よい年を!

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 私たちの住んでいる地域は、中国の行政区画によって、かつては「◯◯县◯◯镇◯◯村」と呼ばれていた地域です。現在は大きな地方都市が、近隣を合併させているのです。公共交通網が張り巡らされている現在は、中心街に行くのに、ものの20分か30分ほどの至便さにあります。そんな開発地域に、大きなスーパーが3つほどあります、台湾系とイギリス系、地元のチェーン店で、それぞれ大量仕入れで価格を三店で競争しているようです。12月初旬に、この街最大の商業施設としてもう一店舗開店しました。週末には、驚くほどの人だかりがしていますし、周辺の道路は、大渋滞になっております。先日バスに乗っていましたら、運転手と乗客が、この商業施設のオーナーが、有名な政治家の「女婿」だと言っていました。全国展開の〈ショッピングモール〉で、さながら、ホノルルにある〈アラモアナショッピングセンター〉思わせるほどの充実ぶりで、日本にも珍しいほどの規模ではないでしょうか。

 この一画には、「MUJI」と看板を掲げた店がにあり、何かと思いましたら、「無印良品」とありましたので、日本の企業だったのです。三日ほど前に、このモールに行ってみました。店に入りまして、「MUJI」の商品を手にとってみましたら、日本円と「人民币(renminbi)」の価格が併記されてあったのです。『うわー、高い!』、これが第一印象でした。日本では高級品ではない、この店の商品ですが、隣にあった中国の老舗の価格よりも高いのですから、最高級品になるに違いありません。だからでしょうか、客はまばらでした。もう、中国のみなさんの目線にたってしか、物の価値を判断できなくなりましたから、われわれ庶民にとっては、高嶺の花の商品になります。ところが、日本に帰ると、そんな抵抗は全くなくなってしまうのですから、不思議なものです。そんなことで、手ぶらで出てしまいました。

 九州の熊本にある「味千」というラーメン店が、中国で大きく展開していまして、その店もこのモールの中にあります。私たちの街には、「卤面」と呼ばれる名物の麺類がありますが、これが6元ほどで美味しく食べられるのです。ところが、この日本ラーメンは、30元ほどもします。5杯はゆうに食べられる勘定になるでしょうか。それでも日本製品は人気があります。お菓子を買いましても、その袋には日本語がひと言ふた言書きこまれているのです。時々間違って記入されていたりしますが。日本風シュークリームもあって、先日、友人が買ってきてくれました。街中では、新車がさっそうと走っていて、トヨタ、ホンダ、三菱、スズキ、マツダが、ひときわ多く見られるのです。『日本製品は、抜群に良いですね!』というのが、嬉しい評価です。最近、家にチラシが入っていました。何かといいますと、「温水の洗浄機付きの便座」の広告でした。そういったものが歓迎される、豊かな社会になってきたということでしょうか。『東京のホテルの泊まったとき、トイレの便座が暖かくて、誰か、前に座っったのかと思いました!』、と、天津で一緒だったドイツ人の友人が、冗談を込めて言っていたのを思い出します。こう言うのを、「微に入り細を穿つ」というのでしょうね、日本製品は。驚きと感嘆の的、これが日本製品でしょうか。


 今後、私たちの地域では、激しい販売合戦が展開されそうです。日本と同じように、チラシがポストに定期的に投げ込まれて集客を図っています。この地域には、昔から〈菜市場〉という青物、乾物、肉、タマゴ、雑貨などを商う小さな店の集まった地域があります。野球ができるほどの屋内練習場のような作りで、驚くほどの集客がみられます。魚屋の水が土の通路を泥にして、靴が汚れてしまいますが、とても便利なところです。天津で過ごした一年間、私たちのアパートのすぐ近くにも、この〈菜市場〉がありましたので、スーパーでは特殊なもを買い、生鮮品は、ほとんどここで買いました。「パン粉」だってありましたし、お願いするとミンチの肉も売ってくれました。日本にも、地方には残っている風情なのでしょうが、今はもう見られなくなった光景でしょうか。

 クリスマスセールが一段落し、すでに正月用品が、「春節」に向けて売られ始めているようです。日本の昔の暮れの風景、正月用品を売る店に集まる人並み、よくテレビで、上野の御徒町が放映されていましたが、どこの街も実に賑々しかったのを思い出します。今は、「通販」の時代なのでしょうか。『廣田さん、ネットで買うと安く手に入れることができますよ!』と、教えてくれる友人がいます。家内が、〈USB〉をスーパーで買ってきました。140元ほどしたでしょうか。念のため、中国版のamazonで検索しましたら、同じ容量の製品が40元ほどでした。もう中国も、通販の時代なのだと思わされて、ちょっと損をした感じがいたしました。
 
 日常を、このように生きて、年の瀬を迎えています。六回目の師走、再び「師」になる機会が与えられましたが、私は、ここで走りまわることはありません。「師走」ということばは、Wikipediaによりますと、『日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用い、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさ(平安後期編『色葉字類抄』)からという平安期からの説がある。また、言語学的な推測として「年果てる」や「し果つ」等から「しわす」に変化したなどという説もある。』とありました。坊主ではない(!?)のですが、気持ちはわかります。


 よい(好い、善い、良い、佳い、嘉い、美い)年をお迎えください。心から幸福と平安と喜びを願っております。

(写真上は、中国切り絵の「福」、中は、天津古文化街、下は、大賑わいの菜市場前の路上風景です)

