朝な夕な山々を眺めながら

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 晴れた日に、四階の家の東側の窓から、筑波山が、くっきりと遠望できます。男体山と女体山の二つの峰があって、ここからの方角が、最も綺麗な山容を見られるのだと、近所に住む友人が言っておられました。日の出の方角で、山陰から登ってくるように見える時季もあるのです。

 茨城県の名山で、広大な関東平野の北に位置していて、よく目立ちます。望遠レンズの付いたカメラで撮ったら、よい写真が撮れそうです。南に富士、西に大平、北に下野男体の山が眺められる、山好きの方からは羨やまがられそうです。

 この筑波山で、歴史的な出来事が起こったことがあったのです。倒幕の発端の一つとなった、尊皇攘夷を掲げる「水戸天狗党」が、1864年に、この山で、挙兵したのです。「天狗」とは、鼻を高くして威張った風に見えたからの命名だったようです。その首謀者は、若干22歳の水戸藩士・藤田藤吾の子であった、藤田小四郎で、同じく水戸藩士の年配者の武田耕雲斎を首領に担ぎ出して、総勢62人によってでした。

 小四郎は、子どもの頃から肝が据わっていて、父・藤吾の尊皇攘夷思想に従って、二十歳そこそこで、長州藩士の桂小五郎や久坂玄端たちと交流していたのです。あの渋沢栄一は、「非凡の天才」と言って、高い評価を下しています。転戦して行きますが、北陸の敦賀で捕られ、耕雲斎とともに処刑されてしまいます。

 この天狗党は、同志を得ようとしますが、思ったようには集めることができず、水戸から宇都宮、日光、そこから例幣使街道を通って、ここ栃木にも来ています。栃木の宿場に火を放って、237軒もの家が消失した、大火事が起きたのだそうです。軍資金を得るために商家を襲ったりしますが、うまくいかなかったのです。大平山に登って、40日ほど過ごしていたようです。資金と仲間をなかなか得られなかったのです。

 家の近くのうずま公園の中ほどに、「供養塔」があります。

[西山謙之助について]

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 『瀬戸の原と云われたうずま公園内栃木駐車場の中に幸来橋木戸にて戦死した、岐阜の侍医のこ23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。瀬戸の原は明治になり下都賀郡役所が建ち、昭和35年に郡役所職員が浄財を募り、西山謙之助供養塔が建てられた。平成27年の11月に地元の有志により供養塔に祠が設けられている。(「銀次のブログ」の記事です)

 幕末の動乱の中で、会津の藤田小四郎や美濃のl西山謙之助らのように、前途有為の青年が失われたのは、残念なことでした。この街から出征し、外地で戦死されたり、戦後の引き揚げで、命を落とした方々も多くおいでです。だから、私たちは、過去に学んで、平和を何よりも希求していく必要があります。天狗にはならず、謙遜であるのがよさそうです。

(ベランダから望む筑波山です)

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郷愁の味の秋刀魚を

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 「郷愁」、大日本国語辞典によりますと、[名詞]①異郷にいて、故郷を懐かしく思う気持。懐郷の想い。ノスタルジア。[初出の実例]「灯前聴レ雁抱二郷愁一、飛レ月穿レ雲宿処投」(出典)常山文集(1718)七絶)②昔のことを懐かしく思ったり、ひかれたりする気持。(以下省略)

 先週金曜日の朝食で、焼き秋刀魚をいただきました。フライパンで焼き、おろし大根を添えて、醤油をかけて食べたのです。小学生の頃に、、映画「二等兵物語」で主演をされた、“ばんじゅん(伴淳三郎)” が、その秋刀魚の出てくる主題歌を歌っていたのです。それを思い出して、すっかり郷愁に浸ってしまったのです。

 1950年代のこの時季、日本中の夕餉(ゆうげ)の食卓に登ったのが、「秋刀魚」でした。どの家も、外に七輪を置いて、炭火を起こし、そのコンロの上に金網を置いて、焼けてくると油が火の中に、ジュッと音を立てて落ちて、燃えてモクモクと煙を上げて、煙と秋刀魚の焼け焦げた匂いで溢れかえっていました。

