祝、イチローさん!』、MSNの「イチローが10年連続200安打を達成(9月24日 2:44)」のインターネット・ニュースを見て、この快挙に心からの賞賛を送ります。浮沈の激しいプロ野球、しかもアメリカ球界での、この金字塔の記録は、あなたの弛みない努力と刻苦と勉励の賜物です。

あなたの語られる野球理論を、なんどもテレビで見聞きしました。『たかが野球!』と、人は言いますが、一芸、一道に精進して、このような未曾有の記録を打ち立てたあなたに、もう一度拍手を送ります。

あなたは、私の子どもたちと同じ世代で、スポーツを愛した彼らと、同じ時期に、それぞれのグラウンドや体育館の床の上に汗や涙を流した仲間なのです。あなたより一学年上の長男も、小学校時代から、田舎の町の「スポーツ少年団」の野球部に所属していました。彼もまた、プロ野球選手になりたいと、灼熱の夏のグラウンドを、汗と泥にまみれて走っていました。『お父さん、僕、プロの選手になったら、お父さんとお母さんに家を買ってあげるからね。車だって・・・。』と言ってくれました。身長は、あなたよりも高かったかもしれません。

彼は、中学ではピッチャーでした。大切な試合の日だったと思いますが、日曜日でした。私の仕事の関係で、どうしてもその日に出ていくことができなかったのです。このことが監督の不興を買って、それ以降は補欠に回されたのです。このことは、彼が大学を出てから、彼の書いた文章を、たまたま見て知ったのですが。

補欠でも、彼はめげることはありませんでした。3年間クラブ活動を続けたのです。あなたが愛工大名電高校に進学を考えていた時期に、市内の学校に、野球選手としてではなく、奨学生として誘いを受けていました。彼は、留学を考えていましたので、それを固辞し、結局、ハワイの公立高校に留学を果たしたのです。野球は続けませんでしたが、アメリカで学びを続け、スポーツを愛し、人を愛して、一人の妻と二人の子供の夫と父として、今生活しています。野球少年の彼にとって、日本の星であるあなたは、自分の果たせなかった夢を成就した同世代の球友として誇りを感じていることでしょう。私もまた、スポーツを愛する一人として、この記録は尋常ではなく、類まれなる快挙だと、手放しで喜んでいます。

一億総自信喪失の私たち日本人にとって、この記録は、何にも代えがたい激励です。あなたを天才と呼ばないことにします。なぜなら、あなたは、誹謗や悪意や不理解に屈することのない、明確な目的を持ち持ち続けて、一つのことに邁進してこられたからです。才能などに恵まれない子どもでも、あなたの生き方に倣って、だれでも生きていけるからです。あなたの背番号の“51”にふりがなを振ると、《努力》が一番似合いそうです。特に困難や逆境を越えていく、あなたの抜群の不屈の精神を褒めたいと思っています。

イチローさん、心からお祝い申し上げます。さらなるご活躍を、ここ華南の空の下から願っております。

友好大使の役を

旧暦(陰暦、農暦とも言います)の8月15日(新暦ですと、昨日の9月22日です)を、「中秋」と呼び、さしもの暑い夏が終わって、『秋がきましたよ!』と、満月で知らせてくれた日です。中国や日本の人々は、満月に思いを馳せ、様々に想像力を働かせながら、何百年も何千年もの間、眺めて楽しみ、詩に詠んでは歌ってきたのです。

中国では、「中秋節」の祝祭日で、学校は三連休の休みです。日本では、月見団子に薄(すすき)の穂を飾って、中秋の名月を眺める《月見》の行事、「観月会」がもたれるますが、休日にはなりません。ところで、まだ猛暑日が続いているとニュースが伝えていますので、昨晩は、額の汗をぬぐいながら、この満月を仰ぎ見たのではないでしょうか。日本では、天気もあまりすぐれなかったと聞きましたから、もしかしたら「無月」や「雨月」の中秋だったのかも知れません。私たちは「月」と書いて読みますが、中国では二文字表記をいたしますので、「月亮(yueliang)」と書いて読みます。太陽の光を受けて反射している月の光は幽玄で、とても浪漫的ではないでしょうか。

名月をとつてくれろと泣く子かな   一茶

同じ月を見て、中国の子どもたちも、『あの月をとって!』と言ってきたのでしょうけども、この1~2週の中日境界線上での漁船と監視船の衝突事件が尾を引いて、忌憚なく心ゆくまで観月を楽しめなかったのは、少々気残りがしてなりません。地球から遥かに離れた遠いところに光る《創造の美》を、もっと感動しながら眺めたかったのですが。『観ながら食べてください!』と言って、働いている学校や数人の学生、また友人たちから、「月餅」をたくさんいただきました。断った方もいました。二人で毎日いただいても、どうもひと月はかかるほどです。愛や感謝を表してくださった気持ちを口にほうばりながら、甘さが口に広がるのですが、今月今夜のこの月は、曇って見えた「悲月」、「惜月」でしたし、美味しい月餅も心なしか甘酸っぱかったのです。