男の締めくくり

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 先日、「象の背中」という映画を見る機会がありました。2005年1月から6月まで産経新聞に連載された秋元康の原作で、2006年に単行本として出版され、2007年の秋に公開上映されています。渋い中年男性を演じて抜群の演技力を評価されている役所広司の好演でした。その内容は、マンションを企画販売をする会社の部長である主人公が、癌に冒されされていることを主治医に告げられます。『どのくらい生きられるんですか?』との彼の問に、『一概にはいえませんが、半年が一応の目安かとも思います。』と、48歳の彼に応えます。他に転移している肺ガンでしたから、治療を勧められますが、それを拒否します。妻と娘には極秘にし、長男に事実を告げます。男同士ということでしょうか、『昨日までと同じ生活をする・・・一緒に背負(しょ)ってくれ!』と、男の決意を告げます。小説や映画の技法かも知れませんが、もう一人、愛人にも末期のガンであることを告白するのです。一緒に見ていた家内に、『あなたは誰に告白します?』と聞かれて、ことばを濁してしまいましたが、きっと私も愛人にだけ告白することでしょう。しかし「愛人」は、中国語ですと、夫に対する妻、妻に対する夫を、そう呼びますから、中国式の「愛人」ですので念のため。そんな彼が、残された日々を精一杯に生きようとするのです。どう生きるのかといいますと、過去に出会った人々、例えば中学時代のクラスメートを訪ねて初恋を告白します。また、ぎくしゃくとした関係にあった高校時代の野球部の同級生、仕事上で倒産にまで追い込んだ経営者、父親の死後から疎遠だった兄を訪ねて、過去の精算の努力をしていきます。

 主題となった「象の背中」と、この主人公の藤山幸弘のガン宣告と、どう関わりがあるのかと思っている間に、『アッ、そうか!それでこんな題にしたんだな!』と象の習性を思い出したのです。死期を悟ったゾウは群から独り離れていきます。そして断崖から流れ落ちる滝の後ろにある洞窟にわけいって、そこで死を迎える、そんな話でした。象の背中を見たのでしょうか、あるいは象のように独りになるのではなく、残された時間を治療のために奔走することをやめ、男の生の締めくくりをしていくのでしょうか。あるいは、死に逝く象の背中に乗って運ばれようとするのでしょうか、そんな話に、なんとなくつまされてしまったのです。きっと同期に入社しただろう部長仲間の同僚も、長く連れ添った奥さんも、平然と振る舞いながらも、ガン宣告以降の彼の言動の異変に、何かを感じている、映画では、そう演じられていたようです。


 「一生の不覚」という言葉があります。中国語で言いますと、「遺恨終生」と言うそうで、一生涯、遺恨を残すという意味なのでしょう。小学校6年の時に、社会科の授業でライバルだったKくんと、週末に、立川に遊びに行く約束をして、駅で待ち合わせをしました。ところが、すっかり忘れてしまった私は、その約束をすっぽぬかしてしまったのです。なんと約束不履行です。翌日、学校に行ってから、そのことが分かって、それ以来、Kくんの怒りを買って絶交状態になりました。地元の中学に進まなかった私は、彼との接点が断たれれてしまって、取り返しのつかない「一生の不覚」で、今日に至っています。半世紀以上、それを修復をしないままなのです。このことを思い起こされてしまったのです。

 実は先週、こちらでお世話になり、ご家族の必要で帰国なさった方が、久しぶりに仕事で中国に来られて、我が家にも寄って下さる約束をしたのです。その日の3時に、果物を買い、あべかわ餅を作り、美味しいお茶の用意をしていたのですが、待てど暮らせどおいでにならないのです。なにか急用があったのかと思って、5時頃までお待ちして諦めました。実は、アパートの下においでになられていて、呼び鈴を押し、携帯にメールを送っていたのに、私と家内は、全く両方とも気づきませんでした。一階の玄関でベルを押すと聞こえるはずなのに、聞こえませんでした。それに、何と携帯電話が充電切れだったのです。充電を始めたときに、メールの着信を記憶していたコールがあって、この方がメールをしておられたのを知ったのです。『しまった!』、それこそ、50数年ぶりの不覚を再犯してしまったのです。このことを、なんどもメールでお詫びしましたら、忍耐強いこの方は、『帰国したら渋谷で会いましょう!』と言ってくださったのです。こんなに嬉しいことはありませんでした。来春の帰国時に、渋谷で再会しましたら、改めてお詫びしようと思っております。

 さてKくんは、今どこで何をしているのでしょうか。彼にも会って謝罪をしなければいけないと思わされています。アッ、この藤山幸弘のように、医者に癌だと宣告されているのではありません、今のところは。なんとなく未精算のことごとが思い起こされているのです。どうにかして、お詫びの行脚をしないといけないようですが、今は中国にいて動きが取れません。来春の帰国時に、街で床屋をしている同級生がいるので、彼なら情報を持っていると思うので、訪ねて聞いてみることにします。脚のスネ、指や腕にある傷跡を数えたことがあります。傷の上に傷もありますから、親にもらった大事な肌を傷つけてしまった不幸を詫びました。それ以上に、人間関係のキズも多くあって、この映画の主人公のように数え上げなければならないようです。不覚を心から詫びなければならない人の多さに愕然としていますが、その残された機会を失わないようにと決心している「圣诞节(降誕節)」の夕べであります。

(写真上は、主演の役所広司、下は、「象の背中」のDVDです)

綻び

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 『薬には、73000種類ほどあります!』と、以前ラジオでしたか、大阪の薬大の先生が話しておられました。驚くほどの種類と数があることになります。医療でみられる「プラシーボ効果」ということばを聞いたことがおありでしょうか。〈病気についての基礎知識〉によりますと、『プラシーボ(Placebo)の語源はラテン語 の「I shallplease」(私は喜ばせるでしょう。)に由来しているそうです。そこから患者さんを喜ばせることを目的とした、薬理作用のない薬のことを指 すようになったのです。通常、医学の世界では乳糖や澱粉、生理食塩水が使われます。従って、プラシーボ効果(反応)は、このような薬理作用のないものによりもたらされる症状や効果のことをいいます。それはいい場合と(治療効果)、悪い場合(副作用)の両面があります。「これは痛みによく効くよ。」といわれて、乳糖を飲んで、痛みがなくなったり、逆に吐き気がでたりすることがあります。この場合、プラシーボにあたるのが乳糖であり、プラシーボ効果にあたるのが、鎮痛効果であり(治療効果)、吐き気(副作用)であるわけです。プラシーボ効果がどうして起こるかについては、次のようなことが考えられています。1)暗示効果、2)条件付け、3)自然治癒力、4)その他 』とありました。

