美しい地球

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 『このままでは、次の世代に、この美しい地球を残してあげられない!』との危機感から、地球の環境保護と保全を目的に、1997年12月に「京都議定書」が採択されました。そして2005年2月16日に、それが発効したのです。その目的の一つは、地球温暖化防止のために、排出ガス/二酸化炭素を規制し、減らすことに努めていこうとしています。《エコ・ライフ》と言う言葉がよく使われて、住宅も電化製品も車も、『地球に優しい!』と言ったキャッチ・フレーズで売り出されるようになっています。何時ごろからだったでしょうか、冬の日に焚き火をする風情や、庭先の焼却炉が消えて無くなってしまいましたね。美味しい焼き芋をほおばったのを思い出してしまいました。

 何年か前に、久しぶりに帰って来た息子が、1本のVTRを借りてきてくれました。そのタイトルは、アメリカ映画の「デイ・アフター・トゥモロー」でした。これは、大災害と異常気象が世界各地で起こる〈天変地異〉の映画なのです。大津波や大寒波、そして竜巻とかが北半球の各地で起こります。中でも一番の見せ所は大寒波です。この寒波がどれほどかと言いますと、寒波をもたらす大気圏の中心に入ると、1秒間に-10度も気温が下がるのです。ヘリコプターのオイルや羽根までもが凍ってしまうほどの超異常気象が起こってしまいます。東京でも、とてつもなく大きな雹が降る場面が描かれていました。北半球が氷河期を迎えて、人間を含めて、すべての生き物が死に絶えていく様子を、実に警告的に描いていたのです。先年のスマトラ沖地震と津波の報道を見聞きした後でしたので、そこに映し出されている光景が、『起こらないとは言えないよね!』との感想を持ったものです。


 今回の帰国時に、息子が有料映画にアクセスしてくれ、「ポニョ」を観ました。3月11日の「東北大震災」の地震、津波、原発事故が起きた後でしたので、そのタイミングに驚いてしまいました。その体験を通して、2つの映画の意味するところが、より深く分かったのです。自然の猛威と、人間の生き方や営みとの関係が対比されているようで、今回の大震災も、「罰」ではないにしろ、繁栄の陰でもたらされる様々な不具合への「警告」なのではないか、と感じさせられた次第です。

 「終末論」の中に、「・・日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」と記さてあります。人の数千年の営みが、瞬く間に崩れ落ち、その担い手である私たちも滅びるのです。みな絶望し、気が転倒してしまうのです。私の母が、『月が血の色に赤くなったら、雅ちゃん、地球が終りになると聞いたことがあるわ!』と話してくれました。その後、東京都下のわが家の風呂に入りながら、窓の外を見ていましたら、大きな木の陰から〈真っ赤な月〉が昇ってきたのです。一瞬息を飲んでしまいました。『今晩でお仕舞いなのかなあ!』と思ったからで、その恐怖は昨日のことのように鮮明に覚えております。


 『世界は某年某月某日に終わる!』といった終末の予言が当たらなかったニュースが、先日報じられていました。こう言った予言は、人を恐怖に陥れるだけで、日常の義務を怠らせてしまい、市民生活を破綻させてしまうだけです。しかし、この終末の兆しは、もう一面では輝かしい希望の兆しではないかと、私は思うことにしております。『終末が来たら、次に〈新しい時代〉が現われるのではないか、希望の明日が、そこから始まるのではないか!』、そんな期待があるのですが、みなさんは如何でしょうか。母は、私を恐れさせるためではなく、どのようなことがあっても、日常を怠ることなく、義務を生きていくようにと、諭してくれたのだと信じております。今日日、長雨、大雨、地震、津浪などが頻発して、自然の暴威が世界大で起こっていますが、絶望してしまったら何も建設的に事が運びません。どんな事態になっても、明日への希望を捨てずに、互いに励まし合いながら、いたわり合いながら今を生きていきたいものです。

 きっと画期的な変換・転換の方法があるのだと信じてやまないのです。福島や宮城や岩手でも、世界中の被災地でも、そこから立ち上がって、再出発をし始めているのですから。確りと、「警世の声(警告の声)」を聞き止めめておきたいと願っております。

(写真上は、かけがいのない美しい「地球(NASA)」、中は、国際宇宙ステーションから撮影した「地球」、下は、真っ赤な「月」です)

ゴムorガラス

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 私の友、彼が私を他の人に、『彼は僕の友人!』と紹介してくれるので、『ウエインは僕の友人なんだ!』と言います。この彼が、最近、新しい本を上梓(じょうし)し、邦訳もされております。その本の中で、彼はたくさんの例話を引いているのです。その中に、1996年、ジョージア工科大学の卒業式に招かれた、コカコーラ社・元社長ブライアン・ダイソン氏の祝辞がありましたので、ご紹介いたしましょう。彼は、人生を〈ボール〉に例えて、次のように語ります。

 『人生は、5つのボールをジャグリングしているようなものです。それぞれのボールが何を表すかは、一人一人で違いますが、例えば、「仕事」、「家族」、「健康」、「友人」、「精神」としましょう。あなたは、それを空中で繰っています。「仕事」のボールは、ゴムで出来ていて、落としてもまた跳ね返ってきます。しかし、その他の4つ、「家族」、「健康」、「友人」、そして「精神」のボールはガラス製です。一度落としてしまえば傷がつき、ヒビが入り、ひどい時には割れてしまって、二度と再び元の姿には戻りません。みなさんは、これを理解した上で、バランスのとれた生き方を模索していっていただきたいと思います。』