私は月に向かって願ったりしませんが、事件の事実を科学的に調べ検討して、感情的ないきさつ抜きで、十二分に話しあって、結論を導いていただけるよう、心から願い祈るものであります。中国と日本は、命の危険を侵しながらも、この付近の海上を、数限りなく行き来した歴史があるのですから。それほどの交流の緊密さを、ここで再評価して、親と子、兄と弟のような関係にあり続けた両国ですから、歩み寄って平和裏に解決してもらいたいものです。

『そうだ(中国語では「对了/duile」と言います)!』、よく煉った餡で作られた「月餅」をテーブルの上に置いて、中国の「鉄観音茶」と、日本の「渋茶」を飲みながら、温家宝首相と菅直人首相とで話し合っていただいたらいかがでしょうか。よろしかったら、我が家の、中日友好の証である「月餅」を提供させていただいても結構です。きっと中秋に月を愛でて食べる月餅が友好の大使の役を果たしてくれることでしょう。

友を得よ!


長女が、『高校受験でテレビ講座があるから買って!』と言われて買ってしまうまで、我が家にはテレビがありませんでした。とうとう節を曲げて買ってしまってから、『時間泥棒!』だと悪口を言っては、なるべく観ないようにしていたのですが、時間のあるときは、どうしても誘惑に負けてしまう私でした。ある時、テレビを観ていて、『こういった世界で名を売るのは大変なんだ!』と思わされたことがありました。骨格も背丈も日本人であるのに、顔を真っ黒に塗って、手と目と歯だけが異様に白く目立って、ダンスして歌っている似非(えせ)アフリカ人のグループがいました。名前を見ましたら、「シャネルズ」でした。声や顔やダンスだけではなく、こんな努力をして売り込まないと、ステージに立つことができず、人気を保つこともできない世界に、『大変だ!』と思うことしきりでした。案の定、いつの間にかテレビでは観られなくなりましたから、人気が落ちてしまったわけです。今回の帰国時にも、食事の時にテレビを観ていて、『前に、親指を立てていた芸人がいたけど、今はどう?』と聞いたら、『もういないわよ!』と義姉が話していました。

その「シャネルズ」のメンバーの一人が、田代まさしさんでした。ちょっと喋り方が気になる人でしたが、結構人気があった芸能人だったようです。その彼が度々手を染めていたのが薬物でした。私は子どもの頃、父から麻薬の怖さを教えらたことがあります。『JAZZなどの演奏者たちの中に、麻薬中毒患者が多いんだ。一度始めたらやめるのは至難の業だそうだ!』と父が話したときに、私は子どもながらに決心をしたのです。父の話し方で、怖さが分かったからなのでしょうか、『絶対にしないぞ!』と肝に命じたのです。その決心は、今にいたるまで守られてきているのですが、ただただ感謝なことであります。ただ、何度か麻酔手術をしてきましたから、血液の中に合法的に入れたり、歯科治療の時にも使ったことはあります。39歳の秋に、大きな手術をしたことがあります。11時間ほどかかったと言っていましたが。手術が終わって、ICUに運ばれた私は、激痛で目が醒めました。麻酔が切れたのです。あの痛さは、これまでに味わったものの中で、最高だったと思います。我慢しようと思ったのですができずに、看護師さんに痛さを訴えて、鎮痛剤を打ってもらったのです。ピタッと激痛が止んだのを感じて、薬物の効能の凄さに驚かされたのを今でも忘れません。退院して、母のそばで時を過ごしたのですが、2ヶ月たっても腰の周りの麻痺が取れませんでした。それは麻酔の後遺症だったようです。それから数年間、腰の周りの違和感は続きましたが、いつの間にか気にしなくなって、今では全く正常に戻っています。

その経験からだけしか、薬物の力の強さ、怖さは知りませんが、多くのプレッシャーの中で、特に浮沈の厳しい芸能界で生きる人たちが、そこからしばし逃れたいと思う誘惑は理解できます。と言っても、営業成績の数値に追われる営業マンだって、長距離ドライバーだって、いたずら小僧の子育てをしている母親だって、夜勤で働き続けなければならない看護師だって同じです。みなさんがプレッシャーに圧倒されながら生きているわけです。だからと言って、開放感、絶頂感、陶酔感を得るために、化学的な方法を用いることには、落とし穴があって、依存が付きものであるという常識論がありますから、禁忌です。ところが、田代さんの場合、これらのことは百も承知なのに、再犯してしまった《怖さ》があるのではないでしょうか。薬の怖さは自明ですが、問題は、それを求めなければならない、人の心の溝の深さだと思うのです。田代さんは、『自分の力で更生してみます!』と言ったそうですが、初めから無理でした。

