おとうさんにもらったやさしいうそ

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[第12 日本語大賞 文部科学大臣賞 受賞作品(全文/2021年)]

 ぼくのこころにひびいたことばは、「おとうさんはちょっととおいところでしごとをすることになったから、おかあさんとげんきにすごしてね。」です。そのときぼくは二さいでした。とても小さかったのでちょくせついわれたのはおぼえていませんが、いってくれたときのどうががおかあさんのスマホにいまでものこっているので、すきなときにきくことができます。

 このふつうにおもえることばがぼくのこころにひびいたりゆうは、じつはこれがおとうさんがついたうそだったからです。このことばの一しゅうかんごに、おとうさんははっけつびょうでしんでしまいました。そして、このことばをおとうさんがのこしたのはびょうきがわかってにゅういんした日でした。おとうさんは、あえないあいだにぼくがかなしまないように、わざとうそをつきました。うそはふつうよくないけど、これは、おとうさんがぼくのためについてくれたやさしいうそだとおもいます。このことばをどうができくと、おとうさんにあってみたくてすこしかなしいきもちになります。でもかなしいだけじゃなくて、かなしませないようにうそをついてくれたおとうさんのやさしさをおもって「がんばろう!」とおもえます。おとうさんがしんでしまったことはしっているけど、おとうさんのうそがほんとうになって、いつかよるおそくにドアのまえで「ドアをあけて。かえってきたよ。」といっているおとうさんにあいたいです。こうおもえるのも、おとうさんのやさしいうそのおかげです。

 ぼくからおとうさんにつたえたいことがあります。「おとうさん、うそがばれてるよ! だってまわりにびょういんのどうぐがいっぱいあるし、おとうさんがよこになっているし、めからなみだがちょっとだけでているし、こえがさびしそうだから。」でもぼくは、だまされているふりをしつづけようとおもいます。

 おとうさんがやさしいうそをついてくれたおかげで、ぼくのこころはつよくなれています。これからもおとうさんのことばをまもっておかあさんとげんきにすごしたいです。おとうさん、やさしいうそをありがとう。

  佐藤亘紀(さとう・こうき/茨城県古河市立古河第二小学校一年)

(ウイキペディアによるセグロセキレイの餌やりです)

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陽の温かさに

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 今朝の日の出の様子です。曇りでも嵐でも、見えても見えなくても、いつでも陽は昇ってきます。あんなに遠くにある太陽の光が、地球の冷たさを包み込んで、温めてくれるのは、創造者の恵みに違いありません。

 29年前に、あんな事件のあった翌日の朝は、驚きでいっぱいでしたが、全てをみそな(臠)わされる神のいらっしゃるのを、改めて認めて、安心したのを思い出します。同じ翌日の今朝、隣家の庭の桜の枝を手折って、家内がいただいて帰ってきた、その蕾が、窓越しの陽を浴びて食卓の上で開いて、春を告げてくれます。

 これからの日に何が起こっても、驚かずに生きていこうと、思い定めた朝です。みなさんの上に、健康や喜びがあふれますように!

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コスミレの咲く頃に

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 今日は、学習院大学で「卒業式」があって、愛子さんがご卒業されたとニュースが伝えていました。日本赤十字社で、一社会人として、お仕事に就かれるようです。主の祝福を、愛子さんの上にお祈りしました。

 そうですね、もう二九年前も経つのだと、ニュースが伝えています。1995320日に、渋谷公会堂で、長女の卒業式があって、朝早く、家内と電車に乗って、渋谷に出かけました。式が終わってでしょうか、地下鉄の電車や駅で、大変な事件が起こったということを聞いたのです。

 私たちは、JRの電車でしたが、娘は級友の家から、地下鉄でやって来たのです。ちょっと thrilling な経験をしたのを思い出しています。宗教家の恐るべき事件に、日本社会が騒然とした日でした。

 『イエス言ひ給ふ『なんぢら惑されぬように心せよ、多くの者わが名を冒し來り「われは夫なり」と言ひ「時は近づけり」と言はん、彼らに從ふな。  戰爭と騷亂との事を聞くとき、怖づな。斯かることは先づあるべきなり。然れど終は直ちに來らず』  また言ひたまふ『「民は民に、國は國に逆ひて起たん」  かつ大なる地震あり、處々に疫病・饑饉あらん。懼るべき事と天よりの大なる兆とあらん。(文語訳聖書 ルカ伝21:811)』

 あの「騒乱」や「おそるべき事」は、「戦争」や「地震」や「疫病」や「飢饉」などの起こる今の時代に、起こるべくして起きたのでしょう。それは、聖書が厳粛に語る、「終わりの日の兆候」に違いありません。今起こっている戦争も、民族と民族の長い対立の終局に違いありません。心して、「時を読むこと」が、わたしたちには必要のようです。

(今朝送信くださった「コスミレ」の清楚な花です)

