確信

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 浪漫があって、nostalgic (懐旧の思いや望郷の念)なことってあります。昨夜、降誕節の夜でしたが、その朝、起きてみると、枕元に、綺麗に包装された present  が置かれてあって、嬉しく解いたのは、子どもの頃の思い出なのです。

 父は、拳骨おやじでしたが、四人の子を喜ばせることに心を向けてくれていたのです。そのゲンコツは、善悪の基準や従順を学ばせるための親爺の流儀でした。メソメソ生きたり、誤魔化して、狡く生きたりしないように、男らしく生きるようにと、躾けてくれたのです。

 母がクリスチャンで、父も幼い日に、横須賀の街の教会に連れて行かれたりしたことがあって、この時期には郷愁を覚えていたのでしょうし、何しろ、親爺似のヤンチャな四人を、喜ばせたかったのです。カルメ焼を、コンロの上にお玉を置いて、ザラメと重曹で作っては、順番に『喰え!』と言い、会社帰りには、ケーキやソフトクリームやあんみつや佃煮、旅行帰りには、崎陽軒の横浜シュウマイ、福島の薄皮饅頭などを買ってきてくれました。

 それと同じだったのでしょう、今朝の私の枕元に、その present  はありませんでしたが、思い出がありました。二度と帰ってこない光景が、まぶたの裏に映し出されて、ちょっと泣けそうです。

 私を育ててくれた宣教師は、アメリカ人なのですが、降誕節を祝いませんでした。異教の習慣であり、冬至の祭りの祝い日であったり、昔の有力部族の頭目の誕生日だったのを、ローマ教会が真似て、祝うようになったのだそうです。それで、ご自分の確信に立って、世の世の動きに流されずに、我が道を歩んだのです。

 家内の家族を導いた、進駐軍のマッカーサー司令官が送った宣教師の教会では、お祝いをしていたそうです。そんな中で育った家内の家族なのですが、引越し先の教会では、降誕節を祝わなかったのです。

 神が、人となられて、処女マリヤの胎に宿り、私たちの間に来られ、33年半のご生涯の後に、十字架に死なれ、葬られ、3日の後に、蘇られ、再びおいでになられると言う、イエスさまのご生涯は、聖書通りに信じ、感謝していますが、この世の習慣としての行事には、参加しないのです。

 大分頑固な教義ですが、聖書の字義通りの解釈なのです。『三つ子の魂百までも!』で、教えられたことが事実なので、この世の習慣に戻っていくことが、私にはできないでいるのです。他の人の立場は認めますが、「三百六十五日の主」は、一日一日が、主の誕生日、死なれた日、蘇られた日なのです。

 『降誕節を祝わない教会は、異端ではないか!』と言われ続けても、平気の平左で過ごしてきました。

 パウロが、

 『ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ145節)』

 パウロは、降誕は信じましたが、降誕節を祝いませんでした。でも、他者の確信は、その人の決まりや習慣であって、それに干渉しなかったのではないででょうか。ただ、パウロが厳しかったのは、罪や虚偽であって、それはには容赦しませんでした。

 でも父の present は懐かしくって、頬擦りしたいほどの「思い出」なのです。誰にも「ふるさと」があるように、nostalgie を呼び起こす出来事が、過ぎた日にあるのですね。

 昨日の午後、県北で牧会される牧師のお嬢さんとお孫さんが、訪ねてくれました。定番はケーキなのですが、福島土産の「薄皮饅頭」と、美しい包装紙で包んだ「星野富弘カレンダー」を present してくれました。二組の夫婦で、美味しく一緒にコーヒーを飲んだことのあるお父さまは、同年生まれの同業者、今、肺炎ななられて、入院中とのこと、平癒をお祈りいたします。そう降誕節って、《祈りの日》に違いありません。

(“キリスト教クリップアート”から「祈り」です)

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生きよ

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 『わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。──神である主の御告げ──だから、悔い改めて、生きよ (エレミヤ1832節)』

 『わたしを求めて生きよ (アモス54節)』

 人の一生って、瞬(まばた)きの間のように短いんです。死に急いではもったいないのではないでしょうか。すべきことが多いのです。し忘れないように、生きている間に一つ一つしなければなりません。

 戦時下、山奥の村で、村長さんの奥さんに取り上げてもらったのが、昨日のことだったかのように(これって記憶にないのですが、母に言われて知りました)思えるのに、もう喜寿を迎えてしまい、もういつでも、主の元に帰ってもおかしくない年齢になりました。

