この社会の潤滑油の様に

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 「受援力」、助けを求めたり助けを受けたりする心構えやスキルや援助のことを言っています。『内閣府が、災害後に防災ボランティアの支援を生かすため、被災地側がボランティアの支援を受け入れ、上手に寄り添うことができるように、と2010年につくったパンフレットに用いられた言葉です。これは、東日本大震災をきっかけに少しずつ知られるようになっています。』と、内閣府の定義があります。

 今年は、能登半島を中心に、地震や異常なほどの多量の降雨による災害に見舞われ、被災された方々は、大変な被害に遭われています。中学3年だった次男が、阪神淡路大震災の折に、災害援助に行かれる宣教師さんに同行して、この「受援力」を発揮したことがありました。災害弱者に対する優しい気持ちは、尊いなあと思ったのです。

 帰国していた長男も、中学生だった次男も、それぞれのチームで、阪神圏の被災地に、復興の手伝いに出掛けて行きました。長男は、京都の教会で待機して、お手伝いをしていたのですが、その教会に集まって、会議をしていた牧師さんたちが、夜に酒盛りをしているのに躓いたのです。

 私たちに交わりの諸教会では、宣教師さんも牧師さんたちも、飲酒や喫煙をしませんでしたし、長男が留学中に参加していたアメリカの教会の牧師さんたちも、お酒は飲まなかったので、驚いてしまったのです。泊めていただいたのが、あるグループの教会だったそうで、飲酒の自由のある群れだったわけです。

 自分は、若い頃に相当の量を飲んでいたのですが、信仰を持ってから、喫煙と飲酒の悪習慣から見事に離れられたのです。というか飲めなくなり、吸えなくなってしまったのです。全く必要なくなったからです。酒が入らなくても、楽しく生きられるようになりましたし、付き合いだって不自由をしませんでした。

 それぞれ違いや伝統があるということが分かって、長男には好い機会だったに違いありません。『酒飲むな!』と言った教えがあったのではありませんでしたが、パウロが、『酒に酔ってはいけません(エペソ5章18節)』と、エペソの教会に勧めていますから、やがて放蕩に行き着く飲酒習慣は持たないでいるのが最善なのです。

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OFUNATO, Japan (March 15, 2011) – A fishing boat is noticeably out of place after being swept ashore during a massive tsunami that impacted this Japanese fishing port. The town was devastated by an 8.9-magnitude earthquake that triggered the destructive tsunami, which ravaged Japan’s eastern seaboard. Teams from the United States, United Kingdom and China arrived here to assist in searching for missing residents. (U.S. Navy photo by Mass Communication Specialist 1st Class Matthew M. Bradley/Released)

 東日本大震災後でも、長男は、教会のチームでの支援で、ずいぶん長い間、定期的に出かけていました。

『あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(使徒20章34~35節)』

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と聖書にありますから、教会も、この「受援力」を発揮してきているのです。教会の主でいらっしゃるイエスさまは、物質的にも精神的にも社会的にも、困難なところにあった人たちに近づいて、手を差し伸べておられたので、それに倣って教会は、「受援力」を発揮してきています。

 時間があると、わが家に「散髪道具一式」を持ってやって来られて、家内の髪の毛を切ってくださる、音楽伝道者がおいでです。東日本大震災では、いち早く駆けつけて、支援の手を差し伸べて、さまざまな援助をされて来られています。家を借りて、気仙沼で奉仕されていたそうです。ご長女は、そこで誕生されているのです。今でも、そこで出会った方々との交わりがある様です。

 その援助の中で、被災者の方たちの散髪もなさったそうで、その経験で、もうずっと家内の散髪のために、おいでくださって、髪の毛を切ってくださっるのです。お母さまの通院のためにおいでになると、時を見計っては寄ってださいます。帰国した2019年の秋に、市内を流れる巴波川や永野川が氾濫して、お借りしていた家が床上浸水になった時に、その「受援力」での奉仕で、助けてくださって以来のお付き合いなのです。昨日は、突如来てくださって、家内の散髪をしてくださったのです。

