『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ30章21節)』
青臭い頃に、三井の番頭さんをされた方と、時々ご一緒したことがありました。三井物産の一族で、その傍系の方で、もう退職なさった後だったのです。小さな印刷屋さんのお手伝いをされておいででした。これから日本の社会を生きていく私に、食事を奢ってくださって、advice してくれたのです。『会議とか打合会とかがあったら喋るんです。はっきりものを言うんです!』、それが《出世のコツ》だと言ったわけです。
およそどこにも、〈出世組〉がいます。将来、組織を引っ張っていくだろうと目された人がいて、何人かがしのぎを削って機会を得ようとするわけです。残念なことに、そんな出世欲のない私は、誰かに与(くみ)して、のし上がろうなんて思いはまったくなかったのです。
面倒みの好い人がいて、その人に見込まれたのでしょうか、その反面、妬まれることがありました。一流大学に学んだ人がいて、8年間大学にいて除籍になって、最初の職場に、同じ時期に就職しました。それなのに pride の高い人で、事あるごとに突っかかってきたのです。文章を書くと、言い方が間違っている、表現の仕方がおかしいと言って文句をつけるのです。
向こうは国立の理工系、こちらは私立の文化系で、同じ事務方の仕事をしていたのです。皮肉たっぷりの彼の顔は、いまだにはっきり覚えています。そんな嫌な性格、彼も私をそう感じていたのでしょう。その職場に3年いました。
そう言った人も、いていいのでしょう。いたからこそ、突っ走っていい気になって天狗になってしまったらおしまいだったのを避けられたのです。環境は、自分では選ぶことはできません。与えられた人や物や機会などの中で、それが良くても悪くても、そこで、だれもが生きるわけです。
でも《出会い》って、素晴らしいものがあります。まさに、『いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行!』と言われた小林ハルさんの言葉は金言です。お祭りばかりの連続だったら、踊っているだけなのですが、修行をしていれば、自分の足元に気をつけて生きていけるわけです。躓かないように、一歩引くことも、避けることも、別の道を行くこともできるのです。
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『地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。 (1列王19章12節)』
思い返しますと、岐路に立たされた時に、耳元に、《細い声》が聞こえてきたような時が、幾度もありました。進むも、止まるも、引き返すのも、囁くような導きを感じてきたのです。人生に、《導き手》がいるのです。欲に動機付けられることもありますし、愛に動機づけられることもありますが、結果は真反対に違ったものになってしまいます。
だれに聞くか、誰にまかせるか、一緒に歩く者と《一致》があるのか、その目的は、また可能性はどうなのか。選択の決定権は、自分にありますが、どんな声にうなずくかが、事を大きく分けるのです。「かすかな細い声」を聞いた、エリヤは、その声を聞き逃さずに応答したのです。
心が騒いでいたり、恐れや不安で心がいっぱいだったら、聞き逃してしまいます。そのギリギリのところで、普段聞いている声を見極めて、それに思いを向けらことができるなら、人生の危機を回避でき、最善の選択をしていくことができます。そうやって、私もここまで生きてこられました。神さまは、私に傍に置いてくれた妻の声を、『注意深く聞け!』と言い続けられての今日であります。
(“キリスト教クリップアート”から預言者「エリヤ」です)
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