 これは、いわゆる「ニセ薬」のことです。砂糖でもシロップでも何でもいいのですが、『これを飲むと、痛みがなくなる効果がありますので、飲んでみてください!』と医者に言われて、飲んでみると、実際に鎮痛効果があらわれるのだそうです。きっと、医者が持っている〈ことばの権威〉と深く関係があるのだろうと思います。『医学を学んで、お医者さんになったこの方が、効く、というのだから、きっとそうに違いない!』と信じて、医療効果が実際にあることになります。小学校入学前に、肺炎にかかって、町の国立病院に入院しました。死線をさまよいながら生還した私は、小学校3年まで病気欠席の多い児童でした。風邪をひくと、母は私を必ず病院に連れて行ったのです。『今度肺炎になったら死を覚悟してください!』と、主治医に言われていたからなのです。ですから、薬を沢山飲んできたことになります。医療保険などなかった時代、山奥で病気になったのですから、治療のための費用を考えてみると、父の負担は相当なものだったのではないでしょうか。

 家内が、昨年の11月に、市内の医院に、1週間入院したときに、病室前の廊下で、医者と患者が取っ組み合いの喧嘩をしていたのを目撃したのだそうです。医療費の払えなくなった患者さんが、治療を中止した医者に抗議して喧嘩になったようです。「前払い」をしないと、治療が継続されない、そういった医療制度、病院のシステムなのですから、仕方がないわけです。幸い、私たちは「前払い」をすることができましたから、治療をうけることができました。入院中に、シロップではなく、注射用のカプセルを飲み薬にと渡されたのです。これを知った友人が、医者に抗議してやめたことがありました。この医者は、「プラシーボ効果」を狙ったのでしょうか、実際にそのカプセルに効能があったからでしょうか、私たちの経験からして、その投薬を疑ってしまったわけです。何も食べない1週間に、その薬は、素人判断で、きっと効かなかっただろうし、飲んでいたら逆効果だったかも知れません。でも、その選び取りはよかったと思うのです。

 この大阪の薬大の先生は、なぜそんなに多くの薬があるのかを、こう言っていました。『みんな効かないからです!』とです。ずいぶんはっきり言ったので驚きましたが、実に正直な方だなと思っていました。でもお名前を失念してしまいました。効かない薬を飲ませるのは、もう「プラシーボ効果」以外には考えられませんね。先日、私は、「漢方医薬」の処方箋を書いていただいて、三日間飲みました。苦かったので、きっと〈良薬〉に違いないと思ったのですが、ある方に言わせると、『十人に一人が効きます!』と言っていました。でも、この数年、あるビタミン剤を飲んでいます。義妹や娘たちが、せっせと送ってくれますので、頑張って飲んでいます。歳のせいでしょうか、肩や関節が痛むので、人に勧められて、EXというビタミン剤も飲んでるのですが、飲まないときと飲むときと歴然の違いがあるのです。家内にも飲むように勧めましたら、彼女も、この効果を経験しているのです。このままだと、一生飲むことになるのでしょうか。

 こちらの友人たちも、『これがいいですよ!』とか、『あれがいいですよ!』と言っては紹介してくださったり、持ってきてくれます。気遣ってくださるのはとても嬉しいことです。今のところ、病気がありませんので、投薬を飲むことはないのですが、なんとなく体に〈綻び(ほころび〉が出てきているのを、この頃感じております。うーん、『少年老いやすく・・』の意味が分からなかった日が懐かしく感じる、冬至間近の朝であります。

(写真は、最近勧められている「霊芝(万年茸)」です)

感謝

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 口下手で、生意気で、手だけが早かったので、若い頃の特技は、「喧嘩」でした。俊敏な運動神経を父母から受け継ぎましたので、少々運動は得意だったかも知れません。ですから、どんな相手も怖いと思ったことがないのです。怖さ知らずの恐ろしさこそが、相手を先に怯(ひる)ませてしまう、これが技術巧者の相手に勝るのでしょうか。若気の至りと、物怖じしないクソ度胸で、売られた喧嘩を買い、たまには卑怯な相手には、売ってもみました。男の四人兄弟で育った者が、みんな喧嘩が強いのかというと、そうでもないようです。それでも兄たちに殴られて、痛さを知っていること、その痛さで怯えたり、尻込みしないで耐え、組み返していこうという心意気が養われたのでしょうか。そんな力量があれば、喧嘩には負けない、これが我流の〈勝ち極意〉でした。父も、『喧嘩で負けてきたら、家に入れない!』と変な家訓を掲げていましたから、負けられませんでした。もちろん、空手の猛者と対面で、殴り合ったら負けるかも知れませんが、その時の目と表情が大切なのだと思っていましたから、相手を先に飲んでしまえば、勝負は決まったものでした。

 そんな野蛮な若かりし日、青春の蹉跌(さてつ)を通過して、老いを迎えて恥じております。「恥」は覆い隠しておくべきなのでしょうか。『天国まで秘して持っていくべきことだ!』という方がいますが、「善い人間」に思われている自分が、実は、『そうではない!』と言わないと、どうしても落ち着かないのです。このまま天国に行ってしまっては、嘘と恥の上塗り(!?)になってしまって、きまりが悪いのです。もちろん召されてしまってから、何を噂されようが、もう地上でのことは関係なくなってしまうのでしょうが。

 二十五までの自分に、本当にあきれ返っていたのです。『こんな生き方(具体的には書かなのが賢明かとも思います)をしていたら駄目になってしまう!』、そんな思いが、心の思いの隅っこからフツフツと沸き上がってくるのを感じていました。それは3年の仕事が満ちようとしていた直前に、『廣田くん、僕の弟子のいる短大の、高等部に教師の機会があるけど行ってみませんか?』と言って紹介してくれたのが、W大の教授で、所長をしておられた方でした。こ生意気な私を、この方は目に留めてくれて、人生の線路を敷いて下さり、何かと面倒を見てくれていたのです。それで、勤め始めたのが女子高でした。何時でしたか、「高校教師」というドラマがあったようですが、聞くところによると、教師にあるまじき風の教師の姿が演じられていたそうですが、私は観たことがありませんでした。私が教壇に立った学校には、おかしな話にならない伝統(!?)がありました。『廣田くん、〈小さくて可愛い恋人〉を作ってもいいんだよ!』、と鼻の下が長いという典型的な音楽教師がいて、その彼に唆(そそのか)されました。男性教師たちのソフトボールの倶楽部に誘われて一緒にプレーをしたのですが、そんな時の彼らの話題の中で、卒業生が話題になることがありました。『ほら◯◯、☓☓先生の可愛い子・・・』、私は、悔い改めて真面目な教師になろうと決心して転職していたのです。酒もタバコも喧嘩も止めました。というよりはやめられた、そういった方がいいでしょうか。

