武家の装いをした香具師(やし)が、口上(こうじょう)を唱えながら、道端や神社の境内で売っていた妙薬で、それをユーモラスに歌ったのです。その口上( 出典、つくば市認定地域文化財規則第3条)とは、

 『さあさあ お立ちあい、御用と お急ぎでなかったら、
ゆっくりと聞いておいで。
遠出山越(とおでやまご)え笠の内、
聞かざる時には、物の出方、善悪、黒白がトント分からない。
(中略)

さて、いよいよ 手前 ここに取り出しましたるが、
それ その 陣中膏はガマの油だ。
だが お立ち会い。  
蝦蟇 蝦蟇と 一口に云っても 
そこにも居る ここにもいるという蝦蟇とは、
ちと これ 蝦蟇が違う。(中略)
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一名これ、五八十(ごはつそう)は四六の蝦蟇だ。四六の蝦蟇。
サテ しからば、此の四六の蝦蟇の棲むところ、
一体、何処(いずこ)なりやと言うれば、
これより遙か北の方、
北は常陸の国は筑波の郡、古事記・万葉の古から 歌で有名。
「筑波嶺の 峰より落つる男女川(みなのがわ) 恋いぞつもりて 渕となりぬる。」と陽成院(ようぜんいん)の歌にもございます 関東の名峰、筑波山の麓。(後略)

 ガマの身になって、ガマの学校の「校歌」の様にして詠んだのです。そんなことを思い出しながら、遠望の筑波の峰を眺めると、この「ガマの油」が、『新型コロナに効かないかな!』なんて思ってしまうのですが。朝日が昇るのを見るだけではなく、銀座か浅草にでも行って、路傍の売人のアルバイトでもしたいものですが、いかがなものでしょうか。効きっこないか。

(ベランダから遠くに見える朝明の筑波山です)

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「待つ」という学課

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 「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。 (ヤコブ5章7〜8節)」

 人生の《一大学課》が何であるかについてです。現代人は、特に、この学課を学ぶのを避けて生きているのではないかと思います。《待つこと》です。

 『急いては事を仕損じる!』と先人も申しましたが、それを地でいった人の話を聞きました。「宮本武蔵」や「鳴門秘帖」の名作を手掛けた吉川英治が亡くなって、盛大な葬儀が、1962年9月に行われました。長蛇の焼香客の中に、これまた戦後の文壇で名の馳せた尾崎士郎がいました。

 その頃、文壇の寵児として人気のあった三島由紀夫などの気鋭の作家たちも、その葬儀に駆けつけました。三島らは、『先生こちらへ!』 と言われて、列に並ばずに進むことができたそうです。ところが尾崎士郎は、じっと列の中にとどまって、順番を待っていたいたそうです。どなたかが、そう言った違いを目撃していたのでしょう。

 私は、高校時代に、この尾崎士郎の「人生劇場青春篇」を読んで、早稲田に進学することを考えていました。バンカラな昭和初期の早稲田に学んだ尾崎の自伝的新聞小説で、そこに描かれた学生生活に憧れたからです。早稲田には行きませんでしたが、早稲田の国文学科長に気に入られたことがありました。

 実は、私には、滞華生活の中で、〈悔い〉と言うか申し訳ない経験があるのです。小学校の頃からたびたび中耳炎で苦しんで、街の耳鼻科医に診てもらってきました。華南の街で生活していた時に、それを再発して、医科大学医院に連れて行ってもらい、診てもらったのです。私たちの世話をしてくださっていた大学の教師の方の友人が、その医科大の耳鼻科の医者でした。
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 その時、驚くほどの人が、診察室の前で待っていたのです。それが中国では普通なのか、中国の医院では、医師や婦長に知り合いや推薦のある患者が優先的に診てもらえるのです。学校で教えていましたから、『先生こちらへどうぞ!』と、何十という人、百人以上の人よりも先に診察してもらったのです。自分に主導権がありませんでしたから、言われるままに、多くの患者さんを飛び越えて医者の前に立ったのです。