私は若い頃、『あなたの人生を破壊するものがある。心して注意しなさい!』と、くどいほど教えられました。酒、金、賭け事、名誉、麻薬、女に気を付けることです。でも気を付けるだけでは足りません。その誘惑の恐ろしい程の力の強さで、力ある者たちがなぎ倒され続けてきていることを知らなければなりません。人間史はそれを立証しています。大成功をおさめましたが、人格上では敗北者だという、膨大な実例があります。私たちを教えてくれた師は、『友を得よ!』と言いました。同情し、共感し、共に泣き、失った機会や仕事を世話してくれる友のことではありません。《弱い自分の心の赤裸々な現実を、忌憚なく話せる友》のことです。心の戦場で戦っている戦いの現実、誘惑に晒されて怯えている自分、到底勝てない脆弱な自分、そんな自分を恥じずに話すことができる友のことです。みんなが同じ誘惑にさらされて、かろうじて守られて立っているだけの《人の限界》を熟知して、自分を甘えさせず、『仕方が無いんだ!』と言わないで、厳しく叱ってくれる友のことです。これこそが《親友》なのです。田代さんにも、そういった人がいたのかも知れません。しかし田代さんは、そんな恥ずかしい自分を語り晒せない自分、《高慢さ》が心の中に、まだ残っていたのかも知れません。だから、再び自らの《恥》を世間に晒さなければなりませんでした。さあ田代さん、己を知り、恥を知って、しっかりと再び立てる日が来るようにと、心から願っています。

それにしても、エジプトの巷間で、女性に誘惑された一人の青年が、服の袖を彼女の手に残して、その手を振り切って《逃げた》のは、一番優れた方法ではないでしょうか。誘惑の前で、グズグズしないで、《逃げること》なら、だれもができそうですね。そう促し、逃げる背中を、そっと押してくれる方だっていらっしゃるのですから。

警告してくれた父、教えてくださった師に感謝している、台風一過の華南の朝です。

要塞

ここ中国では、灼熱の街を「竈(かまど)」に例えるようですが、今年の調査で最も暑い街が、「福州」に決まったそうです。杭州も武漢も重慶も暑いのですが、今年の「東京」もカマドでした。何年も住んだ街ですが、一ヶ月の帰国滞在で感じた東京の暑さは、まれに見るものでした。しかも私の次兄の家は、多摩川の流れと多摩丘陵の間の自然の豊かな地域なのですが、それでも感じたことのない猛暑だったのです。子どもの頃も暑い日があったのでしょうけど、『暑い!』 という思い出は全くないのです。同じように多摩川の河畔の街で少年期を過ごした私ですが、兄たちのあとについて、川で泳ぎ、帰りに《アイスボンボン》や《アイスキャンディー》をなめながら、炎天下を歩いた記憶があっても、『暑い!』と感じなかったのは、子どもだったからでしょうか。それとも、あの頃は、そんなに暑くなかった時代だったのでしょうか。家に帰っても空調や扇風機などありませんから、日陰が一番涼しかったのだと思うのですが。

結婚した私は、その街で所帯を持ちましたが、仕事をやめて、アメリカ人実業家の事業の開始の備えで、待機していた時期が4ヶ月ほどありました。知人が大型トラック製造の日野自動車の溶鉱炉の部品を製造し、取り替えなどの業務をされていました。時間があり、収入もなかったので、この会社で働かせていただいたのです。生まれて初めて、高いというのでしょうか、深いというのでしょうか、溶鉱炉の中に入ったことがありました。顔も作業服を真っ黒になりましたが、燃やされませんでした。もちろん火が落とされていたからです。仕事は、冷却器の交換と設置だったと思います。いろんな仕事をしてきた私ですが、小学校の社会科で学んだ八幡製鉄所の大溶鉱炉を想像できないままだったので、実物の溶鉱炉に入る機会を得た私は、やっと納得した時でした。

そんな仕事をしていた5月に、長男が生まれました。親になって、くすぐったいというのでしょうか、ムズ痒いような感じを覚えました。どこから見てもまだ学生っ気の抜けない青二才でしたから、周りが心配していました。この子が2ヶ月の時、私はアメリカ人の実業家に従って、中部圏の一つの街に引っ越したのです。そこは私の生まれ故郷を吸収合併した街で、小学校一年の夏まで住んでいましたから、原点回帰だったことになります。目抜き通りに、果実店があり、その店の一部分を父が間借りして、事務所としていた懐かしい家です。すでに父は召されていましたが、このおじさんを頼って、何度も家内と長男を連れて遊びにいきました。店に行きますと、幼い私を可愛いがってくれた彼は、『雅ちゃん、天丼を食いに行こう!』と、必ず品を替えてはご馳走してくれたのです。彼は県の青果商組合の責任者をされていて、朝方、時間のあった私は、このおじさんの紹介で、青果仲卸商の手伝いを市場で始めたのです。運動にもなるし、收入もあるし、それに果物や野菜を、いつもたくさん頂くことができました。この方は、私と同い年で、子どもさんも私の長男と同年でした。転職をして故郷に戻って、東京とは比べられないほど豊かな自然の溢れる街に住み始めて、結局、私たちは、そこでもう3人の子どもを与えられ、34年を過ごしたのです。そこは、中部山岳の急峰に囲まれて、まるで自然要塞の中にいるようで、台風の猛威にさらされたという記憶がほとんどなかったのです。