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 正月以降、能登半島の地震の被災地援助をされ、このたびの水害でも出掛けられて、お宅に帰られてすぐの訪問でした。アメリカに留学したことがあって、県南の街に、奥様とお二人のお子さんとお母さまとお住まいなのです。あの「スーパーボランティア」として知られる、大分県日出町の尾畠春夫さんの様には有名ではありませんが、わが家では有名なのです。善意と奉仕は、この社会の潤滑油です。

(東日本大震災の時のリストバンド、震災被害、能登半島地震の被災の様子、オリーブオイルです)

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事実を調べること

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『それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行われたのなら、(新改訳聖書 申命記17章4節)』

 「隔離」、脳梗塞で入院した昨年の11月、その病院の脳神経内科の病棟は、8階でした。一週間ほどでしたが、見舞いと着替えを届けるために息子たちが来て、階段そばにある控え室で待っていました。そしてガラス越しに話をしたのです。入院患者は、ロックされたドアーで、出入りが遮断されて、直接会えないのです。もちろん、一階にあるコンビニにも行かれませんでした。病棟から入院患者が離れる危険性を防ぐためでした。

 まさに隔離病棟さながらでした。どこにいく予定もありませんが、隔離されていると言うことで、急な病変への配慮がありますが、不自由を感じるのは、その中にいない限りは感じられません。そんな経験をしたのです。

 子育て真っ盛り、まだ次男が3歳ほどの頃に、入院していたこともありました。『術後すぐに動いたほうがいいですよ!』と、先輩の入院患者さんに言われて、翌日には、歩行サポートの歩行器に寄りかかりながら歩き出したのです。痛くて、階下に行くなどできませんでした。同じ階の廊下だけを歩けたのです。その時は隔離ではなかったのですが、それだけで不自由を私は感じていました。

 退院して、仕事に復帰して間もなく、一人の牧師夫人を、「婦人ランチョン」にお招きしました。すでに召されておいでの関西圏で活躍された牧師さんのご夫人だったのです。この方が、瀬戸内海の小島にある教会で、私のことをお話しされたそうです。それで、その教会のみなさんから、けっこう高額な献金をいただいたことがあったのです。

 この教会は、ハンセン病の患者さんたちの教会で、まだ隔離制作のおかげで、社会と隔絶されておいででした。それは、欧米諸国では、はるか以前に、隔離政策は排除されていたのに、日本では律法上の政策によって、まだ不自由を強いた隔離政策が実効していた時期でした。

 「小島の春」を出版して脚光を浴びた小川正子も、「生きがい」と言う著書で、高い評価を受けていた、神谷美恵子も、この隔離政策を、医師として主張した人で、この方たちの功罪が、とかく言われてきています。今の上皇后に必要のあった時に、この神谷美恵子が相談相手になっていたことがありますが、隔離反対のみなさんからは厳しい評価が下されていたのです。

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 偉人と言われているシュバイツアーも、野口英世も、マザー・テレサも、キング牧師も、実に功罪二面の人でした。貢献が先走りして、隠されていた部分、公に表沙汰にされないままで、看過されてきた暗部や陰を持ち合わせていることを忘れてはなりません。私は、この名だたるみなさん、を引き摺り下ろそうとしたいのではありません。故意に隠された事実なのです。

 敢えて隠されてきた、成功的な人物の scandalous な部分、その「事実」に触れないのは、不公正なのではないでしょうか。あの織田信長が、戦国武将の中では高評価を、いまだに得ているのですが、彼が覇権を握る段階でしていた、破廉恥で、非人間的なことごとを隠蔽するのと同じように思えるのです。『仕方がなかった!』と言うのは、追随者の言い訳なのです。

 『事実、真実を語るとパニックが起こるから!』、と公表を控えて、事実を隠蔽してしまうのは、正しいことではありません。今回のコロナ騒動の中で、政府主導で行われたワクチン接種で、安全性を確かめる期間をおかないで摂取した結果、多くの死者や後遺症患者が出て、その実数を知らせないでいたりしているのも、そう言ったことの一つだからです。事実は、知らされるべきです。人や出来事を糾弾するためではありません。薬害から守られるためですし、「思い違い」から解放されるためでもあります。事実かどうかを調べる必要がありそうです。