 学窓を巣立って、これから激しい競争社会を、技術者として実業界の一線を生きて行こうとしている青年たちに、実に的確なアドバイスを語りました。彼が例として取り上げた5つは、どれも大切な人生の部分ですが、落しても弾んで返ってくる「仕事」は、やり直すことができ、替えることもできますが、人生の主要な部分ではないと思われます。かえって、後の4つの部分のほうが、根幹の部分なのではないでしょうか。落としても弾むことのない「家族」、「健康」、「友人」、「精神」を、どう大切に扱っていくかによって、一人一人が人生の成功者になるか、そうでないかが20年後、30年後に結果をみることになるのです。仕事の成功よりも大切に違いありません。


 私は、これまで日本で、3つの職場を渡り歩きました。そして今は、中国の大学で日本語教師をさせていただいていますから、4つの職場で、実に貴重な体験をさせていただていることになります。私は中国行きを決断して、家内の手をとって、2006年8月に、日本を後にしましたときに、中国でのこれからの時こそ、自分の〈人生の仕上げの場〉、〈人生の総決算の時〉であるとの覚悟をもったのです。決して余暇を楽しもうとは思いませんでした。しょうしょう大仰な決心に聞こえてしまうかも知れませんが、日本で老後を生きるよりは、意味も醍醐味もあると確信したからです。ジョージョア工科大学を出て空軍の将校だった、私の恩師が、『あなた方は新しい地に出ていくべきです!』と語ったことばに押し出されたのです。私の若い友人が、『行ってください、中国には、あなたを待っている人たちが大勢いらっしゃいますから!』と勧めてくれたことばも、私の背中を、そっと押しました。この方は長年中国の大学で日本語教師をされ、英語教師のアメリカ人青年と出会って結婚され、中国で四人のお子さんを出産された方です。今も、『また中国に帰りたいのです!』との思いを心に秘めながら、ご夫婦でアメリカにお住まいで、私たちを応援していてくれます。


 私の大きな感謝は、どこででも素晴らしい〈出会い〉があったことです。若い時には、長い経歴を持つ方々から、「家族」、「健康」、「友人」、「精神」について、有言無言の教えを受けたことは宝石だと思っています。もう大部分の方が召されておりますが、ときどき思い出しては、大きな感謝を覚えております。今は、子どもたちの世代より少し上の世代の中国のみなさんから、父や母に対するような愛を頂きながら、相談にのらせていただいたり、交わりを楽しんでおります。また若い世代のみなさんとの出会いは、心踊るような気持ちを覚えさせられています。『うーむ!』と感心させられる実に素晴らしい青年たちと出会っているのです。こういった若い世代のいる、この国の将来に、素晴らしい光を見ているかのようです。ひとたび友好関係が築き上げられた中日の関係でしたが、1993年頃から再び、困難な状況に入って、そんな時代に教育を受けられたみなさんですが、実に心の通った交わりを持たせていただいております。『自分の子ども(孫?)にしたい!』というような青年が何人かおります。もちろん親御さんは離さないでしょうけど。

 教え子たちの卒業式が6月にありました。〈贈る言葉〉の機会はなかったのですが、 落としても弾むことのない「家族」、「健康」、「友人」、「精神」を大切に、バランスのとれた人生設計をされて、今は「仕事」に精出してください。これからを素晴らしく輝いて生きていって欲しいと願っております。生きるって素晴らしいことなのですから!

(写真上は、「サッカー・ボール」、中は、ジョージア工科大学の「キャンパス」、下は、「コカコーラ」の歴代瓶です)

度量

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 1978年10月、終戦後、初の要人として日本を訪問した鄧小平氏は、23日、夫人同伴で昭和天皇を表敬訪問しました。この裕仁天皇は、中国への罪意識、償いの気持ちをとりわけ強くも持っておられたのです。鄧小平氏の顔をみるなり、『わが国は御国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう!』との気持ちを述べたと言われています。その瞬間、鄧氏は立ちつくし、電気にかけられたようになって、言葉が出なかったのです。しばらくして、鄧小平氏は、『お言葉のとおり、中日の親善に尽くし……』と応じられました。『鄧小平氏の衝撃は、<簡単なあいさつ程度で過去に触れない>という日中外交当局と宮内庁の事前了解と違っていたこともあるが、やはり天皇の率直な語りかけが心を打ったのだろう!』と、この会見の一部始終を見ていた入江相政侍従長が、後に語っておられます。

 これは人間宣言をされた昭和天皇の隠されたエピソードです。侵略戦争に終始反対のお気持ちを持たれていたのですが、軍部に押し出され、押し切られ、不本意な決断を苦渋の中で下さなければならなかったと歴史は伝えます。敗戦後の連合軍最高司令官だった、ダグラス・マッカーサーは、戦犯として戦争責任を問おうとしますが、蒋介石の進言によって、取りやめております。さらに占領政策を進めていく上で、天皇のおられることの意味を評価したからでもあったようです。戦後、〈天皇巡行〉が行われますが、行く先々で、歓喜の声で迎えられて、国民も、誰もが戦争責任を問おうとはしなかったのです。

 一方、鄧小平氏は、四川省に生まれ、本名を「先聖」と言いましたが、身長が高くないこともあり、謙遜さのゆえに「小平」と名乗り、中国の〈解放改革政策〉を推し進めて、世界第二の経済大国へと発展させた貢献者です。若い日には、フランスで学び、〈長征〉、〈抗日〉の戦いに参加した勇士で、1983年以降、主席として、中国の近代化を推し進めてこられました。日本との関係の中では、こんな逸話も聞いたことがあります。1977年10月7日、元陸軍軍人で自衛隊の将官も務めた、自衛隊OBらが中国を訪問しました。中日の軍人の交流の可能性を探るのが目的だったのですが、突如として鄧小平との会見が実現します。