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ある自由主義者を

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 何年か、隣国から帰国して住む家を、友人の会社の五階にあった部屋をお借りしていたことがありました。首都高速の箱崎インターや水天宮の近くで、すぐそばに隅田川が流れていて、日本橋だって歩いて行ける距離にありました。何度か自転車をお借りして、周辺の名所巡りをしたこともあったのです。

 この江上に、千住という街があって、家康が江戸の町に、最初に架けた千住大橋があって、奥州街道や日光街道への宿場町だったのです。東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿、そしてこの千住宿が、江戸四宿の一つだったのです。芭蕉は、この隅田川を上って、千住で舟から下りて、奥州路に歩を進めて行きました。

 この千住の出身に、東京大学で教壇に立った、河合栄治郎(18911944年)がいます。この街で酒屋を営む父の息子で、一高に学んだ時、そこで、校長だった新渡戸稲造から倫理を学んだ人でした。新渡戸校長から大変に啓発されていたそうです。彼の同級には、内村鑑三から聖書を学んで、クリスチャンとなった三谷隆正や矢内原忠雄いました。

 この河合栄治郎の全集が刊行された1967年から、刊行のたびに、私の最初の職場に出入りしていた本屋さんから買い求めたのです。それが最初の全集購入でした。この人は、社会思想や経済学の研究者で、「自由主義」の立場を取り続けた人でした。軍部が台頭してきて、二二六事件が勃発した時にも、日中戦争や米英への戦争が勃発した時には、そのファシズムに、決然として反対した方でした。また、マルキシズムにも賛同しない立場をとった方でした。

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 戦争への反対の主張をした矢内原忠雄と共に、河合も軍部や政府の動きを批判し、地裁では無罪でしたが、高裁では有罪の判決を受け、東京大学を追われています。その裁判の過労で、54歳で没してしまいました。

 私は、「社会思想史」を講じて下さった専任講師の教えや人格に感動を覚えていたからでしょうか、「自由主義」に学ぼうとした一学徒だったのです。「自由」とは、脱線して放縦になることではありません。穏健でありますが、この世の横暴には黙っていない人たちの立つ考え方でしょうか。熊本の花岡山で、熊本バンドが結成された時の一人、のちに同志社に学んだ徳富蘆花が、河合栄治郎らに招かれて、一高で講演した折に、[次代を担う学徒に、『自由を殺すは即(すなわ)ち生命を殺すことになる。』と語り、人格の陶冶(とうや)を呼びかけていたのである(佐藤嗣男「蘆花講演『謀叛論』考」明治大学人文科学研究所紀要1997)]と語っています。

 まだ学校出たてだった私は、河合栄治郎に傾倒したのですが、その直後に、母の信仰を継承して、聖書に学ぶ方向に、急転換をしてしまいました。そう言った面で、私を八年間も導いて下さって、先ず「聖書の読み方」を教えて下さったアメリカ人宣教師には、大いに感謝しているのです。

 この方の要請で、牧師や聖書教師が入れ替わりにやって来られては、聖書や歴史や主に仕える者の生き方、在り方、家庭建設、人間関係、牧会法などを学ばせてもらったのです。その選び取りは、自分にとっては当然なことであり、また本来そうなるべくしてなったのだと思う今であります。

(ウイキペディアの千住付近、河合・新渡戸・三谷の記念写真です)

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無理なく過ごすための勧め

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 『體の修行(KJ bodily exercise)もいささかは益あれど、敬虔は今の生命と後の生命との約束を保ちて凡ての事に益あり。 (文語訳聖書 テモテ前書8:4)』

 ここに記すことは、非難ではなく、四人の子を育てた父親としての[大谷翔平]について、正直な思いです。そして、彼への願も込めています。

 二十歳ころでしょうか、『親にもらった大事な...』と、ある歌手が、映画主題歌の中で歌っていましたが、中国の「孝経」では、『身体髪膚これを父母に受く!』、例外なく人は、二親から生まれるのです。聖書は、『神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり (文語訳聖書 創世記1:27)』と、神さまが人を造られたと言います。

 スポーツ界の時の人、大谷翔平の体格に、ただ驚かされています。もちろん、彼のご両親は、スポーツをされて来て、人並み以上に体格を持っておいでですが、高校時代、プロ野球に入りたての頃の体格といまのそれとを比べてみると、その段違いの差に驚かされます。

 アメリカ球界で活躍するためには、日本人の平均的な体格ではついていけないからでしょうか、体格改造をされて、あの胸板の厚さ、肩の筋肉の量は、日本人の平均をはるかに離れ、超えています。

 思うに、これほどの肉体の改造をしなくては、アメリカ球界での活躍はできないのでしょうか。body builder が、身体中の筋肉という筋肉を鍛えて、ムキムキというのでしょうか、リュウリュウでしょうか、筋肉を見せつけている写真を見ると、驚くと同時に、異様に思えて、決して真似まいと思ったのです。