 先頃、同じ時代の空気を吸い、吹く風の中を生きてきた同世代の中村吉右衛門が亡くなったのを知って、そんなことを思っています。美男美女の子の美女に生まれて、誰もが羨むように生きてきたのですが、心の中の寂しさはどうしようもなかったのでしょうか。神田沙也加さんが亡くなってしまいました。

 恋に命をかけるのですが、みんな上手ではありません。結婚を急ぐのですが、失敗してしまいます。正しい女性性が育っていないからです。男を見る目が未熟で、少女のような恋愛をして、現実に対応できなくて敗れてしまします。寂しいので、また恋に恋しますが、自信がありません。

 そんな時に、どなたかに腹を割って話せる人がいたらいいのです。ところが、二親は離婚してしまって、正しい結婚観を持つ機会を失い、結婚の結末を考えて、『わたしも!』と不安に苛まれてしまうのです。同じようになる、言い知れない恐れを感じながらの恋は辛いでしょうね。

 『何でも話せる友を持て!』と、若い時に言われました。人生上の葛藤、戦いを、隠さず洗いざらい話せる人がいたら、大きな救いになるからです。自分の性、恋、悪癖、恐れなど一切合切です。話してしまって、問題の柵(しがらみ)から解放され、解決の糸口が見つけられるのです。

 車を運転して、愛媛県に出かけたことがありました。母と同世代の牧師さんでした。快く受け入れてくれ、一日共に過ごして語り、聞き、泊めていただいたのです。そんな若い日がありました。逃げず、隠さず、正直に物事に直面する術(すべ)を教えていただいたのです。

 それから今日まで生きてきました。昨日、『オギャア!』だったのに、今日は、同世代の知人の死の報を聞き、生を全うした同世代の死、死に急いだ女優の死のニュースを耳にし、「いのちの重さ」をひしと感じているのです。下の図表は、自殺に原因です。tap すると大きくなり見えやすいです。

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『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ1章10節)』

 ドイツ人のルツ・ヘトカンプ宣教師が、1971年に「東京いのちの電話」を開始しています。電話による相談によって、悩んで苦しむ人や自殺願望者のお相手をして、人生の危機を回避する働きなのです。その協力者が、当時、東京下谷で牧会をしていた菊池吉彌牧師でした。

 背景はキリスト教ですが、日本社会では超教派が好いということで、今日まで続けられています。

「東京いのちの電話」

03ー3264-4343(二人で語ろうよ、しみじみ)

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特定非営利活動法人自殺対策支援センター「ライフリンク」

 この支援センターの相談員として、長男が奉仕に関わっています。苦しくっても人は生きなければなりません。生きていくための支援や援助はあるからです。究極は、《創造者とに出会い》です。なぜ生きているのか、どうして生きなければならないのかが、この出会いで、その極意やきっかけを見つけられるに違いありません。

(「キリスト教クリップアート」、「2013年度自殺白書」からです)

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桜花と新幹線

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 すでに十年近く経ちましたが、「日本文化と経済」の講座の担当を打診されて、承諾をしました。翌年の学期の授業に備えて、教材の準備をする中で、「東海道新幹線の開発」を取り上げたいと思ったのです。それで授業の中で、NHK制作の「プロジェクトX」を、中国の学生さんたちに観てもらったのです。

 この日本の新幹線を取り上げたのには、理由がありました。単に日本の技術を誇るためではなかったのです。その事業の責任者の一人で、設計を担当した、三木忠直氏のインタビューを知ったからです。この方は、こう言いました。

 『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんです。』

 技術畑ではありましたが、戦争責任者であった人が、敗戦後をどう生きるかを考えた時に、《平和》を希求したことに、私は共感を覚えたからでした。三木忠直は、父と同じ学年でした。二人とも技術畑で働こうとしていて、三木忠直は東大の工学部で船舶工学を学び、父は、秋田高専で鉱山採掘学を学んだのです。

 そして二人とも戦時下で、軍事産業に従事したのです。三木忠直は、爆撃機の桜花や銀河の開発に携わりました。上官の命令で製造した「桜花」には、地上を滑走する車輪が取り付けてありませんでした。大型機に抱えられて飛び立ち、ちょうどglider のように滑空しながら敵艦に体当たりする片道飛行の爆撃機だったのです。