 その時の様子を、2004年12月10日(金) 、萬晩報主宰・伴武澄氏は、『~センチメンタルな反戦主義者ではなかった鄧小平~ 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、鄧小平は発言をさえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」というような意味の発言をしたのだから一行はあっけにとられたに違いない。 絶対に見間違ってならないのは、鄧小平はセンチメンタルな反戦主義者ではなかったということである。冷徹な努力家であり、前線で戦ってきた野戦軍人だったのである。

  中国共産党は1930年代に入っても、国民党の蒋介石軍に対して劣勢で、江西省の山岳地である井崗山(せいこうざん)で包囲されていた。共産党軍は井崗山から脱出すべく、長征の途についた。目的地の峡西省北部の延安までは、中国の辺境といわれるチベットとの境界や青海省などの峻険な山岳地帯が選ばれた。この途上、毛沢東が本格的に共産党の主導権を握ったとされる。だが、延安にたどりついたときは気息奄々、共産軍は全滅寸前だった。ところが日中戦争が始まり、西安を訪問中の蒋介石は張学良に捕らわれ、国共合作を余儀なくされ、共産党がかろうじて生き延びる道が開かれたのである・・・』と記しています。

 鄧小平氏の懐の深さ、度量の大きさには、驚くべきものがあります。この会談が人民大会堂で行われたときに出席していたのは、鄧小平、廖承志、王暁雲、孫平化、金黎、単達析の各氏でした。会談の中で、、『日中の交流は、漢の武帝の時に始まったといわれるが、それから約2000年、短くみても1500年になる。100年は喧嘩状態だったが、1400年は友好的 だったのだ。100年の喧嘩は長い間におけるエピソードにすぎないと言えよう。将来も、1500年よりももっと長く前向きの姿勢で友好的にいこう。今後の 長い展望でも当然友好であるべきである。 』と、鄧小平氏は語られたのです。


 中国と日本の友好を志向した鄧小平氏の願いをついで、これからの1500年、更なる友好が実現されていくことを願っている私たちですから、これに呼応していきたいと思っております。今年3月の大震災以降、中国が国を上げて、救助隊を派遣してくださり、物心両面で支えてくださり、応援・激励のメッセージを送ってくださった〈友誼〉には、衷心から感謝を覚えております。[ARIGATO謝謝CHINA!]

(写真上は、鄧小平氏が『白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である(不管黑猫白猫,捉到老鼠就是好猫)』と言われた「白猫黒猫」、下は、「謝謝」です)

赦し

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 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』、これは私の父が生前、小さなメモに書き残したことばです。私は、これを《父の遺訓》として、大切にファイルの中にしてしまっております。YAHOO辞書で調べてみますと、『無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。〔補説〕 禅家の公案とされ、1582年甲斐(かい)国の恵林寺が織田信長に焼き打ちされた際、住僧の快川(かいせん)がこの偈(げ)を発して焼死したという話が伝えられる 。』とありました。このことばは、父の世代の人たちが教えられた処世訓のひとつなのでしょう。

 摂氏40.4度、これは日本の観測史上、第2位の高温を記録した、2004年7月21日午後4時の甲府市の気温です。父の書き残した言葉によりますと、あの暑さの中でも、心持ち次第では、涼しさを感じることができると言うのです。でも、どんなに私が努力をしてみても、あの日、甲府にいた私が感じた気温は、40.4度でした。しかし、その前日の方が暑かったように感じたのですが。この体感温度というのは、屋外の白いペンキで塗られた百葉箱(ひゃくようそう)の中の寒暖計の温度が標準温度なのですが、それとは違うのです。灼熱の太陽に熱せられたアスファルトの上で、空気のよどんだ中での温度は、ゆうに4~5度は高かったのではないでしょうか。今年も、群馬県の館林では、41.3℃になるとの予想が出ております。

 ところで、私たちが住んでいます華南の街は、「竈(かまど)」の様だといわれています。最近の統計によりますと、中国で最も暑い街は、福州、杭州、重庆、长沙だそうで、犬が、道端の溜まり水にお腹をつけて、体を冷やしている様子を目にしたこともあえいます。今日は、最高位温度38℃、最低温度27℃の予報が出ております。『雅仁、人生には、苦しい事が多い。一人の男、夫、父として、また一人の市民、国民として生きていく上で、苦しさに負けないで生き抜くんだ!』と言われたように感じています。61年の父の短かった生涯のことを思うことが、しばしばあります。父は、火の様な人生を生きて、地団駄(じだんだ)踏むことも、耐えかねることもあったことでしょう。県立の横須賀中等学校に入学したのですが、家庭の事情で、東京の私立学校に転校し、親戚に身を寄せて通学しなければなりませんでした。十代の前半で、生まれた家や家族から遠く離れて、友人たちとも別れなければならなかったのは、不本意であり、やはり辛い体験だったに違いありません。

 「ジョゼフ」ですが、17歳の彼が、母違いの十人の兄たちに妬まれ憎まれ殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られてしまうのです。そのエジプトでも何度も不遇を喫しますが、30才でエジプト王パロに継ぐ地位に昇進するのです。「人の悪意」の背後に「至高者の善意」を、ヨセフは発見したに違いありません。その「善意」が、彼の人生のあらゆる分野に及んでいたのです。彼の不幸な体験は、父や兄弟たちを大飢饉から救うためであり、やがて、この家系から出る者が、人類に大きく貢献していくのです。私の父が、過酷な人生を耐えて生き抜いてくれたことで、私たちの今があるわけです。ヨセフは、そんな兄たちを赦したのです。その様に、父にも赦すべき人があって、人生の最後の病床で、赦す言葉を私は聞くことができました。子どもの頃の辛い日々のことではなく、懐かしく楽しかった日を思い出して語っていたのです。『辰江さん(それまでは「あれは・・」としか言いませんでしたが)は、料理が上手だった。シュークリームを作ったり、カツを揚げて食べさせてくれたよ!』と話していました。母から聞いた話ですと、『弟や妹にはおかずがいっぱい入った弁当を持たしたのに、俺のは〈日の丸弁当〉で、梅干だけだった!』、と激白していたようですが。そのように、母は父の語らない子供時代の様子を時々話してくれました。きっと、父のひがみもあったかも知れませんね。産んでくれた母は、家格に合わないとの理由で離縁され、継母に養育されたからです。