 あそこまで鍛え上げるのは、「美学」なのでしょうか。中学生の頃、男らしさを目指して、ダンベルを買い込んだり、名前を忘れたのですが、コイルのような物を何本かセットして、両腕で胸の辺りで左右に引っ張る道具がありましたが、それも一生懸命やりましたが、効果が出る前にやめてしまいました。

 若い頃、三島由紀夫が、見違えるような体を作り上げて、満面に男を誇った表情の写真を見たことがありました。真似をしたいとは全く思いませんでした。Tシャツと半パンツ姿の大谷翔平の写真を見て、そのことを思い出したのです。あれだけの筋肉を、鍛錬と、食生活によって作り上げたのはすごいとは思いますが、『この自分ほどの年齢になった彼は、大丈夫だろうか?』と言う疑念だけが残っています。

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 “ stoic “ ということばがありますが、掲げた目標を目指して、自分の思いを律していくことを言うのだそうですが、terminatorやスパルタの戦士が、そんな形で作り上げられたのですが、作り上げられた筋肉は、消えてしまうのではなく萎んでしまい、老いたボデー・ビルダーの体は、縮んで筋肉になって、誇った美体、強体が、醜くなってしまうのだ、と聞いたことがあります。

 人工的な身体ですが、家計を助けるために、舟の櫓を漕いで、日常の生活の中で出来上がった身体は、それなりの意味がありますが、強くなるため、目標を達成するため、優勝するために作り上げているのは、どうしても納得も、奨励もできません。相撲の力士は、体を大きくするために、驚くほどの量の食物を摂り、今では、proteinを摂るのだそうで、それで激しい稽古をして体作りをしています。そうして大関や横綱にはなりますが、同年齢の人に比べると、その寿命が確かに短いではありませんか。「無理」の結果です。

 余計なお世話ですが、自分の子が夢を叶えるために、人工的な体を作り上げているなら、もし相談があったら、きっと反対すると思います。神にいただいた、親にもらった身体の改造をすることには、賛成できません。ちなみに、高一の大谷翔平が書き上げた、「目標達成シート」があります。

 中心の目標は、「ドラ一8球団」で、「体づくり」がありました。これは、検索すると見ることができます。少年の夢を達成させるために、一途に走り続けて、29歳の今があります。『過ぎたるは及ばざるが如し』、と言われますので、これまで、右腕の手術を二度受けるほどの大きな怪我を負われているので、無理なく過ごし、張り詰めた思いを緩める術を、身につけて欲しいと、切に大谷翔平に願う、大リーグの開幕前であります。

〈ウイキペディアによるドジャースタジアム、東日本大震災のあった2011年次の花巻東高校のメンバーです〉

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十二の節目

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 今日の散歩のコースに、二つの小学校がありました。二校とも、卒業式が行われていたのです。自分の卒業式の記憶は、全くないのが残念至極ですが、四人の子どもたちの式は、親としての感慨があって、あの時を、それぞれに覚えています。

 運動会が、日曜日に行われていて、雨天順延で、月曜日に順延された年には、勇んで応援に駆けつけることができました。ほとんどの時は、お昼の食事を持って出かけますと、校門の脇で二親の来るのと、お昼を、子どもたちが待ち続けていたのです。

 多難の時代に、生きていく十二歳のみなさんの上に、賛辞を送る想いで、校門を通り過ぎた私です。

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黄金色の絆で

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 『我また身をめぐらして日の下を觀るに 迅速者走ることに勝にあらず強者戰爭に勝にあらず 智慧者食物を獲にあらず 明哲人財貨を得にあらず 知識人恩顧を得にあらず 凡て人に臨むところの事は時ある者偶然なる者なり 。(伝道者の書9:11)』

 「ことの良し悪し」を決められるのは、神さまでいらっしゃるので、聖書に記される出来事に、正邪の軍配を振ることは、私にはできません。ありままの「事実」として読むべきなのです。

 聖書に出てきますラケルの故事から、イスラエル人は、「ベツレヘム近郊のラケル墓所には今も参拝者が巻いた赤い糸が多数見られる。また仏教国の中には、右手首に赤い糸をお守りとして巻くところ(日本)もある。」と、今でも言うのです。

 このラケルは、イスラエルに族長の一人、ヤコブの夫人でした。このヤコブは、アブラハムの孫、イサクの子で、適齢になった時に、父ヤコブの妻ラケルの実家に出かけるのです。そこで叔父ラバンの羊を飼い、羊たちを巧みに飼い、7年間懸命に働き、ラバンの娘ラケルを妻に願い出るのです。

 婚礼の夜、彼の床にいたのは、姉のレアだったのです。叔父によると、この地方では、姉をさておいて妹を先に嫁にやる風習はないので、姉を与えたと言って騙されたです。もし妹も欲しければ、もう7年間働くように言われ、懸命に働いて、ラケルも妻として迎えるのです。