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 そんな無謀な戦争に加担して、多くの同世代の犠牲を生み出したことへの悔恨の思いが三木忠直にありました。そん中で、戦後間もなく、銀座教会に渡辺善太牧師を訪ねて、その交わりの中で入信し、バプテスマを受けて基督者となるのです。それで戦後を新しい気持ちで生きる覚悟を決めたわけです。

 誰もが暗中模索だったわけです。三木や父の同学年に、青森県津軽の出の太宰治がいました。何度も自殺未遂を繰り返し、ついには玉川上水で情死を遂げてしまいます。文壇の寵児、優れた小説家でしたが、生き方を見つけられなかった人だったのです。

 ところが生き方を見出した三木忠直は、その設計に没頭します。殺人機を生み出した頭脳を平和に利用しようとしたのです。新幹線開業の時を同じくして、私はアルバイトをしながら、電車内の buffer(ビュッフェ/食堂車)の食材搬入のアルバイトを、東京駅でしていました。

 私の父も、その桜花に搭載した防弾ガラスの製造に関わり、あの戦争に加担したこと、その飛行機が、東アジア諸国を爆撃して、人や物に被害を与えた者の子として、償いの思いで、中国に参りました。私の計画にはなかったのですが、天津での一年の語学の学びを終えると、華南に導かれ、そこで日本の大学院で博士号を取られて、大学の法学部で教師をしていた方が訪ねて来られ、お交わりに中で、日本語教師を求めているとのことで、その機会を得たのです。

 日本文化や経済なども教える機会が与えられて、戦後の日本のあり方が、平和を願い、戦争相手国への謝罪といった意味でも、鉄道事業を紹介できたのは、中国版の新幹線が開業しようとしていた頃で、時宜を得たことだったと思ったのです。その授業を終えて、帰国して、京都から新幹線に乗った時、何度も乗ったのことがある新幹線でしたが、なんとも重い気持ちと、平和の響きがレールの上を走る車軸の擦れる音から聞こえたのです。

(「初代の新幹線」、「桜花」、「プロジェクトX」です)

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冬至

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 今日は、二十四節気の「冬至」で、お姉さんのような家内の友人が、庭になっている「柚子(ゆず)」を2個届けてくれました。余所者の私たちに、日本情緒にひたれるようにとのお気持ちが嬉しかったのです。

 「南瓜」も、この日に食べるのだそうで、これはスーパーで買って来ましたので、オイル焼きして、夕食で食べました。いつもよりも美味しかったのです。母が、煮干しで煮しめにしてくれた南瓜の味とは違っても、冬至気分を満喫できました。

 折角のご好意に、風呂をたてて、「柚子湯」にしたのです。湯船に、ゆずを浮かべてひたりました。『あゝニッポンジン!』と言う思いが湧き上がって来て、ああ誰にもふるさとがあーると、湯船の中で、鼻歌を歌ってしまいました。こんな気分は何年ぶりでしょうか。

 数年前に、一人で帰国した時、「菖蒲(しょうぶ)湯」を、弟が立ててくれて、『入って!』と言ってくれました。帰国するのが分かって、「端午の節句」は終わった五月末になっていましたが、乾燥させた菖蒲で用意してくれていたのです。優しいもてなしに感涙してしまいました。

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岐阜県

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 礼拝の御用に招いてくださった教会が、岐阜県下にありました。2、3度、そんな機会があったでしょうか。それ以前、初めての職場の出張で、岐阜に行きました時に、一日の仕事を終えましたら、柳ヶ瀬という繁華街に連れて行かれたのです。賑やかな夜の世界が、地方都市の路地裏にあるのに驚かされたのです。

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 そう言えば、東京の上野でも新宿でも池袋でも、terminal 駅は、その沿線の「方言」が聞こえてくるのです。仕事で故郷には帰れない人が、その terminal の駅で、「ふるさと」の話し言葉を聞きたくて、寂しくなると行くと言った話をよく聞きます。広東省の杭州の bus  terminal で、バスを待っていたのですが、そこに、『標準語を話そう!』と掲出されてあって、方言の種類の多い中国南部では、そんなことの注意が必要なのだと学んだのです。

 岐阜の「阜」は、丘や台地のことで、中国の山東省に「曲阜」と言う街がありますが、孔子の出生地で、「国家歴史文化名城」として有名です。それにあやかろうと、「学問の府」でありたいと命名されているそうです。岐阜は、「美濃国」と「飛騨国」が前身で、あの織田信長が活躍した地でもあります。