 すごく申し訳がない思いで心がいっぱいで、特権を喜べなかったのです。思い返すと、弔問の列の中で待たなかった三島由紀夫の様だった自分が恥ずかしかったのです。恨めしそうな視線が向けられていましたが、苦情や文句や不平が出ることがなかったのも、さらに申し訳なさの思いを増幅させたのです。

 私は権利を主張できる立場ではありませんし、かつての侵略者の末裔なのですから、恨まれても当然なのに、自分の意志でない特権に預かったことが、いまだに忘れられないまま、家内の診察を、順番待ちしている今です。あの焼香の客の列に留まった尾崎士郎の様な、自己主張や特権行使をしない生き方っていいですね。

 エルサレム教会のヤコブは、『耐え忍びなさい!』と、『早く、速く!』と言って生きてる二十一世紀に私たちに《待つこと》を勧めています。時には、定められた時があって、どうしても待たなければならないのですが、間もなく事が起こりそうです。自然界が時を待つ様に、今、急がずに待ちつつある私です。

 
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大寒のリス

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 今日は、二十四節気の「大寒」です。暦の上では、最も寒い日と言えます。それは中国大陸の黄河の下流域に中原と呼ばれる地の「気候変動」を言い当てていますが。そんな日のアメリカのロサンゼルスで、木の実を食べる「リス」です。所用で訪ねた折に、送信してきました。でも、陽の光の強さは、寒さを押し出そうとするほどに強くなってきています。

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ねんごろに

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 『時は人の心を癒すのか?』、哀しく辛い経験が、時間の経過とともに、傷付いた心が癒されるのかどうかを問い掛けています。

 昨年12月23日に、姉のように慕っていた幼馴染と死別した、次女の二人の十代の子が、「戸惑い」、「困惑」の渦中にありそうです。幼い日から一緒に育ったほどの近い交わりの中にあった、14、15の心が揺り動かされている様です。もう「死」という人生の厳粛な命題の前に立たされて、学ばなければならないわけです。

 次女からのメールに、次の様にありました。『サラちゃんがポスターをオーダーして取りに来ないのでプリント屋さんから連絡があったそう。その2枚が、ノーくんのためにオーダーしてあったもので、多分クリスマスプレゼントだったようです。アーちゃんにはお洋服を買ってくれていて、ノくんにも用意してくれていたみたいです。優しいね。ノアの好きなミュージシャンのカバーと面白い映画のカバーでした。大切にする、と言っています。』とありました。

 亡くなる前に、街のプリント店や洋服屋に行って、可愛い弟や妹へのプレゼントを用意していたのが、そう言った形でわかった次第は、嬉しいやら、辛いやらで十代の子たちにとってはどうにもやりきれない思いがありそうです。
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 『私もずーっと考えないようにしていたけど、娘を亡くす事を考えただけで心がはち切れそう。とても優しくて面白くていつも笑って話をしていた素敵なお姉さんみたいな存在との死別を真正面から受けている子どもたちの事を考えただけで辛くなります。2人ともまだ14歳と15歳、あんなに近い関係だった人を2人同時に亡くしたんだよね。』と、次女が続けています。

 送られてくる、孫たちの成長の記録を撮って、ジジババに知らせようとした多くの写真の中に、オレゴンの川でカヌーやパドルボードを、楽しそうに興じている一葉の写真がでてきました。『板子一枚下は・・・』と言われてきていますが、一枚の薄い板の下の水は、泳ぐ目的のために作られていない人にとっては、下は死の世界なのです。

 子どもたちが幼かった日、よく静岡県の静波の海水浴場に泳ぎに行きました。ある夏のことでした。長男の親しい同級生が、親戚の子の流された浮絵輪を追って、その海岸の沖で亡くなる事故がありました。慕ってくれた友の死は、長男にとっては、辛い経験だった様です。先年亡くなられた、デーケン教授が、次の様なことを言っていました。