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 そこから、ヤコブの嫁たちと彼女たちの女奴隷たちによる、複雑な相克劇が繰り広げられます。姉のレアには子が産まれますが、ラケルには子ができません。それで、ラケルは女奴隷によって子を得ようと画策します。それでレアも子を産み、産み終わると、女奴隷によってヤコブに子を与えます。石女(うまずめ)のラケルには、ななかな子ができませんでしたが、やっと与えられるのが、ヨセフでした。兄たちの妬みを買って、奴隷に売られて、エジプトの奴隷となった彼が、パラオの次の立場に昇進して、ヤコブ一族を、世界的な飢饉の中で、エジプトの豊かな食糧で救うのです。

 そのヨセフの母ラケルは、もう一人の子、ベニヤミンを難産の末に産みます。ところが産後、間もなくラケルは亡くなり、エフラタに向かう道の傍らに葬られるのです。それがラケルの一生でした。その墓は、イスラエル人にとっては、意味深いものがあって、その巻いた赤い糸を供える風習が残っていたのです。

 人と人との出逢い、そして別離にも、神秘的なことがあることから、〈運命の糸〉があると言う考え方が、多くの国にあります。日本では「右手の小指」に赤い糸をつける風習が残っていると言われています。

 中国にも、こんな話が残されています。

 「唐代の李复言(りふげん)の小説『続妖怪記』(旧名『続玄記』)に登場する有名な唐代の伝説である。 魏國が若い頃、ある夜、松城の宿屋で月明かりの下に座って一冊の本(鴛鴦譜)を見ている老人に出会った。 魏國がその本について尋ねると、老人は、それはオシドリの本で、世界中の人々の結婚の本だと答えた。 老人はまた、遠くに見える野菜売りの姥の娘、今はまだ3歳だが、14年後の妻だと言った。 ウェイグーは若く卑しい彼女を嫌い、刺し殺すために人を遣わした。 十数年後、彼は結婚し、妻が、あの少女で、眉に傷があることを知った。 このことを知った松城の県判事は、この宿を「定婚店」と名づけた。 赤い糸を持つ老人は、以後「月下の老人」と呼ばれるようになった。(中国の百度のサイトの「定婚店」からのp翻訳)」

 ところが、聖書は、『・・・すべての人が時と機会に出会う。』と言います。人と人、男と女、親と子、人と機会などを出会わせるのは、神さまであって、決して運命などではありません。思い返してみますと、父と母、3人の兄弟、妻子、親族、教師、級友、上司や同僚、主にある兄弟姉妹、隣人、多くの人との出会いは、神の必然であって、いつも驚かされています。

 昨日は、次兄と義姉を、何年ぶりかで訪ねました。栃木から東武日光線で栗橋駅、そこから、湘南線で新宿駅、そこから京王線で分倍河原、そこから南武線の乗り換えてでした。京王デパートでお弁当と T ops  のチョコレートケーキを買っての見舞いだったのです。体調不良と知って、家内の勧めもあっての訪問だったのです。兄宅でお昼をし、デザートでケーキを食べ、談笑して辞しました。帰りは南武線で溝口駅、そこから東急田園都市線で南栗橋で降り、そこから東武日光線で帰って来ました。

 兄たちと弟、これも神さまが与えてくださった肉の出会いです。八十前後に差し掛かりながらも、一緒に育った兄弟は、実に良いものです。家内のお見舞いカードに押し花、この春先から干して作った自家製の干し椎茸も持参しました。これもまた、神さまがくださった素晴らしい、黄金色の《絆》なのです。

(ウイキペディアのメタリックの黄金色、ラケルの墓です)

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諸般の惡しき事の根なり

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 それ金を愛するは諸般の惡しき事の根なり、ある人々これを慕ひて信仰より迷ひ、さまざまの痛をもて自ら己を刺しとほせり。(テモテ前書6:10)』

