がんばろうNIPPON!


 私の父親は、スタルヒンや沢村栄治が活躍していた頃からの巨人軍フアンでした。お酒を飲まなかった、そんな父の唯一の楽しみは、キンツバをほおばりながら、渋茶をすすって、テレビ中継で、巨人軍の試合を観ることだったのです。放送時間が終ってしまいますと、小型のラジオを取り出して、耳をつけて聞いていました。贔屓の巨人軍が勝っても負けても機嫌を損ねたりするようなフアンとは違っていたのです。たまには、こっそりと後楽園に行っていたようです。そんな、ただ巨人軍を愛していた父が、長年見聞きしてきた歴代の伝説の選手を、ときどき語ってくれました。そんな選手たちが、私たち兄弟も好きだったのです。もちろん勝つことを願っていたのですが、負けても、一生懸命に闘った巨人軍を激励していた父でしたが。

 「十六貫(60キログラム)」の恰幅の良かった父でしたが、背が低かったのです。もう少し背があったら、野球をしたかったのではないでしょうか。我々が子供時代に憧れていた大下とか小鶴とか千葉などよりも、上の世代でしたから、草創期のプロ野球選手を、少年期には夢見ていたのかも知れません。そんな父を見て育った私たち4人の男の子たちは、父が買ってきてくれたグローブで、父の手ほどきでキャッチボールを覚えました。少年期を過ごした東京の郊外に住んでいた頃は、家の前の旧甲州街道の路上で、兄たちとボールを投げ合っていたのです。和服のすそをパラッとさせながら、独特のホームで投げていた父の姿が目に浮かびます。暴投で、近所のガラスを何枚割ってしまったことでしょうか。その修理のためにガラス屋に飛んで行って、寸法どおりにガラスを切ってもらって、なけなしの小遣いで買って、はめる技術も覚たのです。そんなトレーニング(?)で肩が良かったので、ずいぶんと遠投することが出来ました。野球好き4人の中で、すぐ上の兄だけが高校で野球部に入って活躍しました。惜しくも甲子園には行くことは無かったのですが、この兄が一番野球好きで、巨人贔屓だったと思います。

 このところプロ野球が面白くなくて、人気が凋落してしまったようですね。サッカー人気に押されているというよりは、プロ野球自体の面白みが無くなってしまって、フアンを離れさせているのかも知れません。すぐ上の野球少年だった兄は、猛烈な巨人フアンでした。東京ドームができてからも、シーズン中には何度も足を運んで応援していましたが、もう最近ではテレビで見ることさえしなくなっているそうです。ジャイアンツが他球団の優秀な投手や4番打者を、契約金を積んでスカウトしてきて、チーム編成をするようになった頃から、面白みがなくなってしまったのではないでしょうか。金田、落合、廣沢、清原などです。多摩川のグランドで育てた選手ではない、出来上がった優勝請負の大選手がいても、勝てないチームに成り下がったのです。

 プロ野球が面白かった頃には、少年たちに夢があったと言えるでしょうか。夢でキラキラしている少年たちを見つめる少女たちもでした。相撲もプロレスも面白かったのです。そういった夢を心に秘めた少年たちが大人になって、夢で培ったパワーで、高度成長期の日本をあらゆる面で支えてきたのです。あの頃は政治も、政治家も、少々危険だったのですが面白かった。それに反抗し、革命を夢見た学生運動の中にも、青年なりの正義感が潜んでいたのかも知れません。テレビも映画も、内容は嘘っぽかったし、幼稚だったのですが、面白かった。見て、聞いて心を励まされたからです。

 それとは違って、停滞期から衰退期をたどってきている今の日本に、全く元気が無いのです。新幹線が走り、オリンピックが開催され、万博が開かれて、矢継ぎ早のイヴェントが行われた頃、少年たちの心は、嫌というほどに高揚させられていたのです。それも暫くのことでした。世界有数の文化的な裕福な国家にはなったのですが、頑張りの陰で、どこかに心を置き去りにしてしまったのです。

 この3月11日の東日本大震災、原発事故以来、それが急加速してしまいました。なんとなく諦めの気運が、日本の全土を覆ってしまっているように感じられてなりません。だからこそ、この時代を生きる少年たちに、夢や理想や幻を持ってほしいではありませんか。こんなに美しい風土、美しい言語、穏やかな人間性を宿している国に生まれて育ってきているのですから。決して叶えられないけど、夢で心をパンパンにふくらませている時期こそ、人を心を成長させるのではないでしょうか。『少年よ大志を抱け!』と言って日本を後にした札幌農学校のクラークは、明治の札幌農学校の一回生にだけに、そう語ったのではなく、その後の日本の少年たちの心に、《野望》や《野心》を抱いて生きるように挑戦したのだと思うのです。それが私たちの父の世代であり、私たちの世代だったのですから。この気概を子や孫の世代にも受け継がせたいものです。春から始まったスポーツシーズンが一段落した今、私の左腕には、『がんばろうNIPPON  Unite To be One !』と刻まれたアームバンドが巻かれています。〈NIPPON〉のうしろに、〈の少年たち!〉と、私の切なる思いと願いを添えたいのです。

夕日

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 2006年の夏からほぼ1年、天津のアパートで過ごしました。四方八方、山かげの見えない平原の真只中に、そのアパートがありました。7階の陽台(テラス)からは、朝日が昇り、夕陽が沈んでいく様子を眺めることができました。大陸の広大さに驚かされたのです。秋から冬にかけて、部屋の中を温める〈暖机nuanji〉に温水を配る施設の煙突からモクモクとした石炭を燃やす煙が立ち上って、とても印象的でした。日本では見られなし光景だったからです。天気のよい日には、大陸の太陽が真っ赤に空を焦がしながら沈んでいきました。日本の夕日とは、色が断然違うのです。八ヶ岳と南アルプスの山陰に沈んで行く夕日を35年余り見つめて過ごしましたが、それは淡いだいだい色や茜色でした。でも、天津のベランダから眺めたのは真紅と言ったらよいでしょうか。雄大な、まさに「大陸の夕日」なのです。いのちを宿した塊が、血潮の色を現わしながら沈んでいくのです。