ところが、今、台湾に「11号台風」が襲来し、まもなく海を渡って上陸しそうな気配がしています。竈の中のような暑さを吹き飛ばしてくれて、凌ぎやすくなったのは感謝なのですが、外は強風が吹き荒れて、窓を打ち叩いています。歓迎したくいない台風が、今年は9月の半ばで、もうすでに三度も襲来してきています。日本を覆っている高気圧の勢力が強いせいで、北に進路を取れない「11号」が、西寄りにコースをとっているからですが。自然の猛威の前に、人間は何もできないのですね。されるまま、通り過ぎていくのをじっと待っているしか方法のないわけです。来週は「中秋節」で、三連休ですが、この台風は、今後、どんな進路を取るのでしょうか、予断を許せません。アジア圏の中国も韓国も北朝鮮(朝鮮人民共和国)も日本も、同じ自然の猛威の前に、共にさらされている「親密感」や「運命共同体意識」を感じさせられてなりません。

あの溶鉱炉の中、火さえ落ちていれば、そこで風雨をしのげる「要塞」なのでしょうけど、台風の当たり年(!?)に、あちらこちらに散って生活している四人の子どもたちのことが、ちょっと気にかかる週末です。

立ちん坊

1960年代に、面白い歌がありました。東京オリンピック(1964年10月1日)の開催が決まり、東京の街が建築ラッシュに沸いていた時期に、多くの労働者を抱えていたのが「山谷」という街でした。いわゆる「ドヤ街」でと呼ばれ、オリンピック開催に伴なう都市整備が急進行していました。ビルや競技場や新幹線や高速道路など建設にために、膨大な量の労働力を必要としていたのです。そのために、日本中の田舎から労働力が求められ、日雇いの労働者が、首都東京に集まっていたのです。そんな彼らを収容する「ドヤ街」の1つが、「山谷」にありました。そこで寝起きをして、建設現場に通う住人たちを歌いこんだのが、「山谷ブルース」でした。

『今日の仕事はつらかった あとは焼酎をあおるだけ                                                                       どうせどうせ山谷のドヤ住まい 他にやることありゃしねえ

一人酒場で飲む酒に かえらぬ昔がなつかしい
泣いてないてみたってなんになる  今じゃ山谷がふるさとよ

工事終わればそれっきり お払い箱のおれ達さ
いいさいいさ山谷の立ちん坊 世間うらんで何になる

人は山谷を悪く言う だけどおれ達いなくなりゃ
ビルもビルも道路も出来やしねえ 誰も分かっちゃくれねえか

だけどおれ達や泣かないぜ 働くおれ達の世の中が
きっときっと来るさそのうちに その日は泣こうぜうれし泣き日

1963年、学校入ってから、最も日当のよかったのが、そういった現場で働く《日雇い》でした。それで、「上野」、「横浜」、「芝浦」で、まだ真っ暗な早朝に、《立ちん坊》をして、仕事にありついたのです。冬など、焚き火を囲んで、みんな黙りこくってるところに、何人もの手配師がやって来て、『あ、お前、お前、お前・・・・!』と言って、一日の必要人数を雇い上げていくのです。仕事にありついた者は、『よーし!』と嬉々として一日の仕事の現場に向かいます。しかし、雇われなかったら、「売血」して、一日の食事代と宿賃を得る人も少なくなかった時代です。

敗戦の負い目で、何もかも失ない、《一億総自信喪失》の日本と日本人とに、アジアで初めて開催された一大イヴェントの「オリンピック東京大会」の成功が、自信を取り戻させたのではないでしょうか。東海道新幹線が開業し、首都高の高速道路網が整備され、焼夷弾で焼かれた街に、ニューヨークにも引けを取らないようなビルが林立していました。『どうなるのか?』と戦々恐々として、世界中が注視し続けてきた、《危なっかしい日本》です。20年余り、終戦後を地を這うように忍んで過ごしてきて、やっと経済的に精神的に復興回復をしていることを、この大会は、世界に示すことができたわけです。《平和の祭典》であるオリンピック大会の趣旨にかなって、東京で開くことができ、成功裏に終わったことを、世界は賞賛し、高く評価して、変えられていく日本に安堵したのではないでしょうか。

『成功の裏に、こういって生きている日雇いたちがいるんだぜ!』と、かつて、《フォークの神様》と異名をとった岡林信康は歌ったのです。同志社大学を中退し、反骨青年の頭領のように、反戦、反権威主義、反社会を歌っていました。そんな彼が、NHKの「SONGS」というテレビ番組に出ていて、久しぶりに彼の歌声を懐かしく聞いたのです。弟と同年齢で、まあ同時代に青年期を生きた人だからでしょうか。

この番組を録画してもらったのですが、中国の学生たちに、私に託された授業で、どう使おうかと悩んでいるところです。歌の最後の部分に、『・・・ 働くおれ達の世の中が きっときっと来るさそのうちに その日は泣こうぜうれし泣き』と、夢が託されていますから、教材になるかも知れません。今はもう七十代、八十代になっている《立ちん坊》たちも、好好爺になって、『・・・誰も分かっちゃくれねえか』とかつては歌っても、理解して慰籍してくれる家族に囲まれながら、思い出を嬉し泣きしながら歌っていることでしょうか。

さあ、上を向いてご覧!

