仕掛け花火のような

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 人の一生を、〈仕掛け花火〉だとか、〈回わり舞台〉だとか、単に〈お芝居〉だとか言われます。もしをそうであるならその舞台を眺める「観客」がいなければなりません。

 これまでで一番お金と人と時間をかけた演劇を、中国におりました時に観ました。その舞台は、ユネスコの世界遺産に指定された、福建省の武威山郊外だったのです。友人夫妻に旅行に招待していただいて、自然を舞台にした、一大スペクタルショウを観劇したのです。1987年に製作され、「赤いコウリャン」という映画で脚光を浴び、世界的にも高評価を得ている映画監督、張芸謀Zhang Yimouが演出した、「印象大紅袍印 yinxianghongpao」でした。

 山水の名勝として知られる武夷山を舞台に、自然と人間文化をおり混ぜ、九曲溪などの景勝地を背景に、多くの出演者が歌と踊りを演じていました。夜空に映像を映し、美しい照明で、観ている観客を圧倒させていたのです。

 舞台は、大きく回転し、座席が動いていて、舞台に観客が共にるような錯覚に陥るような演出でした。大きな国の大きなショウは度肝を抜かれるようなものだったのです。題名の「大红袍」と言うのは、武威山の周りで栽培されているお茶のことで、福建省の一大名産です。

 文化遺産の景勝地の観光と特産品の宣伝のための商業活動で、まさに中国的な大きさと計画に、内外の観光客を惹きつけるのを目的にして、功を奏しているようです。同じような劇が、中国の各地で、同じように企画上演されて来ているようです。

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 これよりも、私たち一人一人の生涯の方が、意味や価値があるのではないでしょうか。もちろん演じているのではなく、《生きている》わけです。どうしてかと言いますと、人は神の《被造物》、《最高傑作》だからです。〈失敗作〉などないのです。自己評価が、たとえ低くても、神さまは独特に一人一人に私たちをお造りになられたからです。

 『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル415節)』

 そんな私たちの生き様を、創造主はご覧になられているのです。一度きりの生涯が、どれほど厳粛であるかに、多くの人は気づかないままで生きているのです。もしお芝居であるなら、本物の自分でない自分を演じるにでしょうけど、人の一生は、お芝居ではなく、現実なのです。

 そして、一人一人が、どう生きたかの決算を、命の付与者の前ですることになります。もしかしたら、一生涯が、物語のように映し出されて、申し開きも弁明もなしに、評価されるのでしょう。キリストは、「同情者」であり「りかいしゃ」、「弁明者」であり「弁護者」として、私たちの傍にお立ちくださることでしょう。本来は、「審判者」でいらっしゃるのにです。

(武夷山です)
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