 阿倍仲麻呂が、遣唐使の一員として、この地を踏んだのが、17歳だったと言われています。彼もまた、長安の都で沈み行く夕日を眺めたことでしょうか。父の寵愛を受けたジョゼフが、エジプトに行った年齢と同じです。長安もエジプトも、彼らにとっては、どのような町だったのでしょうか。仲麻呂は、外国人留学生として大学に学び、当時の国家公務員上級試験である「科挙」に合格して、玄宗の寵愛を受けています。彼は「朝衡」と言う中国名で呼ばれ、高位の役職に任じられたのです。この国が、外国人を積極的に登用することにこだわりがなかったのは、素晴らしいことだったと思えて仕方がありません。それは多民族国家なればこそ、一つの民族に拘らない人材の登用ができたからでしょうか。日本のように、単一民族(そうは言っても大陸から渡来した蒙古族や中華民族、南方からやってきたミクロネシアン、北方民族などの民族構成であったのですが)でしたら、なかなか難しいのかも知れません。仲麻呂は、50を過ぎてから、帰国が許され、懐かしい故国を目指して船出します。ところ防風雨に阻まれ、難船に遭い、その道が閉ざされてしまうのです。結局、長安の都に戻って、彼の地で、七十三年の生涯を終えております。

 一方、ジョゼフは、兄たちの憎悪の的とされ、奴隷としてエジプトに売られ、異国の地で、地を這うような生活を強いられます。しかし、天来の祝福をいただいて、逆境を跳ね返して、エジプトの地で生き抜くのです。それも誤解や誘惑の日々であって、決して平坦な道ではなかったわけです。ついにジョゼフは、パロの次の位、宰相の地位に登り詰めます。実力もあったのでしょうが、記録文書によりますと、「大いなるものが彼と共にいた」と記されてあります。当時、世界を襲った飢饉の只中で、父ジェームス一族は滅亡の危機に瀕します。ところが、未曾有の収穫の5年間に、ジョゼフはエジプトの食糧管理責任者として蓄えてあった食糧によって、世界を救うのです。そして、父の家族をも飢饉の中で救うのです。やがてやってくる飢饉の年年のために、ジョゼフを用いて、食糧を備蓄させたからでありました。その不可思議な境遇の中で、ジェームス一族は飢饉の中で救われるのです。

 故国で無難な生涯を過ごしていたら、どんな人生が仲麻呂やジョゼフにあったことでしょうか。人の一生は実に不思議なものではないでしょうか。自分の計画した通りに生きられる人は、きっと少ないのではないかと思います。私たちも、退職後、孫たちのおもりをして、日本で過ごす代わりに、一念発起して、中国大陸に渡りました。願いがありましたが、是が非ではなかった私の前に、一つ一つの扉が開いていったのです。そうこうしている間に、在華6年目を迎えるに至りました。この一ヶ月ほど、昔治療した歯が痛んで、帰国して治療しようと思いましたが、友人の友人が医科大学の歯科医をしていましたので、その方に診てもらうことにしたのです。治療を終えた晩、その歯が痛んで仕方がなく、鎮痛剤を飲んで二日ほど我慢していたのですが、耐えられなくなって、国慶節の休みの最中でしたが、診てくださった医師の友人が開業医をしていて、そこに飛んでいきました。診てもらいましたら、治療した歯の隣の歯が痛みはじめていたのです。彼女のご主人(医大の先生で開業医)が、その近くで近代的な設備の歯科医院をしていて、そこに連れていってもらって、診てもらいました。今まで日本の歯科医にかかってきましたが、こんなに丁寧に見診くださった医師はいませんでした。

 異国の地の治療台に座って、すべてをお任せできることに、国境の隔たりや過去の遺恨が取り去られているのを感じたのです。外国人への特別な配慮や厚意に、ただただ感謝で一杯でした。仲麻呂もジョセフも、外国人として、異国の地で、そんな私のような経験を、きっとしたのではないでしょうか。

(写真は、海岸線の綺麗な、「霞浦」の夕日です)

裸の私

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 ずいぶん昔、「裸の王様」の話を、自分で読んだか、誰かに読み聞かせしていただいたことがありました。『見えない者は愚か者なのです!』という仕立て屋の言葉にだまされる王様が主人公です。特別な人にしか見えないという豪華な布で、仕立て屋は特別仕立ての素晴らしい服を縫い上げるのです。その洋服を王様に献上します。それを喜んだ王様は得意満面で着てしまいます。そして国民が見守る中を、王様は誇らしく城下の街を闊歩するのです。家来も国民も、『なんと素晴らしくお似合いでしょうか!』とほめるのです。ところが無垢な一人の子どもが、豪華な服を着ていると思い込んでいる王様に向かって、『王様は裸です!』と言いました。その一言によって、王様の裸の現実・事実を、王様も国民も認めるのです。『変だ!』とは思っていましたが、「愚か者」になりたくなかったので、言はれるままに王の面子を保つためでしょうか、着てしまったら、脱げなかったわけです。