 そんな死の間際に、継母を赦す父の姿を見ることができたことは、感謝なことであります。私たちの幸いは、このような〈坩堝(るつぼ)〉の中にいることに耐えられるように造られているではないでしょうか。私にも赦されなければならない人、赦していただかなければならない人がいます。みなさんはいかがでしょうか。「心頭滅却すれば」、人を赦せるのかと思いますが、どうしても出来ないいのです。駄目ですね。自分が、今、赦されて生きているという事実に立たない限り、人を赦すことができない、そうに違いありません。相手に機先を制して、『ごめんなさい!』と言いたいものです。

(写真は、原田直次郎1863~1899作「靴屋の親爺」です)

引っ越し

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 私たちのごく親しい友人の同僚が、2007年に、ご両親を田舎から呼び寄せるために、倉山区金港路(今まで住んえいた進歩路より西に位置しています)に購入された家が一軒ありました。この倉山区というのは、かつては倉山県という福州市の郊外で、領事館などがあったそうです。闽江(Mingjiang)という河が、二俣に別れた中洲のような区域で、ここを流れ下ってまた1つに合流していくのです。親孝行な息子の呼びかけに、ご両親は、都会生活を好まなかったからでしょうか、お出でにならないまま空き家になっていました。ご両親と同世代の私たちに、『住んでみませんか?』とのお話が、一足早く帰福していました私にありました。これまで何人もの友人が、日当たりがよくて、涼しくて、静かなといった三拍子揃った家を探していてくれたのですが、なかなか決められないまま打ち過ぎておりました。彼女たちも、両親に対するような気持ちで、私たちに何くれとなく接してくれていて、気遣いをしていてくださるのです。息子や娘が十数人増えたような賑わいの中で、この数年過ごしてきております。

 家内が7月12日に、半年ぶりに帰ってまいりましたので、先々週、この家を見に行ってまいりました。楠で床や収納を内装してあって、ドアーを明けた瞬間に、木の自然の香がしてきて、いっぺんで家内は気に入ってしまいました。30日の土曜日に、友人たちや教え子たち十数人が手伝ってくださって、無事に引っ越すことができました。引越し前にも、何人ものみなさんが入れ替わりで、荷物の整理や梱包や片付けをしてくれました。今回は、プロの業者にお願いしたらいいのではないかということで、運転手と荷運びをしてくださる方が二名で、一階の奥まった家から、新しい四階のアパートに運んでくれました。一人で一個のダンボールを三回運んだら、へとへとにへたり切ってしまう私とは違って、4~5個くらいを帯のような紐で肩に担いで、運び切ってくれました。ときどき彼らの仕事の合間に軽い荷を運んでいた私は、その仕事振りを眺めて、実に驚きました。今回の家は、六階建てのアパート群の中の1つですが、一階が店舗になっていますから、実際には五階になります。

 二つ違いの弟が学生時代に、富士山の山小屋に食材や諸雑貨、プロパンのガスボンベまで運びあげる「強力(ごうりき)」というアルバイトをしていたことがありましたが、そのことを思い出したのです。肉体労働というのは、低日当の仕事だということを知っておりますから、つい三人の方々に、〈チップ(中国語では「小费xiaofei」〉を弾んでしまいました。これを受け取られたとき、なんとも言えない喜びの表情を表していましたので、『奮発してよかった!』と、彼らの喜びとともに喜ぶことができました。これって、肉体労働のアルバイトばかりをしてきた私ですから、辛さを少し理解できたので、感謝を表したかったからでした。

 この二日間、荷ほどきをしました。昨日は、もう一人の友人が来て、それを手伝ってくださいました。やっと荷が落ち着いたのか、私たちが落ち着いたのか、今日は放心状態です。これまで何度引越しをしてきたことでしょうか。天津からの引越しはプロにお願いしましたが、それ以外は、自分でやって来ました。一番大変だったのは、住んでいたアパートの上の階の家が出火して、家財一切が水浸しになってしまい、ほとんどを捨てざるを得まままの〈強制引越し〉でした。いつも娘たちを家に招いては可愛いがってくださった上階の女性が、事故なのか自死なのか犯罪なのかわからないまま、亡くなってしまいました。夏の明け方でした。ガスの爆発音がして、我が家の窓ガラスが全部崩れ落ち、玄関の鉄の扉が開いてしまい、ベランダの小鳥が焼死し、洗濯物が燃えてしまいました。部屋に寝ていた三人の子どもと、四人目の子をお腹に抱えていた家内は無事でした。私だけが砕け落ちた硝子の破片を、頭部に30数カ所ほど刺してしまいました。その騒動では全く負傷に気づかず、4階に駆け上がって消火活動をしていましたし、消化後、新聞社の取材に答えたりしていたのです。新建材の燃える匂いと黒鉛で、爆発火災のあった家の中に入ることができませんでした。中からうめき声がしていたのに、助けられなかったのは、今でも思い出して、残念で仕方がありません。

 いろいろなことのあった二十回もの引越しですが、〈引越物語〉が書けそうです。大家さん(中国語では「房东fangdong」といいます)が良い方で、何かと心遣いをしてくれています。昨日は、窓の外に防犯用の格子戸、しかも網戸付きのものを、窓という窓に取り付ける工事を依頼してくださって、業者が仕事をしてくれていました。『こんなに安い家賃でいいんですか? 』と尋ねましたら、『没问题meiweti(問題ないよ)』とのことでしたから、ただ感謝することにしました。多くの良い方々に恵まれ、囲まれ、助けられて六年目の中国の生活になりました。さまざまな応援に感謝して!