 それは、1950〜60年代の「昭和の光景」の一つでした。大漁だったのでしょうか、値段も安かったのでしょう、「一億総秋刀魚」は、今で言うと、社会現象だったことになります。スーパーマーケットなんかなく、ましてや冷蔵庫なんかない時代でした。母が買って来たのは、新鮮な秋刀魚だったのが不思議でした。流通だって、冷凍や冷蔵のトラックなどなく、トラックに、氷詰めで乗せられて運ばれて来ていたのでしょう。そんな頃に、秋刀魚の出てくる歌が流行っていました。

🎺 粋な上等兵は 思いもよらぬ
せめてつけたや 星二つ
雪の夜中に ふんどし一つで
鳥肌逆立て 捧げ銃(つつ)
ひでえな ひでえや こいつはひでえや
「コラ、何をガタガタふるえちょる、アーン?
貴様年はなんぼか?」
「ハッ、三十一でありまし」
「馬鹿者ありましとは何たる事か、標準語を使え、年はなんぼか?」
「年は三十一であり、あり、ハッハッハックション!」
敵が落とした 焼夷弾が裂けて
髭の隊長が 腰ぬかす
ありゃりゃこりゃりゃと よくよく見たら
何と隊長の 髭が無い
すげえぞ すげえぞ 焼夷弾はすげえぞ
「隊長殿、御立派な髭が燃えちまって見当たりません!」
「馬鹿者!髭など問題じゃないんだ。司令部の屋根っこさ燃えちょる分かんねぇのか早く消さんか!」
月も出たのに 休めはまだか
若い班長が 恨めしや
どこで焼くのか さんまの匂い
風が吹くたび 鼻が鳴る
つれえな つれえや 二等兵はつれえなぁ 🐟

 

 1955年から61年頃まで、続編続編の劇場映画で上映され、主題歌が、巷の有線やラジオ放送で流れていたのです。戦時中、兵隊さんが戦地に行く前に、各地の原隊で、軍事訓練が行われていて、ずいぶん厳しいものだったそうです。そんな中で、新兵さんたちに、気晴らしのようにして歌われていたのが、このような「◯◯小唄」と言われたものでした。

 同じ頃、あの映画の終盤編の頃、月が出て来て、辺りが夕闇に包まれ始めてきた頃、近所の市営住宅から白い煙が、ハンドボールの練習するグラウンドに、たなびいてきていました。空(す)きっ腹に、秋刀魚を焼く匂いと煙とが攻めて来たのです。あの光景と秋刀魚の臭いとが、この季節になると、決まって16、7の頃の思い出が甦ってくるのです。

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 曼珠沙華の真っ赤な花が、校庭の隅っこに咲いていたでしょうか。頭の薄かった中学の担任、慶應ボーイで上品な高校の担任、一緒にスコップで土を掘り返して、古人の住居跡を一緒に探り当てた顧問の教師も、級友たちも、先輩もOBもいたのです。郷愁にひたるのも、この時季は一番かも知れません。

 先日、弟からのメールに、彼岸花、曼珠沙華とも言いましたが、この花が咲き始めた様子を知らせて来ました。こちらでも、散歩の途中の河辺に、隣家の庭に、赤く咲いているのが見られる季節になりました。西洋花がいっぱい売られて、家庭花壇には、その花が溢れて来ています。

 そんな中で、日本の土壌で、咲き続けて来た季節の花が、たくさんあるのです。多くは、自生していたか、中国大陸から植え移されたものです。その最たるものが、朝顔でしょうか。涼しくなって急に勢いよく咲いて来て、今は終盤を迎えています。

 また桔梗が、また息を吹き返して来たように蕾をつけ、咲いてくれています。散歩道には、キンケイギクが咲き溢れています。いい季節かなと思いましたら、今日は、ぶり返しの暑さなのだと天気予報で言っていました。今週は、もう十月です。