 人はだれでも、「愚か者」と思われたくないのです。ですから、おかしいのが分かっていても、人の目や言葉を気にするあまり、この王様のような行動を取ってしまう傾向があります。人の目を気にするのですが、その奇異な行動がもっと人の目をひきつけてしまって、大恥をかいてしまうことになります。この王様のことを考えていて、思わされるのは、『王様は裸です。だまされているのです!』と、はっきりと指摘し忠告してくれる妻や子どもや家来や国民や友人を持っていなかったことが、彼の一番の不幸なのです。何時でしたか、ある自動車会社の欠陥車が死亡事故を起こしたニュースで賑やかなことがありました。その欠陥を告発したのが内部者だったと伝えられています。『黙っていればいいのに!』と思われるでしょうか。会社やユーザーや家族を愛するがゆえに、言わざるを得なかった、その社員の苦渋の選択と決断と勇気をほめたいのです。凶器にも変わる自動車を作り、売る者が持っている当然の社会的責任を果たしたわけです。しかし、そうさせない組織のしがらみや重圧があり、嫌われたくない誘惑だってあったことでしょう。でも、それ以上の事故や事故死を出さないために、また企業で働く者と家族の生活のこと、さらには傘下にある関連企業の存続への配慮などを考えますと、内部告発されたことは最善だったのです。

 ある書物に、デーヴィッド王とサウル王の物語があります。この話には考えさせられることが多いのです。サウル王は聞く耳を持たないばかりか、言おうとする者の口を封じ、言えない環境作りをして来ていたのです。ところがデーヴィッド王には、罪や過ちや欠点を指摘してくれる部下や友人がありました。彼自身が、権威を横暴に振り回さないリーダーだったので、《メンター(教育的な配慮を持った助言者)》を持つ余地が心のうちにあったのです。サウル王は、自らの欠陥のゆえに滅び、デーヴィッド王は、それを克服して王の職務も生涯も全うしたのです。アンゼルセンの作った寓話は、様々に解釈されるのでしょうけど、自分で気付かないか、勇気が無くて間違った選び取りをしている私にも、実に教訓的なのです。

 久しぶりに家に帰ってきた娘が、『お父さん、さゆりちゃんに、あんなこと言っていの?ちょっと厳しすぎるよ!』と言われたことがありました。知人のさゆりさんと私の会話を聞いていて、後になって二人になったときに、娘が、そう言ったのです。それほどきついことを言った覚えはなかったのですが、男ばかり4人兄弟の家庭で育った私には、そういった〈人を傷つけない言い方〉への配慮が欠けていたのかも知れません。娘たちは、私の話ぶりで、多分傷ついて育ってきていたのでしょうか。人の気持を察する優しさが育っていたのです。これは私にとって少々難しい学びでしたが、『言葉に気をつけなかれば!』 と思うようになって、まさに、〈負うた子に教えられ〉の経験をしたのです。親の面子は立たないので、『子どものくせに黙ってろ!』と言いたい気持ちもなくはなかったのですが、親の欠陥を黙っていられなくて、言ってくれた娘の気持ちが分かって、かえって感謝を覚えたことでした。そういった義を学んで育った娘の成長ぶりに、これまで何度となく助けられてきたか知れません。

 『雅仁、あなたは、まだまだ裸ですよ!』と、事実を言ってくれる家族や友人が必要な、足りなさに気付かされる秋風の日曜日であります。溜息をつく代わりに、感謝を覚えたいものです。

(写真は、母馬におんぶされる子馬です)

揚げ足を取る

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  「揚げ足を取る」を、広辞苑でみますと、『相手が蹴ろうとしてあげた足を取って逆に相手を倒す意から、相手の言いそこないや言葉じりにつけこんでなじったり、皮肉を言ったりする。 』とあります。相撲の技の手の一つですが、豪快な上手投げとか呼び戻しなどに比べると、小技と言えるでしょうか。相撲の勝負にしろ、人間関係にしろ、姑息(こそく)なことだと言えるでしょうか。

 麻生太郎元首相が、国語力の弱さを糾弾されていたことがあります。学習院大学を出て、スタンフォード大学に留学した学歴を持っていても、語彙力が足りなくて、マスコミから何度となく槍玉に上げられていました。非難する新聞記者は、言葉に仕え、言葉で生きている業界人ですから、語彙力が豊富であって当然ですが、それを威の傘に、間違いを糾弾するとは、実に姑息で、卑怯な方便だといえます。かたや首相たる麻生太郎は、国政を預かる身です。漢字を読み違えたり、語り違えても、国事に当たる能力に関係があるのでしょうか。それだったら、国語学者が政治家にならなければなりません。

 NHKのベテランアナウンサーでも、時には間違いをすることもありますし、いわんや新人アナウンサーでしたら、ちょくちょくあるようです。この私も、覚え間違い、書き順間違いの漢字が沢山あります。何時でしたか、「にいがた」という字を間違えて書いていました。『広田さん、にいがたの「かた」の字が違うと思うのですが?』と指摘されたのです。彼女は、私を陥れようとしたのではありません。間違いを訂正してくれたのです。その時から、「新潟」の「潟」の字を正しく書けるようになったのです。小学校の時に、きっと病欠で休んでいて覚えなかったのでしょうか。40を超え、次男が新潟の高校に入学した頃のことだったと思います。彼が新潟に行かなかったら、覚えないまま今日にいたっていたのだろうと思います。語彙力と人格、語彙力と行政能力と、ほんとうに相関関係があるのでしょうか。