 「聖域」だと言われていた世界が、そうではないことを知って呆れ返っていました。『これは、例外的なことなのだ!』と、今でも思っていますが、小説がテレビのドラマ化されるのですから、ほかにも、悪モデルになる学校が実在していたかも知れません。男を見る目の育っていない少女を、自分の恋愛の相手にする彼らの馬鹿さ加減、教師の風上にも置けない彼らに耐えられないで、2年で、その学校をやめました。所長や、短大の教務部長をしていた先生には、大変申し訳ないことをしてしまったのです。

 今思うと、誰にでもできない経験の中を通されてきたということになるでしょうか。恋文やギフトを下駄箱の中に入れられたり、待ち伏せされたり、家まで付いて来られたりの、強(したた)かな少女たちもいましたが、あの時の同僚のようなことは決してしませんでした、本当です。女子高の男性教師、どんな男でも、少女たちの憧れの対象になるからでしょうね、『もてた!』と自慢する人もいますが。うーん、「恥な過去」を持つことは、「善行」だけで過ごして、自惚れるよりもいいかも知れませんね。ちょっと恥ずかしいのですが、それでも生きるって楽しかったと思うのです。あっ、臨終のことばのようになってしまいましたが、今も生きていてよかったと思っています。自分の人生に記念すべき出会い、ターニング・ポイントがあったから、生き方を変えることができ、いえ、自分は力ではありません。それで今日、ここで、人に迷惑をかけずに生きておられるのを、彼此(ひし)と感じております。実は、今日は、私の誕生日で、朝の4時45分に山奥で生まれたそうです。両親に感謝!(投稿に躊躇しましたが、19日になって再投稿を決めました)


(写真上は、故郷の山からフジを望むもの、下は、12月になってから咲き出す「プリムラ・ジュリアン」です)

人の特質

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 上智大学で、「死の哲学」を、長く講じておられた、アルフォンス・デーケン教授が、「人が持つ3つの特質」ということで、次の三点を上げておられます。

 ① 考えること
 ② 選択すること
 ③ 愛すること

 どういう事を言おうとしておられるのかを考えてみました。私が人間であるのは、「考える」からなのだということでしょうか。いつも私は考えているのですが、空腹時には、食べ物のこと、ちょと寂しくなると、過去や子供たちや孫たちのことに思いを馳せます。事件が起きますと、なぜこういったことが起きたのだろうか、結果はどんな影響になるのだろうか、関係者の気持ちなどを考えるのです。そんなことを考えていましたら、北朝鮮の金正日死去のニュースが、先ほど、耳に飛び込んできました。そうしましたら、横田めぐみさんのことを思い出したのです。何時でしたか彼女の手紙を読んだことがありました。小学校5年生のめぐみさんが、旅先からご両親や弟たちにあてたものでした。そこには、

  『たくや、てつや、お父さん、お母さん、もうすぐ帰るよ。まっててね。めぐみ。』

とありました。めぐみさんは、ご承知のように、北朝鮮に拉致されて、強制的に家族から引き離されてピョンヤンで生活していると聞きます。結婚もし、お嬢さんがいて、そのお嬢さんが日本にやってきたこと、そんなことを知っています。ご両親が、拉致被害者の会の責任をとっておられ、テレビのニュースになんども出ておられるのを見ました。お母様の手記も呼んだことがあります。犯罪によって分断された家族とは、どういったものなのかも考えてみたことがありますし、もし、これが自分や自分の身近にいる人だったら、どんなことになっているのだろうかとも考えたのです。もちろん、めぐみさんは、どんなことを考えながら、異国の地で生きてきているのだろうかとも思わされます。ご両親、二人の弟のことを考えない日などなかったに違いありません。

 日本で生活をしていたら、自分の意志で学校も職業も結婚相手も、人生に関わる様々な、〈選択〉ができたのだろうと思うのです。そういった選択権を暴力で奪われて、思ってもみなかった、第三者や国の目的にために強制されて生きなければならなかったに違いありません。人である証の1つは、「選択すること」なのに、自分の願望を奪われ、他者の意思に従って生きるというのは、非人間的な取り扱いなのです。1977年に拉致された時が、めぐみさんの年齢が、13歳でしたから、今年47歳になっておられます。この年の春、「北国の春(いではく作詞、遠藤実さっきょく)」のレコードが発売されています。これを文章化してる時、道路の向こうから、この曲が流れてきたのに驚かされました。

 めぐみさんの家族への手紙の中には、家族への思いが込められていますから、死亡との北朝鮮からのレポートの信憑性が疑われますから、生きていらっしゃれば同じ家族への「愛」の思いを溢れるほどにお持ちに違いありません。「愛すること」も「考えること」も、人の心の中に精神的な活動ですから、どんなに自由を奪われ、将来を奪われ、家族を奪われても、これだけは、誰によっても奪われることはないわけです。社会学者は、人間の基本的な欲求の1つに、「愛することと愛されること」を上げています。特にお母様の早紀江の思いを知ると、早急に帰国の道が開かれることを切に願わずにはおられません。

 デーケン教授は哲学者ですから、言われることは意味深長です。私は、上智大学で、彼の講座を受講したことがあります。1959年に来日され、誰もが避けることのない「死」に対して、積極的に学ぶことを推奨され、「死に対する準備教育」に携わってこられました。私は、彼の講義を聞きながら、死を避ける傾向の極めて強い日本の社会の中で、覆いがかけられ、その上にほこりがうず高く積もった「死」を白日のもとに晒した貢献は大きいと思います。生きたいと願うなら、「死」を学ぶことが、きわめて重要であることを主張されているのです。もし私たちが、充実した生を生きたいと願うなら、生の終着駅の「死」に、真正面から立ち向かうように勧めておいでです。

