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『このままでは、次の世代に、この美しい地球を残してあげられない!』との危機感から、地球の環境保護と保全を目的に、1997年12月に「京都議定書」が採択されました。そして2005年2月16日に、それが発効したのです。その目的の一つは、地球温暖化防止のために、排出ガス/二酸化炭素を規制し、減らすことに努めていこうとしています。《エコ・ライフ》と言う言葉がよく使われて、住宅も電化製品も車も、『地球に優しい!』と言ったキャッチ・フレーズで売り出されるようになっています。何時ごろからだったでしょうか、冬の日に焚き火をする風情や、庭先の焼却炉が消えて無くなってしまいましたね。美味しい焼き芋をほおばったのを思い出してしまいました。
何年か前に、久しぶりに帰って来た息子が、1本のVTRを借りてきてくれました。そのタイトルは、アメリカ映画の「デイ・アフター・トゥモロー」でした。これは、大災害と異常気象が世界各地で起こる〈天変地異〉の映画なのです。大津波や大寒波、そして竜巻とかが北半球の各地で起こります。中でも一番の見せ所は大寒波です。この寒波がどれほどかと言いますと、寒波をもたらす大気圏の中心に入ると、1秒間に-10度も気温が下がるのです。ヘリコプターのオイルや羽根までもが凍ってしまうほどの超異常気象が起こってしまいます。東京でも、とてつもなく大きな雹が降る場面が描かれていました。北半球が氷河期を迎えて、人間を含めて、すべての生き物が死に絶えていく様子を、実に警告的に描いていたのです。先年のスマトラ沖地震と津波の報道を見聞きした後でしたので、そこに映し出されている光景が、『起こらないとは言えないよね!』との感想を持ったものです。
今回の帰国時に、息子が有料映画にアクセスしてくれ、「ポニョ」を観ました。3月11日の「東北大震災」の地震、津波、原発事故が起きた後でしたので、そのタイミングに驚いてしまいました。その体験を通して、2つの映画の意味するところが、より深く分かったのです。自然の猛威と、人間の生き方や営みとの関係が対比されているようで、今回の大震災も、「罰」ではないにしろ、繁栄の陰でもたらされる様々な不具合への「警告」なのではないか、と感じさせられた次第です。
「終末論」の中に、「・・日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」と記さてあります。人の数千年の営みが、瞬く間に崩れ落ち、その担い手である私たちも滅びるのです。みな絶望し、気が転倒してしまうのです。私の母が、『月が血の色に赤くなったら、雅ちゃん、地球が終りになると聞いたことがあるわ!』と話してくれました。その後、東京都下のわが家の風呂に入りながら、窓の外を見ていましたら、大きな木の陰から〈真っ赤な月〉が昇ってきたのです。一瞬息を飲んでしまいました。『今晩でお仕舞いなのかなあ!』と思ったからで、その恐怖は昨日のことのように鮮明に覚えております。
『世界は某年某月某日に終わる!』といった終末の予言が当たらなかったニュースが、先日報じられていました。こう言った予言は、人を恐怖に陥れるだけで、日常の義務を怠らせてしまい、市民生活を破綻させてしまうだけです。しかし、この終末の兆しは、もう一面では輝かしい希望の兆しではないかと、私は思うことにしております。『終末が来たら、次に〈新しい時代〉が現われるのではないか、希望の明日が、そこから始まるのではないか!』、そんな期待があるのですが、みなさんは如何でしょうか。母は、私を恐れさせるためではなく、どのようなことがあっても、日常を怠ることなく、義務を生きていくようにと、諭してくれたのだと信じております。今日日、長雨、大雨、地震、津浪などが頻発して、自然の暴威が世界大で起こっていますが、絶望してしまったら何も建設的に事が運びません。どんな事態になっても、明日への希望を捨てずに、互いに励まし合いながら、いたわり合いながら今を生きていきたいものです。
きっと画期的な変換・転換の方法があるのだと信じてやまないのです。福島や宮城や岩手でも、世界中の被災地でも、そこから立ち上がって、再出発をし始めているのですから。確りと、「警世の声(警告の声)」を聞き止めめておきたいと願っております。
(写真上は、かけがいのない美しい「地球(NASA)」、中は、国際宇宙ステーションから撮影した「地球」、下は、真っ赤な「月」です)