 一国のリーダーを揶揄し、侮辱し、すなわち、「揚げ足取り」をしていることは悲しいことではないでしょうか。子どもたちに、『日本の国のリーダーは馬鹿なんだ!』と教えていることになります。そのようなことですから、日本の国を愛し、国を思う思いが、この時代の子どもたちのうちに育たないのではないでしょうか。ある国で、女性が、姦淫の現場で捕まえられました。その罪は「石打ち刑」だったのです。ひと騒動起こったとき、ある人が、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言いました。すると彼女を取り巻いていた人のうち、年長の者からはじめて、一人一人その現場を去っていくのです。人を糾弾し、避難できる人は、間違いを犯したことのない者だけだというのが、この物語の伝える1つの原則です。だれが麻生元首相を非難できるのでしょうか。できるのは金田一京助か白川静ならできそうですが、お二人とも物故者です。

 先日も、ある閣僚が、〈問題発言〉をしたと言って、マスコミが騒いでいました。この方の友人が東日本大震災の津浪で亡くなったです。その彼を、『逃げなかったバカな奴!』と言った言葉がマナ板の上にのせられたのです。私は、この言葉を聞いたときに、〈反語〉だと思ったのです。『あいつは馬鹿だよ、逃げていれば助かったのに。逃げないで余計なことをしたからだ。惜しい友を失った。残念!』という風に聞こえたのですが。正しいのかどうか分かりませんが、私は善意で聞くことができたのです。閣僚のポストは、そんな一言で失うほど軽いものなのでしょうか。支持しようが支持しまいが、一国の閣僚の任に当たっている方への〈敬意〉が全く感じられないのです。もちろん、私は以前の首相のあり方に賛同できませんで、批判をしましたが。それは、国を憂えたからであります。揚げ足をとったのではないと確信しています。

 〈言葉の暴力〉、この時代のマスコミがしていることではないでしょうか。私たちの国の首相の在位期間が非常に短く、めまぐるしく政権が交代する裏に、マスコミの関与が強力にあるように感じてなりません。どうして、国民の総意として選ばれた人材を育てていこう、支えていこうとしないのでしょうか。私は前の首相は好きではなりませんでしたが、選ばれたからには支えていこうと決心しました。しかし、器ではなかったことは、誰もが認めざるをえない露呈された自明の事実だったからです。

 昔、小兵(こひょう)の鳴門海とか若葉山が、高位の巨漢の横綱や大関の足をとって、勝った相撲がありました。あれは小気味の良い足取りでしたから、賞賛に値しますが、言葉尻を取り上げての姑息な〈揚げ足取り〉は大っきらいです。マスコミの猛省を促す!

(写真は、江戸期の大相撲の錦絵です)

ジョージ

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 「和製」という言葉があります。goo辞書によりますと、「日本でできたもの。日本製。国産。ex.―プレスリー」とあります。1958年、中学の頃でしょうか、有楽町の駅のそばにあった「日劇」を舞台に、大ブームを起こしたコンサートが開かれていました。若者たちの間で人気があったのが、〈ロカビリー〉という歌です。それは、アメリカの若者の間で爆発的な人気を博した音楽で、ポール・アンカ、ニール・セダカ、コニー・フランシスなどがいました。彼らの歌った歌を、未だに口ずさむことができるのです。と言っても、このブームに、心を大きく揺り動かされわわけではなく、中学ではバスケット・ボール、高校ではハンド・ボールの練習に精出していましたが。日本に上陸したロカビリーは、「日劇ウエスタンカーニバル」として若者の魂をとらえたのです。当時、多くの若者を憧れさせた歌手たちの中には、平尾昌晃(「リトル・ダーリン」が持ち歌、これは日本人の作詞作曲です)、山下敬二郎(ポール・アンカの「ダイアナ」が持ち歌)、ミッキー・カーチスといったロック歌手がいました(兄たちの世代でした)。ウエスタンソングではなく、ロックサウンドでした。アメリカ仕込みの文化が、「和製」となって、受け入れられ、演奏され歌われていたのです。

 いつの時代でも、若者が好むのは、激しさ、速さ、意外さではないでしょうか。あの世代の若者も、はや60~70代になっていますから、今活躍している「SMAP」や「嵐」は、彼らの孫、いや子の世代になるでしょうか。今のグループの人気に比べたら、想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。米の代わりにパン、味噌の代わりにピーナッツバターやいちごジャム、大福の代わりにケーキ、ラムネの代わりのコーラに大きく変化していく時代の到来でしたから、大人たちをやきもきさせていたのです。

 そんな彼らの世代の少し後に、「柳ジョージ」という歌手がいました。先日病に倒れて亡くなられましたが。その彼が歌った「テネシーワルツ」が素晴らしかったのです。それはテレビの「ミュージックフェアー」という番組で、江利チエミとコラボレーションで歌われた歌です。江利チエミが亡くなる数ヶ月前の出演ですから、1981年の暮だったと思います。十代の前半では、このロックに関心をよせはしましたが、その後、ロックの麻薬臭さが気になって好きではなくなったのです。なぜかといいますと、折にふれて父に聞かされていた〈麻薬(当時は覚醒剤を”ヒロポン”と呼んでいました)の怖さ〉を知らされていましたので、自らをそれに遠ざけたかったのです。この彼は麻薬臭くなく、ただ直向(ひたむ)きに、歌を愛して歌う姿に心が揺すぶられたのです。あの地味さがよかった!今でも、中国のサイト〈優酷youku〉で見聞きすることができます。うるささを感じないロックといったらいいでしょうか、『彼のようなロックだったら、聴ける!』と思わされたのです。彼も60歳を超えていたのですね。ご両親が広島の原爆の被爆者だったそうで、そんな関係ででしょうか、私よりも3学年ほど下でしたが、もう召されてしまいました。