 誰の「死」も願ってはいけませんが、人道にもとる行為の人が、なくなることによって、新しい展開がなされ、抑圧された人々が自由を手にすることができるなら、それもありかなと、迷いながら考えております。帰りを30数年も待ちわびているご両親と弟さんたちの気持ちを考えますと、悲しい人の死が、希望の光となるのかも知れないなと、そんなことを思っている、「冬至」間近な日の午後であります。

(写真は、北国の春を告げる花の開花です)

女の修行

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越後瞽女(ごぜ)の小林ハルさんが、『いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行。』、と言われています。教育など受けたことがない方だったのでしょうけれど、驚くほどの含蓄のあることばで、なんども頷いてしまいました。学校出たての頃に、上司の狡さに憤った、未熟な私は、一悶着起こしてしまいました。青年期の融通の無さなのでしょうか、理想主義に青臭く生きて、現実の世の中を知らなかった結果だと思います。そんな私だったのに、味方してくださった方がいました。警視庁に勤めながら、夜間の大学を卒業し、転職して私と同じ職場におられた係長でした。ちょうど〈兄貴〉と呼ぶのが相応しい年齢で、まだお酒を飲んでいた頃でしたので、よく連れ歩いてもらいました。彼の親しい仕事上の友人が福岡にいて、出張した折に、大変なお世話をしてくれました。若い頃の〈世話〉ですから、お察しがつくと思いますが、博多弁というのでしょうか、九州ことばが〈男っぽさ〉を感じさせてくれて、さっぱりした〈九州男児〉と呼ぶのに相応しい方で、博多の中洲を、あちらこちらと案内してくれたのです。

思い返しますと、沢山の方々と出会って、共感したり、尊敬したり、あるいは嫌悪したりしてきましたが、ハルさんが言われうように、善人との関係は、〈祭り〉のように、賑々しく、楽しく、時間がたってしまうのを惜しむような交わりをもちました。「学ぶ」ということばの語源は、「真似ぶ」だと言われています。師が書かれた書を、一画一点同じように書く、つまり真似して書き上げることが、いわゆる〈書道の真髄〉だと言われています。スポーツにしても、上手な投手の投球法を、打者の打法を真似ることから始め、迷ったときには、基本に帰って、また真似るということによって、好い結果を残せる選手になっていくわけです。空手だって、「型」から入り、組み手はあとから鍛錬していくのです。ですから書を読んで学ぶことよりも、人から学んだことのほうが多かったのではないでしょうか。

ところが、〈良い人〉とばかり出会わないことが、かえって生きていることを楽しく面白くしてくれるのでしょうか。今で言う、〈空気の読めない人〉とか、ひっきりなしに否定的なことを言う人、人を非難し中傷してやまない人、人と和していくことのできない独行の人、お酒を飲まないと何もいえない人、飲むと目を座らせてくグズグズと愚痴をならべる人、一人でしゃべりまくっている人、いじけている人、自慢する人、過去のことばかりに思いを向けている人、挙句のはてに、奥さんの悪口をしていた中学の英語教師、下ネタばかりが話題のおじさん、男の中にこういう人が意外に多かったと思います。こういった人を「反面教師」、ハルさんに言わせると「悪い人」と言うのでしょうか。この所謂(いわゆる)、「悪い人」に「真似ぶ」こと、『彼らの真似はすまい!』とは思わされましたが、彼らから学んだことのほうが、〈いい人〉から学んだことよりも、はるかに多いのだと思います。ハルさんは、『悪い人との関わりこそが、私の人生修行でした!』と言っておられるのです。「修行」を、goo辞書で調べますと、『[名](スル) 1 悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること。 2 托鉢(たくはつ)・巡礼して歩くこと。「全国を―する」 3 学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。「弓道を―す… 』とあります。


避ける代わりに、恨む代わりに、その人から学んだハルさんは、盲目という境遇の中で、人にいえない程の辛い経験を、現・三条市に明治30年に生まれ105歳でお亡くなりになるまで、お持ちだったようです。特に家族からの仕打ちは、恨んでも余りあるものがあったのですが、彼らを赦してしまう度量の大きさには驚かされます。何と、黄綬褒章を受賞され、「人間国宝」と呼ばれる晩年を迎えておられます。「瞽女さん」とは、「盲御前(めくらごぜん)」から派生した呼び名で、門付けをしながら、三味線を弾き語りし、お足(お金のことです)やお米や野菜などを貰って、村から村を渡り歩いて生きていた、旅芸人でした。ハルさんは、自分の境遇を跳ね返して、すべての悪しきこと、悪い人との出会いの経験を「修行」にして、生きたのです。同じ新潟県の出身で、連合艦隊司令長官だった山本五十六が、『苦しいこともあるだろう、言いたいこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣きたいこともあるだろう、これらのことをじっとこらえてゆくのが男の修行である。』と言っています。ハルさんのことばにくらべると、私の好きな日本人の一人でありながら、何か色褪せて、口先だけのことばに聞こえてなりません。古い日本の雪と因習の深い裏日本の片田舎で、女が生きるということ、しかも目が不自由だっただけで、不条理の中を生きなければならなかったハルさんの「女の修行」のことばは、千金にも万金にも兆金にも聞こえるのです。

(写真上は、小林ハルさんのお顔、下は、ハルさんの生まれた新潟県三条市です)

ダモクレス

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 「ダモクレスの剣」を、〈コトバンク〉で調べますと、「栄華の中にも危険が迫っていること。シラクサの王ディオニシオスの廷臣ダモクレスDamoclesが,王位の幸福をほめそやしたところ、王が彼を天井から髪の毛1本で剣をつるした王座に座らせて、王者の身辺には常に危険があることを悟らせたという故事による。 」とあります。一国の命運を握って、様々なことを意思決定し、それを行っていかなければならない政治指導者は、その地位に甘んじるだけではない。その責任の重大さをしっかり受け取めて、死の覚悟を決めて取り組まなければならないといった、自戒の意味にとれる話です。もちろん、これは国だけではありません。一つの会社、一軒の商店でも同じではないでしょうか。そこには社員や店員がいて、その彼らには妻子・家族がいるのです。社員の子弟の衣食住、さらには将来を左右するような責任を、ボスは負っているのですから。