(ウイキペディアによる七輪の上の秋刀魚、曼珠沙華の花です)

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少年時代

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 戦争末期に、学童疎開を体験をした、藤子不二雄(二人の漫画家の共同の名前)が、自分の体験と、これも同じく、疎開をしたことのある小説家の柏原兵三が書いた「長い道」をもとに、漫画を描きました。東京が空襲されると言うので、富山県の海辺の街に学童疎開をした、その体験談の漫画化でした。昭和十九年(1944年)の北陸富山の海辺の村を舞台にした物語です。

 それをもとに、映画化が行われ、「少年時代」が制作され、1990年8月に封切りされました。地元の少年たちと、東京モンの主人公の物語です。国民学校(小学校を戦時下には、そう呼んでいました)5年の男組に、疎開(正式には叔父の家なので縁故疎開です)して来た進二が、級長でクラスの番長の武との友情と、それとは逆にいじめもあったり、クラスの権力闘争など、あの時代にありそうな出来事の連続でした。それを、YouTube で家内と一緒に、秋分の日の祭日に観たのです。

 武の様子が印象的に描かれていて、一匹狼の太、前のリーダーの須藤が入院先からクラスに帰って来て、武に対抗するグループを形成し直すために、両者が、東京から疎開して来た進二を味方に誘う動きが、微妙に描かれていました。十歳ほどの男の子の間に見る権力闘争があって、けっこう難しいもののようです。腕っぷしと知力の強く優れた子どもたちの覇権争い、権力闘争なのです。

 騎馬戦あり、軍事教練あり、子どもたちが隊列を組んで軍歌が歌われているのも興味深いものでした。あの時代の子どもたちが、唱歌ではなく、軍歌を一生懸命に歌って、時代を反映していたわけです。映画の中で、『武運長久』、『進め一億火の玉だ』の幟(のぼり)が垂れ下がっていました。

「予科練の歌」

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

「荒鷲の歌」

見たか銀翼この勇士
日本男児が精こめて
作つて育てたわが愛機
空の護りは引受けた
来るなら来てみろ赤蜻蛉
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

「轟沈」

可愛い魚雷と 一緒に積んだ
青いバナナも黄色く熟れた
男世帯は 気ままなものよ
髭も生えます
髭も生えます 無精髭

 こんな歌を、国民学校五年生がを歌っていました。一億総戦意高揚の時代って、大変な時代だったわけです。でも、進二と武の友情も育まれているのです。富山の街の方面の空が真っ赤だった場面がありました。B 25の焼夷弾の空襲による火災です、私の上の兄は、山奥の村から、街の空が真っ赤に燃えている光景を覚えていると言っていました。

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 あの八月十五日が来て、日本は米英の前に、敗戦を喫して、戦争が終わるのです。年が明けた頃でしょうか、進二は、東京の両親から送られて来た荷物を受取りに、隣町に木炭バスで出かけます。その街の悪童たちにからまれるのです。それを救ったのは、自転車で追いかけて来た武でした。形勢不利で物陰に隠れた後、武は、進二と二人で、この町の写真館に入って、二人で写貴を撮ってもらうのです。

 チャイムのない時代、授業の開始と終了の時間は、小使いさん(これは差別用語で用務員さんがいいのでしょうか)が、手で打ち鳴らす鐘で知らせていた場面がありました。小学校に通っていた頃、同じような鐘の音が聞こえたのを思い出したのです。優しいいおじいさんで、小太りで、頭に毛のないおじさんが、腰に手ぬぐいを下げて校庭に出て打ち鳴らしていました。習字の内容も「少年兵」、「軍用犬」が墨書されて、教室の後ろの壁に掲出されてありました。

 戦争終結間もない時に、進二のお母さんが、東京から迎えに来るのです。翌日の汽車の切符が、すでにお父さんの手で用意されていました。駅には、進二を見送る友人たちが、ホームに集まりますが、餓鬼大将の座を、須藤に奪い返された武は、そこにはいませんでした。進二の乗る汽車を、駆け足で追い、手を振り合って無言の別れを、二人はするのです。

