老いるということ

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 『まことに誠になんぢに告ぐ、なんぢ若かりし時は自ら帶して欲する處を歩めり、されど老いては手を伸べて他の人に帶せられ、汝の欲せぬ處に連れゆかれん』(大正訳聖書 ヨハネ2118節)」

 こんな有名な詩が、語り伝えられています。

私を見てちょうだい
あんたがたに見える私は、
ただの不機嫌な顔をしたボケ老人でしょうね。
ぼんやりとうつろな目をして、
次に何をしたらいいかも分からない老人でしょうね。
ボロボロこぼしながら食べ物を口に運び、
「ちゃんと食べて」と大声で言われても、返事もしない老人でしょうね。
看護婦さんのしてくれることには、知らん顔をして、
年がら年中、靴や靴下の片方を探している老人でしょうね。
お風呂や食事を嫌がってみても、どうせ他にすることもないからって、
結局は言いなりになる老人でしょうね。
どう、このとおりでしょう?
これが、あんたがたに見える私でしょう?

さあ、看護婦さん、
よーく、目を開けて私を見てちょうだい。
ここでじっと座って、命令されるままに動き、言われるままに食べる私が
本当はどういう人間なのか教えてあげるから。
私はね、10歳の時には、両親や兄弟の愛に囲まれた子どもだった。
娘盛りの16には、愛する人に巡り合う日を夢見る乙女だった。
20
歳で花嫁になり、心弾ませて「この人に一生を捧げます」と誓ったのよ。
25
には母親となって、子どもたちのために安らぐ家庭を築こうとした。

もう私は年老いてしまった。
年の流れは、情け容赦なく年寄りをおろかに見せ、身体をぼろぼろにし、
美しさも生気もどこかに追いやってしまう。
そしてかつての柔らかな心は、石のように閉ざされてしまった。
でも、この朽ちかけた肉体の奥には、若い娘がいまだに棲んでいるの。
この苦しみに満ちた胸は、今一度過ぎ去った日々を思い出しては、
喜びに弾み、悲しみにふさぐ。
こうして人生を慈しみながら、もう一度生きなおしているの。
駆け足で通りすぎていった、あっと言う間の年月を思うと、
人生のはかなさをつくづく思い知らされる。

そうなの、だから看護婦さん、よーく、目を開けて私を見てちょうだい。
ここにいるのは、ただの不機嫌なボケ老人じゃない。
もっと近くによって私を見てちょうだい。

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  この驚くべき詩は、著者不明なのです。スコットランドのある老人病棟から見つかったもので、言い得て余りあるほどの「老い」たご自分の現実を詠んだものです。そんなこと言いたい気持ちが、なんとなく分かる年齢になったかも知れません。

 老いてしまった自分の過去を知ってもらいたくて、若かった頃の自分にも輝いた季節があったことを、人は知って欲しいのです。そんなこの方とは違って、ユダ族に族長であったカレブは、次にように告白しているのです。

 『14:10 ヱホバこの言をモーセに語りたまひし時より已來イスラエルが荒野に歩みたる此四十五年の間かく其のたまひし如く我を生存らへさせたまへり視よ我は今日すでに八十五歳なるが

14:11 今日もなほモーセの我を遣はしたりし日のごとく健剛なり我が今の力はかの時の力のごとくにして出入し戰闘をなすに堪ふ

14:12 然ば彼日ヱホバの語りたまひし此山を我に與へよ汝も彼日聞たる如く彼處にはアナキ人をりその邑々は大にして堅固なり然ながらヱホバわれとともに在して我つひにヱホバの宣ひしごとく彼らを逐はらふことを得んと

14:13 ヨシユア、ヱフンネの子カレブを祝しヘブロンをこれに與へて產業となさしむ (文語訳聖書 ヨシュア記141013節)』

 この両者の言うことは、それぞれに嘘偽りのない主張です。老い衰えて、生きる気迫が失せて、過去に思いを向けるか、85歳になって今もなお、戦いに立てる自信を告白するか、それにしてもみんな老いるんですね。過去の栄光に立たなくとも、今をアリのままで生きたいたいものだと思わされます。

 あの人にも、恋をしていた時期がああって、ほとばしるような青春の血を躍動させて、何キロ走っても疲れなかった時があった、それでいいのでしょう。行く道だけがあって、わたしたちは来た道には戻れないのですから。

(英語版uikipediaCaleb Return of the Spies, 1860 woodcut by Julius Schnorr von Karolsfeld

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