(ウイキペディアの瀬戸内海の風景、近所の病院の待合室の生花です)

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美の極みの神の都と華の東京と

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 作詞が西條八十、作曲が中山晋平、唄が佐藤千夜子の「東京行進曲」が、昭和初期に流行りました。近代化していく東京の変化を歌ったもので、大流行りしたと言われています。 

1 昔恋しい 銀座の柳
仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃ ダンサーの涙雨

2 恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘(こ)の 思い出に

3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ

4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る

 父は、中学生の頃に、大森駅の近くにあった親戚の家から、学校に通っていたそうで、青年期を東京で過ごしています。この歌の歌詞のように、「華やかな都会」の雰囲気が溢れた銀座や渋谷や池袋や新宿、そして浅草に、その街々に憧れて、都会を求める人々を集まって来ていたようです。

  この「丸ビル」は、東洋一のビジネス・ビルでした。日本の経済界の中心地で、主要な企業の本社がビルの中に、事務所を置き、日本経済を動かしていく本拠地だったのです。若者たちは、この街で働くのをstatusにしていたようです。われわれ世代で、都会の雰囲気を知ってる者たちは、地方に目を向け、今も昔も地方の若者たちは、東京に憧れるのでしょうか。

 「銀座」は、商談や接待やショッピングや食事や喫茶のための街として拓けていき、流行の発信地だったのでしょう。学校の裏門から出ると、世田谷方面からくる都電があって、銀座にすぐに行けました。時々、私たちは、それに跳び乗って、都会の空気を吸いに行ったのです。やはり日本一の繁華街で、なんでもがあふれた街でした。

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 1923年創業の小田原急行鉄道、今の「小田急」電鉄が、東京から横浜や小田原や湘南を結んで、東京の西の郊外から東京で働いたり、買い物や娯楽に利用された鉄道会社で、その基点駅が、「新宿」でした。そこは武蔵野になるのですね。京王も小田急も西武も旧国鉄の前身の甲武鉄道も、ここを起点にしていました。もともと甲州街道の江戸の街への入り口で栄えた街だったのです。

 鉄道網が広げられていく中で、同じように、「池袋」は西武鉄道で、川越や秩父市方面の起点であり、「上野」や「浅草」は、北関東への起点でした。「渋谷」は、相模神奈川や東京都下の三多摩への起点だったでしょうか。

 忘れてはいけないのが、「品川」でした。東海道の主要な宿場で、江戸の大木戸のあった高輪からすぐの街でした。ここから三浦半島の横須賀や堂ヶ島と結んだ、1899年創業の京浜急行鉄道が敷かれました。日本の海軍の基地となった横須賀と結んでいました。今も、アメリカ軍の軍艦の寄港地で、海上自衛隊の基地でもあります。

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 時代とともに、人の移動方法が大きく変化していきました。交通手段は、歩くか籠か牛馬か舟によっていましたが、燃料革命が起こると共に、石油を用いたエンジンが発明され、木炭から石炭、そして石油が利用され、電気発電が行われてから、電動電車が誕生し、長足の進歩がありました。

 東京には、電車になる以前は、人力鉄道、馬車鉄道が敷かれます。東京の場合、市電が走る前は、馬車による路面鉄道でした。家内は東京が都になってからの都電と呼ばれるようになり、これで通学していたのです。今では一路線だけが残されていて、早稲田と荒川の三ノ輪橋を結んでいるのです。

 今では、都電の路線後の地下に、地下鉄が入っていて、東京は、地下鉄網が縦横に張り巡らされていて、乗り換えに何度も苦労して、迷子状態になったか知れません。とくに渋谷は、地下迷路のようになってしまっていて、行きたくない、乗り換えたくない駅になってしまったのです。