 世の中を動かしている「金(かね)」を揶揄して、歌った添田唖蝉坊(あぜんぼう)の作曲による「金金節」です。

金だ金々 金々金だ
金だ金々 この世は金だ
金だ金だよ 誰が何と言おと
金だ金だよ 黄金万能

金だ力だ 力だ金だ
金だ金々 その金欲しや
欲しや欲しやの顔色目色
見やれ血眼くまたか目色

一も二も金 三・四も金だ
金だ金々 金々金だ
金だ明けても 暮れても金だ
夜の夜中の 夢にも金だ

泣くも笑うも 金だよ金だ
バカが賢く 見えるも金だ
酒も金なら 女も金だ
神も仏も 坊主も金だ

坊主可愛や 生臭坊主
坊主頭にまた毛が生える
生えるまた剃るまたすぐ生える
はげて光るは つるつる坊主

坊主抱いてみりゃ
めちゃくちゃに可愛い
尻か頭か 頭か尻か
尻か頭か 見当がつかぬ
金だ金だよ医者っぽも金だ

学者・議員も政治も金だ
金だチップも賞与も金だ
金だコミッションも賄賂も金だ
夫婦・親子の中割く金だ

金だ金だと 汽笛がなれば
鐘もなるなる ガンガンひびく
金だ金だよ 時間が金だ
朝の5時から 弁当箱さげて

ねぼけ眼で 金だよ金だ
金だ工場だ 会社だ金だ
女工・男工・職業婦人
金だ金だと 電車も走る

自動車・自転車・人力・馬力
靴にわらじに ハカマにハッピ
服は新式 サラリーマンの
若い顔やら 気のない顔よ

神経衰弱 栄養不良
だらけた顔して 金だよ金だ
金だ金だよ 身売りの金だ
カゴで行くのは お軽でござる

帰る親父は 山崎街道
与市べえの命と 定九郎の命
勘平の命よ 三つの命
命にからまる サイフのひもよ

小春・治兵衛 横川忠兵衛
沖の暗いのに 白帆がみえる
あれは紀の国 みかんも金よ
度胸どえらい 文左衛門だ

江戸の大火で暴利を占めた
元祖・買い占め・暴利の本家
雪の吉原 大門うって
まいた小判も 金だよ金だ

お宮貫一 金色夜叉も
安田善次郎も 鈴弁も金だ
金だ教育 学校も金だ
大学・中学・小学・女学

語学・哲学・文学・倫理
理学・経済学・愛国の歴史
地理に音楽 幾何学・代数
簿記に修身 お伽に神話

コチコチに固くなった頭へ詰める
金だ金だと むやみにつめる
金だ金だよ 金々金だ
そうだ金だよ あらゆるものが

動く・働く・舞う・飛ぶ・走る
ベルがペン先が ソロバン玉が
足が頭が 目が手が口が
人が機械か 機械が人か

めったやたらに 輪転機が廻る
金だ金だと うなって廻る
「時事」に「朝日」に「万朝」「二六」
「都」「読売」「夕刊報知」

捨子・かけおち・詐欺・人殺し
自殺・心中・空巣に火つけ
泥棒・二本棒・ケチンボ・乱暴
貧乏・ベラ棒・辛抱は金だ

金だ元から 末まで金だ
みんな金だよ一切・・金だ
金だ金だよ この世は金だ
金・金・金・金 金金金金だ金々 金々金だ
金だ金々 この世は金だ
金だ金だよ 誰が何と言おと
金だ金だよ 黄金万能