 『感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。 
・・・身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。・・・不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。  「私だけがなぜ?」「神様はなぜ、ひどい運命を科すの?」 「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹きす。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。 』とです。

 時間だけではなく、命の付与者からの、懇(ねんご)ろな癒しと慰めと正しい理解が、愛するご主人とサラちゃんを亡くされたお母さんと二人の孫に与えられる様に願う、早春の温かな陽差しが入り込む、巴波の流れの辺りの窓辺です。

(柊〈ひいらぎ〉の花、ウイラメットの風景です)

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千年

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 『いやー明治だよ緑波(ロッパ)さん!』、日本史を学んだ私たちには馴染みの暗記例でした。明治の御維新、明治元年が ” 1868 ” 年であったからです。そして、日米英の太平洋戦争の開戦は、その七十年余り経った、1941年12月8日のことでした。その4年後、敗戦を喫してから、今年は七十有余年が過ぎているのです。私たち四人兄弟が、みな七十代になっていますから、その生まれた頃は、日本に大きな変化があった明治維新から、七十年の節目、折り返しがなされたわけです。父は1910年生まれでしたから、大変革の年から43年経っていたことになります。

 こう言った年数を勘定しますと、歴史というのは、意外と身近なのだと思わされて仕方がありません。私が日本の歴史の中で、最も関心を向けているのが、「鎌倉時代」なのです。中学の3年間の担任で、社会科を教えてくれた教師が、日本史の時間に、『日本人が最も覇気があって、潑刺としていた時代は、鎌倉時代です!』と教えてくれた時からの関心なのです。源頼朝が、鎌倉に幕府を置いて、征夷大将軍になったのは、1192年のことでした。今より千年の昔のことになります。

 その頼朝は、公家社会から、武士中心の社会に移行した大きな転換期の中心人物であったわけです。『俺は鎌倉武士の末裔なのだ!』と、あまり誇ったりしなかった父でしたが、ただそんなことを言っていました。頼朝から拝領した土地に父が生まれ、その生家が今も残り、先年、兄と弟とで訪ねたのです。千年も前のことと自分がつながりがあることに、なんとも不思議な感覚を、初めて感じたことでした。

 歴史とは、人や時との関わりだけではなく、「土地」とのつながりでもあることを思わされるのです。時は移ろい、人は生まれては逝き、また生まれ、上物の家屋は朽ち果てては、建て直されても、「土」は残るわけです。自分が生まれた山村にも愛着を感じますが、一族が、千年もの間住み続けている街(三浦半島/横須賀)には、さらに強い思いを覚えてしまいます。その街が、やがて日本海軍の主要な軍港になり、真珠湾攻撃艦隊の軍艦の母港にもなったのです(広島・呉の軍港を経て最終的には択捉島(エトロフ)のヒトカップ湾から出港しています)。

 生まれた村には家もなく、祖伝伝来の土地には、父の生まれた家はあっても、相続権を放棄していますので、実際にはありません。たとえ「天涯の弧客(てんがいのこきゃく)」であっても、天なる故郷には、帰り迎えてくれる家が備えられていると、信じているのです。そんな思いで、この年を迎え、新しい年も三週が過ぎようとしています。何か重いものを負いながらの2021年ですが、恐れません。

(横須賀市の市花の「浜木綿〈はまゆう〉」です)

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現状

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 子どもたちが滞米中に、彼らを訪ねたことがありました。その折、アメリカの倶楽部で、お話をさせていただいたのです。四人の子を、次々にお世話くださったのが、その倶楽部でした。その時、「アメリカと私」という題での話だったのです。

 私たちは、「脱脂粉乳」を飲んだ世代でした。” LARA( Licensed Agencies for Relief in Asiaアジア救援公認団体)“ と呼ぶアメリカの団体が、太平洋戦争後の日本や朝鮮戦争後の韓国にたいして、成長期にある子どもたちへの支援物資でした。1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までに行われたと記録されています。