 この「地下鉄」の最初の路線は、1902年(昭和2年)に、「浅草」と「上野」で開業されています。日本中の地下鉄の総路線は851.5kmで、令和4年の実績で、1日あたり1454万人の利用者がいるそうです。栃木からは、東武日光線、東武伊勢崎線で、地下鉄相互乗り入れで、渋谷にも町田にも東急線乗り入れの路線で行くことができます。
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 昔、東京浅草周辺の小学校は、東武日光線に乗って、この街の大平山に遠足でやって来たそうです。そして、同じ鉄路で、沿線市民は、華のお江戸、国都・東京の「浅草」に芝居や落語やレヴューの観劇や買い物や食事に出掛けたようです。今、私にとっての都会も、この「浅草」なのですが、まだ直通電車で出かけたことがありません。いつか東武特急の「スペーシアX」に乗車して、行ってみたいものです。

 私の父にとっても、当時の若者の心が向いていたのも、御多分に洩れず、「浅草」だったのではないかと思っています。駒形の「どぜう(泥鰌)屋」に行きつけていたようですから、この街を熟知していたに違いありません。自分にとって、「新宿」が青春の時間を過ごした街だとするなら、父にとっては、「浅草」だったのでしょう。みんな自分の時代のページがあって、そこには、書き込めないようなこともあって、過ぎていったことでしょう。

『若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。・・・あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(新改訳聖書 伝道者の書11章9節、12章1節)』

 そして、後の日になって、創造者と不思議な出会いをして、人生を締めくくるのが最善の道なのでしょう。父は、自分の腰から最初に出た子に導かれて、悔い改めて、キリストへの信仰をもって、自分の61年の旅路を終えております。やがて、美の極み「神の都」の大通りをを、二親と家内と子供たち、兄弟、そして、主にある愛兄姉のみなさんで、共に歩めるのが楽しみなのです。

(ウイキペディアの江戸期の浅草、東武浅草駅、最初の東京の地下鉄開業ポスター、東京スカイツリーです)

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アケボノソウ

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 「アケボノソウ(曙草)」、中国大陸、朝鮮半島、日本列島の山野の湿地に、広く分布する花だそうです。10月ごろが花時です、長く住んだ東京の南多摩にも、中国の華南にも咲くのでしょうけど、見かけたことがありませんでした。

 綺麗に、幾何学的に咲く姿が、何とも言えません。そう言えば、数学の中でも「幾何」が好きで、理工系の学びがしたかった時期がありましたが、物にならずじまいでした。おばあさんになっても英検に挑戦する方がいるそうで、シビレた頭をほぐすのに、高校生の頃の学びに帰ってみたいものです。

 昨日、散歩の途中で、中学校の校庭の脇の道を通っていたら、中学生のみなさんが、何か声を出し合って、賑やかにしている様子を見かけました。いいものです。何十年前の彼らの年齢の頃が、おぼろげに思い出されてしまいました。じつに小生意気だったのを恥じてしまったのです。

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(「里山を歩こう」からの送信分とウイキペディアによります)

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Chicken game

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 「Chicken game(日本ではChicken race と言います)」、今年のMLBのDodgersの最終戦に、国歌斉唱の後に、グランドに向かって両チームから一人の代表選手が、マウンドに向かって立ち続けるゲームをしていました。最初に諦めた方が負けだったのです。そんな動画で、それがChicken game だと言うので、あるアメリカ映画を思い出してしまいました。Chicken とは「弱虫」の若者たちの slang 用語です。

 中央線の国分寺駅北口の近くに、名画座がありました。学校をサボって、何度、映画を観に行ったか分かりません。中学生でした。だいたい仲のよい友人を誘って、制服を着たまま入館したのです。アメリカ映画に魅せられたからです。スクリーンに映し出されるジェームス・ディーンを観て、いっぺんに共感したからでした。

 24歳のジミーが、ジムという17歳の高校生を好演した、「理由なき反抗」を観てでした。1955年10月26日に、アメリカで公開され、翌年春には、日本でも公開されています。当時の日本の社会に、アメリカ社会の50年代の十代の生態を描いた映画が、大きな衝撃を与えたのです。

 引越しを繰り返していたジムの家族が、その街に引っ越して来たのです。家族とか兄弟とか両親の間、豊かさの陰に問題があったのでしょう。高校生のジムが主人公でした。酒を飲んで酔ってしまって、路上で寝ていたところを見つけられ、その日、まちで暴力事件が起こっていたので、その容疑者と疑われ、警官署に連行されます。