金だ力だ 力だ金だ
金だ金々 その金欲しや
欲しや欲しやの顔色目色
見やれ血眼くまたか目色

一も二も金 三・四も金だ
金だ金々 金々金だ
金だ明けても 暮れても金だ
夜の夜中の 夢にも金だ

泣くも笑うも 金だよ金だ
バカが賢く 見えるも金だ
酒も金なら 女も金だ
神も仏も 坊主も金だ

坊主可愛や 生臭坊主
坊主頭にまた毛が生える
生えるまた剃るまたすぐ生える
はげて光るは つるつる坊主

坊主抱いてみりゃ
めちゃくちゃに可愛い
尻か頭か 頭か尻か
尻か頭か 見当がつかぬ
金だ金だよ医者っぽも金だ

学者・議員も政治も金だ
金だチップも賞与も金だ
金だコミッションも賄賂も金だ
夫婦・親子の中割く金だ

金だ金だと 汽笛がなれば
鐘もなるなる ガンガンひびく
金だ金だよ 時間が金だ
朝の5時から 弁当箱さげて

ねぼけ眼で 金だよ金だ
金だ工場だ 会社だ金だ
女工・男工・職業婦人
金だ金だと 電車も走る

自動車・自転車・人力・馬力
靴にわらじに ハカマにハッピ
服は新式 サラリーマンの
若い顔やら 気のない顔よ

神経衰弱 栄養不良
だらけた顔して 金だよ金だ
金だ金だよ 身売りの金だ
カゴで行くのは お軽でござる

帰る親父は 山崎街道
与市べえの命と 定九郎の命
勘平の命よ 三つの命
命にからまる サイフのひもよ

小春・治兵衛 横川忠兵衛
沖の暗いのに 白帆がみえる
あれは紀の国 みかんも金よ
度胸どえらい 文左衛門だ

江戸の大火で暴利を占めた
元祖・買い占め・暴利の本家
雪の吉原 大門うって
まいた小判も 金だよ金だ

お宮貫一 金色夜叉も
安田善次郎も 鈴弁も金だ
金だ教育 学校も金だ
大学・中学・小学・女学

語学・哲学・文学・倫理
理学・経済学・愛国の歴史
地理に音楽 幾何学・代数
簿記に修身 お伽に神話

コチコチに固くなった頭へ詰める
金だ金だと むやみにつめる
金だ金だよ 金々金だ
そうだ金だよ あらゆるものが

動く・働く・舞う・飛ぶ・走る
ベルがペン先が ソロバン玉が
足が頭が 目が手が口が
人が機械か 機械が人か

めったやたらに 輪転機が廻る
金だ金だと うなって廻る
「時事」に「朝日」に「万朝」「二六」
「都」「読売」「夕刊報知」

捨子・かけおち・詐欺・人殺し
自殺・心中・空巣に火つけ
泥棒・二本棒・ケチンボ・乱暴
貧乏・ベラ棒・辛抱は金だ

金だ元から 末まで金だ
みんな金だよ一切・・金だ
金だ金だよ この世は金だ
金・金・金・金 金金金

 昔、どこかの国の銀行家が亡くなった時に、棺に入れられるにあたって、一つのことを注文をしていました。棺の両脇に穴を開けてもらうように依頼したのです。棺に納められた時、その棺の左右に穴を開け、両腕を出すように遺族に頼んだのです。それを見た葬儀出席者は驚いたでしょうね。

 巨万の富を運用し、ご自分も多くを得た銀行家も、一銭も持たずに、死んでいくということを、世に伝えたかったからでした。それなのに、お金のために人を騙し、人を殺し、国を売る人は止みません。

 事業を興し運営するためにはお金が必要です。教育をするにも受けるにもお金が必要です。社会福祉や社会事業を行うにもお金が必要です。政治をするにも莫大な選挙資金、運営資金が入ります。実家に帰るにもお土産代、交通費、滞在費などが必要です。貨幣経済の社会では、お金が、どうしても必要です。宗教法人も、医者も、そして詐欺師も、人を騙して、あれやこれやと策を講じては金集めをして暗躍している現状であります。

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 唖蝉坊は、関東大震災の後に、「コノサイソング」を作詞作曲歌唱しています。

コノサイ コノサイ コノサイだ
なんでもかんでもコノサイだ アラマ オヤマ
コノサイこうしてもらいたい
コノサイですから勘弁してください エーゾ エーゾ
コノサイ流行 エーゾ エーゾ

泣くなそんなに泣くと地震がくると
親が子供をだまかせば アラマ オヤマ
子供のいうことフルってる
地震がありゃまたコノサイで貰える貰える エーゾ エーゾ
コノサイ流行 エーゾ エーゾ

チンチンドンドン復興院
鐘だ太鼓だ鳴り物入りよ アラマ オヤマ
御膳ならべてチンドンドン
大きな風呂敷ふしぎな風呂敷 エーゾ エーゾ
のびたりちぢんだり エーゾ エーゾ

風呂敷ひろげてコノサイだ
風呂敷たたんでコノサイだ アラマ オヤマ
何でもコノサイコノサイだ
お膳立てばかりで御飯もたかずに エーゾ エーゾ
バラック内閣 エーゾ エーゾ

唄はコノサイ復興節
エーゾ エーゾとはやり出す アラマ オヤマ
何がエーゾとたずねたら
コノサイコノサイでいろいろもらえる エーゾ エーゾ
貧乏コノサイ エーゾ エー

 演歌の祖である唖然坊は、明治5年(1872年)に、神奈川県大磯で誕生しています。海軍兵学校に進学を目指しますが、合格後、そこに進学しないで、汽船の船員になりますが、挫折をして、横須賀で沖仲仕となって石炭の積み下ろしに従事しています。その後、「荘子節」を歌う演歌師に関心を向け、「演歌を歌う唖の蝉」という意味で、唖然坊を名乗って歌ったのです。

 多くの演歌を作詞作曲していきますが、唖蝉坊の社会風刺の目や想いは、実に厳しくも的を得ていました。ご子息の知道(芸名はさつき)も、父と同じく演歌師の道を歩んでいます。唖蝉坊は、全国行脚をしながら、演歌を歌い、ついには、浅草の屑屋の二階に居候し、そこで亡くなっています。まさに、金に縁のない一生だったのです。

(ウイキペディアによる、添田唖蝉坊、浅草です)

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乗ってみたい汽車がある

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CNR SL-751 im Eisenbahnmuseum Shenyang
Toshiba Digital Camera

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 「乗り物」と言うよりは、動く物への関心が、幼い子どもたちにはあります。山奥から東京に出て来て、一番興味深かったのは、家の近くに甲州街道があり、その交通量の多さに驚かされたのです。新宿から八王子の大和田橋を渡って市内を抜け、小仏峠の直下のトンネルを抜けて、相模湖、大月、甲府、諏訪を経て、松本と、飯田方面に分岐して行くのです。