(写真は、福州の街を流れる「闽江」です)

ゲンキンモッテコイ!

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太陽が昇ってくる前、暗い大空が白みかける明け方を、暁(あかつき)、東雲(しののめ)、黎明(れいめい)、払暁(ふつぎょう)、曙光(しょこう)などと言ます。ここは東京よりも西に位置していますから、一時間の時差があり、北京時間は日本の標準時より一時間遅いのです。3年間住み慣れた我が家は、かつて領事館や商社駐在員や外国人教師たちが住んだ地域にあって、往時を髣髴とさせる煉瓦造りの家が立ち並んでおります。住み始めた頃に植えられたのでしょうか、今は大きく育った木々が鬱蒼として、暑い夏の日照りを遮ってくれます。冬には木漏れ日が頬にやさしく気持ちいいのです。私たちが住む住宅は、師範大学の教員の宿舎で、友人が新しい家に越されて、空いていたのを借していただいたのです。築30年の老朽化した80年代の煉瓦とコンクリートの4階建ですから、それなりに風情が残されております。街中を通っていますと、古い住宅街(「胡同hutong」と呼ばれていました)が取り壊されて、集合住宅や商業施設に作り替えられている昨今ですが、昔の面影が、どんどん無くなりつつあるのは残念なことです。日本の麦藁や茅で葺いた屋根の家が無くなっていった時期と同じような感じでしょうか。えもいない情緒が消えてしまうのは残念至極であります。

そんな地域で、けっこう高台にありますので、鼓楼のある街中と比べると2~3度気温が低いのだそうです。洪水の被害もなく一等地に違いありません。我が家は一階の一部屋ですが、6坪頬の庭付きで、この辺りではめづらい住環境を備えています。静かで涼しいのですが、湿気が多いのが玉に瑕(きず)でしょうか。その〈東雲〉に、毎朝飛んできて鳴き声を聞かせてくれる鳥があります。『朝です、起きなさい!』と言っているのでしょうけど、その声は家内には、『ゲンキンモッテコイ!』と聞こえ、私には、『ケンキンシロヨ!』と聞こえるのです。ちょうど犬の鳴き声が、アメリカ人には『バウバウ!』、日本人や中国人には『ワンワン(汪汪wangwang)」!』と、聞こえ方の違いと同じでしょうか。

今週末、引越しをします。友人と同じ職場の同僚が、ご両親の老後のために、田舎から出てきて住むようにと、2007年に出来上がった家を買われて、故郷の木材で内装した部屋なのです。先日見せていただきましたが、楠の木の香りが立ち込めて、家内はいっぺんに気に入ってしみました。これまで何人もの友人が、『ここはどうですか?』、『あそこはどうですか?』と見つけてきてくれては連れていってくださり、紹介してくれました。その日も、勤めている大学の近くに、教職員が多く住んでいるアパート群に、家を見に行ったばかりで、その後、『もう一軒みてみましょう!』と言われて訪ねた家だったのです。ちょうど私たちがこの街に来たばかりの頃に、買われたのだそうで、故郷を引き払わないご両親の故に、だれも住んだことのない家です。家の南には道路を隔てて公園があり、大きなイギリス系のスーパーマーケットもあり、近々、大きな商業施設が出来上がるように建設中でした。何か、『あなたたちが住むように!』と、天津から移り住んだ頃に備えられていたように感じて、感謝した次第です。

『もうしばらく、許される間、ここにいるように!』と言われたかのようです。この大家さんが、無欲な方で、低額の家賃でいいと言われるのです。願ったり叶ったりの《備え》に驚かされております。ただ一つ残念なことは、あの〈朝告鳥〉の声を聞けなくなることです。毎朝飛んできては、家内に〈げんきん〉を求め、私には〈けんきん〉を勧め続けた鳴き声とおさらばしなければならないのが悔しいのです。『住めば都!』、昔の人はよく言ったものです。コンクリートの壁で、石の床作りの部屋で、木の部分が虫に食われ、湿気が多かった部屋は、最初は戸惑いもなかったわけではないのですが、日本やシンガポールから帰ってくると、『ここが我らの巣!』という思いに満たされて、心から落ち着くことができたのです。学校出立ての若い青年が、『家を立てましたよ!』と誇らしく言うのを耳にし、横目で見ながら、家も建てることのない旅人で寄留者の生涯でしたが、借家住まいの楽しみが、こうやって味わえるのは、特権だと思っております。私も家内も、この世の旅路を終えたら、次に行く世界では、素晴らしい永遠の住まいに住むことができる、貧乏人の儚い夢かも知れませんが、そんな夢を見ているのです。その家を、私の本物の兄上が、自腹を切って、今、建設中で、その槌音が聞こえてくるようです。

新らしい家の近くにも、あの鳥の仲間が飛んできて、『歓迎歓迎!』と鳴いて歓び迎えてくれるような気がして、この週末が楽しみでもあります。中国で四度目、生涯で二十度目の引越しになりますが、〈引越し魔〉と呼ばないでください!(7月27日記)

(写真は、木に止まっている「シジュウカラ」です)

見つけ出す喜び

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 「蹉跌(さてつ)」、青春期の挫折や、人生の躓きや失敗のことをいう、漢語です。「蹉」は、躓いたり誤ったり失ったりすることを意味し、「跌」も、転んだり躓いたり落ちたりすることを意味しています。「漢書・朱博伝」に記されています。高校生の頃だったでしょうか、『失敗は、成功の母。』ということばに出会って、失敗や躓きの多かった私は慰められ励まされ、それでも生きていこうと思わされたものでした。