 そこから始まって、不良に絡まれて、そのグループのトップのバズと、ナイフを持って対決するのです。そんな諍(いさか)いがあって、街外れの崖に呼び出されます。そこで度胸試しを挑戦されるのです。二台の中古車に、それぞれ乗って崖に向かって爆走するゲームです。

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 先にブレーキを踏み、運転席を飛び出し、そして死んだ方が負けという、度胸と運転スキルを賭けたレース、それを” Chicken game“ と呼ぶのです。実に無謀なgameでした。〈危機の中二〉だった私は、それを観て度肝を抜かれたのです。ずいぶん心理的にはタイトなゲームでした。この良い子ではない、不良に何か憧れがあった時期だったのですが、アメリカの高校生のレースに度肝を抜かれて、びっくりしたのです。

 game中に、競争相手のバズのジャンバーの袖だったと思うのですが、何か突起に引っかかって、脱出できなくなって、断崖の底に車ごと落ちて死んでしまう、実に悲しいレース結果で終わるのです。自分は度胸のある男だと自負していましたが、その場面を見て、自分を置き換えては震えてしまったのです。もちろん映画で演出された場面ですが、アメリカでは、そんなことをすることに驚かされたわけです。

 度肝を抜かれたのは、ジムも同じで、しでかした重大さに身を潜めて、空き家に隠れるのです。そう言ったところを通りながら、ジムは、更生していき、家族とも和らぎ、普通のアメリカ社会の高校生に戻る、そんな物語でした。どこの国でもありうる青年期の危機を通過して、人は大人になっていくのでしょうか。

 まだ日本では、ジーパンを履いているのは稀だったでしょうか。その映画で、ジムたちが履いていたのが、”Levi’s”  製の物でした。それを真似したくて、御徒町のアメ横の商店街に出かけて行って、そこで買ってきたことがありました。チキンレースの真似はしなくても、とりあえず格好だけはつけたかったのです。まだ14歳、そろそろヒゲもうっすらとしてきた時期でした。

 学校や近所のみなさんを、このバカ息子はハラハラさせていたようです。まさに、今言われるように「中二病」に罹っていたのです。中3になって、担任が三学期末に成績表に、『よく立ち直りました!』と書いてくれました。そんな時期を通過しながら、憐みで生きて参りました。

(ウイキペディアによる「理由なき反抗」の写真、旧型のアメリカ車です)

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咲きました!

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 南米のアルゼンチンの花だそうです、「サンパラソル」がやっと咲きました。酷暑の中、じっと硬く耐えていた蕾が、10月3日になって開いたのです。育て方を知らずに、か弱いままでcareless だったのに、真っ赤な花びらを見せています。

 図鑑を見ますと、5月の花なだそうですが、暑い夏を過ぎて、秋の気配を見せて大たのです。実に綺麗な赤です。

 前に、孫兵衛から送られてきたモネの名画、「パラソル」には似つかないのですが、何かホッとさせられたのです。好いー日になることでしょう。

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こんな出来事がありました

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 もう四半世紀ほど前に、アメリカから、上の兄経由で、一報が入ったことがありました。『コスタさんが、入院先のハンプトンの病院で召されました!』と言う、いわば悲報でした。主の元に帰ったのですから、悲しいことではなく、《凱旋》と言った方が、主の僕として生きた方には、相応しいかも知れません。

 それ以前に、この方が危篤だと知らせてきて、彼の癒しの祈りの要請が、アメリカの教会からありました。ところが奇跡的に恢復して、アフリカ伝道に行かれたとの知らせがありました、ところが今回は、不帰の人となったとの知らせだったのです。不帰と言っても、永遠のいのちにつながる信仰の人ですから、やがてくる神の国の住人となる望みがありますから、帰ってくる場所はあるわけです。