 ある会社が倒産の危機に瀕していました。知り合いに、その会社の部長をされていた方がいました。その苦境を彼が訴えてきたのです。私は、『あなたの部下の再就職のために力を尽くしてください。彼らには奥さんがいて子どもさんたちがいます。あなたの責任は大きのです。まず彼らの生活の安定をはかってあげなさい!そのあとでご自分の・・・』とアドバイスをしました。ところが、自殺に誘われるような中を通っていた彼は、部下たちを残して、転職してしまったのです。私は、心の底で、『バカヤロー!』と叫びました。『あなたが、自分の部下のために逃れの道を設けてあげるなら、天はあなたを助け、あなたの家族が路頭に迷う様なことはされない。きっとあなたには、素晴らしい仕事の機会と立場が備えられるから!』と励ましていたのです。


 私は、以前、ある小さな会社を持っていました。子供たちが教育の必要としていたときに、その仕事が与えられたのです。本職以外の事業で、学生の頃のアルバイトで経験していた仕事でした。営業努力の末に与えられたというよりは、天から降ってきたようにして備えられたのでした。なんと、子供たちの大学教育が終わるまで、この事業は続けられ、教育の終了の月と共に、終わったのです。これも私の意思ではありませんでした。これは私と家族にとって不思議な経験でありました。妻や子どもたちが人並に生活していくことができるために、何か偉大な力が、夫や父親を導き、彼らを雇用する業主に、特別な知恵や機会が備えられるのではないでしょうか。食べて、着て、住むことができ、教育が受けられ、たまには娯楽ができるように備える、そういった責任が委ねられているわけです。そのために、責任ある方々には、特別な知恵や能力や機会が備えられるのではないか、そう思うこと仕切りです。

 資金のやりくりや仕入れや販売、人の雇用など、社長さんたちは、強烈な重圧のもとにあります。『誰か、経営を代わってくれないか?』と思うのも当然でしょうか。まさに、一本の毛髪の吊るされた剣の下に、座らされ身を置いているような重責を感じているのも事実です。

 私たちは、国の責任者に立てられている方を、非難こそすれ、彼のために感謝や慰労を願い、敬っていないのではないでしょうか。人間的に嫌い、思想的にも同意できない、過去の経歴に嫌悪するなどの理由がありましたが、彼は、一国の「命運」、1億3千万人の命と財産と将来を、任されているということになります。この中国ですと、14億人(ある方は19億いるかも知れないと言っておられましたが)の命の保持といった重責を担わされていることになります。後代に名を残すなどといった野心があったら、このような責任は負うことができないでしょうね。そういった重圧があって、部下を信頼できず、何時謀反を起こされるか分からないような恐れに駆られ、自分の身内の者や、子飼いの部下たちだけで身を固めた《専制》や《独善》や《独裁》に陥ってしまうようです。何時でしたか、チャウセスクというリーダーが倒れていく場面をテレビの中に見ました。人を信じられなかったこの人は、孤児たちを集めて訓練し、親衛隊を編成し、彼らを特別に寵愛することで忠誠心を育て煽り、身辺警護に当てていたと聞きます。ここに掲げた写真は、独裁者と刻印された人たちです。一人一人消えて行くのですが、責任を放棄して独裁に走ってしまうと、天からの祝福を失ってしまう結果なのでしょうか。

 王座に座すことは、私にはありませんでしたが、「責任の座」に座ったことはあります。その重圧は、心休まることのない立場でした。共に立って、重荷を少しでも負ってくださる方、理解してくれる人、何でも相談できるメンターを切に願いました。そのような責任から離れた今、彼らのためにすべきことがあると思わされています。感謝と慰労の心を向け、手を上げることに違いありません。ふと頭上を見てしまう師走です。

(写真上は、リチャード・ウェストールの描いた「ダモクレスの剣」、下は、独裁者たちの顔写真です)

ピグマリオン

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 「ピグマリオン効果」を、goo辞書で調べますと、「pygmalion effectとは、教育心理学における心理的行動の1つで、教師の期待によって学習者の成績が向上することである。別名、教師期待効果(きょうしきたいこうか)、ローゼンタール効果(ローゼンタールこうか)などとも呼ばれている。なお批判者は心理学用語でのバイアスである実験者効果(じっけんしゃこうか)の一種とする。ちなみに、教師が期待しないことによって学習者の成績が下がることはゴーレム効果と呼ばれる。 」とあります。小学校6年、中学校3年、高校3年、大学4年、合計しますと16年間も学校教育を受けたことになります。人生八十年としますと、5分の1は、学校教育のもとにあったことになります。もちろん、高校や大学は義務教育ではないのですから、行く人、行かない人と分かれますが、幼稚園や保育園だって、過疎地の田舎で育ちましたから、私の場合はありませんでした。また小学校3年までは病欠児童でしたから、三分の一くらいしか通っていなかったと思います。それでも、学校に逝っていたころが懐かしいですね。

 三度目の小学校の担任が内山先生でした。おばあちゃん、いえ、小学校2年の2学期から担任してくれた女先生が、そう見えたのです。たぶん、まだ50代の前半だったでしょうね。この先生に、初めて褒められたのです。幼児教育を受ける機会がなく、病欠児童だったので、団体生活の訓練が出来ていなかった私は、授業中に立ち歩くし、級友にちょっかいを出すし、どの学年の毎学期の通信簿には、行動の所見欄には、きまって『落ち着きがない!』と記されてありました。今でいう「ADHD(注意欠陥/多動性障害) 」でしょうか。そんな私が可哀想だったのでしょうか、内山先生には怒られた記憶が、全くないのです。国語の時間に、『ガタガタゴットンガッタン・・・』と、擬音の入った記事がありました。『これは何の音ですか?』と、内山先生が聞きました。ふだん、注意をそらして聞いていない私が、このときはしっかり聞いていたのでしょう、まっさきに手を上げたのです。いたずらですが、気が弱くて手なんか上げない子だったのにです。『それは、電車の音で、引込線に入って行く時に、線路を変えていくときの車輪の音です!』と、だいたいこんなふうに答えたと思います。そうしましたら、『ひろたくん、よくわかるわね!』と褒めてくれたのです。6年間の小学校生活で、ただ一度、2年生の2学期だったと思いますが、褒められたのです。後にも先にもないのです。