 

長野県の伊那谷の大鹿村で、伝統的な田舎歌舞伎が、春と秋の年二回上演されていて、その年の秋に、「菅原伝授手習鑑」という演目が村の公民館で上演されていました。歌舞伎には、とんと関心のなかった私は、歌舞伎座の前をなんども行き来しながらも、入ることも観ることがありませんでした。

ところが、飯田に住んでいた娘の勧めで、初めて観劇したのです。もちろん、主君の忘れ形見の助命のために、自分の息子の首を代わって差し出すという親の「忠義」には驚かされましたし、その親の気持を察した息子も、自らの首を捧げて父親へ示した「従順」には感銘してしまいました。「生贄の美化」や「命の軽視」には、納得できない不条理さを感じますが、ああいった心情・気概が日本人の血の中に流れていると思うと、身の引き締まる慄然とした思いを禁じえません。

あの場面で印象的だったのは、書道をする子どもたちの「寺子屋」でした。道真の時代に「寺子屋」はなかったのですが、歌舞伎や浄瑠璃で取り上げるに当たって、江戸期に生まれてくる「寺子屋」を場面設定したのでしょうか。この演目が上演され、好評を博したのが1740年代の江戸中期でしたから、芝居上の仮相設定だったに違いありません。

この寺子屋といえば、18世紀には、日本全国に15000もあったと推定されています。読み書き算盤を、庶民・町人の子弟に学ばせていたことになります。庶民教育のこの形態は、世界に類を見ないほどのことであり、『当時の《識字率》は50%程だったろう!』と言われていますから、驚きです。

当時日本を訪れた欧米からの外国人が、『日本人はみな読み書きが出来る!』と報告しているようです。ユネスコが世界の識字率を調べた報告書を出していますが(2002年)、日本は99.8%(男女同率)、中国は90.9(男95.1、女86.5)、バングラデッシュは41.4%(男50.3%。女31.3%)でした。しかし後進国の教育熱は、昨今、ものすごい勢いで高められていますから、まもなく日本の水準に近づいてくるのではないでしょうか。

私たちは、明治以降の学校制度の中で、欧米諸国への遅れを、欧米に真似ることによって、やっと取り戻していくように教えられたのですが、どうしてどうして、すでに封建時代の只中で、一般民衆の教育水準は世界でも群を抜いていたのだということが分かります。鎖国という閉鎖状態の中で、高度な教育や文化が育まれていたことを再認識して、私たちは、『我々は駄目だ。失敗の過去を持っているのだから。』と言った卑屈さの中から立ち上がり、《自信》を取り戻したいものです。

少なくとも、現代を生きる子どもたちに、この《自信》と《誇り》を取り戻してあげたい思いがするのです。《誇り》や《自信》を取り戻すことが、軍国主義への回帰だなどとは決してなりえないのですから。自分が生まれた国を、《過小評価》した教育を受けて、いつもうな垂れている日本人を創り上げてきましたから、今、私は日本の子どもたちの顎に手を当てて、『さあ、上を向いてご覧。今まで見えなかったものが見えてくるからさあ!』と語りたいのです。

健全に子が育つのは、『僕の生まれ育った家庭は、お粗末で、暗くて、失敗だらけなんだ!』とは決して言いません。『お父さんもお母さんも欠点があるけど、それを超えて一所懸命に僕たちを育て養ってきてくれたではありませんか!』と思わなければなりません。

国も同じです。過去に間違いや欠点や罪が、私たちの国に多くありました。今日、9月18日は「柳条湖事件」が起きた79年目の記念日です。『外出を控えたほうがいいでしょう!』と友人からメールがありました。確かに愛する隣国を蹂躙した記念日です。歴史の事実の前に立って、『二度とすまい!』と反省し、発念する日こそ、今日だと思います。でも首をうな垂れて、自己否定をするだけでは、ことは前進していきません。

そういった過去が、私たちの国の歴史の中にありながらも、好いことを育んでくれた国であることも、片一方の事実なのですから、ここにも光を当てたいのです。こう思うことを、中国のみなさんは否定されないはずです。過去をごまかすことなく,しっかりと顔を上げて、自信と誇りを持って、アジア諸国の青年たちと、互いに認め合い、協力し合って21世紀を生きていって欲しいのです。だから、家内と私は、愛される日本人に成るべく、この国で生活することを選んだのであります。

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五日遅れの祝福


 伊豆大島の南東部に、「波浮(はぶ)」という港があります。野口雨情が、「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ夕焼け小焼け 明日の日和は ヤレホンニサなぎるやら」と作詞して、中山晋平が曲をつけ、1923年に発売された流行歌で、一躍有名になった港なのです。伊豆の島嶼部は、今でこそ観光地になりましたが、かつては「流刑の島」で、鳥と流人しか通わない島でした。もう何年前になるのでしょうか、私の友人が、この波浮港から連絡船の通う、「利島」というところの中学校で英語教師をしていました。彼が、『子どもさんたちと一緖に遊びにきてください!』と、招いてくれましたので、家族6人で、海水浴に行ったことがあったのです。