 この方は、兄にも私たちにも、忘れられない出会いと交流があったのです。母が通っていた教会であり、私たちの母教会でもある、この教会の牧師に、兄が就任したのです。その間もない頃に、このコスタさんが訪ねて来ました。その訪問には、トラブルがあって、何とVisa なしでやって来られて、当時の東京国際空港であった羽田飛行場に着いたのですが、入国ができなくて、世田谷の入国関係の施設に収容されていたのです。

 どういった方法でか聞きませんでしたが、兄が交渉して特別措置で入国が許されたのです。身元引受人になった兄が、この方を引き取って、東京郊外にある母教会にお連れしたのです。牧師に就任したばかりの新任牧師を、休暇で帰米中の宣教師さんが、激励しようとして、アフリカ宣教の途上に、この方に寄ってくれるように頼んでの来日でした。

 それで、この方を講師に、特別集会を兄が企画したのです。それまで教会では、集会ごとに、讃美歌や聖歌から賛美をしていたのですが、ところが、

『神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。(新改訳聖書 詩篇144篇9節)』

との聖書のみことばの勧めによって、chorus による賛美の歌が礼拝で歌われるようになっていたのです。その特別集会で歌えるように、その“ コーラス “ を紹介してくれたのが、コスタさんでした。日本語への翻訳や音合わせが行われ、歌詞を模造紙に書いたりして準備をしたのです。

🎶 心の中でメロディーを 心の中でメロディーを 心の中でメロディーを 王の王にささげよう 主をあがめよう 主をあがめよう 心の中でメロディーを 王の王にささげよう ♬

♬ 主は素晴らし 主は素晴らし 主は素晴らし 私の主 🎶

🎶 主の御霊よ われにあり 病癒し 虜(とりこ)放ち 獄の戸開き 盲(めしい)見させ 主の御霊よ われにあり ♬

などが歌われ始めたのです。『主を賛美するには、こんな歌は少々おかしいのではないだろうか!』と、言われた時期がありましたが、やがて日本のあちらこちらで、自分たちの《オリジナルな賛美》が生まれて来て、アメリカからではない賛美も、礼拝の中で賛美されるようになりました。そんな風に、主の栄光を褒め称えるように変えられていったのです。それが市民権を得るには、時間がかかりましたが、今では、カリスマ教会ばかりではなく、多くの教会でも賛美されるようになってきています。

 私の知り合いの牧師の友人が作られた、すてきな賛美があります。 

♬ 世界中どこででも
新しい歌をささげよ
主に歌え ほめたたえよ
御救(みすく)いの知らせを告げよ
まことに主は大いなる方
賛美されるべき方
威光と尊厳と栄誉 光栄と力
ただ主だけを礼拝せよ
天をつくり 支えている主 🎶

 そんなコーラス賛美のはしりの頃の出来事を思い出したのです。家内も、上の兄もオリジナル賛美を、作詞作曲しています。この方は、ギリシャ人とアラブ人の血を引いたアメリカ人でした。家内との婚約式に、わざわざ来日してくださって、式でお話しもしてくれ、祝福の祈りもしてくださったのです。気に入られて、私をアフリカに連れて行きたかったようでしたが、実現しませんでした。

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 私たちは、テキサスの一つの教会からやって来られたアメリカ人の宣教師さんが始められた教会で、母が、路上で出会ったご婦人に誘われて、その教会に行くようになったと言う、不思議な出会いがあったのです。その方が、家内のお母さんでした。何人もの宣教師さんが、やって来られて、それぞれの街で伝道をされて、キリストの教会が誕生しました。

 みなさん、軍人上がりだったり、牧師の息子だったりの貴公子然とした方たちでしたが、このコスタは、元ボクサーでクリスチャンになり、ニューヨークの聖書学校の教師をされていた異色の伝道者でした。

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 この方に、散髪もしてもらったり、簡単につけられ、すでに結んであるネクタイをもらったりしたのです。何よりも、主なる神を愛し、キリストの教会を激励するために、素敵な声で賛美し、祈り、異言を語ったのです。このコスタさんが、私の頭に手を置いて祈ってくださった時に、聖霊のバプテスマを体験したのです。私は、母に誘われて、時々、母の教会に行きましたが、そこで異言が語られるようになって、それを奇異に感じていたのです。それなのに異言が、自分の口を突いて出てできてしまったのです。