 兄たちに似て運動神経はよかったようですし、知能検査の指数も高かったのだそうですが、行動に問題を持っていた私は、今でも秘密にしている多くのことが、学校でありました。病弱でわがままに育ってしまったからでしょうか、社会性が欠けていたのです。それでも、こういったことで親に怒られた記憶はないのです。やはり褒めるということは、素晴らしい教育効果を上げられることなのですね。ある方が、もう一度父親になったら、『こんなことをしたい!』という本を書いています。『子どもと子どもの母親をほめたい! 』と彼は言っていました。

 どうしたことか、そんな私が学校の教師になりました。中学の担任に大きな感化を受けたからです。この先生は、毎日の朝礼と終礼、担当の社会科の授業の初めと終わりの礼の時、一段高くなっている教壇から、我々の立っている床に降りて、常に深く礼をするのです。同級のみんなは気付いていたのか、他の教師は、その教壇の上に立って挨拶をしていました。そんな違いに気付かされたのです。数年前から、こちらの学校の教壇に立つ機会が与えられ私は、この先生と同じに、どのクラスも教壇を降りて、講義の開始と終了の挨拶をしています。それ以外思いつかないからです。同じ目線にたってものを言う、同じレベルで向きあって相対する、といった気持ちが、嬉しく共感したからです。それで、担任が教えていた社会科の教師になった、いえ、させてもらったのです。能力があったのではないのですが、人に恵まれて、面倒をみてくださった方の力添えで、高校の教師をしました。また、今回もそんな人に恵まれて、こちらの教壇に立たせていただいております。

 そんな自分の小学校時代を思い返して、国鉄の引込み線のある旧駅の構内を遊び場にして、上の兄の同級生が親分で、この親分の下で、遊んでいて聞いた物音を思い出したからです。そのように思い出した私を《褒めてくれたこと》、これこそが、私の原点なのだと知らされるのです。あの時、初めて得意になれて、誇らしい自分を知らせてくださったのですから、内山先生の覿面(てきめん)の教育効果には感謝が耐えません。よかった!

(写真上は、教室の様子、下は、田浦の廃線跡です)

『カスがいい!』

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 小学校の社会科で、インドの南にある島を「セイロン」と学びました。ところが、いつからでしょうか、「スリランカ」と国名が変更になっていたようです。新しい歴史の事実が発見されて、歴史の記述が変わってしまうように、国名も、指導者が代わり、新しい法律ができたりして変わっていくのですね。うっかり旧名で呼んでしまって、『アッ、1978年に変わったんだっけ!』と、後になって思い出してしまいます。おいしい紅茶の代名詞のような国ですが、国語学者の大野晋は、このセイロン島の北東部と、インド半島の南部に居住する「タミル人」の言語が、日本語の起源の1つだと主張していました。農耕で米の栽培に関する言語が、近似しているので、海上を船に乗ってやって来たタミル人によって米の耕筰法が伝来されたと主張しました。それと一緒に、「ことば」も伝わったというのがこの方の学説です。「畑」はpat-ukar(田、畑の意)、「田んぼ」はtamp-al(泥田の意)、「米」はhakum-ai(臼で脱穀するも意)と言うのだそうですから、興味がつきません。

 さて、このセイロンに、『むかしむかし・・・三人の王子がいました・・・』で始まる童話が残されています。セイロン島のセレンディップ王国があって、そこの三人の王子さまが、悪の権化である竜を退治に出かけていくのです。なんだか鬼ヶ島に行った桃太郎伝説を思い出すよう話です。自然を愛する上の兄、幻術を愛する次の兄、弟は勇気を愛する、三人三様の善良な三兄弟が、力をあわせて難関に立ち向かって行きます。そして竜退治の旅の途中で、上の兄たちは、王族の娘をめとり、弟は百姓の娘を妻とします。それぞれ愛する女性を見つけるのです。三兄弟は、旅の途中で出くわす、様々な問題や物事に、協力しながら立ち向かって、解決の道を見出していきます。彼等が生まれつき持っている才能や性格、たとえば勇気や知恵が用いられていくのです。結局、そういった出来事の中で、自分の中に問題解決の糸口や策があることを知るのですが。

 この三人の王子の童話から、最近、よく聞く「セレンディピティ」と言う言葉が注目されています。何か困難な場面に立たされるとき、また大きな問題に直面するときに、その解決をもたらすものは、技術や方法ではなく、自分の目の以前や自分の内側にあるものだというのです。目的を果たせななかったけれども、何かに向かって努力していくうちに、期待に反し、予期しなかったこと、副次的に益になるものを見つけ出せることを、言っていることばのようです。あの「星の王子さま」の話も、すぐそばに大切なものがありましたし、チルチルとミチルの「青い鳥」も、近くにいたのです。「偶然の幸せをつかむ能力(Serendipityセレンディピティ)」があるのでしょうか。水を掘っていたら、石油が湧き出したり、芋を掘っていたら金が出てきたり、幸運の物語が多くありますので、私たちの人生にも、そんな経験が多くありそうですね。