 二年に満たない間の出来事でしたが、とてつもない経験をしながら、少年時代を通って、彼らは戦後を生きて来たわけです。宝のように持ち続けてきた、父親にもらった、有名な軍艦のベルトのバックルを、武に、進二は残すのです。家内の姉たちは、この租界の経験者だったようです。平和な時代でも、子どもの世界は様変わりしても、今でも同じように大変そうです。

(ウイキペディアによる学童疎開の様子、米軍B25爆撃機です)

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感謝ばかりの今を

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 この秋の風景、三葉の写真です。東に見える筑波山と西に見える大平山です。そして先週の大雨の日の朝顔です。家内が、スマホで撮りました。なかなかの撮影の angle(アングル)です。ベランダに立って、そこに咲く花を角度を変えながら撮ったり、散歩で立ち止まって風景を撮ったりして、いまや素敵な趣味に開眼しています。

 飛行機で華南の街の空港から、ビジネスクラスの搭乗券を買っていただいて成田に向かう機内のリクライニング・シートで、帰った翌日に入院した病室で、そこに3ヶ月経過で居られなくてやむなく退院して帰って来てベッドに横たわっていた時、やっとつかまり歩きしていた頃、そんな時々が嘘のような今の家内です。こんなに回復するとは、驚いています。みなさんにお祈りいただいたからです。

 『我はエホバにして汝を癒す者なればなり(文語訳聖書 出エジプト15:26)』、家内の創造者、救い主、導き手でいらっしゃる神さまの恩寵なのです。今日は、お隣のご婦人にお誘いいただいて、体操仲間のお二人のご婦人と、私たち夫婦で、「痴呆症予防の講演会」に、車に乗せていただいて行く予定です。

 秋風のもと、隣町の文化会館までの「小遠足」のようです。毎朝、起きると家内のベッドを覗き込んで、『生きていてくれる!』、『生かされている!』と思い続けた日を重ねて恢復している、感謝ばかりの今なのです。

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コスモスと吾亦紅が

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 ラジオ体操仲間で、近所の方が、庭に咲いていたコスモスと吾亦紅(われもこう)を摘んで、持ってきてくださり、テーブルの上に置いてあります。この時期の花です。何年も前に、信州の街道沿いにコスモス畑があって、花見の後、テントでお昼が出る、と言うので、ちょうど子どもたちが来ていて、一緒に出かけたのです。

 街道沿いの畑二枚くらいに植えられていましたが、人々を呼び集めるほどではなかったのです。ちょっとがっかりでしたのですが、お昼を用意してくださっていたので、それを美味しくいただいたのです。ガッカリが帳消しになって、満腹で、そこを後にしました。

 そんなことを、テーブルの上のコスモスと吾亦紅を眺めながら思い出してしまいました。

(家内が撮った写真です)

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栗ご飯のにおいがしてきて

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 平安の歌人、西行が、こんな和歌を詠んで残しています。

やまかぜに みねのささぐり はらはらと にわにおちしく おおはらのさと

 『一度は!』と思っていた、関西空港に着く便で、帰国した折に、京の北、大原の里に、二年続けて寄ったたことがありました。その夕食に、民宿自家製の味噌鍋が出て、感激したのです。ご承知の様に、中華料理は、油で炒めた料理が多く、秋刀魚を市場で買っては、電気コンロにフライパンで焼いて、おろし大根を添え、アサリの味噌汁で食べたりしていましたが、民宿仕込みの味噌を使った鍋は、もうまるっきりの日本料理でした。

 日本のよさを舌と胃袋で感じた、なんとも感謝な時でした。その時は、大原は、シーズンオフで、旅行者はまばらでした。村中にあった、感じのよい喫茶店に入りましたら、マスターがご婦人で、すっかり三人の話が打ち解けてしまいました。『次に来られたら、家の玄関の方の呼び鈴を押してください!』とのことでした。地元の野菜や蜂蜜やお菓子などの店を訪ねたりの一泊追加で、2泊3日の味噌日の連続でした。