 その経験と同時に、十字架が分かったのです。十二分に罪人だった自分のために、キリストなるイエスさまが、代わって十字架に死なれたのだと突如として分かったのです。そして罪を悔いて激しく泣きました。そして献身の願いが、思いの中に湧き上がり、一年後に、仕事を辞めて、主の教会に仕え始めたのです。この一連の出来事があったのです。常識や知性以上の霊性上の体験と言ったらよいでしょうか。まだ25歳の秋のことでした。

 その献身を決心した時、ある方に、『教会で働くって、そんなに儲かるの?』と聞かれました。だいたい人が転職するには、高待遇の収入増の仕事だからです。私は、『はい!』と返事をしたのです。儲かるようになったかは別にして、必要はちょうど満たされて、今日まで生活してこられたのは事実で、不足はありません。

 多くの人との出会いを通して、自分の人生が急転直下、変えられたと言えます。神さまは、こんな素敵なことをされたのだと、今も思い返しているのです。でも、青年期に、信仰上の画期的な出会いは、時別なものがありました。とくに、この初めの時期に出会ったコスタさんは、人間として、信仰者として実に魅力的な人であったからでしょうか。

 大きめなナスの中身をくり抜いて、牛肉のミンチ、にんにく、玉ねぎ、くり抜いたナス、研いだお米に、塩などで味付けをし、コンソメ味でぐつぐつ煮込んで、オリーブオイルやトマトケチャップで味付けした料理を、この方が作ってくれたのは、忘れられない味でした。何度、真似て作ったことでしょうか。あれは、きっとギリシャ料理、地中海料理だったに違いありません。また作ってみたくなってしまいました!

(ウイキペディアによる地中海風景、テキサス州花のブルーネット、ナスの花です)

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病み抜けた母

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 「病み抜ける」、病気からの恢復を、そう言った言い方をするのだそうです。そう言えば、『風邪が抜けまして、元気になりました!』と言ったのを聞いたことがあります。長い間、婦人病で苦しんできた女性が、聖書に出てきます。次のように記されてあります。

『そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(新改訳聖書 マルコ5章24~34節)』

 まさに、「病み抜けた婦人」と言えるでしょうか。現代医学、薬学の時代は、不治の病だと言われてきたのに、優れた診察と治療と薬とによって、回復することができるようになってきました。ガンの告知は、死の宣告と同じであった時代、病んでいる人の家族には言っても、本人には隠していたものです。

 私の母が五十になって間もない頃に、入院したことがありました。病院から、『お話したいことがあるのでおいでください!』と連絡があった時、父は医者に会いたくなかったので、『準、お前が言って聞いてきてくれ!』と言って、武蔵境駅の近くにあった日赤病院に行き、母の主治医に、私が会いました。父は、何を言われるか分かっていたのでしょう、主治医は、父の代わりに来た私に、『君でもいいでしょう!』と躊躇しながら、手術で取り出した、母の卵巣を見せてくれたのです。それは、ガンに冒されていました。

 言いにくそうに、医師は、『お父さまに、お母さまはもう半年の余命ですと伝えてください!』と言われて家に帰りました。父は、『準、覚悟しような!』と言ったきりだったのです。会社を部下に任せて、弟と私に世話をしてくれていて、学校から帰ると、父が作った野菜スープを小さな薬罐のような入れ物に入れて、『お母さんのところに持っていってくれ!と、ちょくちょく言われて、バスで入院先の隣街の地方公務員共済病院に持っていきました。兄たちは、静岡と千葉でサラリーマン生活をしていました。

 母は、信仰者でしたから、自分の教会では、母のために祈ってくれていました。自分が重篤な病気だと、母には分かっていましたが、父も私も病名は言いませんでした。そんな母が、新約聖書のヨハネの黙示録のみことばを読んで、強い確信を得たのです。

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『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(ヨハネの黙示録22章1~2節)』

 やがて天から降ると約束された新しい国の都・新エルサレムの大通りに植えられた「いのちの木」を見、その木になる「実」も見ますと、その木の葉が、諸国の民を癒すと書いてあるのを読んだのです。そして『神さまは、自分の病を癒してくださる!』と、母はかたく信じたものたのです。