 その大和田橋まで、日野自動車が作ったトラックが、工場から試運転をして折り返していたのを、兄たちが道端に座り込んで、ベーゴマを磨いていた真横で、眺めていました。まさか自分が、大人になって自動車を運転するなどとは思いもしなかった頃、子どもの自分は、お決まりの車や汽車、進駐軍の立川基地に離着陸して、家の真上を飛んで行く飛行機に、目を丸くして見入っていたのです。

 山奥の村にやって来たのは、まだガソリンエンジンの自動車や電動エンジンで動く自動車はなく、戦時下にガソリンを手に入れなかった日本は、戦後は、まだモクモク煙を吐く、木炭エンジンのバスで、それに乗った記憶があります。

 車や車輪を回す働きに、強烈な関心がありました。中央本線を走っていた蒸気機関車の蒸気を吐く、シュシュシュの蒸気音と、ポッポーの汽笛が、今でも懐かしく思い出されます。

 旧暦の明治5912日(新暦の18721012日)に、新橋と横浜(桜木町)の間に、最初の汽車が走ったのです。鉄道先進国のイギリスの技術に、全面的に習っての開業でした。明治のみなさんは、その「陸蒸気」を、驚異の目で眺めたのでしょう。それから瞬く間に、鉄道網が日本列島を縦横に結んでいくのです。今、新幹線網が張りめぐされることも、だれも想像しなかったことだったのでしょう。

 ところが、鉄道開業から、90年余りで、東海道新幹線が開業され、現在では、リニア新線の開業準備が着々となされていて、世界に、鉄道技術を輸出するほどの先進国と、日本がなっているわけです。

 中国で日本語を教えていました時に、NHKの「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線」のDVDを教材に、授業をしたことがありました。日本が、中国大陸に、満州国を建国し、関東軍を派遣し、日華事変を起こして、侵略を行ない、「大東和共栄圏」を唱えて、アジア政策を遂行した過去への猛烈な反省から、戦後、平和産業の鉄道事業に携わった人物に、十河信二と三木忠直がいます。

 オリンピック東京大会の開催に合わせて、平和産業の雄である、「新幹線」を開業するにあたって、その提案をしたのが、第四代の日本国有鉄道の総裁だった十河(そごう)でした。戦前は、南満州鉄道株式会社の理事になり、その在任中、特急「あじあ号」の運行に直接関わっています。日本国内で実現できなかった、線路の標準軌(日本国内は狭軌の1067mでしたが1435mmの標準軌)を採用した満鉄で、「あじあ号」を走らせたのです。その最高速度130km/hを記録したほどでした。大連と新京間の701kmを、約8時間30分で走り抜いたのです。その速度は画期的でした。

 この「あじあ号」の成功が、戦後の東海道新幹線の開業につながったと言われています。新幹線事業は猛反対の中、十河のくじけない執念で、運輸委員会を動かして実現に至ったのです。その電車の設計に携わったのが、三木忠直(みきただなお)でした。三木は、旧日本空軍の技術士官で、「桜花」と言う戦闘機を設計した、少佐でした。

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 軍人として、やむを得ない軍命に服して、特別攻撃機の設計に携わり、多くの若者を死なせた責を、強く感じつつ。悶々として戦後を生きていました。この新事業が建て上げられた時、三木は請われて「設計」の責任を負ったのです。『飛行機を作っても、船を作っても戦争につながる。でも大地を走る電車なら平和に供することができる!』と思って、新幹線の開業に、後生涯を捧げたのです。

 若い日の父は、満州に渡り、南満州鉄道で働き、日中戦争時には、水晶の掘削の軍需工場で防弾ガラスの生産の一翼を担い、戦後は、国鉄の車輌の部品を製造する仕事に従事したのです。あの十河は、「新幹線の父」と言われたのですが、彼が総裁退任後、参議院選挙に立候補した時、選挙活動に、父が、全国を跳び回って担当していました。

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 もう夢が叶うかどうかは怪しいのですが、アメリカ合衆国に西海岸から東海岸への列車旅行を、家内と二人でしたい思いが、若い頃からあるのです。東海岸にいた義姉は、帰天してしまっていますので、訪ねて泊めてもらうことは無くなってしまいましたし、近頃では、なかなか遠出は難しくなっています。

 もう一つの願いは、まったくの夢ですが、父が乗った「アジア号」で、旅順から奉天、長春に、鉄道の旅をしたみたいのです。中国では、「和諧(hexie/調和の意)」が、総延長が2776Kmで全土を網羅しています現在、「アジア号」の車両が、大連の記念館にあるのだそうです。これまで天津と北京と大連までは行くことができましたが、そのほかの東北部への旅は叶えられずに帰国してしまいました。夢の中ででも、父の足跡をたどってみたい願いが、まだ残っているのです。

(ウイキペディアの南満州鉄道の「あじあ号」、旧新の新幹線の車輌、桜花ニニ型、「アメリカ大陸横断の物語」の列車です)