 この柳ジョージを、「和製エリック・クラプトン」と呼んだそうです。彼の歌のジャンルのロックは、アメリカのアフリカ系の人たちが歌い始めた歌で、ジャズやワルツやゴスペルと同じ起源なのでしょうか。奴隷として虐げられた者たちが、魂の解放と、虐待された身分からの自由を求めて歌われた、魂からの叫びが、そのメロディーの中にあります。ミーちゃんハーちゃんの好みですが、ルイ・アームストロング(”サッチモ”と呼ばれていましたが)やナット・キングコールのジャズも好きでした。柳ジョージは、土佐藩の城主の山内容堂を題材にして、ロック調で歌っていたりした、破格のロック歌手だったのです。酒飲みで、いつも酔っていた容堂を歌ったことは、禁酒のためには貢献したのではないでしょうか。ちなみに、容堂は46歳で長年の痛飲が原因して死んでいます。

 麻薬にも酒にも縁遠く、仕事や使命をいただいて、今をまだまだ元気で生きることができて、何と感謝なことでははないでしょうか。今日も、マウンテンバイクを転がしながら、秋の風を頬に受けて、近くの〈テスコ〉というスーパーマーケットの3階にある、「飲食コーナ」でアメリカン・コーヒーを飲みなが、作文の添削をしました。スターバックスに行くより近く、さらに安くてすみます。そんな私のところに、送迎バスにゆられて家内がやって来て、何と、エスプレッソを注文していました。一杯8元のちょっとした贅沢でした。今まさに心身ともに心地好い、たけなわの秋十月であります。

 そういえば、私のもう一人の師匠も、ジョージさんでした。

(写真は、「エスプレッソ」のコーヒーです)

貫禄


 『近頃の政治家は貫禄が無い、とよく聞くが、もっともなこと、当たり前のことでは無いか。貫禄のつく経験をまったくしていないからだ。楽だけしてきた政治家に貫禄は無理。無い物ねだりである。』と、私の愛読しているブログにありました。「貫禄」を、goo辞書でみますと、『からだつきや態度などから感じる人間的重みや風格。身に備わった威厳。「―がつく」「―がある」「―十分だ」』とあります。なぜ、最近の政治家は、そうなのかといいますと、この方は、『貫禄がつく経験をしていないからだ!』と結論しています。「塗炭の苦しみ」という言葉があります。これは、「ことわざ図書館」によりますと、『非常に苦しいこと。 大変な困難の中にあること。 塗は泥の意で、炭は火の意。 泥にまみれ火に焼かれるようなひどい苦しみから。 』とあります。あまりにも恵まれすぎて、冷水をくぐるような苦難の体験を通ったことがない、すなわち途端の苦しみをなめたことがないと、人に、「貫禄」が備わらないようです。

 これは、政治家だけに限られたことではありません。人としての重みが欠けているのが、現代人の一つの傾向、特徴なのかも知れません。風貌とか顔つきが、いかつくて怖そうだから貫禄があるのではありません。それは、ただ格好を付けていて、貫禄があるかのように振舞っているだけなのです。生活を通して、これは自然に身につく風格に違いありません。潤沢に物が備えられ、たらふく食べ、高等教育も当然のように受け、衣食住で苦しんだ経験がない人には、やはり貫禄がつかないのかも知れません。

 明治の軍人に乃木希典がいました。この方は、講談や浪曲でも語られるほどに、人間味、人情味のある人だったようです。東屋三楽という浪曲師が、「乃木将軍と太平」という演題の浪花節を語っています。信州の塩尻から出てきた太平(たへい)が、にわか雨の中で、乃木将軍に傘に入れてもらいながら宿に着くのです。このまま別れては申し訳ないと、一緒にお茶を飲もうと誘います。その誘いに応えて二人は、暫くの交わりを太平の投宿先で持ちます。自分の身の上を語る中で、長男は旅順の戦で戦死、次男は武勲を上げて〈金鵄勲章〉を貰って、今は退役し塩尻にいること、三男は近衛兵として「近衛連隊(天皇を警護するへ舞台)」で軍務についており、その三男の招きで上京し、面会に来たと告げます。帰りには、お国自慢の栗羊羹を、奥様にと土産にして手渡すのです。

 この太平は、それとは気づかずに乃木将軍(この時には退役して、学習院の院長をしていたのですが)に、このように軽口を叩くのです。『似てる!』と思いながら、太平には見破れないほど、乃木大将が謙遜な方だったからでしょうか。この前日には、名だたる大将の家を見学するのですが、乃木将軍の住まいに驚いています。あまりにも相応しからぬ、お粗末な〈おんぼろ屋敷〉住まいだったからです。帰国の後に、天皇に報告するための參内(さんだい)の折、他の武勲を上げた大将たちは馬車仕立てでしたが、乃木将軍は、愛馬の背に一人で皇居に参ったのです。『手柄を上げたのは私だけではない!』と言って、命を任せ従軍した軍馬にも功があったとして、『誉れを半分やりたい!』と、愛馬もろともに参内したのです。

 太平と別れて、家に帰った大将は、書生を遣わして自分の家に太平を招きます。あの話し相手が、自分の息子が出陣し戦死したときの将軍、乃木大将だとわかった太平は、彼は恐縮しながら、その家を訪ねるのです。乃木将軍もまた、二人の息子を、その時の戦で失っていたのです。将軍は、時間があれば戦死者の遺族を訪問し、『乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい。 』と、語ってていたそうです。

 明治期の大人の男子の身長(17歳男子ー明治33年・158cm、平成17年・171cm)に比べても、この乃木将軍は短躯な人だったそうです。目も不自由で、住む家も粗末で、人柄が謙遜でしたが、威厳に満ち、〈貫禄〉の十二分な人だったと語り継がれています。困難や失敗や挫折を厭わずに、命がけで雄々しく生きるならば、二十一世紀の男子でも、この〈貫禄〉を身につけることができるに違いありません。私は、口ひげを三度ほど生やしたことがありましたが、童顔はどんなことをしても駄目でした。それでも、『もう少し〈貫禄〉がついたらいいのだが!』と願う、晴天の秋の午後であります。