 もう栗の季節は過ぎて、雪が舞う十二月でした。大原女(おはらめ)が歩いて京の都に行き帰りの山道を、路線バスで行き来したのです。京の奥座敷と言っていいのでしょうか、元の西安の都に真似た都なのに、それ以上に、都らしい風情の古都を眺めながらの訪問でした。

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 この下野日光にも、栗の木があって、西行が聞いた篠栗(ささぐり)が地に落ちる音を、私も聞きたかったのですが、毱(いば)に入ったままの栗が散らばっていて、子どものように嬉々として栗拾いをしたのです。持ち帰って、茹でて美味しかったので、大粒を選んでお隣さんにお分けしたのは、二年前の九月ででした。

 栗拾いも、小動物と競争で拾わないと、みんな彼らの胃袋に持って行かれてしまいます。

 果物の豊富な秋、もう柿が店頭に並んでいますし、りんごも無花果も、出回っていますが、値段が、嘘のように高いのには目が飛び出そうです。あの芭蕉も、きっと栗に目がなかったのでしょうか、よく、栗を俳句の中に歌っているようです。木から落ちた栗を見て、こんな句を詠んでいます。

世の人の みつけぬ花や 軒の栗

 福島の須賀川で、谷内弥三郎(俳号は可伸)の生き方に共感したのか、栗の木に咲く花は、衆目を集めるほどの花ではないようですが、世人の評価など求めない、可伸の凡凡たる生きる姿が、芭蕉は気に入ったのでしょうか。

行く秋や 手を広げたる 栗の毬(まり)

 誰にも故郷があるように、芭蕉は、自分が生まれ育った伊賀の地に立ち帰っています。死期を間近にしていた時に、こう詠んだのです。故郷の栗の木に、イガを開いたままに残るイガグリを眺めて、まるで手のひらを開いているようにしている様子が印象的だったのでしょう。イガは、栗の実を包んで、時期が来ると弾けるのです。栗の木の一年一年の終わりを見せていたのと、自分の死が間近なのを知って、共感感していたのかも知れません。

 栗の実を 食べさせたいと 孫思い

 秋の味覚の松茸はともかく遠慮して、母が炊いてくれた「栗ごはん」が食べてみたいな、と思う朝です。生の栗の皮を剥き、渋沢を取るには大変そうですね。面倒を厭わずに炊いてくれた日を思い出す、もう秋なのですね。

(ウイキペディアによる大原女、栗です)

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粋な計らい

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WASHINGTON, D.C., APRIL 24, 2024 — Washington Nationals faced the Los Angeles Dodgers at Nationals Park. (Joe Glorioso/All-Pro Reels for Washington Times Sports)

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 「粋な計らい」と言う場面があります。英語では、”Considerate act” と言うようです。この秋、すがすがしい出来事が、アメリカでありました。

 [50本塁打ー50盗塁]と言う記録を打ち立てた、大谷翔平選手のホームインの後、フアンの祝福を受けてる場面で、アンパイヤーのイアソン球審が、ホームベースをケアーし、ボールボーイと話をし、時間稼ぎをして、その場を作り出していたことです。今や、Pitch lock と言うルールで、試合の進行を滞らせないように、ピッチャーとの投球時間の制限が行われているのですが、その祝福の時間を長引かせていたのです。

 とっさに、なかなかできないのですが、それを敢えてしたのは、さすがはMLB だなあと感心させられたのです。真のTime keeper の所作でした。それを「粋」と、英語でも言うのですね。ハンバーグやMLBのアメリカにも、こんな粋な場面や人物がいるのです。暗いニュースが多いこの時代、心を和やかにさせてくれるAmerican dreamの世界の出来事でした。

(ウイキペディアによるDodgersの大谷翔平選手です)

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秋分の日に

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 日が短くなって来たなと思ったら、もう暦の上では秋で、「秋分の日」です。さしもの暑かった夏が終わったように感じられる今日でした。秋を楽しむぞの思いがしてまいりました。