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母を訪ねて

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 「草原のマルコ(母をたづねて三千里)」の歌を、深沢一夫の作詞、坂田晃一の作曲の「母をたずねて三千里」の主題歌でした。

はるか草原を ひとつかみの雲が
あてもなくさまよい とんでゆく
山もなく谷もなく 何も見えはしない
けれどマルコ おまえはきたんだ
アンデスにつづく この道を

さあ出発だ 今 陽が昇る
希望の光 両手につかみ
ポンチョに夜明けの 風はらませて
かあさんのいる あの空の下
はるかな北を めざせ

小さな胸の中に きざみつけた願い
かあさんの面影 もえてゆく
風のうた草の海 さえぎるものはない
そしてマルコ おまえはきたんだ
かあさんをたずね この道を

さあ出発だ 今 陽が昇る
行く手にうかぶ 朝焼けの道
ふくらむ胸に あこがれだいて
かあさんにあえる 喜びの日を
はるかにおもい えがけ

 この歌で歌われていた番組は、わが家の子どもたちが小さい頃に、フジテレビで放映していたアニメでした。主人公のマルコが、音信不通となったお母さんを訪ねて、三千里の旅を続けて、南米大陸のアンデスに行くのです。子どもたちには、残念なことに、わが家にはテレビがなかったので、友だちの家で観ていたのでしょう。

 イタリアの港町ジェノバに住む少年マルコは、両親と鉄道学校に通う兄とともに暮らしていましたが、生活は日増しに苦しくなっていたのです。とうとうお母さんが、アルゼンチンへと出稼ぎに行くことになってしまいます。寂しさをこらえ見送るマルコだったのですが、やがて母アンナからの便りが途絶えてしまうのです。そんなお母さんを捜しに行きたいというマルコの固い決意に、お父さんも、とうとう、その旅を許し、マルコの長く苦しい旅が始まります。マルコは、明るく元気な性格の少年で、アルゼンチンでの様々な人との出会いや出来事を乗り越え、ついに、アンデスの麓のトゥクマンの街で、母アンナと再会する、そんな物語でした。

 私たち兄弟四人の母のことですが、近所か、親族か、母の誕生の経緯を知っていた方が、『あなたの母親は、今のお母さんではなく、奈良に嫁いでいる!』と知らされたのです。寝耳に水のようなことばに、戸惑った十七歳の母は、出雲の地から、旧国鉄(JR)の汽車に乗って、生母を訪ねる奈良への旅をしています。昭和7年、1934年頃だったと思われます。


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 出雲市、米子、鳥取、豊岡、園部、京都、新田辺、大和西大寺、そして奈良へ、現在のJR鉄路のキロ数で423.6km、ほぼ百里の旅だったことでしょう。私が、小学校一年の時、私たち四人兄弟を引き連れて、東京駅から、鈍行列車で出掛けたので、小さな子連れの汽車の旅は大変な時代でした。

 それは、母の奈良への母を訪ねる旅から、十数年経っていましたが、三十代の母に連れられて蒸気機関車が牽引する汽車の旅は、長く退屈で窮屈な旅の記憶があります。母は、まだ幼い弟や我儘な私を引き連れての旅、難儀だったに違いありません。

 でも、母に会いたい一念の旅を思うと、会える期待、その喜びは大きかったのでしょう。でも、生母に会った時に、歓迎されざる客だったのです。『今の幸せを壊さないど欲しい。帰って!』と言われたのだそうです。本当の母親に会う一途の思いがくじかれてしまい、どんなに辛かったことでしょう。

 産んだ娘を育てる決意を持たずに、自分の幸せと生んだ娘の幸せを、どう天秤棒にかけたのでしょうか。ある藩の菩提寺の家柄に嫁いだ祖母には、祖母の立場も言い訳もあったのかも知れません。涙をこらえて、出雲に傷心の思いで帰る道は、母には辛かったことでしょうね。

 でも、この生母が亡くなった床の枕の下に、どこから手に入れたのか、母が産んだ私たち四人、孫の写真が、置かれてあったのだと、聞いています。その写真を繰り返し出しては眺めて、きっと申し訳ない気持ちを新たにし、孫たちの無事の成長を願っていたのかも知れません。

 私たちの母は、薄幸な娘だったのでしょうか。十四才の時に、イエスさまを救い主と信じ、神を「父」と知って、「真実な父」との出会いは、その母の生涯の支えであったのです。その神と救い主を、母が、私たち息子たちに四人に知らせてくれました。自分が産ん息子たちが、どんな悪さをしたのを聞いても、見ても、決して叱ることはなかったのです。私たちに背中を向けて、向こう側で、聖書を読み、讃美を歌い、祈っていた母がいて、私たち四人の今があるのでしょう。

(ウイキペディアによるトウクマンの地図、奈良の若草山です)
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