 母は、それから、半年過ごしただけではなく、九五で帰天するまで、「すこやか」で過ごし、老衰のうちに平安をもって召されたのです。二度も三度も、「病み抜け」ることができました。山陰出雲で、カナダ人宣教師家族と出会い、彼らが伝えた、救い主イエスさまと出会って、信仰者として「生き抜いた」のです。永遠のいのちに蘇る日に、私は、父にも、この母にも、宣教師さんたちにも再会できると信じているのです。

『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(1テモテ2章1-2節)』

 もう10月になりました。母の生まれた隣県の鳥取の出身の石破茂氏が、自民党総裁になり、総理大臣に就任します。お母さまもお爺さまもクリスチャンで、若い頃に、鳥取の教会で、バプテスマを受けておいでで、聖書を、よく読まれるとご自身言っておいでです。先週末、訪ねてくれた下の息子が、『(首相になる石破氏のために)祈ろうと思う!』と言っておりました。私も執り成し、感謝の祈りをさせていただこうと思っています。

(Christian clip arts から「長血の女の癒し」、今のエルサレムです)

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朝な夕な山々を眺めながら

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 晴れた日に、四階の家の東側の窓から、筑波山が、くっきりと遠望できます。男体山と女体山の二つの峰があって、ここからの方角が、最も綺麗な山容を見られるのだと、近所に住む友人が言っておられました。日の出の方角で、山陰から登ってくるように見える時季もあるのです。

 茨城県の名山で、広大な関東平野の北に位置していて、よく目立ちます。望遠レンズの付いたカメラで撮ったら、よい写真が撮れそうです。南に富士、西に大平、北に下野男体の山が眺められる、山好きの方からは羨やまがられそうです。

 この筑波山で、歴史的な出来事が起こったことがあったのです。倒幕の発端の一つとなった、尊皇攘夷を掲げる「水戸天狗党」が、1864年に、この山で、挙兵したのです。「天狗」とは、鼻を高くして威張った風に見えたからの命名だったようです。その首謀者は、若干22歳の水戸藩士・藤田藤吾の子であった、藤田小四郎で、同じく水戸藩士の年配者の武田耕雲斎を首領に担ぎ出して、総勢62人によってでした。

 小四郎は、子どもの頃から肝が据わっていて、父・藤吾の尊皇攘夷思想に従って、二十歳そこそこで、長州藩士の桂小五郎や久坂玄端たちと交流していたのです。あの渋沢栄一は、「非凡の天才」と言って、高い評価を下しています。転戦して行きますが、北陸の敦賀で捕られ、耕雲斎とともに処刑されてしまいます。

 この天狗党は、同志を得ようとしますが、思ったようには集めることができず、水戸から宇都宮、日光、そこから例幣使街道を通って、ここ栃木にも来ています。栃木の宿場に火を放って、237軒もの家が消失した、大火事が起きたのだそうです。軍資金を得るために商家を襲ったりしますが、うまくいかなかったのです。大平山に登って、40日ほど過ごしていたようです。資金と仲間をなかなか得られなかったのです。

 家の近くのうずま公園の中ほどに、「供養塔」があります。

[西山謙之助について]

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 『瀬戸の原と云われたうずま公園内栃木駐車場の中に幸来橋木戸にて戦死した、岐阜の侍医のこ23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。瀬戸の原は明治になり下都賀郡役所が建ち、昭和35年に郡役所職員が浄財を募り、西山謙之助供養塔が建てられた。平成27年の11月に地元の有志により供養塔に祠が設けられている。(「銀次のブログ」の記事です)

 幕末の動乱の中で、会津の藤田小四郎や美濃のl西山謙之助らのように、前途有為の青年が失われたのは、残念なことでした。この街から出征し、外地で戦死されたり、戦後の引き揚げで、命を落とした方々も多くおいでです。だから、私たちは、過去に学んで、平和を何よりも希求していく必要があります。天狗にはならず、謙遜であるのがよさそうです。

(ベランダから望む筑波山です)

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