「創られるスター」、スポーツでも、芸能でも、将棋や碁の世界でも、学問の世界でも、政治界でも、その時代に輝くスターを、躍起になって作り上げてきたのでしょう。世間の注目を集めて、その世界で生きている人たちの糧になるからです。
そんな風に見えませんし、平凡な人が、祭り上げられたり、有名な人の子弟だとか血縁地縁または弟子たちの中から、選ばれ、育てられ、やがて時代が終わっていき、また新星を生み出すのです。その反面で、自己の弛まない一歩一歩の精進で、努力目標を達成し、押しも押されぬ漢(おとこ)、才女となった人もおいでです。
真の実力者は、粛々と、黙々と、在野の片隅で、勝ち負けや術策に溺れないで、平常心で、その道を生きてきているのです。有能者の子が、みんなお父さんやお母さんに匹敵したり、それ以上の逸材になっていくとは限りません。突然変異だってあり、全く期待外れで終わってしまう人もいそうです。
旧約聖書に、家柄とか血筋とか名門などとは、全く関わりのない人物が登場して来ます。ただ、なんの脚色もなしに、「遊女の子」と紹介されたエフタがいました。イスラエルの社会でも、婚外で生まれた「庶子」は、相続権がありませんでしたが、このエフタは、マナセ、ガド、ルベンの相続地のギレアドに住んでいた、マナセ人でした。ところが、彼は、父が、遊女に産ませた婚外子でしたが、長子権があったのです。それで、快く思わない異母兄弟に嫌われ、追い出されています。
人類史の中には、エフタのような人は多くありました。俗に『生まれが悪い!』で片付けられてしまうのです。江戸時代に、八百屋や魚屋の娘で、とびっきりの別嬪が、お殿さまの跡取りを宿し、局になった事例もありました。ただし、何々家に幼女に出し、そこからの輿入れのように画策しているのです。私たちのような庶民の子、平民の子、魚屋の娘ではまずいので、形式だけは整えるのです。
イスラエルの社会が、危機に直面していた時に、その事態を解決できる人材に事欠いていたのでしょうか、仕方なく「遊女の子」が呼び出されたのです。神の民なのに、神の掟に従わなかったがゆえに敵の侵入を許し、国家的な危機にあったのです。勇躍出てきたのは、指導力を有した「ほかの女の子」でしたが、「勇士」のエフタでした。
民の申し出に、快く応じられない経緯をたどってきたエフタでしたが、神さまは、この人を、イスラエルの危機を救うために用いられたのです。と言うか、この危機のために、この人を、信じられないような境遇や環境の中において、時間をかけて養い育てておられたと言うべきかも知れません。遊女の子でも、遊里に育っても、神さまは、人をお用いになることがいできになられるのです。
私は、こう言った人物が好きなのです。逆境の中に生を受け、疎んぜられた人物を、あえて神さまはお用いになられたのです。私は、お会いしたことはないですが、福音ラジオ放送(FEBC)の番組の中で、一人の牧師さんのお話を聞いたことがありました。家内はお会いしたことがあったようです。
伝道熱心な教会の路傍伝道で、青年期のこの方が、道を歩いていると、聞くともなく耳に入ってきたのが、「姦淫の現場で捕えられた女の話(約翰伝8章1~11節)」だったのです。彼は十七歳、工業学校の生徒の時でした。東北の温泉街のいかがわしい料理屋の息子で、自分が、そんな生業の家の子で、隣街への汽車通学の途上での出来事でした。
あの女性は、姦淫の現場で捕えられ、彼女を取り囲む男たちの好奇の目に晒されていました。そこに来合わせたのがイエスさまだったのです。モーセの律法によると「石打ち」になる犯罪で、それを人々は糾弾してしていました。イエスさまは、彼らに、『罪なき者が石で打つように!』と言うのです。そして、その場に屈まれたイエスさまは、地面に何かを書く風でした。一人去り、二人去りついにその場には、イエスさまと、その女だけが残されたのです。
『イエス身を起して、女のほかに誰も居らぬを見て言ひ給ふ「をんなよ、汝を訴へたる者どもは何處にをるぞ、汝を罪する者なきか」 女いふ『主よ、誰もなし』イエス言ひ給ふ「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」」
その後、路傍説教を、ふと聞いたこの青年は、その牧師を数度訪ねるのです。信仰問答を繰り返しますがらちがあきません。それで「祈り会」に来るようにと、牧師に勧められ、祈り会に出てみます。一人の目の不自由な老婦人が、『神よ、この不幸な青年を憐れみたまえ!』と祈ってくれたのです。こんな自分のために祈ってくれた人がいるのを知って、信仰する姿を見て、痛く感動し、イエスさまを信じ、後に、神学校に学び、牧師となり、「いのちの電話」を東京に開設する働きをするのです。
その方が、菊地吉彌牧師でした。惨めな青年期の只中で、十字架の福音を聞き、信仰する老姉妹の姿を、その目で見て、人生を変えることができたのです。遊女の子で、ならず者の頭領でも、また遊里で育ったとしても、一国の困難の時期にも、一人の人生上の困難にある人たちを、神さまは 用いられて、助ける器とされるのです。
起死回生、神さまは、人の人生に介入しされて、最善に導かれるお方でいらっしゃいます。人の願わない境遇の中に、惨めな女性に近づいて来られ、『往け(大正訳聖書 約翰伝8章11節 行けの意味です)』と言われたのです。それは、『生きよ!』と言う意味でした。どんな人も、語り掛けてくださる 救い主のことばに押し出されて、生きていいのです。そうして、母も、父も、私も生きのです。
(ウイキペディアによる「エフタの帰還(ジョヴァンニ・アントニオ・ペレグリーニ画)、アトリエTorinityのイラストです)
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