 『あなたの探し物をしている時間って、とても多いように思うんだけれど!』と家内に、よく言われてきました。物の定位置管理が出来ていない私への彼女の四十年来の観察の結論なのでしょう。そう言えば、『あれは、どこだっけ?』とよく探し回っている自分に気付くのです。ところが、そう言った類(たぐい)の人間には、失った物を見つけ出す喜びが、人一倍あるのを知っていただきたい。また、もうあきらめていた物を見つけられる醍醐味もあるののです。ですから、物の置き忘れが、なかなか止まないのです。それは忘れ物をした副産物で、喜びも一入(ひとしお)です。これ、言い訳に聞こえるでしょうか。

 二人の息子を失った、お父さんの話があります。息子たちは、同じ量と質の愛で父親に愛されたのですが、まったく違う生き方・在り方を選択しました。自分の感情に従って、弟は遠い国に旅立ちます。父親に相談した形跡もありません。ところが兄の方は、父の家にいて、父に従って精一杯生きているように見えたのですが、彼も、弟の出奔と帰還とで、潜んでいた父への不満の思いが露にされます。日頃、父親に何でも話すことをしなかったからなのでしょう。弟は失敗と挫折と恥じの体験を通して、自分の未熟さを知らされます。その体験の真只中で、父親を思い出すのです。

 どの時代を生きる若者でも、共通して持っている権利があります。《失敗することの権利》です。だれも失敗しないで完璧には生きることは出来ないので、人は大体、失敗や挫折を通過して、大人になっていくのではないでしょうか。そうしますと、兄息子は、弟のような権利主張をしないで、生きてきた人だったことになります。自分の感情を無理やりに押し潰して、生きたのではないかと想像してしまいます。弟に遊び友達がいたように、兄にも友達がいました。でも、彼は友人たちとは、心を正直に開いて挑戦し合ったり、喧嘩をしたりがなかったんでしょう。だから《赦し》を学んだことがないし、『ごめん!』と言って《赦される》こともなかったのでしょう。放蕩の挙句、帰って来た弟を、責めない罰を与えないで、ありのまま赦して受け入れている父に向かって、厳しい言葉が、兄の口からほとばしり出ます。彼には、弟がまったく分かっていない。自分とは違った個性や過去を持っている弟を理解しようとしていません。彼は自分の物差しで弟を量るのです。
                                   
 このお父さんは、「死んでいた・・いなくなっていた」弟息子が、「生き返って・・見つかった」と違った見方をしたのです。それは父親でしか感じる事の出来ない極めて深い親情であります。自分の愛する息子を見つけ出したお父さんの当然の喜びが、どれ程のものであったかが私に、少し分り始めています。4人の子どもたちの父親にしていただいた私は、自分が失われた弟であり、頑なな心の兄だと示されるのです。兄息子は、この父親の《当然の喜び》を知るなら、弟をありのままで喜び迎え、苦しみを分け合い、弟を楽しみ愛することができるに違いありません。また駄目弟の部分を合わせ持つ私を、見捨てられないで、養い育ててくれた両親に、特大の愛を覚えるのであります。

 この週末に、この在華5年間の四度目の家に引越しを予定しています。日用品の他に、中国の友人たちが下さった物、友人や家族から送ってもらった物、『これ必要でしょう!』と娘に買ってもらった物、『マレーシア(フィリピン、日本)に帰るので、これを使ってください!』と残していかれた物、授業で必要な書籍やDVDなどが、相当量があります。どこかに無くなっていたものが潜んでいるでしょうか。また探し出して、見つける喜びを楽しめそうな七月最後の週であります。(7月26日記)

(写真は、いなくなっていた息子の無事の帰還を喜び迎える「父」です)

ごめんなさい!

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 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』、これは私の父が、小さなメモに書き残したことばです。私は、これを大切にファイルの中に、「父の座右の銘」としてしまっております。YAHOO辞書で調べてみますと、『無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。〔補説〕 禅家の公案とされ、1582年甲斐(かい)国の恵林寺が織田信長に焼き打ちされた際、住僧の快川(かいせん)がこの偈(げ)を発して焼死したという話が伝えられる 。』とありました。このことばは、父の世代の人が教えられた処世訓のひとつなのでしょう。

 摂氏40.4度、これは日本の観測史上第2位の高温記録を示した2004年7月21日午後4時の甲府市の気温です。父の書き残した言葉によりますと、あの暑さの中でも、心持次第では、涼しさを感じる事ができると言うのです。でも、どんなに私が努力をしてみても、あの日、甲府にいた私が感じた気温は、40.4度でした。しかし、その前日の方が暑かったように感じたのですが。この体感温度というのは、屋外の白いペンキで塗られた百様箱の中の寒暖計温度が標準温度なのですが、それとは違うのです。灼熱の太陽に熱せられたアスファルトの上で、空気のよどんだ中での温度は、ゆうに4~5度は高かったのではないでしょうか。今年も、群馬県の館林では、41.3℃になるとの予想が出ております。


 ところで、私たちが住んでいます華南の街は、「竈(かまど)」の様だといわれています。最近の統計によりますと、中国で最も暑い街は、福州、杭州、重庆、长沙だそうで、犬が、道端の溜まり水に横たわってお腹を冷やしている街の光景を目にしたこともあるほどです。今日は、最高位温度37℃、最低温度27℃の予報が出ております。『雅仁、人生には、苦しい事が多い。一人の男、夫、父として、また一人の市民、国民、地球人として生きていく上で、苦しさに負けないで生き抜くんだ!』と言われたように感じています。61年の父の短かった生涯のことを思うことが、私にはしばしばあります。父は、火の様な人生を生きて来て、耐えかねることも、涙を流して泣いたこともあったことでしょう。県立の横須賀中等学校に入学したのですが、家庭の事情で、東京の私立学校に転校し、親戚に身を寄せて通学しなければなりませんでした。十代の前半で、生まれた家や家族から遠く離れて、友人たちとも別れなければならなかったのは、不本意であり、やはり辛い体験だったに違いありません。