(写真は、太平の故郷、信州・塩尻市の「奈良井宿(中山道)」です)

幸福度

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 これまで、「幸福論」を書き著した人がたくさんいるのですが、それは取りも直さず、『人は誰もが幸せになりたい!』ということと、『だれも幸せの境地に達していない!』という結論になるのでしょうか。なんだか蜃気楼のようなもので、近づくほどに遠のいてしまい、煙のようにつかむことのできないものだというのでしょうか。

 南カリフォルニア大学教授のリチャード・イースタンが、『幸せをもたらす要因は、愛する者との質の高い時間、健康、友人、楽観人生観、自制、高い倫理基準を保つことです!』と、報告しています。これは、1975年以降、1500人/1年間の長年にわたる調査結果によるものです。この調査報告を読みますと、6つの条件を満たすことによって、人は幸福になることができそうです。これを要約しますと、〈時と人と自分を大切にすること〉が、幸せになるための要点になるのでしょうか。

 家内のおばあちゃんが、『人生って、「こんにちは!」を言ったら、もうすぐに、「さようなら!」を言わばければならないよ!』と言ったそうです。自分の生きてきた方を振り返って見ても、なんと時間の経つことが速いことでしょうか。立川の超満員の映画館で、大人たちの背中が邪魔でスクリーンが見えなかったときに、『早く大人になりたい!』と本気で思いました。タバコを吸ったりお酒を飲んだりして、早く大人になりたくて、背伸びばかりしていた中学3年くらいで、ほぼ大人並みの身長173センチメーターになりましたから、背格好だけは大人になりつつありましたが、肝(きも)は小さくて幼く、まだまだ未熟な自分を強烈に感じていました。

 『もっと確り勉強しておけばよかった!』と、後になって悔やむような学生時代を過ごしました。中高の恩師の紹介で、社会人になり、一人前の顔をして、あちこちと出張して、本物の大人の社会に突入したのです。そして、ついに一人の「佳人(かじん)」と出会って結婚し、子どもが四人与えられて、二人で夢中で育てました。かつて親にしてもらった様に、自分に養育を委ねられた子どもたちにもしてあげることに責任を感じたのです。下の息子が二十歳になったときに、『親がすべき義務は果たし終えた!』と思ってみました。それでも、大人になっていく四人の相談に乗ったりしていましたから、親子の交わりは、親である私たちにも子どもたちにも必要でしたし、これは子どもたちがいくつになっても変わることにない、〈親子関係〉に双方があるからなのでしょう。

 子育て中ほど、充実していた時代はなかったのではないでしょうか。もちろん仕事をしながら、父親としての責務を遂行していたのですが、夕には疲れて熟睡し、朝には目覚めて新しい日の責任を負いながら、日を重ねていたのです。私は疲れれば、車を走らせて山奥の温泉につかったり、蕎麦やうどんを頬張りに行ったりして、気分転換をはかる機会もありました。ところが家内は、四人分のオシメの洗濯を重ね、三度三度の食事を用意し片付けるという、とてつもない同じような日々を積み重ねて(もちろん四人の子どもたちの成長を実感する喜びはあったのですが)、まあ息をつく暇さえなかった30年だったのです。『申し訳ない!』、『女、いえ母親は強いなあ!』、というのが家内を見ての率直な思いでした。


 そんな家庭でしたが、人の出入りが多かったのです。一時は十人くらいで、一緒に生活をしていたこともありました。『あの人たちは、今、何をしているんだろう?』と、消息のわからない方が何人かいて、少々気がかりです。タバコも酒も飲まず、悪い遊びをしないで過ごした日々は、まあまあ質の高い日々だったでしょうか。友人も、中国にも日本にもアメリカにも、そこそこいますし、健康であったと言えるでしょうか。39才の時に、ドナーとして腎臓の摘出手術をしたり、屋根から落ちて肋骨を折って入院したり、自転車で転倒して腱板断裂で入院したことはありましたが、総じて健康だったと思います。まあ〈短気〉は、どうも治りきらなまま持ち越してきていますから、この「自制」は落第点かも知れません。これだって、『正直だから腹がたつんだ!』と自己弁護の内です。家内に厳しいことを言って気まずい時も、寝て起きると忘れるてしまっているので、楽観主義者(被害を被った家内は気の毒ですが)だと思っています。最後の「高い倫理基準」は、若い日に、師匠と師匠の友人たちから、徹底的に叩き込まれましたから、心の戦場では、金と女と名誉との激烈な戦闘を繰り返しながら今日を迎えていますから、まあまあ及第でしょうか。ただし、これは自分の意志の強さなどではありません。

 そうしますと、イースタン説によって、総合点で合格すれすれ、まあまあ幸福な生き方を、これまでしてくることができ、これからも、幸せを噛みしめることができるのではないか、そう自負しております。こんな自己点検を、今日はしてみました。青い鳥が運んでこなくても、ごく至近、自分の心の内に、幸せって小さくあるのではないでしょうか。

(写真上は、廃駅になった「幸福駅」の表示版、下は、「小さなことを喜ぶ」です)