 歴史上有名な「関ヶ原の決戦」は、西軍と東軍の天下分け目の戦として、日本史で学びました。日本列島のほぼ真ん中に位置していて、地理的に重要な位置を占めていたことになります。結局、戦を収めたのが徳川家康で、敗者は取り潰しになったり、遠くに追放されたりしています。

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 県内の山岳地帯から流れる木曽川や庄内川は太平洋に、神通川や九頭龍(くずりゅう)川は日本海に注いでいて、山岳部の多い県です。飛騨の山村から、多くの少女が、峠を越えて信州の岡谷などに、「製糸工女」として出稼ぎを送り出したことで有名です。日本の近代化に、人的な貢献をしたわけです。

 そういえば、華南にいた時、岐阜の高山から、大学に留学していた青年がいました。素敵な好奇心の旺盛な青年で、しばらく一緒に過ごしたのです。学士卒業をされて、日本の大手の食品会社に就職したと言っておいででした。

 今では世界遺産に登録されている、白川村の「合掌造り」の日本建築が有名です。まだ訪ねたことがありませんが、雪深い地で、賢い生活の工夫がされて、教科書だったか、地図帳だったかに、その写真を授業で見て、驚かされたのを覚えています。

 人口が200万人弱で、富山、石川、福井、長野、愛知、三重、滋賀の7県に隣接していて、ここ栃木と同じで、海のない内陸圏なのです。茶碗や湯呑みなどを「瀬戸物(せともの)」と呼びますが、瀬戸市中心では、その製造が有名で、陶器全般を、そう呼んでします。鎌倉時代に、宋(中国)の国から伝来されてから、主に家庭用の食器などの製造が行われ、全国に広まっていった経緯があります。
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 もう一つ、美濃地方、とくに大垣市を中心に、ワイドナー宣教師が、1918年に始められた「美濃ミッション」と言う宣教団体があります。近所の神社や伊勢神宮の参拝を、小学校の児童が、「偶像礼拝」を拒んで起きた事件がありました。その home  page に次にように、「美濃ミッション事件」の記事があります。

1929年~1933年 児童の「神社参拝拒否」に端を発して、 その保護者、教会、美濃ミッションを排撃する運動が、大垣市から日本全国に広がった事件。信仰の「迫害・弾圧事件」は、国家によるものが多いが、「美濃ミッション事件」は学校・住民といった地域が行ったものに、 国家・警察、教育関係者、軍隊までを巻き込んで拡大していったのである。明治末期から大正時代にかけて、学校教育に天皇制・国家神道を盛り込んでいった結果が、昭和の初期にこのような事件を起こす土台となった。キリスト教界を揺るがしたこの事件は、今だに尾を引いている。戦前のこの事件を検証することによって、現在のキリスト者の信仰告白と証の参考としていきたい。』

 大垣教会の日本基督教会の朝倉牧師は、『神社に低頭するのは、キリスト教信仰に何ら差し支えない!』と、曖昧なことを言って、公に美濃ミッションを非難しましたが、ミッションの教会は、解散を命じられても信仰を堅持して、聖書の教えに従って立ち続けて、今に至っています。ダニエルのように、しっかりした信仰に立った、人や国家に阿(おもね)らない、素晴らしく強い教会です。

(観光地図、養老郡の景勝地、白川村、美濃ミッションの本部です)

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父親

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 子ども相手の駄菓子屋が、育った街にありました。そこには、〈カバヤ〉、〈紅梅(コウバイ)〉などの硬紙製の箱に入った飴が売られていたのです。森永や明治のキャラメルは、ミルクがたっぷりで、甘くて美味しかったのですが、残念なことに、〈card〉が入っていませんでした。栄養価や安全性を考えると、この会社の物がいいのに、それにはソッポを向いて、上記二社の飴を買ったのです。

 その箱の中には、相撲取りやプロ野球選手の star の顔入りのカードが入っていて、それを、手で起こしたり、飛ばしたりして取り合う遊びが楽しかったのです。ベーゴマもありましたが、紙製のカードは簡便だったので、ポケットいっぱいに持ち歩く子もいました。その〈おまけ〉欲しさで買ったのです。

 あれは子ども騙しに違いありません。仕方なく飴を舐めるのですが、砂っぽくてざらざらして、ちっとも美味しくなかったのです。子ども心理を捉えた商品でした。あの会社は、今でもやっているのでしょうか。カバヤは、同級生が営業マンをしていて会ったので、存続してるのが分かり、今もあるようです。