 甘さも脂肪分もないもので、美味しくなかったのですが、コップ一杯が配られて飲んだのです。戦後の学童を、その一杯の善意が、あの時代の子どもたちの健康を支える一助となったのだと思います。おもにアメリカの教会の婦人たちが中心になって押し進めた救援事業でした。その恩恵に浴した一人として、感謝を込めて、そのことを取り上げたのです。

 もう一つは、アメリカ映画俳優の "James Dean(ジェームス・デーン)” の主演する映画を、中学生の頃に、夢中になって観たことを話しました。スクリーンに映し出される、アメリカの物量の多さ、繁栄、若者の生態などを観て、十代の私が強烈な印象を受けたことも語ったのです。アメ横にジーパンを買いに行くほどの十代の私の憧れの俳優でした。

 そして、アメリカやカナダから遣わされた宣教師たちとの出会いをお話ししたのです。私の母は少女時代に、宗教都市の出雲で働くカナダ人宣教師家族との出会いを通して、信仰者となったことを話しました。家内の母親も、戦後アメリカから遣わされた宣教師との出会いで信仰者となり、マッカーサー極東軍事司令官が遣わした多くの宣教師に、義母は日本語を教えたことも付け加えたのです。
 
 そして、自分自身が、宣教師と8年間働いたことも語ったのです。そして子どもたちが、その教会で、霊的な成長のためのお世話いただいたこと、その時もなお、それが続いてることを感謝を込めて語りました。大統領には会う機会はなかったので、その代わりに、アメリカの西海岸の教会の講壇から、そんな様々なアメリカとの関わりについて、感謝を込めて述べたのです。
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 ある時、『アメリカがなぜ崩壊しないのか?』について、大統領付きのホワイトハウスのチャプレンの話を、恩師に聞いたことがありました。一つは、建国の父たちの理想や夢や幻に繋がっている人々が、今もなおいること、二つに、アメリカのための内外からの祈りが支えていること、三つは、アメリカの富が、長く世界宣教に献げられてきたことだということでした。

 そんな私が感謝したアメリカが、今や建国の父たちの理想、夢、幻を継承できなくなってしまっている様な現状なのです。分断が起こり、暴力が満ちて、優しさが見られない社会になってしまっています。『やがて、ある日、アメリカの国力が落ちる!』、もう40年も前に、恩師から聞いたのが、その言葉でした。

 あの話を聞いてから40年も経っていますが、アメリカの社会は、その通り経済力も低下し、何よりも世界を感化できる義が、不義に変えられてしまっています。創造の神の祝福をいただいた国が、それを失いつつあるのでしょうか。

 大都会がアメリカを代表しているかの様に、世界は見てきましたが、そうではありません。数多くの小さな村や町、そこに住む名もない市民によって、勤勉な労働と、敬虔な祈りが、長くこの国を支え続けてきていたのです。ところが、堅実な街や村が、都会の波に襲われて、とくに人々の心が荒廃し始めています。人々は政治に落胆し、富にさえも望みをおけなくなり、義を愛せなくなっています。とくに子どもたちが不安に駆られているのです。それがアメリカを弱体化していることなのでしょう。このアメリカの経済的な力、愛の実践の力、影響力を失う時、何が起こるかというと、
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 「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ21章20節)」

 《神の日時計》と言われてきたイスラエルと、その都のエルサレムが、敵対する軍隊によって包囲される日がやってくるのです。その時、世界全体の均衡が崩れ、聖書が警告してきた「滅亡」の到来が起こるというのです。それで、

 「エルサレムの平和のために祈れ。(詩篇122篇6節)」

と要請されてきています。2000年の間、離散したイスラエルの民が、20世紀になって、” Zionism シオニズム “ の機運が高まって、約束の地シオンに帰還する動きが、離散先の国々に起こり、誰いうとなく、世界中から、神の約束の地、シオンに次々と帰還し、今もなお、その動きがあります。イギリスの助けがあって、1948年にイスラエルは国を再興しました。長く様々な面で、イスラエルを支えてきたアメリカですが、その国力の低下とともに、イスラエルへの援助能力も弱くなり、やがて、援助できなくなる時がこようとしています。その時に、