不肖

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 10月10日は、日本では「体育の日」。生まれ故郷では、「駆けっこ」のことを「跳びっこ」と言った。村の秋の運動会で、就学前の代表に選ばれて部落対抗のリレーに、就学前のランナーとして出場したのである。収穫を終えた村では、祝祭の日でもあるかのような喜びが満ちていた。蓄音機の上の黒く光って回るレコード盤から、『赤いりんごに唇寄せて・・・・』と言う流行歌が流れていた。村で唯一の会社で、軍需産業に従事していたからであろうか、〈親の七光り〉での選出だったのである。ところがスタートの号砲に驚いた私は、漫画の出来事のように、みんなと反対に向かって走ってしまって、一番びりに逆貢献してしまったのだ。俊足だった兄たちは、足のろい私を囲んで、悔しがって頭を小突いたのである。それ以来、部落でも学校でも、私は代表選手になったことがない。

 そんな私を、父は、特愛してくれた。小学校に入学する私のために、日本橋の三越で、帽子から靴まで一切を買い揃えて、山奥の我が家に送らせたのである。なんと靴は、足型をとっての特別注文だった。それで身を飾った私の写真が、残っている。写真屋を呼び寄せてとらせたのである。ところがである、入学間近になって、肺炎を患った私は、町の国立病院に入院してしまい、入学式で父を喜ばすことができなかったのだ。だから写真は、退院して病み上がりの私を写したものである。入院中に退屈した私は、母にはさみを持ってきてくれるように頼んだ。実によく切れるはさみだったので、何でも切りたくなった私は、毛布や布団まで切り刻んでしまったのだ。母は、そんな私を叱らなかった。

 父には拳骨をされたことがあったが、母に叱られた記憶はまったくない。兄弟姉妹のいなかった母は、後年、『娘がいたら自分の出自を語れたのだけど、男の子たちには語れなかった!』と、回顧録に書いているから、娘が欲しかったのだろう。母は、父に男の子を4人産んだ。父も入れると5人のヤンチャな男の子を、母は育てたことになる。洗濯機も炊飯器も水道もない時代だったのだから、洗濯や食事の用意は大変だったに違いない。愚痴をこぼさなかったし、嫌がることもない。育って行く4人に、いや5人に献身的に仕え続けてくれた。ある時、上の兄に、縄跳びで遊んでいたときに、地面にたたきつけられたことがあった。大声で泣きじゃくって家に飛び込んで行った私を、声を聞きつけて玄関の上がりがまちで待っていた母は、私を両脚の間に入れて、頭を撫でて抱え込んでくれた。その優しさで、痛みがいっぺんに飛んでいってしまったのである。

 溺愛の子、兄たちより父に特愛された子は、我儘で苦労することになった。これがなかなかの強者で、なかなか治らないのである。どんなに苦労したことか、見かねた父が、多摩川の岸に小学校4~5年の私を連れていき、二人のところでお説教をしてくれたのである。その諭しの効果でだろうか、私はすこしずつ変えられていくのである。しかし、愛された子には、特別な恵みがあるのだと思う。愛されて育った者には、心の安定があるのかも知れない。そんな変な確信があって、ここまで生きてこられたのだ。肺炎、落雷、水難、落下、自動車事故、転倒、様々な死の瀬戸際をくぐり抜けても、生きてこれた。『家族で一番早く死ぬのだろうか?』と思っていた私だったが、今日まで生きてくることができた。父は、私たちの結婚式の直後に召されてしまった。ところが、母は94歳で未だに、『元気!』と弟が知らせてくれている。その母に、未だに心配をされている不肖の三男である。昨日、娘から、孫が学校対抗のサッカーの試合で得点したと知らせてきた。いよいよたけなわの秋である。

(イラストは、小学校の運動会の定番「玉入れ競争」です)

生きる

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 もう6~7年ほど前になるでしょうか、NHKのテレビで、「カウラの大脱走」と言う番組を放映していました。「カウラ」とは、オーストラリヤのシドニーの西にある町で、戦時中に、ドイツとイタリヤと日本の捕虜を収容した収容所があった場所です。そこに日本軍の捕虜が1000人以上収容されていました。ある兵士は、『殺してくれ!』と嘆願しますが、『私たちの国では捕虜になるのは勇気のあることなのだ。最前線に出て戦わなければ捕虜にはならないからです!』と言われて、思いとどまった人もいたのです。

 ところが、ある時、下士官(職業軍人が多かったようです)が多数、カウラに収容されて来ました。彼らは、『戦地では戦友たちが不利に戦って死んでいると言うのに、我々だけが安んじていてはいけない。戦友たちへの攻撃の力を分散させるために騒動を起こして、敵弾で死のう!』と言うことが、票決されるのです。下士官たちが来る前には、捕虜たちは、自作のゲームを楽しんでいたり、ジュネーブ条約と民主主義の雰囲気の中で守られ、人権を認められて、収容所生活を過ごしていたのです。ところが、プロの軍人たちが、ひと泡吹かせようと、「暴動」と「脱走」を企てたわけです。その結果、条約で守られて無事に帰国することの出来た多くの兵士が自決したり、銃殺されたりして亡くなってしまいます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。

 旧日本軍の兵士は生き延びてはいけなかったのでしょうか。そうです、いけなかったのです。旧陸軍省が、昭和16年に、陸軍兵士の心得・道徳訓と言う形で、「戦陣訓」を刊行しました。その「名を惜しむ 」という項目の中に、次のようにありました。

   『・・生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』

 『捕虜になることは恥だ。故国の家族や家名に泥を塗ることになる。恥をこうむるよりも死ね!』と言う教えが、日本軍兵士の中に叩き込まれていたのです。『日本人であれ!』と言うことが要求されていたのです。『みんなが今戦っている!』と言って「集団」の中で、ただ従う「個人」が求められていたのです。どうも私たち日本人には、「恥の文化」が骨の髄までも染み込んでいるのです。「非国民」と言う呼び方で、自由な意志の主張や選択を拒絶し、区の意思に従ってのみ生きると言おう心が、全国民に求められていた時代でした。