 また、1960年代からでしょうか、透明プラスチックに入った人気ナンガなどの主人公のオモチャが、100円玉を入れて、〈ガチャガチャ〉すると、ポトンと落ちてくるのです。あれは瞬く間に流行していき、今でも、スーパーの店先に置かれています。ずいぶん長い人気を保っているようです。

 さらに、手動操作でクレーンを動かして、中の人形などを釣り上げて、出口まで運んで手に入れるものもあって、大の大人が真剣な眼差しでしているのをよく見かけました。やったことがないのです。でも失敗が多くて、手に入れたのを見たことがないからでもあります。

 欲しい物が、〈選べない〉ので、手に入るまでやり続ける誘惑に駆られるのです。子どもが泣きじゃくってるのも見たことがあります。その〈選べない〉ということから、〈親ガチャ〉ということが言われているようです。『もっといい親に育てられたかった!』と思わされている若者が多いのだそうです。

 私の4人の子どもたちは、『子は親を選べなかった!』と言うかどうか分かりませんが、確かに、選ぶことはできませんが、創造の神が備えられたと考えようとしないなら、親への不満を募らせるだけです。私自身は、父親への葛藤の思いがありました。でもそれは、誰もが超えていかねばならない、男の子の〈通過儀礼〉なのだと言われています。

 何でもできるし、何でも知っている、すごい父親に、育てられた日々から、父親の弱さが見えてしまい、批判し、拒否する日があって、男の子は《男性性》を、また女の子は《男性観》を作り上げていくわけです。そして今は、穏やかな思いで、全面的に、親を受け入れて感謝な思いで、父親と母親の二親を思い出す日を迎えているのです。

 『父は父なるが故に、父として遇する!』、これは、ずいぶん前に出会った言葉なのです。どなたが語られたかを記録しませんでした。でも、それは実に重く私を捉えたのです。選べないけど、自分が人となるために、産んで育ててくれた親があって、今の自分がいる。だから、《父だから》と言う単純な理由で、父として感謝をもって、処遇することへの勧めなのです。

 〈親ガチャ〉どころか、親としてして何一つしてくれなくとも、たとえ親に虐待されたとしても、何と捨てられたとしても、人として今ある自分は、この親あって自分であるからです。そう親を理解するなら、自分を否定しないで済みます。人は、思いもよらない星のもとに生まれるのです。人生に、神の介入を認められたら、ありのままで、自分を受け入れられるに違いありません。

 究極は、神こそが、私たちの真性の《父》でいらっしゃるのです。この父に出会うための行程の途上に、誰もがいるのです。その神が、父と母親を私たち兄弟に与えてくださって、その養育を担わせてくださったのですから、最高の二親だったことになります。どんなに素晴らしい他人よりも、愚かで足りない実の親の方が勝っているのです。

(“キリスト教クリップアート”から「父と子」です)

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富の再分配

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 将棋の中に、「無駄駒」と言う手があるそうです。対局中に、何の意味もない一手を打つことだそうです。名人が、そういった手を打つなら、奥深い(手〉だと思われてるのでしょうけど、〈100億円の宇宙旅行〉は、男の浪漫なのでしょうか、金持ちの道楽なのでしょうか、ただの「無駄〈駒〉」ではないでしょうか。

 この広大な宇宙で、大気圏を飛遊する宇宙船に乗ったって、小山ハーベストのメリーゴーランドとさほど変わりがない、遊びに過ぎないのでしょう。科学の進歩のための研究者の飛行なら意味がありますが、そうではない門外漢にとっては、そんなことは不要なことでしょう。これって真似できない者のヒガミでしょうか。

 『今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。(2コリント814節)』

 もう、それだけの経済的な資金や余裕があるなら、医療や福祉の遅れている国や地域に、それを提供できるインフラ(infrastructure)を整備し、そに働きをしていく人材育成のために、私だったら使ってみたいものです。そんな大金を、衣料販売で儲けることができる商業界の在り方自体が、おかしなこの世の仕組みなのではないでしょうか。

 商才があって努力した結果、それだけのものを得たなら、その才能や努力を祝福されたお方、神さまにご計画があります。何かと言いますと、《富の再分配》なのです。

 『あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ2322節)』

 「収穫と配分に原則」を、神様はイスラエルの民に命じています。生活手段を持たない者たちが生きていくための配慮です。この原則を、私が学学校で、外国人教師の最終講義で聴きました。社会的な弱者に手を閉じずに、手を開いて支えること勧めて、退職していかれました。それが恩着せがましくではなく、兄弟として、急場を凌いで生きていけるためにすべきことなのです。