 「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。(詩篇121篇4節)」

 神ご自身が、ご自分の腕を直接伸べて、イスラエルを日夜、守られる様になるのです。イスラエルは見放されることはないのです。これが週末の一つの局面に違いありません。

(「シャクナゲ」とLARAの「脱脂粉乳配り」とイスラエルの国花の「アネモネ」です)

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出会い

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 私たちの倶楽部に、ほとんど入れ替わりの様にして、何組かのアメリカ人のご家族がいたことがありました。日本の食べ物が合わなくて、月に何度か、アメリカ軍の基地に出かけては、そこで食料を買って帰ってきて、生活をされていた方がいました。ご主人は、軍籍をお持ちだったのです。せっかくの来日でしたが、けっきょく短期で帰国されてしまったのです。

 この方たちとは違って、魚の干物でも食べられる家族がいました。多くの人たちに教える力があって、とくに奥さまは、ご婦人たちに良い感化を与えておられました。地味で質素な生活をされていて、私たちと、とても良い関係を持たせていただいたのです。住んでいる山里の村でも人気のあるご家族でした。4、5年おいでの後、帰国されました。

 もうひと家族は、奥さまが日本人でしたが、私の知人の家を紹介して住んでいたのですが、家や庭の使い方や近隣の方との間でトラブルがあって、いつの間にか、山の奥の方に住まいを見つけて移って行かれ、それからは連絡が途絶えてしまいました。

 私たちと八年ほど一緒に過ごした恩師は、男のお子さんが二人おいででした。日本式の手狭な家を借りて生活をされていました。その借家全体が、弟さんと二人の遊び部屋ほどだったそうで、地方の裕福な商家の出でした。その借家を改装して、部屋を増やし、そこでお子さんのホームスクールをしていました。

 子育てをしながら、お仕事をされ、その働きを私に預けて神奈川の街に移って行かれました。その後、京都、札幌、再び京都と、多くの街で働かれて、良いお働きを残された方でした。よく腰が痛かったりしておいででしたが、厳しい病を得て、東京の入院先で召されました。六十代でした。

 この方から、人生の基本的なこと、物の見方、考え方、捉え方などを学ばせていただいたのです。この方を訪ねて来られたみなさんからも、短期間でしたが、多くのことを学んだのです。まだ教える方も、学ぶ自分も若かったのです。彼らは熱く教えてくれました。《誰に学ぶか》、《何を読むか》、《どこから情報を得るか》を、この方たちから学んだのです。

 あの年月があって今の自分があるのだと思い返しております。『鉄は熱いうちに打て!』、柔軟な時期に受けた影響というのは、一生ものになるのでしょうか。今年小学校に入学する、私たちの小朋友のお嬢さんは、来るたびに、知的にも創作面でも成長が見える、『栴檀は双葉よりも芳し!』、将来が楽しみです。彼女にとっては、私たちは《大朋友》なのでしょう、『百合さん、準さん!』と彼女に呼ばれて、遊び相手に感じてている様です。

 中国での13年は、孫たちと接する機会が少なかったのですが、このお嬢さんは、それを補ってくれて余りあるほどなのです。ちょっと厳しくしたりすると、彼女は大粒の涙をポロリと落とすのです。歳を重ねての幼い子からの刺激は、人生の仕上げ作業の一つなのでしょうか。華南の街で出会ったみなさんからも、実に多くのことを学ばせていただいたことも忘れていません。

 数多くの多く出会いがあったのですが、言語も肌の色も国籍も民族も文化も、人はそれを超えた存在だと思うのです。同じ様に笑い、泣き、叫び、黙ります。同じ感情を表して、同じ真理に憧れて、それぞれに意識を働かせて生きます。みなさん個性的に自分の生を生きているのです。その素敵な出会いに感謝して。