 熱海から大島行の船に乗って、元町港に着きますと、そこから島内をバスで、波浮港まで行き、そこから利島行の船に乗り換えたのです。利島は、平坦な土地がわずかで、島が小高い山そのもののような感じだったのです。どのくらいの世帯数、人口があったのでしょうか、小・中学校がありましたから、わずかながら学齢期の子どもたちもいたわけです。連絡船が入らないと、野菜も果物も肉もない離島でしたが、小さな日用雑貨や食料品を売る店で、食材を買っては料理したのです。きれいな海で数日、泳いだり、小さな島巡りをしたりして過ごし、楽しい一夏を過ごすことができました。

 あれから、もう25、6年になるのですが、「波浮港」には思い出があったのです。その時が、私の初めての訪問でしたが、父が好きだった歌手が、『三日遅れの便りを乗せて 船がゆくゆく 波浮港・・・・・』と歌っていた、この歌の歌詞に、「波浮港」とあったのが強烈な印象で残っていたのです。『野口雨情が作詞し、この歌手も歌う、「波浮港」ってどんなところだろう?』と思ったことがあって、利島行が決まって、伊豆大島の港にやって来たときに、『ああ、ここが、あの波浮港か!』と、初めて思い出したのです。『台風などで海が時化ると、連絡船が通わないで、三日も郵便物が遅れてしまう「波浮港」って、ここだったのか!』と感心してしまったわけです。

 今日15日、3年生のクラスが始まるとき、一人の学生が、『《教師節》、おめでとうございます!いつもありがとうございます!』と言って、大きなカーネーションの花束をくれました。実は、この《教師節》というのは、中国特有の日で、教師への感謝を表す目的で制定されていて、9月10日なのです(祝日ですが、学校は休みではありません)。今年度は教えていない4年生の学生も、その他の学年の学生も、何人もがメールでお祝いと感謝を伝えてくれました。私の担当する授業は、水曜日ですから、三日遅れではなく、《五日遅れ》で、この《教師節》の感謝を表わしてくれたわけです。嬉しかったのです。ただ単純に感謝しました。以前でしたら、そんな大きな花束を、大の大人が持ち歩くのはきまり悪くて、だれかにやってしまいましたが、今日は違いました。

 今日は1時間だけの授業を終えて、その学生に感謝を改めて伝え、自信満々で、キャンパスを横切り、東門のバス停まで歩いたのです。案の定、ジロジロと視線を向けられました。ある見知らぬ学生は、『綺麗!ハッピー・バースデイ!』と声をかけてきました。きっと外国人教師の誕生日だったんだろうとでも思って、祝福の言葉をかけてくれたのです。これって、中国の青年たちのいいところなんです。バスの中でも、バスを降りて我が家までの道筋でも、好奇の目が向けられていました。でも私は、鼻高々で背筋を伸ばして道を進みました。この地方で有名な麺(バン・ミエン)を、たまに食べる小さな食堂のおばさんが、『何処でもらったの?きれいだね!』と声をかけてきましたから、『学生給我!』と答えたのです。

 この国に来て、次代を担う学生たちから、感謝と祝福を受けて、ほんとうに嬉しくて感謝したのです。自慢する気持ちではなく、この年齢になっても働く機会が与えられ、教壇に立つことができ、クラスの学生たちに感謝され祝福される特権を、ただただ感謝し、喜んだのです。誕生日には、ケーキを買ってきてくれたり、夏や冬の休み明けには、故里の特産品を、『美味しいですから、召し上がってください!』と渡されたり、教師冥利につきます。中国漁船拿捕で、日本への批判の高まりのこの数日、『外出に注意してください!』と、北京の日本人大使館から勧告が出ていますが、華南のこの街に居る私は、《五日遅れの感謝》を受けて、堂々とし喜悦の水曜日でありました。

7年ぶりにテニスを!!!

五年前の雛祭りの頃だったでしょうか、まだ朝が明けやらぬ内に家を出た私は,自転車を道路の縁石にぶつけて、しこたまアスファルトに叩きつけられてしまいました(幸い道路側ではなく歩道側に投げ出され、向こうからスピードを上げて来た車に轢かれずにすみました)。全身を打ったのですが,右腕に激痛が走りました。それでも自転車をこいで目的地に行ったのですが,痛くて仕方がありませんで、踵を返して帰宅したのです。すると、家内と家にいた長女が,『お医者さんに診てもらったほうがいいよ!』と言うことで、駅前の病院の外科に、娘の付き添い(運転)で診察に行ったのです。怪我ばかりしてきた私は,ほとんどの痛さには耐えられる自信がありましたが,この肩の痛さは尋常ではありませんでした。この初診の医者は、『打撲!』と診断し、三角巾で肩をつってくれ、湿布薬を処方してくれただけでした。

痛みはほとんど感じなくなって数日がたった再診の日,その医者が『一応、MR検査をしてみましょう!』と言って見た映像に,腱板が断裂しているのを発見したのです。この腱板断裂を見抜けなかった彼の手に負えなくて,この手術の専門医が市立病院にいるということで,彼が紹介状を書いてくれました。それを持って診察に行きましたら,早速,入院手術ということになったのです。入院しましたら、家内が英語を教えていた子どものお母さんが、その病棟の看護師でした。手術の前の晩に、『先日、手術の痛さに耐えられなくて、飛び降り自殺をした人がいたほどです。覚悟して、手術に臨んでくださいね!』と、わざわざ言ってくれたのです。安請け合いの『大丈夫!』でなかったのが、かえって良かったと思います。私は、手術前夜、覚悟を決められたからです。