 人は、立場を逆にするような機会に出会うことがあるからです。今の祝福を分け合うことによって、やがて、ある日の欠乏が補われるために、その善意が覚えられていて、祝福が帰ってくるのです。

 教会堂を建ている時、アメリカから、30ドルとか40ドルが、何度も何度も送金されてきました。日本の地方都市に、神を礼拝する教会の建物を建てるために、本当に小さな献金でした。そのわずかなものが祝福の基となって、13ヶ月後に竣工し、献堂することができたのです。今も、その会堂は、礼拝のために使われています。

 多くの方々の、小さな奉仕があって、その蓄積の上に、今も主が崇められているのです。19世紀以降、《2レプタ献金》が、世界宣教を推し進めてきたのです。神の国を推し進めていく力の源は、いつも《小さな献身》によります。その報いは大きいのでしょう。

 ある特攻兵士の言葉が、今でも思いの中に、ズシリと重く残っています、この方は出陣を待っていたのですが、終戦で、その機会を得ませんでした。しかし、多くの戦友が、特別攻撃の操縦桿を握って、突撃死を遂げました。戦後、それを〈無駄死に〉だと言われたのです。でもこの方は、『彼らは祖国の二親、兄弟姉妹、恋人、同胞を愛して、純粋な思いで敢行したのであって、決して〈無駄死に〉などではありません!』、『彼ら戦友たちの死を無駄にすることなく、これからを生きて行きます!』と言われたのです。これって、〈無駄口〉ではないと思います。

(“キリスト教クリップアート”から《2レプタ献金》です)

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静岡県

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♭ 唄はちゃっきり節 男は次郎長
花はたちばな 夏はたちばな 茶のかおり
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが鳴くんで 雨ずらよ

茶山 茶どころ 茶は縁どころ
ねえね行かずか やあれ行かずか お茶つみに
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが鳴くんで 雨ずらよ

さあさ 行(ゆ)こ行こ 茶山の原に
日本平(にほんだいら)の 山の平(たいら)の お茶つみに
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが鳴くんで 雨ずらよ(以下省略)♯

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 「ちゃっきり節」の三番までの歌詞です。なんと三十番も、北原白秋は作詞しているのです。昭和二年、作曲は町田嘉章で、軽妙な melody です。静岡と聞きますと、どうしても「茶処」だというのが一番の印象です。大きめの茶飲みを手にして、美味しそうに緑茶を飲んでいた父の姿が思い出されます。

 関東人にとっては、駿河国・静岡は、その茶処としては、距離的な近さもあって親しみを感じます。甲府盆地から、国道52号線(富士川街道)を南下すると、海が見え始めます。今では静岡市と合併していますが、清水市の興津には、そこはかとなく茶の匂いが漂い、みかんの黄色が目に眩しい県なのです。そこから、天龍や掛川や御前崎や静波などに、上の兄が使わなくなってもらった、1000ccのダットサン・サニーに、家内と4人の子どもを乗せて、何度出かけたことでしょうか。

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 待っていてくれて、まるで、ご自分の《息子家族》でもあるかのように受け入れてくださる宣教師家族は、まさに「憩いのホーム」でした。その訪問がなかったら、伝道生活は諦めていたかも知れませんし、中国行きなどもなかったことでしょう。主に仕える喜びを回復していただいた訪問地でした。

 二代目のお子さんたちが、世代交代をしても、ご両親と同じように、今も接してくださり、在華中には、様々に助けてくださったのです。子どもたちや孫たちの世代になっても、交わりが継承されています。

 ある訪問の帰り道に、車の radiator のゴム管が破れてしまい、道路際の家で水をもらい、水を加え、それを何度も繰り返しながら、やっと自動車修理工場で取り替えていただいたことがありました。お盆休みで休業中でしたが、快く作業をしてくださったのです。新車に乗っていたら、味わうことのできなかった thrill (スリル)を、懐かしく思い出します。

 県下の伊豆や御殿場や天竜や浜北や浜松や水窪(みさくぼ)は、「聖会」が開催されて、温暖な正月や青葉若葉の五月の連休や夏休みに出かけました。研修会も、定期的に行われ、同世代の仲間たちと過ごした時が懐かしく思い出されます。宣教師の友人たちが、よく講師としてやって来られて、素敵な交わりが与えられたのです。遠州の海の近くの正月は、八ヶ岳おろしの寒い甲府に比べると、暖かくて『いいなあ!』でした。