秋分に 斜めになるか アサガオの

蝉やんで さしもの夏も 鈴虫に

自転車に 跨いで通う 図書館(ふみのいえ)

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剣を取る者はみな剣で滅びます

 

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『すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。  そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(新改訳聖書マタイ26章51-52節)』

 「壬生義士伝」という小説があります。浅田次郎の作で、幕末に登場した新撰組(壬生狼〈みぶろ〉と呼ばれていました)を取り上げた作品でした。この幕末に、不穏な動きの見られる京都の守護のために、募集された浪士集団で、会津藩の庇護のもとにあり、局長が近藤勇、副局長が土方歳三で、討幕の勤王の志士との間で、争いが絶えませんでした。

 この土方歳三を、本や映画で知って、小学校の時に、土方(ひじかた)という苗字の同級生がいたのを思い出したのです。きっと彼は、親戚関係だったと思われます。農民でしたが、仕事は自家の秘伝の石田散薬を売り歩きながら、その合間に剣道の道場で、ヤットウ(剣道)を稽古をしていたのです。

 直参旗本に取り立てるという触れ込みを聞いて、脱藩浪士や農民たちが、応募して、京の都の警護に当たった、浪士たちの集団だったのです。彼らは、京の郊外の壬生にあったお寺を、屯所にしていました。芝居や映画に取り上げられて有名になったので、私も知るところとなったのです。この小説で、主人公が、吉村貫一郎、盛岡南部藩からの脱藩の浪士なのです。映画化され、日本アカデミー賞 最優秀作品賞、最優秀主演男優賞などに輝きました。

 吉村は、下級武士ながら、文武両道に秀でていて、藩校(藩黌が正式な漢字表記)の教師をし、剣道は、千葉周作道場の北辰一刀流の免許皆伝で、藩の子弟に文武両道を教えていたのです。次世代の教育や指導の任にあたっていた様子が、映画に描かれています。しかし、生活は、至極貧しく、しかも子沢山でした。食べるのが精一杯でしたが、夫婦も親子の関係もよく、貧しさを跳ね返しながら生きていました。

 でも自分の境遇、家族の様子に耐えかねて、脱藩をしてしまいます。幼な馴染で、同じ長屋で生活してきた親友であったのは、藩の重役の婚外子でした。その家の跡取りが亡くなって、急遽、本家に呼ばれて、家督を継いでいく大野次郎右衛門なのです。そのかつての親友に、旅手形を出してもらい、とうとう脱藩してしまいます。貫一郎が向かったのは、尊王攘夷との戦いを京都で繰り広げる、幕府側で、京都の治安を守る新撰組に入隊します。

 剣に優れていて、新撰組一、二の剣術の使い手として、師範に抜擢されます。守銭奴の様に、隊から報酬を求めて生き、その報酬金を、京の南部藩邸に出入りする、南部の御用商人の店の使いに託して、留守家族にお金を届けるのです。貫一郎と息子の間の書状のやり取りも描かれ、家族思いの姿が演じられるているのです。

 新撰組の宴会の席で、この小説のもう一の主人公で、これも剣の達人で、明治維新後まで生き残り、東京の治安に当たる警察官となる、斎藤一が隣に座します。この斎藤の独白で、この小説も映画も始まり、終わっているのです。この二人のやり取りで、隣席の貫一郎が、故郷の南部自慢を、家族自慢を交えて語る場面が、実に面白く演じられているのです。

 そんな田舎者を嫌い、斎藤は切ってしまおうと、屯所への帰り道の付き合いに、酔った風に見せて誘い出します。二人とも剣の強者で、互角に渡り合います。藩支給の褒賞金を貪る吉村雨嫌い続けますが、鳥羽・伏見の戦いの折に、官軍との戦いに、新撰組は敗走するのです。