その手術は成功したのですが、縫合した箇所を守るために、右腕を『はい!』と言って上げた状態で、ベッドに固定されて2日間動くことができなかったのです。『拷問台ってこんななのかな?』と思うほどの苦痛でした。娘が撮ってくれた写真に、激痛に顔が歪んだものが残っています。その固定を外された時の喜びは、『きっと捕虜収容所から開放されたときに感じる喜びってこんななのかな?』と思うほどの開放感がしました。ところが、アメリカンフットボールのプロテクターのようなものを体に装着されてしまい、これまた腕を上げた状態で固定されてしまったのです。歩けますが、利き手は使えず、先生の前で『はい!』をしたままの、あの有様でした。徐々に腕は低くされて行くのですが、退院しても、この状態は続きました。運転できませんから、バスに乗ると、好奇の目が向けられ、ちょっとしたスター気分でした(!?)。防具を外されて、風呂に入れるようになった時も、今まで感じたことのない開放感を味わったのです。でも腕が肘で曲がらないのです。その後、4ヶ月ほどリハビリが続きましたが、時々、『元のようにテニスが出来るようになれるかな?』という思いが浮かんでは消えていきました。

あれから5年半ほどが経ちました昨日、テニスをしたのです。怪我以前の2~3年は、家でラケットを時々握るだけでしたから、7~8年ぶりになるでしょうか。ラケットが振れて、球を打ち返すことができたことは、なんともいえない喜びでした。『二度とテニスはできないよなあ!』と諦めていたのですから、誘われてコートに立って球を打ったときは、くくりつけられたベッドから起きたとき、防具が外されたときに感じた喜びを思い出させてくれました。

下手の横好きのテニスですが、健康管理を考え、今のところ、どこも体が悪くないので、『続けたい!』と思わされた土曜日の夕方でした。『コート代は10元で!』という経費でしたから、日本円150円ほどでしょうか。わずかの費用で、太陽が照りつける灼熱のコートにいるのも忘れさせてくれ、久々に球を追うことができ、言い知れない満足感を覚えることができました。『健康ってありがたい!』と感謝しながら、筋肉痛の足腰を摩っている日曜日の午後であります.

台風襲来

『台風が来る!』とラジオの天気予報が出ると、軒の下に備えてあった板を取り出し、金槌と釘で、窓と玄関に打ち付けました。強風で押し破られるのを防ぐためでした。今では、殆どの家が、モルタルやコンクリートで作られ、窓や玄関の扉にはアルミサッシの頑強なものが用いられていますから、このようなにわか仕事は不要になっています。

学校に行ってた頃、友人と二人で、九州旅行をした時のことでした。熊本の天草・本渡という街に着いて、一番安い旅館を紹介してもらって泊まったときのことです。その晩、何と熊本地方を台風が通過したのです。どうも台風が来る方に誘い込まれれるようにして旅先を決めてしまったのでした。その旅館は、雨戸と障子で外と仕切られているだけだったと思います。唸るような強風が吹きつけて、ガタガタと扉を押してきましたので、寝るどころではありませんでした。それで仕方なく、障子だったか雨戸だったかに背中を当てて、台風の通過を待っていたことがありました。もう少しお金を出せば、しっかりした作りの旅館に泊まることができ、こんな心配や備えをしないですんだのですが、いかんせん便暴力でした。実は、立川の自動車学校の費用(自動車の免許を取るため)に、父からもらったお金を流用して旅に出てしまったのです。おかげで、父に再びくれとは言えず、免許証を取らずじまいでした。まだまだ経済的に、学生で免許証を取れるような時代ではなかったのですが。

昨晩、泉州という海岸の町に台風が重陸したようです。その余波でしょうか、こちらも強い風地雨が吹き付けていましたが、被害はさほどではなかったようです。台風といえば、神奈川県の湯河原で海水浴をしたときにも、出くわしたことがありました。上の兄の学友のお父さんの会社が、ここに海の家を借りでいたのです。ちゃっかり、ここに遣って来る大学生たちに紛れ込んで、何と20日間ほども《泳ぎ三昧》をさせてもらったのです。高校二年生の時でした。滞在費は無料、何もかも備えられていたのです。その代わり、兄の友人の弟さんたちがしていた賄いの手伝いをしていました。湯河原の海岸で、漁師が曳くていた地引網で獲れた「小鯵」を買っておかずにしたことがありました。準備をしていたとき、この弟さんと二人で、親指で小鯵の腹を割いて内蔵を取り、骨と頭を取り除いて、わさび醤油で食べさせてもらったのですが、あの美味は、いまだに忘れられません。そんな楽しい生活をさせてもらっていた湯河原の海岸にも、台風が襲ってきたのです。