   律令制下では、東海道の伊豆国(駿河国、遠江国〈とおとうみのくに〉)であり、戦国時代は今川氏の領地であり、後に徳川家康の所領となって行きます。現在、360万の人口を擁する県で、県庁所在地の静岡市が69万あり、浜松市が79万の人口をもっています。気候が温暖で、住みやすいのでしょう。正月に出かけると、遠江は、もう初春の感じでした。

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 ホンダやスズキやトヨタの自動車製造が盛んで、上の兄が、就職したのは、県下の製紙会社でした。静岡県のラグビー選手権だったでしょうか、それに出場したのはよかったのですが、頭部打撲で瀕死の大怪我をして、父が付きっきりで、世話をしていたことがありました。『親ってすごいなあ!』と思ったたものです。元気になった頃に、兄の寮を訪ねて、食事も食べさせてもらい、泊めてもらったことがありました。兄は、「紙」から「神」に転身したのです。

 中国から帰国すると、必ずのように招いて、慰労してくださった宣教師がおいででした。その姉妹は、実家のない私たちの子どもたちに、『私の家を実家のように思ってくださいと、お子さんたちに言ってください!』と言ってくれました。どんなに嬉しかったことでしょうか。どこの県も素敵ですが、殊の外、思いの中にある県なのです。

(「天竜茶」、「嶋田宿」、「登呂遺跡(静岡市)」です)

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spank

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 国道52号線は、国道1号線と20号線とを結ぶ、富士川沿いを通る、「富士川街道」と呼ばれている幹線道路です。甲府から清水(静岡市)に向かう南部町あたりに入る頃でしょうか、その街道筋に大きな立て看板があって、

 “Don’t scold the kids, it’s the way we came, don’t laugh at the old people, it’s the way we’re going.”

  と大きな文字で書いてあるのです。日本語に翻訳すると、

 『子供叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ!』

 ごめんなさい、逆で、日本語の看板を、” Deeple “ で翻訳したものです。子育て真っ最中、四人の子を乗せて、静岡西部の街に、宣教師さんを訪ねていた時に見かけたのです。それ以前にあったのかも知れませんが、急に、語りかけるかのように、突然目に中に飛び込んできたのです。

 私の子育ては、《叱る》なんてものではなく、借家の中心の柱に、しなる鞭を懸けていて、不従順、不公正、約束不履行などをした時に、父親の一存で、尻に当てたのです。その根拠は、聖書にあるのです。

 『子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(箴言231314節)』

 アメリカの「ピューリタン信仰」は、この聖書のことばに立って、養育を任された子どもたちの尻を、しなやかな鞭で、父親が打ったのです。最初の子が、礼拝中に、何かしていたのを見た、宣教師が、私を呼んだのです。『準、今、彼を spank (ピンピン)すべきです!』と、そう言われた私は、二人の部屋に入って、ズボンを下ろさせて、私の腰のベルトを抜いて、それで spank したのです。

 3、4歳ほどだったでしょうか、彼が最初に覚えた英語は、spank だったのではないでしょうか。性悪説の立場で、子どもの不従順や不公正や約束の不履行の態度を矯正するのですが、初めての子育ての責任を、「鞭をひかえた子」としてではなく、「鞭打たれた子」として成長していったのです。

 女の子たちにも spank をしました。何故するかを説明したのです。親を怒らせたり、恥をかかせたからからしたのではありませんでした。親の怒りは治めてからしました。不納得で、されたことがあったようで、大きくなってから『あの時は・・・』と言われたことがありました。で、結論的には、その結果は《奏功》で、よい結果をもたらせたと思っています。

 長男は、『僕にはよかった!』と言ってくれましたが、どれほど良かったかは聞きませんでした。四番目の子の時は、『あたしたちの時は、ピンピンされたのに!』と、基準が変わってると、姉たちに訴えられたこともありました。それって歳をとって、力も基準が緩くなったのかも知れません。その後には、ちゃんと言い聞かせて、祈って終わったと思います。

 何時でしたか、女学校の校長、福祉司、家栽の調査員をされてきた、伊藤重平さんを、名古屋からお招きして、講演をしていただいたことがありました。この方は、ご自分の子にも、家裁に送致されてくる子にも、鞭など、決して当てたことがありませんでした。お子さんは、立派に育っていて、社会の中で責任を全うされていました。