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 握り飯を手にした吉村が、仲間に配るのですが、最後の一つを斎藤に差し出しと、彼は貪り喰うのです。食べ終わって、ふと、『お前の分は?』と言われた吉村は、竹の皮の包みに残った一粒の米を、苦笑いをしながら口にして、十分な顔をします。そして、武士の義のために官軍に切り込んでいく姿を見て、それほどに仲間を大事にした吉村、武士(もののふ)に徹して生きてきた男に、やっと、真性の武士として認めるのです。吉村は、南部藩の京の屋敷に、深手を負いながら転がり込みます。大野は、吉村に切腹を命じ、それに従って腹を切って果てるのです。

 時は、すでに薩長軍の勝ち戦で、新撰組は落ち延びていき、近藤勇は、下総流山で討ち死にし、土方歳三は、函館の五稜郭で果てます。その最後の戦いに、貫一郎の子の嘉一郎が幕府軍の兵として、南部から加わり、その地で討死するのです。蛙の子は蛙、武士の子は武士で、子も父の志を継いで、父親の様に生きて果てるのです。

 大野の子は、千秋で、明治維新後は、医師となり、東京で開業するのです。千秋の妻は、貫一郎としずの子のみちで、翌朝、満州に行こうとするところに、風邪をひいた孫を抱えた斎藤一が受診を願ってやって来るのです。診察してもらってる間に、一様の写真が、転がり出ます。壬生屯所で記念撮影をした、あの吉村貫一郎の新撰組の羽織を着た写真だったのです。

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 まるで小説の様な終わり方でした。新撰組も、吉村貫一郎も実在しました。とくに吉村は、新撰組に入隊した折の名で、実際は、嘉村権太郎と言ったそうです。あくまでも、この「壬生義士伝」の筋書きは実話に沿った創作で、読者や映画鑑賞者を想定しての創作です。小説家は、幕末や明治を、そんな風に描くのですから、実に感心してしまいます。

 「武士(もののふ)の道」とは、実に厄介なものだったのでしょうね。聖書は、『剣を取る者は、剣で滅びる。』と言うのです。私の父は、鎌倉武士の末裔だと言っていました。先の大戦では、三十代でしたが、戦場には立ちませんでした。しかし、爆撃機や戦闘機、終戦間近の神風特攻機の機体の一部の製造に関わった責を負っていました。

 それでも、父の最初の子、私の上の兄が牧師になっていて、『俺の腰から出た子が聖職者になるとは!』と母に、感慨深く語ったそうです。その子の勧めに応答して、父の最後の時期に、創造主の前で悔い改めて、イエスさまをキリストと信じる信仰を告白したのです。人には赦されなくとも、万物の創造主に赦されたと、私は、父の救いを、今も信じています。 

(ウイキペディアによる町を行く武士たち 〈『四時交加』より〉、戊辰戦争の図絵、函館五稜郭です)

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黒羽に長逗留をして

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 「中途半端」 なことの多かったわが半世紀でした。いつかインドネシアに行こうと考えて、わざわざ四谷の上智大学の語学講座で、インドネシ語を学び始めたことがありました。遠過ぎたことや忙しくなったからは言い訳で、続きませんでした。

 先日、インドネシア人のご婦人とお会いして、そのこと思い出したのです。ブラジル人のご主人がおいでで、今月末には、赤んちゃんが誕生されると、言っておいででした。家内と話をされていて、その話に割って入って、インドネシア語の覚えていた言葉を言おうとしましたが、機会がありませんでした。

 また、日本人と同じ斑点、蒙古斑点のあるモンゴル人に関心を向け、ルーツを訪ねて、ウランバートルに行きたくて、モンゴル語も学び始めましたが、これも中途挫折でした。近くにモンゴル人がいたら良かったのには、これも言い訳でダメでした。

 ハイデルベルクやバート・ボルやバーデンといった街に旅行したくて、ドイツ語も、これはやろうと思っただけで終わりました。シュバーベン方言の人物伝を、コピーで頂きましたが、学べず仕舞いでした。

 知らない街や国にいってみたいというのは、どうも現実逃避の表れで、願望を捨てきれない夢見る少年の不確実性でした。

♫ 知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を 眺めていたい
どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい 🎶

