「戦場の悲惨さ」を知らない私が、戦争ってこんなに恐ろしいことだということを、子どもの頃に知らされたのが、駅頭に立っているおじさんたちでした。病院の入院患者が来ているような白衣を纏って、アコーデオンを肩にかけて、軍歌を歌っているおじさん群団でした。一人は義足、一人は義手に募金箱を下げ、アコーデオンを弾いていたおじさんの眼は空洞でした。
立ち尽くすような衝撃で、その『🎶 あーあ あの顔で あの声で 手柄頼むと 妻や子が 千切れるほどに振った旗 ・・・♫ 』と歌っていたのです。また、電車に座ってると連結部分のドアーを開けて、同じような姿のおじさん、傷痍(しょうい)軍人が、その車輌に入って来ました。
1950年代のことで、戦争で負傷を負った兵隊さんたちは、補償の制度も整っておらず、働く機会もなかったので、街頭などに立って、「募金」をせざるを得なかったのでしょうか。傷痍軍人会という組織ができたのが、1956年だったようです。この会の設立の時期の背景を、引用してみましょう。
『敗戦を迎えた日本は、連合軍の占領で、戦後の新しい日本になろうとしていました。焼夷弾を落とされた日本全土は、焼け野原とされていました。物不足はひどく、とくに食料に事欠いていて、飢餓状態だってたのです。
持ち物を焼かれて失い、土地は瓦礫で溢れ人は生活の苦しんでいました。親を失った子どもたちたちは巷にあふれていました。外地から帰ってきた人たちは、着の身着のままだったのです。外地から帰られた人だけではなく、焼夷弾で傷を負った人も、戦場で傷ついて帰って来た人も大勢いたのです。
戦争後の日本の舵取りをしたのが、連合軍、主にアメリカ軍でした。ララ物質(LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)からの支援物資、とくに脱脂粉乳を飲んだ世代としては、それを実感したのですが、食料、衣料、医薬品などの援助が、キリスト教団体などから送られてきたのです。
ところが、軍事国家の形態を打ち壊すために、連合軍は、非軍事化政策を進めていきました。戦前からあった軍人恩給、傷痍軍人への支援が打ち切られてしまいます。生きていけない人たちは、街頭に立って、募金を始めていったのです。生活に困窮した人々は多くおいででした。
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そんな時期に、アメリカから、障害を負った、三重苦の障害を負われ、サリバン女史の献身的な世話によって、障害を克服して生きてきた、ヘレン・ケラーが来日されたのです。この方は、1948年に日本を、講演のために訪ねたのです。当時、社会活動家として活躍していました。日本全国を講演して回り、身体障害者を支援するようにと、GHQや日本政府を動かしていきました。
それで、立法化が進んで、2年後に、「身体障害者福祉法」を、日本に誕生させたのです。傷痍軍人、そして身体障害を負っていた人全体に行き届く法律でした。義足や義手などの給付や、職業訓練など、社会復帰などがなされていったのです。
社会福祉の遅れを取り戻すきっかけが、この傷痍軍人の存在であり、ヘレン・ケラーの来日だったわけです。百番教室で、法学を講じていた教授は、足を引きずって、教壇に登り降りされておいででした。戦争時に、学友のおじさんの部下でした。
そんな時代を経て、社会福祉や社会事業が日に目を見る様になってきたのです。まだまだ補償などで、未整備で、欧米諸国に遅れている様ですが、日陰から日当たりに、人の精度もうるされてきていると言えます。ずいぶん昔の補償を訴えた裁判が決審していることも聞きます。社会的な弱者救済は、近代国家に課せられた責務、使命なのです。
(ウイキペディアによる傷痍軍人のみなさん、若きヘレン・ケラーです)
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