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子ども相手の駄菓子屋が、育った街にありました。そこには、〈カバヤ〉、〈紅梅(コウバイ)〉などの硬紙製の箱に入った飴が売られていたのです。森永や明治のキャラメルは、ミルクがたっぷりで、甘くて美味しかったのですが、残念なことに、〈card〉が入っていませんでした。栄養価や安全性を考えると、この会社の物がいいのに、それにはソッポを向いて、上記二社の飴を買ったのです。
その箱の中には、相撲取りやプロ野球選手の star の顔入りのカードが入っていて、それを、手で起こしたり、飛ばしたりして取り合う遊びが楽しかったのです。ベーゴマもありましたが、紙製のカードは簡便だったので、ポケットいっぱいに持ち歩く子もいました。その〈おまけ〉欲しさで買ったのです。
あれは子ども騙しに違いありません。仕方なく飴を舐めるのですが、砂っぽくてざらざらして、ちっとも美味しくなかったのです。子ども心理を捉えた商品でした。あの会社は、今でもやっているのでしょうか。カバヤは、同級生が営業マンをしていて会ったので、存続してるのが分かり、今もあるようです。
また、1960年代からでしょうか、透明プラスチックに入った人気ナンガなどの主人公のオモチャが、100円玉を入れて、〈ガチャガチャ〉すると、ポトンと落ちてくるのです。あれは瞬く間に流行していき、今でも、スーパーの店先に置かれています。ずいぶん長い人気を保っているようです。
さらに、手動操作でクレーンを動かして、中の人形などを釣り上げて、出口まで運んで手に入れるものもあって、大の大人が真剣な眼差しでしているのをよく見かけました。やったことがないのです。でも失敗が多くて、手に入れたのを見たことがないからでもあります。
欲しい物が、〈選べない〉ので、手に入るまでやり続ける誘惑に駆られるのです。子どもが泣きじゃくってるのも見たことがあります。その〈選べない〉ということから、〈親ガチャ〉ということが言われているようです。『もっといい親に育てられたかった!』と思わされている若者が多いのだそうです。
私の4人の子どもたちは、『子は親を選べなかった!』と言うかどうか分かりませんが、確かに、選ぶことはできませんが、創造の神が備えられたと考えようとしないなら、親への不満を募らせるだけです。私自身は、父親への葛藤の思いがありました。でもそれは、誰もが超えていかねばならない、男の子の〈通過儀礼〉なのだと言われています。
何でもできるし、何でも知っている、すごい父親に、育てられた日々から、父親の弱さが見えてしまい、批判し、拒否する日があって、男の子は《男性性》を、また女の子は《男性観》を作り上げていくわけです。そして今は、穏やかな思いで、全面的に、親を受け入れて感謝な思いで、父親と母親の二親を思い出す日を迎えているのです。
『父は父なるが故に、父として遇する!』、これは、ずいぶん前に出会った言葉なのです。どなたが語られたかを記録しませんでした。でも、それは実に重く私を捉えたのです。選べないけど、自分が人となるために、産んで育ててくれた親があって、今の自分がいる。だから、《父だから》と言う単純な理由で、父として感謝をもって、処遇することへの勧めなのです。
〈親ガチャ〉どころか、親としてして何一つしてくれなくとも、たとえ親に虐待されたとしても、何と捨てられたとしても、人として今ある自分は、この親あって自分であるからです。そう親を理解するなら、自分を否定しないで済みます。人は、思いもよらない星のもとに生まれるのです。人生に、神の介入を認められたら、ありのままで、自分を受け入れられるに違いありません。
究極は、神こそが、私たちの真性の《父》でいらっしゃるのです。この父に出会うための行程の途上に、誰もがいるのです。その神が、父と母親を私たち兄弟に与えてくださって、その養育を担わせてくださったのですから、最高の二親だったことになります。どんなに素晴らしい他人よりも、愚かで足りない実の親の方が勝っているのです。
(“キリスト教クリップアート”から「父と子」です)
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