静岡県

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♭ 唄はちゃっきり節 男は次郎長
花はたちばな 夏はたちばな 茶のかおり
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが鳴くんで 雨ずらよ

茶山 茶どころ 茶は縁どころ
ねえね行かずか やあれ行かずか お茶つみに
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが鳴くんで 雨ずらよ

さあさ 行(ゆ)こ行こ 茶山の原に
日本平(にほんだいら)の 山の平(たいら)の お茶つみに
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが鳴くんで 雨ずらよ(以下省略)♯

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 「ちゃっきり節」の三番までの歌詞です。なんと三十番も、北原白秋は作詞しているのです。昭和二年、作曲は町田嘉章で、軽妙な melody です。静岡と聞きますと、どうしても「茶処」だというのが一番の印象です。大きめの茶飲みを手にして、美味しそうに緑茶を飲んでいた父の姿が思い出されます。

 関東人にとっては、駿河国・静岡は、その茶処としては、距離的な近さもあって親しみを感じます。甲府盆地から、国道52号線(富士川街道)を南下すると、海が見え始めます。今では静岡市と合併していますが、清水市の興津には、そこはかとなく茶の匂いが漂い、みかんの黄色が目に眩しい県なのです。そこから、天龍や掛川や御前崎や静波などに、上の兄が使わなくなってもらった、1000ccのダットサン・サニーに、家内と4人の子どもを乗せて、何度出かけたことでしょうか。

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 待っていてくれて、まるで、ご自分の《息子家族》でもあるかのように受け入れてくださる宣教師家族は、まさに「憩いのホーム」でした。その訪問がなかったら、伝道生活は諦めていたかも知れませんし、中国行きなどもなかったことでしょう。主に仕える喜びを回復していただいた訪問地でした。

 二代目のお子さんたちが、世代交代をしても、ご両親と同じように、今も接してくださり、在華中には、様々に助けてくださったのです。子どもたちや孫たちの世代になっても、交わりが継承されています。

 ある訪問の帰り道に、車の radiator のゴム管が破れてしまい、道路際の家で水をもらい、水を加え、それを何度も繰り返しながら、やっと自動車修理工場で取り替えていただいたことがありました。お盆休みで休業中でしたが、快く作業をしてくださったのです。新車に乗っていたら、味わうことのできなかった thrill (スリル)を、懐かしく思い出します。

 県下の伊豆や御殿場や天竜や浜北や浜松や水窪(みさくぼ)は、「聖会」が開催されて、温暖な正月や青葉若葉の五月の連休や夏休みに出かけました。研修会も、定期的に行われ、同世代の仲間たちと過ごした時が懐かしく思い出されます。宣教師の友人たちが、よく講師としてやって来られて、素敵な交わりが与えられたのです。遠州の海の近くの正月は、八ヶ岳おろしの寒い甲府に比べると、暖かくて『いいなあ!』でした。

   律令制下では、東海道の伊豆国(駿河国、遠江国〈とおとうみのくに〉)であり、戦国時代は今川氏の領地であり、後に徳川家康の所領となって行きます。現在、360万の人口を擁する県で、県庁所在地の静岡市が69万あり、浜松市が79万の人口をもっています。気候が温暖で、住みやすいのでしょう。正月に出かけると、遠江は、もう初春の感じでした。

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 ホンダやスズキやトヨタの自動車製造が盛んで、上の兄が、就職したのは、県下の製紙会社でした。静岡県のラグビー選手権だったでしょうか、それに出場したのはよかったのですが、頭部打撲で瀕死の大怪我をして、父が付きっきりで、世話をしていたことがありました。『親ってすごいなあ!』と思ったたものです。元気になった頃に、兄の寮を訪ねて、食事も食べさせてもらい、泊めてもらったことがありました。兄は、「紙」から「神」に転身したのです。

 中国から帰国すると、必ずのように招いて、慰労してくださった宣教師がおいででした。その姉妹は、実家のない私たちの子どもたちに、『私の家を実家のように思ってくださいと、お子さんたちに言ってください!』と言ってくれました。どんなに嬉しかったことでしょうか。どこの県も素敵ですが、殊の外、思いの中にある県なのです。

(「天竜茶」、「嶋田宿」、「登呂遺跡(静岡市)」です)

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