 私を育ててくれた宣教師と、この「愛は裁かず」と言う本を書かれている立場の伊藤重平さんは、子育ての基準が違っていたのです。親は、それぞれに養育を任された子の養育の責任を負いながら、自分の確信するところで育てるのであって、その方法を、どうするかも任されているのでしょう。

 私の父よりも年上で、名古屋にお迎えに行って、名古屋にお送りしたのです。『ここの五平餅が美味しいんです!』と言って、行き帰りのサーヴィスエリヤの売店で、買ってご馳走してくれたのです。今でも、子どもの我儘は、放置してはいけないと考えています。

 鞭を打った時、子どもたちは、ホッとした表情をしていました。事の良し悪しや、従順さを身をもって体得できたのだと思います。わが家では、《奏功》だったと思っていますが、《真剣に立ち向かってくれたこと》に感謝もしているようです。子どもたちには、〈苦味(にがみ)〉が残っていないように願う、12月にしては温かな朝です。

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 『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ3021節)』

 青臭い頃に、三井の番頭さんをされた方と、時々ご一緒したことがありました。三井物産の一族で、その傍系の方で、もう退職なさった後だったのです。小さな印刷屋さんのお手伝いをされておいででした。これから日本の社会を生きていく私に、食事を奢ってくださって、advice してくれたのです。『会議とか打合会とかがあったら喋るんです。はっきりものを言うんです!』、それが《出世のコツ》だと言ったわけです。

 およそどこにも、〈出世組〉がいます。将来、組織を引っ張っていくだろうと目された人がいて、何人かがしのぎを削って機会を得ようとするわけです。残念なことに、そんな出世欲のない私は、誰かに与(くみ)して、のし上がろうなんて思いはまったくなかったのです。

 面倒みの好い人がいて、その人に見込まれたのでしょうか、その反面、妬まれることがありました。一流大学に学んだ人がいて、8年間大学にいて除籍になって、最初の職場に、同じ時期に就職しました。それなのに pride の高い人で、事あるごとに突っかかってきたのです。文章を書くと、言い方が間違っている、表現の仕方がおかしいと言って文句をつけるのです。

 向こうは国立の理工系、こちらは私立の文化系で、同じ事務方の仕事をしていたのです。皮肉たっぷりの彼の顔は、いまだにはっきり覚えています。そんな嫌な性格、彼も私をそう感じていたのでしょう。その職場に3年いました。

 そう言った人も、いていいのでしょう。いたからこそ、突っ走っていい気になって天狗になってしまったらおしまいだったのを避けられたのです。環境は、自分では選ぶことはできません。与えられた人や物や機会などの中で、それが良くても悪くても、そこで、だれもが生きるわけです。

 でも《出会い》って、素晴らしいものがあります。まさに、『いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行!』と言われた小林ハルさんの言葉は金言です。お祭りばかりの連続だったら、踊っているだけなのですが、修行をしていれば、自分の足元に気をつけて生きていけるわけです。躓かないように、一歩引くことも、避けることも、別の道を行くこともできるのです。

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1 Kings 17:2-6

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 『地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。 1列王1912節)』

 思い返しますと、岐路に立たされた時に、耳元に、《細い声》が聞こえてきたような時が、幾度もありました。進むも、止まるも、引き返すのも、囁くような導きを感じてきたのです。人生に、《導き手》がいるのです。欲に動機付けられることもありますし、愛に動機づけられることもありますが、結果は真反対に違ったものになってしまいます。

 だれに聞くか、誰にまかせるか、一緒に歩く者と《一致》があるのか、その目的は、また可能性はどうなのか。選択の決定権は、自分にありますが、どんな声にうなずくかが、事を大きく分けるのです。「かすかな細い声」を聞いた、エリヤは、その声を聞き逃さずに応答したのです。

 心が騒いでいたり、恐れや不安で心がいっぱいだったら、聞き逃してしまいます。そのギリギリのところで、普段聞いている声を見極めて、それに思いを向けらことができるなら、人生の危機を回避でき、最善の選択をしていくことができます。そうやって、私もここまで生きてこられました。神さまは、私に傍に置いてくれた妻の声を、『注意深く聞け!』と言い続けられての今日であります。

(“キリスト教クリップアート”から預言者「エリヤ」です)

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