 遠くの街訪問願望、恋愛願望を歌った、永六輔の作詞、作曲が中村八大で、不良少年っぽい若い歌手が歌っていました。自分が17才の時でした。それに誘発されたのでしょうか。母が交通事故の怪我で長期入院生活をしていた頃の歌でした。家事を切り盛りしていた父を助けたくて、なくなく運動部を休部した年でもありました。

 やはり、中学生になったことを実感したのは、「奥の細道」を、現代語訳ではなく、江戸元禄期の言葉で記した古文から学んだことでした。小学生が詰襟に制服をしている様な感じでいましたが、特別講義での古文の学びで、いっぺんに大人になった様に感じたのです。

 「漂白への誘い」、人生が旅に例えられるからでしょうか、人は旅に誘われます。引っ越しを二十数回もしてきた私は、やはり、一所に腰を据えられずに、新しい道に進んでいきたい想いにさらされてきた様です。今でも、終の住処が定まらずにおり、困ったものだ、と家内が言います。

 あの中一での、「奥の細道」の学びが、作者の松尾芭蕉が、やはり旅の途上に死した漂泊の詩人・李白や四川の成都にも旅して、舟の中で没した杜甫の生き様に憧れ、平安期の白河の関を越えようとしながら果たさなかった能因、陸奥を旅した三十歳の西行に、後ろ髪を引かれて、深川の破れ屋から隅田川を舟で登って、千住から奥羽街道を北上して行きます。「逃げる」を「北げる」とも書き表しますから、江戸を逃げたのかも知れません。芭蕉四十六の時でした。

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 「そぞろがみ」に誘惑された様に書きますが、旅に誘う神がいると言っているのでしょうか。芭蕉は、自分の旅に出たい気持ちを生み出させたものは、李白や杜甫の生き様に感化されて、居た堪れなかったに違いありません。そんな想いを少し抽象的に表現したのでしょうか。「道祖神」は、旅の無事を司る神々のことですが、未知の地を旅する芭蕉は、各地にいるお弟子さんたちの訪問でもあったわけです。

 李白も杜甫も、知人の訪問もあったり、会いたいと願っていた人や土地の訪問もあったのでしょう。芭蕉も同じで、三千里の旅に出て、それを続け、百五十日ほどで終えたのです。この訪ねた場所で、尾花沢に次いで、二番目に長く滞在したのが、「黒羽(くろばね)」でした。現在の栃木の県北の大田原市で、那珂川の舟運の河岸のあった街で、13泊14日の滞在でした。

そこは黒羽藩のお膝元で、こんなことを書き残しています。

『黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信おとづる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、 那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国の氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊にしきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。』

 この藩の城代家老と出会って、入魂(じっこん)の仲になって、芭蕉は、同行の曾良と共に歓待されたのです。扇を射た那須与一にも思いを馳せています。どんな街なのか、一度訪ねようと思いながらも果たせずにおります。ここで出会った若い御婦人のお母様は、この街の出で、こちらに来られると、わが家に寄ってくださったりの交わりがあります。
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 芭蕉は、訪ねた村や街の名産にも、預かってご馳走になったのでしょうか。那珂川は、梁(やな/魚などを獲るための竹作りの仕掛け)で獲った鮎の甘露煮が名物の様ですから、当地の記録によりますと、江戸時代にも、中国から伝わった梁漁法で、獲った鮎が食べられたのではないでしょうか。

 街道は、舗装されてないにしろ、もう元禄期には、整備されていましたから、旅の険しさは、そう酷くはなかったことでしょう。まだでしょうか、もうでしょうか、四十六歳ほどの年齢でしたから、芭蕉は健脚になるように、三里に灸をすえて先に進んでいったのです。この頃から、十年ほどを、旅に日を、芭蕉は費やしていったのです。

行(ゆく)春や 鳥啼き魚(うお)の 目は泪

(ウイキペディアの深川、芭蕉と曾良、梁漁です)

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