怖さ知らずの17歳の私は、遊泳禁止の海に入って、体一つの波乗りをしていました。大学生たちがやっているのを見て、彼らがコツを教えてくれたからです。台風は、ちょうどいい波を持ってきてくれるのです。何度か楽しくやっているうちに、波に乗ろうにも乗れないのです。引き潮が強くて、沖に引いていく波に足を取られてしまい、人間の力では到底抗しきれない。どんなにあがいても駄目でした。『死ぬかもしれない!』という恐怖の波が、思いの中を占領したのです。ところが、私の体を、1つの波がフワッと抱き込んでくれて、浜にスーッと連れ戻してくれたではありませんか。こういうのを「九死に一生を得る!」と言うのでしょうか、一体、あの波はどこから来たのでしょうか。これまで死にそうな体験の多い私ですが、何時も「不思議な力」に護られているように感じてならないのですが。転ぶ前に考えるのではなく、転んで痛い目にあってから考える無鉄砲な私ですのに。時々、その不思議体験を数えてみることがあります。

母の話で父も、弟の話で彼も、同じような経験をしたと聞いていますが。この《神秘な体験》に甘んじることなく、『注意深く生きていこう!』と決心するのですが,怪我がいまだに絶えないのです。『娘の頃に、お転婆だった母の血のせいにしてしまおうか!』,そんなことを思っていますと,台風の後に吹いてくる風が,私の頬をなぜていきました。

学恩に謝す

「学恩」、読んで字の如しで、人としてどう生きるか、道理や学問の初歩や深淵を学ぶに当たって、恩義のあること、恩人のことです。一に「広辞苑」、二に「ラジオ放送」、三に「ばいぶる」です。「広辞苑」が、1955年に岩波書店から刊行されました。私の父は、その初版本を買い求めて、『さあ、雅、確り勉強しろ!』と無言で手渡されました。文学部に学んだ人に比べれば格段に語彙数が少ないのですが、この辞書のおかげで、母国語に対する興味を引き出された私は、いたずらをしないときには、辞書の中を彷徨いながら、新しい言葉に触れる喜びを楽しんでいたのです。同級生に比べて、大人の世界を垣間見て、あたりを見回しては、ゾクゾクしたり、ドキドキしたのを思い出します。

テレビが我が家に侵入したのは、兄が入部していた大学のアメリカンフットボール部が、東西対抗に出場するという時でした。《子バカの父》は、その試合にスタメンで出る息子見たさに買ってしまったのです。それ以前は、真空管を内蔵したラジオが、テレビの代わりに、我が家のタンスの上に鎮座していました。これに耳を済ませては、新しい言葉を聞き取り、意味を調べたりしていました。そのラジオからは、ボードビリアン・川田晴久の『地球の上に朝が来る・・・その裏側は・・・』と歌う歌声、NHKの「新諸国物語」や「一丁目一番地」の番組が聞こえていました。たくましく想像力を働かせては、食い入るように聞き入っていたのです。

「ばいぶる」、これは母が14歳から愛読してきた書物です。『読みなさい!』と言われたことはなかったのですが、紙片に短い文を書き写しては渡されたことがありましたが、やがて、自ら読み始めるようになり、《座右の書》となって、今日に及んでいます。知的な好奇心を満足させてくれ、生きていくための骨や肉を付けてくれたのは、この三つでしょうか。

さらに、私には、感恩を謝したいと願う方が三人おります。一人は内山先生、田舎から転校してきた私を小学校2年の2学期から担任してくださった方です。幼稚園も行かず(山奥でなかったからですが)、病気がちで登校日数の極めて少なかった私は、登校した日には、じっとイスに座ることができずに、立ち歩いては同級生にちょっかいを出していました。多動性の問題児だったのです。国語の授業の時でした。教科書の記事の擬音を、『電車の切り替え線で起こる音です!』と答えた私を聞いて、『よく分かったわね!』と、山内先生は褒めてくれたのです。それから自分が変わったのを覚えています。褒めるって、褒められるって、すごいことなんですね。

もう一人は、中学江三年間担任をしてくれた小机先生です。髪の毛が薄くて、明るい目を眼鏡の下に見せていた方で、社会科を担当していました。この方は、挨拶を交わすときに、私たちが立つ床に降りて、深く頭を下げていました。『まだ毛も生え揃わない私たちを、一人の人として敬意をもって接してくれている!』と思わされたのです。今日も、F大で授業があり、小机先生に倣って、はじめと終わりの挨拶を致しました。三つ子の魂、60までですね。

さてもう一人は、宣教師さんです。狭量で、井の中の蛙のような、日本主義に凝り固まった小生意気な私を、世界に通用するひとりの人間に矯正してくれたのです。一民族の優秀性を棄て切れずにいた私に、すべての人種・民族・国家が独自の優秀性を持つことを教えてくれたのです。妻の愛し方もです。どう考え、どう思索し、何を構築すべきかもです。つまり、《人間》を教えてくれたと言えるでしょうか。この方は、先生と呼ばれることを固辞されたのですが、敢えて私は言葉を変えて、「お師匠」と呼びたいのであります。2002年に召されたのですが、年月が過ぎていくに連れ、このお師匠への感恩は増し加わるのです。今夏日本に帰国した折、彼の書き表した書籍を、立川の書店で一冊買い求めてまいりました。読書の秋に、この書を紐解くのは、時宜を得たことのように思えてなりません。彼の夢・幻の追随者でありたいと、改めて身を引き締めて覚悟を決めた夕べであります。