 「ジョゼフ」ですが、17歳の彼が、母違いの10人の兄たちに妬まれ憎まれ殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られてしまうのです。そのエジプトでも何度も不遇の体験をしますが、30才でエジプトの王パロに継ぐ地位に昇進するのです。「人の悪意」の背後に「至高者の善意」を、ヨセフは発見するのです。その「善意」が、彼の人生に、いつでも、どこでも及んでいたのです。彼の不幸な体験は、父や兄弟たちを大飢饉から救うためであり、やがて、この家系から出る者が、人類に大きく貢献していくのです。私の父も、過酷な人生を耐えて生き抜いてくれたことで、私たちの今があるわけです。ヨセフは、そんな兄たちを赦したのです。その様に、父にも赦すべき人があって、人生の最後の病床で、赦す言葉を私は聞きました。子どもの頃の辛い日々のことではなく、懐かしく楽しかった日を思い出して語っていたのです。『辰江さん(それまでは「あれは・・」としか言いませんでしたが)は、料理が上手だった。シュークリームを作ったり、カツを揚げて食べさせてくれたよ!』と話していました。母から聞いた話ですと、『弟や妹にはおかずがいっぱい入った弁当を持たしたのに、俺のは〈日の丸弁当〉で、梅干だけだったんだ!』、と激白していたようですが。そのように、母は父の語らない子供時代の様子を時々話してくれました。きっと、父のひがみもあったかも知れませんね。産んでくれた母は、家格に合わないとの理由で離縁され、継母に養育されたのです。

 
 そんな死の間際に、継母を赦す父の姿を見ることができたことは、感謝なことであります。私たちの幸いは、このような〈坩堝(るつぼ)〉の中にいることが耐えられるように造られているではないでしょうか。私にも赦されなければならない人、赦していただかなければならない人がいます。みなさんはいかがでしょうか。「心頭滅却すれば」、人を赦せるのかと思いますが、駄目ですね。自分が、今、赦されて生きているという事実に立たない限り、人を赦すことができないのに違いありません。相手よりも先に、『ごめんなさい!』と言いたいものです。

8(写真上は、「枯山水(かれさんすい・恵林寺の庭園)」、中は、「華南の街」、下は、「横須賀の海」です)

だって!

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 『嘘の公約で、政権を奪取しました!』、ラテン語だかイタリア語だか分かりませんが、マジックをかけたような、耳に響きの良い《マニフェスト(「共産党宣言」にこの語が翻訳に当てられています》」という語句を使って、口先の術で、国民を煙に巻いて騙したのだということを、今朝のニュースが伝えていました。政権を掌中にしてから、『財源の見通しが甘くて・・・』と先の選挙時の約束破りを、理由をつけて陳謝したからです。初めから実現性のない約束をしておいて、今になっての謝罪するとは、ただただ呆れ返るばかりです。昨年帰国時に、保守的だった次兄が、一生懸命に民主党(旧社会党)の代議士候補を応援しているのを見て、『どうして?』と驚きました。

 私の政治的背景は、曾祖父がK県の県会議員をし、県会議長もしたと聞いていましたし、国民の総意、いえ天意で長く政権を守り続けた政党を支持するのが一番だと、無言のうちに父にも教えられて来ましたから、保守陣営を私は支持してまいりました。人の集まりですから、完璧ではないことは十二分に承知しておりました。汚職や法からの逸脱など、問題がありましたが、総じて高評価を私は下してきました。吉田茂も、鳩山一郎も、石橋湛山も、田中角栄だって、戦中の名宰相の広田弘毅とともに、好きな政治家でした。ブログを読まれて、もうご承知と思いますが、このように自分の政治の背景を表明するのは、初めてのことです。

 それにしても、今日日、自民党にも、『この人ならば!』という器を見いだせないのが残念でなりません。国会答弁を聞いていて、溜飲の下がる思いをしたことのある亀井静香は、離党してしまいましたし、中川昭一は、急性心筋梗塞で、惜しくも亡くなってしまいました。「昭一さん」には、ぜひ、いつか政権を委ねたいと思っていましたので、その急逝を非常に残念に思ったのです。憂国、愛国、国際平和を願う世界人、『子供たちが日本に生まれたことに誇りを持てる教育を! 』と願う器が育っているのことでしょう。現政権は早期に退陣して、こういった器が担ぎ出されることを、切々として願うのであります。健全な政治信条を掲げて、希望に満ち溢れる国づくりに邁進してくださるリーダの台頭を切望します。


 奴隷として売られた国で、王に次ぐ第二の位について、国政を司った器がかつておられました。この器は、世界が大飢饉に瀕したときに、驚くほどの知恵を用いて、飢饉前の大豊作期に、莫大の量の穀物を備蓄したのでした。長期にわたって世界が大飢饉に陥ったとき、世界中の国々から、この備蓄された食糧を求めて彼のもとにやって来ました。その中に、彼の属した民族の代表がいました。この民族が滅びる事のないように、『天意によって、自分は前もって、この豊かな国に遣わされたのだ!』との告白を残しています。この大災害の後の復興のおぼつかない我が国、将来復興の見えない日本、あらゆる面で低迷している日本、どのように政を司ったらいいのか全く分かっていなくて右往左往している政権に落胆させられている日本、そんな日本に、世界中が激励メッセージを送り続けています。テニス選手のシャラポアが、被災国日本に心を向けてると聞きました。私たちの中国の友人たちも日本の復興を心にかけていてくれます。「なでしこJAPAN」が起死回生の快挙を遂げてくれました。なによりも戦争後の廃墟から立ち上がった父や祖父の時代の根性の〈遺伝子〉を、現代の日本人が確りと受け継いでいるのですから!