 
(「栴檀」の花です)

異文化

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 アメリカでは、子どもたちが仮装して、近所や知人の家を訪ねて、その家で焼いたクッキーなどをもらって過ごす「ハローイン」という祭の日が、10月31日にあります。愛知県から留学していた、16歳の服部剛丈(はっとりよしたけ)さんが、その祭が間近かな1992年10月17日に、銃で打たれて死亡するという、悲しい事件が起こりました。ルイジアナ州バトンルージュ市で起こった射殺事件でした。

 服部さんは16歳で、交換留学で、ホストファミリーの家にお世話になっていて、その家の男の子と一緒に、招いてくれた方の家を訪ねたのです。ところが、その方の家を間違えてしまいます。その家の戸をノックしてしまい、不審に思ったその家の主人の背後からの “ freeze “ の呼び掛けが、スラングで『動くな!』が、留学間もない服部さんには理解できず、動いてしまって、射殺されてしまったというのが経緯です。

 その街では、年間に50件もの殺人事件が起こっていて、マスコミが大きく取り上げることのない事件として片付けられようとしましたが、日本での騒ぎが大きくて、けっきょく裁判で事実を明らかにすることになります。服部さんのご両親は、息子を撃ち殺したその人を、恨むことはなかったそうで、銃社会の有り様に一石を投じて、息子の死を無意味に終わらせたくなかったと伝えています。

 当時、私たちの長男はオレゴン州の街に、次女は、ハワイ州の街に留学中でした。それは彼らにも、送り出している私たちにも、衝撃的な事件でした。ある時、息子から、めずらしく電話がありました。教会の運営している寮の近くで、発砲事件があって、その銃声に驚いた息子が、祈りの要請をしてきたことがあったのです。現実のアメリカ社会に驚いたからなのでしょう。

 ですから、その服部さんの事件は、私たちにとっては〈人ごと〉ではなかったのです。かく記す私も、映画やテレビで聞く銃声しか知りませんから、実際には聞いたことがないわけです。日本の様に、警察による治安が保たれている社会とは違って、建国以来、我が身が自分でしか守れないアメリカ社会では、銃は必要悪のままでよいでしょうか。

 合法でも非合法でも銃を用いて、物事を解決しようとしたり、暴走を抑止したりすることは、理想的な方法ではありません。その服部さんの訪問時に、〈ハローイン〉の仮装をしていたのも、不審者に思われた理由であったと考えられます。また、事件の背景には、犯罪が頻発する社会の不安と恐れも、市民生活の中に潜んでいたこともある様です。
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 〈ケルト人(中央アジアに起源を持ちヨーロッパに定住した人種)の祭りを受け継ぐ、このアメリカ文化の中に、魔女やおばけの服装をゆるす習俗があることに、おかしさを私は感じていたのです。歴史の短いアメリカ社会に入り込んだ、この奇祭はキミが悪かったわけです。まあ賛否はともかく、外国に留学する子どもは、その留学先の文化に留意しなければならないのです。

 私たちの子どもたちは、すでに四十代で、素敵な海外生活を送ることができましたが、異文化が持つ危険性はありました。オレゴンは、白人の割合が高くて、アジア系やアフリカ系は、白人優先社会の中では、酷い差別はなかったそうですが、そこそこの齟齬(そご)が生じた体験している様です。彼らは、教会関係の人たちの間にいましたから特別だったかも知れません。アメリカを愛した服部さんは、性格が明るくて、学校でもホストファミリーの中でも人気者だったそうです。

 この私たちの住む街にも、ネパールや東南アジアからの留学生が多くおいでです。働きながら学んでいて、
なかなか日本社会の中に溶け込めていない感がしています。欧米系の人たちには優しくて親切なのですが、アジアやアフリカ系のみなさんには、同じ様ではない日本の地方都市の弱さが、とくにコロナ禍のもとで気になります。

(ルイジアナ州の州の花の「マグノリア」、ネパールの国花の「ラリグラス」です)

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