  
 何時でしたか、ある雑誌を読んでいましたら、お母さんの手記が載っていました。「子育ての回顧録」で、誤解していたことが、かえって益になったという話です。このお母さんは、《こはかすがい》という言葉を聞いて、『子はカスがいい!』と聞き取ったのです。このお母さんの息子は、どうしょうもない手の焼ける子で、いたずらはする、勉強はしない、親の言うことは聞かない、札付きの不良だったのです。子育てに悩んでいたお母さんの耳に、『不良で、なんの役に立ちそうにもない、クズのような、酒を絞りとったときの残り〈粕〉のよう子が、一番良いのだ!』と信じて、息子を諦めたり捨てたりしないで、一生懸命励まして育てたのです。そのお母さんの誤解によって、息子はやがて更生し、立派な大人に成長していったという手記でした。口がもつれてしまいそうな、「セレンディピティ」と言うことばを聞いて、そんな話を思い出しました。

 盗みをして捕まりました。警察に通報されなかったのですが、学校に通報されました、私の通っていた中学は私立で、何処の学生かすぐに分かってしまう制服を着なければなりませんでした。担任は、それを問題にしないで、不問に付してくれました。そんなことが何度かあって、昔の《感化院《少年院とか少年刑務所》に行かないですんだのです。きっと行っていたら、感化院の中で多くの犯罪テクニックを学んで出てきて、大悪になっていたことでしょうか。カスのような私が、今日も、このように生きているのは、小学校から高校まで世話してくれた先生たちにとっては、《予期せぬこと》だったかも知れません。そんなことを考えていましたら、何だか、「漂泊の思い」にかられてセイロンにでも行ってみたくなってしまった、年の瀬であります。

(上の絵は、「セイロンベンケイソウ」、下のamazonの本は、「セレンディップ(セイロンの旧国名)の三人の王子」です)

蒸しタオル

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 『廣田先生、ご無沙汰しています!』と声をかけられて、話しかけてくれた方の顔を思い出せませんでした。ある大学で2ヶ月ほど会話を教えたことがありましたが、その時の30数名いた学生の一人が、彼でした。ホテルのフロント・ボーイとして、眼をキラキラ輝かせてゲエストを送り迎えしていたとき、私の姿を見かけて呼びかけてくれたのです。日本から来られた方と面会するので、そのホテルのロビーにいた時のことでした。どこでだれと会うかわからないのですね。僅かの間しか教えていませんのに、教室の椅子に座って、教壇の上に立ち、机間を歩きまわる教員を凝視するのですから、彼らは忘れることはないでしょうか。でも私は、もう5年も前の学生の顔は忘れてしまっていたのです。20前後の若者の成長の変化は大きいのですから、ある面では仕方がないかと、言い訳をしています。

 『「お名前は何でしたっけ?」と聞くと、「〇〇です」と答える。「うん、苗字は覚えているんだけど、下の名前は何でしたっけ?」と聞くことにしている!』と、私の弟が教えてくれたことがあります。そうすると忘れてしまったことの言い訳をしないで、名前を聞くことができる、名前を聞き出す優れものなのだそうです。彼は、幼稚園から高校まである私立学校の教師ですから、名前を覚えるのは大変です。幼児から高校生まで、幅広く体育教師をして教えているのですから大変です。どんなに記憶力が優れていても、全員を覚えることは至難の技なのでしょうか。来年、母校の管理職を最後に退職するそうです。


 ある時、『たまには東京に出てきませんか。会わせたい人がいますから!』と連絡がありました。地方都市にいた私に、ある大学で教えている知人からの電話でした。この方とは、「高野山」で行われた研修会で同席し、その後、何くれとなく世話をしてくださった方でした。『ここの胡麻豆腐が美味しいんです。いっしょの食べに行きましょう!』となんども誘ってくれて、宿坊の中でご馳走してくれました。お父様が、有名な哲学者で、彼もまた学者でした。息子のようにでも思ってくれたでしょうか、とても面倒をよくみてくれたのです。約束の帝国ホテルに参りましたら、この方と同年輩の夫妻が待っていてくれました。ある私立学校の理事長でした。『私の学校で働いてみませんか!』とのお誘いだったのです。『今回、私の学校の卒業生で、廣田鐵も招聘しているのですが・・・』と言われたのです。お話しが途切れたとき、『その廣田は、実は私の弟です!』と口を挟みました。このご夫妻も、私を呼んでくださった方も、眼を丸くして驚いていました。それは全くの偶然だったのでしょうか。兄弟とは知らないで、弟と私を教師として、同じ時に迎えようとしていたのですから、私も驚きました。

 私は意を決して、働いていた学校を退職し、アメリカ人実業家の新規事業の助手となり、彼から教えられることを願って、彼に従って東京から出て、地方都市に行ったのです。それをやめるわけにはいきませんでした。当時、私は、早朝、中央蔬菜市場で競りに参加して、野菜や果物を扱う仲買商の荷運びのアルバイトをしていました。学校に通っていたときにもしたことのある仕事でしたから、苦にならず、運動とバイト料の一挙両得で楽しい時期でした。待遇面から比べると、比べ物になりませんでした。私を紹介してくださった方には申し訳なかったのですが、理由をはっきりとお話しして、お断りしてしまいました。理事長夫妻も分かってくれました。それなのに、数年後、この方は、自分の務めている学校に、また私を招いたのです。東京に出てきて、その学校に彼を訪ねました。今度は女子大でした。長女も生まれていた頃ですから、物入りも多かったので、いろいろと心配してくれたお話しでした。その優しい配慮は肝に入りましたが、条件や将来の約束の良さで、意を覆すことができなかったのです。またお断りしてしまいました。

 それでも大過なく子供たちを育て上げることができました。大きな組織の中にある安定から、個人がささやかに始めた事業の不安定さに移っても、満足度は十二分に覚えることのできた事業への参加でした。自分を建て上げるためには貴重な年月だったと、振り返りながら思います。その実業家も、彼の友人たちも亡くなってしまいました。ふと頭を見ると、李白の「白髪三千丈(坊主頭ですから当てはまらないでしょうか)」です。髪の寝癖を直すのに、毎朝、蒸しタオルを使っていたことなど、今のこの頭を見たらだれも信じてくれないでしょうね。「月日は百代の過客にして行かふ年また旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」と記した芭蕉に同感の今です。ゆったり時が流れていくのですが、中国の社会の発展の速さに、眼を回されてしまう、間もなく師走の十二月であります。

(写真上は、「胡麻豆腐」、下は、今の「帝国ホテル」です)