 だから、手前味噌な、私利私欲な、小心翼翼な器に代わる、謙遜で国と国民を愛する首長の就任を心から願ってやみません。奴隷として砂を噛むような青年期を過ごし、その才覚を認められて世界を襲った滅亡から救った、「ジョセフ」のような宰相がいたら素晴らしいですね。このところ、そんな事ばかり考えております。日本の現状を憂い、日本を愛するからです。だって!日本には、年老いた母がいて、息子たちがいて、孫たちがいて、兄弟姉妹・友人・知人・同胞がいて、彼らが輝いた明日を生きて行けるように願うからであります。「一家人(yi jia ren)」の幸せを!


(写真上と下は、日本のための「祈り」、中は、王に進言する「ジョセフ」です)

危惧

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 「七十年安保」に反対した闘争が、1968年頃から激化し始めていました。日本中の高校や大学を席巻し、学業や研究どころではなくなっていました。まるで戦乱の最中(さなか)に、日本が放り込まれたかのような喧騒と怒号があふれていたのです。67年に学校を終えて、JR市ヶ谷駅や九段に近いところに本部があり、研究所と研修センターは、都下の織物の街・八王子にあり、そこに勤めていました。4年目の正月を迎えた頃、中野区内の高等学校からの招聘があって、そちらに卒業証明書などを提出する必要がありました。それで、久しぶりに母校に行ったのです。

 バス停を降りて校門に向かって右に曲がったとき、私の眼に校門が鉄条網で何重にも巻かれているのが目に入りました。安田講堂の占拠、新宿駅の騒乱、多くの大学の閉鎖は、テレビの映像で観ていましたが、自分の出た学校までもが同じだったのです。構内に入るには、人一人が出入りできるだけの隙間があるのみでした。早慶のような知名度はないにしろ、自分の母校の変わり果てた様子は、悲しいというよりは、〈憤り〉を覚えました。授業は行われていませんでしたが、事務室は開いていて、書類の発行をしていただいたのです。

 私は、デモや投石やゲバ棒による社会改革など、全く考えたことがありません。徒党を組んで権力に反抗するような主張にも反対でした。ほとんどの日本人、学生も社会人も、そう考えていたと思います。そういった主張は、中国の紅衛兵運動から始まって世界中の若者を巻き込んでいた時代だったとかと思いますが。日米安全保障条約が自動延長することに、賛成派だったからもあって、極東の緊張の中で、緊密で親密な日米関係は必要不可欠だと、私は思っていました。自衛隊があることも、警察庁に公安部があることも、国の安寧秩序を守るためには、あってしかるべきだとの結論を下していたのです。何よりも、国土も文化も生業も、先達たちが守り残してくれたもので、それらへの感謝が心の中にあるからです。しかし、かつてのような侵略戦争に賛成しているのではありません。国を脅威から守ることは、国の当然の行為であり、平和を願う一人の国民として市民として当然だと考えていたからです。


 私より二回りほど年配のアメリカ人実業家は、『私は、家族を守るためには、家に侵入して害を与えようとするものに向かって、銃をとります!』と言うのを聞きました。彼が日米の太平洋戦争に従軍した兵士だったからではなく、ひとりの市民として家族を守りたいとの心情からの思いなのです。彼は平和を愛する、実に穏健なものの考えを持たれ、人柄はとびっきり柔和な方でした。こういった方の考えの基調は、「義」や「愛」や「平和」なのです。私の愛読書には、『・・・義と・・・愛と平和を追い求めなさい。愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです・・・争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。 』と書いてあります。

 こういった学生運動の中に、現首相、前官房長官などがいました。この二人は、かつては官憲に刃向かってゲバ棒を振り、火炎瓶を投げ、「浅間山荘事件」で内部ゲバでいじめや殺人を犯した赤軍派と、同じようなスタンディングをとっていたものなのです。所属した派や犯行の仕方こそ違っていても、彼らは大同小異、暴力による反抗集団の一味で、目指していたのは国家転覆だったことは間違いありません。ただ彼らの、その頃を知っている方の話ですと、この二人とも、浮腰で小心翼翼として、第四列目に位置していつでも逃げ切れる位置を確保しており、前線で火炎瓶を投げていた学生の弁当運びをしていたのだそうですが。煮え切らない、燃え切らない学生運動家、挫折した中途半端な学生運動家でした。しかし、一国の首長になっても、その〈反抗心・暴力革命の心〉は持ち続けているに違いありません。最近のニュースによりますと、北鮮の拉致に協力した犯罪者の子が所属する政党に、5000万円以上の政治献金をし、彼の属する政党からも1億数千万円の献金をしてきたのが、現首相だと報じています。


 どうしても日本が心配です。一国の政府の首脳が、このような過去を持つというのは、どうしても悲劇で、今後の動向が危惧されて仕方がありません。今こそ、上杉鷹山のような、西郷隆盛のような、広田弘毅のような人材が、国に求められているのではないでしょうか。清廉潔白で、判断力と決断力に富み、愛国の志を持つ、少なくとも五十代前半の政治家の出現を望むものです。そういった器が、備えられていると信じる七月の下旬であります。繰り返して、同じことを申し上げたいのです。

(写真上は、「母校」の玄関脇の様子、中は、「70年安保」の様子〈四列目にカンがいますか?〉、下は、上野の「西郷隆盛像」です)