 どうして、生き延びて、故郷に帰り、妻や子のために生きてはいけなかったのでしょうか。カウラから帰国した人たちも、自分が捕虜であった過去と、自分だけが帰国できたことを恥じて、それをひた隠しにして、戦後を生きて来たのだそうです。この「恥」と「集団への帰属」とは、軍人だけではなく、日本人の心の奥底にたたみこまれたものではないかと思われるのです。この「戦陣訓」が誕生した背景がありました。とくに中国大陸の兵士の間では、軍紀が乱れて、残虐や強盗や凌辱(りょうじょく/婦女子への暴行)が日常化していたのです。そこで、やむをえず軍紀を正すために、軍人としてのあるべき姿を提示する必要があったと言われています。この作成のために、文体の責任をもって、陸軍から要請を受けたのが、島崎藤村でした。

 戦後の復興のために、多くの有為な人材が必要でしたが、この「戦陣訓」によって、捕虜として生き延びることを恥とし、不名誉なこととした私たちの父や兄や祖父たちが自決して行ったのは、実に残念なことであります。人の「命」が、それほど、主義主張のために軽く捉えられていたことは、明治以降、戦時中までの日本の教育に大きな欠陥があったことになります。何人(なんぴと)も、たとえ恥をこうむろうと、非国民と呼ばれ、不名誉なことであっても、「生きよ」との内なる声をかき消してはいけません。己の命を大切にすることができずに、他者の命を尊んだり、慮る(おもんばかる)ことはできません。

 命は、自分の意志で得たのではなく、父母を通して付与されたものであるのですから、自分のものにしろ、他人のものにあるにせよ、この命を粗末にしてはならないのです。これこそが、〈人の生きるべき道〉であります。〈◯◯人〉である以前に、私たちは「人」であることを、確りと知らなくてはなりません。そうしたら戦争も争いも起きようはずがないのです。大切なのは、歴史から学んで、二度と同じ過ちを侵さないことに違いありません。戦争で、〈父(てて)なし子〉となった何人もの同級生のお父さんが、捕虜になっていたら、無事に戦地から復員して来られただろうと思ってみたりしております。                     

(写真は、生きる意味を追求した黒澤作品の映画、「生きる」のスチール写真です)

十月十一日


 2009年12月に、中国で、「十月围城(shiyueweichang)」という映画が上映されました。この映画は、1905年10月の香港を舞台にしたもので、清朝・北京から送り込まれた500人の暗殺者たちが、東京から帰国する、革命の首謀者である孫文(孫中山)の暗殺を企てます。その謀略を知った、孫文を支持する者たちの手によって、暗殺計画が阻止され、民主革命のための重要な会議に、孫文が出席するといった、実話に基づくものです。孫文の提唱する新しい中国の建国のために、多くの青年たちが感動し、その実現のために多くの犠牲があったこと、その犠牲の上にあの「辛亥革命」が成功したことを私たちに伝えています。ちなみに日本上映の映画題名は、「孫文の義士団」でした。

 昨日は、2011年10月11日、この「辛亥革命」が成功して「百年記念」に当たりました。胡錦濤主席は、辛亥革命を「君主専制制度を終わらせ、民主共和の理念を広めた」と評価しております。1911年10月11日は、武昌(武漢市)において、「中華民国」が誕生した、中国近代化にとっては記念すべき日であります。およそ、この時から50年以前に、日本では「明治維新」が起こり、長い封建制が崩壊し、新日本が誕生しています。この辛亥革命を指導した多くの方々が、青年期に海外に留学して、西欧や日本の近代化の刺激を受け、その結果、この革命が蜂起されたものだと歴史は伝えております。

 当時日本には、2万人もの中国人留学生がいたそうです。その中心人物の孫文は、亡命中に日本にも渡り、多くの日本人の支持者たちを得ています。その中に梅屋壮吉がおります。梅屋は長崎に生まれ、貿易商でしたが、写真を学んで写真館を経営したりしていましたが、後に、香港で貿易商として成功しています。その財力を用いて、革命を計画していた孫文に、多額の経済援助をし、「君は兵を挙げよ、私は財をもって支援す」と盟約を結び、革命に寄与した人物です。香港で、この二人の交流を記念した展覧会が、今月行われています。

 私の義母は、今年100歳になりまして、この「辛亥革命」に成功しした1911年の春に生まれています。このことを思いますと、中華民国の歴史の中を、隣国で誕生し生涯を送ったのですから、中国と日本、私と中国も、さらに近いものを感じてしまったのです。この孫文の記念館が、神戸にあります。孫文を顕彰する日本で唯一のもので、1984年11月に開設されています。この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘(「松海別荘」)を前身としていて、地元では長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきています。孫文が1913年3月14日に、神戸を訪れたときに、神戸の中国人や政・財界有志が開いた歓迎の昼食会の会場 になったときに始まるそうです。その後、神戸華僑総会から寄贈をうけ、改修を行って今日にいたっている、とのことです。


 孫文は、広東省の「客家(kejia)」の出身で、医者をしていた人です。ハワイで学び、アメリカ国籍を持っており、架橋の支持だけではなく、多くの外国人の支持者がいて、今日でも多くの人々から高い評価を受けております。偉大な中国の「国父」であるのですから、当然ではないでしょうか。そのような人物に、少なからず日本人が関与し、この働きに寄与したこともまた、今後の中日友好にとって、意味あることだと信じております。彼は、

 「余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。 しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。」

との遺言を残してております。100年、それほど昔のことではないのですね。

(写真は、臨時参議院成立時の集合写真影で孫文〈前列中央〉、下は、「十月囲城」のスチール写真です)