思い出から消えていくもの

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 JR中央線に、いくつかの名物がありました。駅舎でユニークだったのが、国立駅、日野駅、豊田駅、高尾駅(浅川駅)でした。学園都市の国立には、一橋大学、国立音楽大学、東京女子体育大学、桐朋学園、国立高校、第五商業高校、国立小学校などがありました。その駅舎を何度振り返ってみたかも知れません。

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 国立駅から二つ目が日野駅で、駅舎が農家の茅葺(今は、トタン葺き)と同じで、独特な佇まいでした。日野自動車、小西六(コニカ)、羽田ヒューム管、オリエント時計、神鋼電機(神戸製鋼所)などの大手の会社がある街で、かつては宿場町で、多摩川の渡し船が、立川との間を結んでいました。ここに踏切があって、そのメカニズムや仕組みを、面白くて科学していたことがあります。

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 この駅の近くに引き込み線もあり、ほろ苦い思い出の場所でもあります。貨車の最後部の車掌室の固い椅子に横になって、夜を明かすと言うのは切ないことでした。お腹は減るし、水だって飲みたいし、ほろほろと鳥は鳴き、犬も遠吠えしていました。引き込み線のメカニズムだって、おかげで学べたのです。

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 日野駅の隣りが豊田駅で、今では、もう面影が残っていませんが、駅舎は開業当時は独特でした。日野台団地と浅川との間の段丘に、線路が走っています。公団住宅による多摩平団地が、1958年に作られ、大東京の西のベッドタウンとして注目されていました

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 中央線の終点が、浅川駅でした。のちに高尾駅に駅名の変更がありましたが、ここも、高尾山の下車駅で、何度もこの駅から山に登り、相模湖に下って、ハイキングをしたことがありました。八王子と高尾の間には、西八王子駅があり、多摩御陵(大正、昭和の天皇の墓所)の至近の駅です。でも、昭和初期には、京王電鉄が、ここまで線路を敷設し、御陵駅があったそうです。

 父や兄妹や父と共に、通学や通勤途で、JR中央線が長らく利用したのですが、級友と電車に乗り合わせて、一緒に通った思い出があります。学校の下車駅の駅名の看板に、悪戯書きをしたのを、高等部の国語の教師で、「奥の細道」の特攻をしてくれた教師に見つけられ、『消しゴムを持って、消してきなさい!』と注意され、共犯の級友と消しに行ったことがありました。

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 別の級友が、三鷹駅の近くに住んでいて、広い車輌センターの近くで、線路に入って、十円玉を、線路の上に置いて、走ってくる電車の轢かせて、薄べったい硬貨作りをしていました。危険極まりない悪戯でしたが、国鉄からも学校からも見付からずにすんでしまいました。その子の家の近くに、跨線橋があって、そこも遊び場でした。

 その跨線橋は、太宰治が利用したことで有名でしたが、今年末、2023年の12月に撤去されるのだそうです。鉄橋の撤去、駄洒落にもなりませんが、懐かしい景色が、思い出の中から消えていくのは、ちょっと寂しいものです。もう一度渡ってみたいものです。吉祥寺駅も西荻窪駅、荻窪駅も阿佐ヶ谷駅も、時々利用してきました。

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 『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(黙示録21章4〜5節)』

 過去の出来事、出会い、別れ、そして涙、悲しみ、叫び、苦しみなどは、消えたり、薄れたりしておぼろげになりますが、それでいいのでしょうか。もしそれらが鮮明過ぎてしまったら、今がボケていってしまうかも知れません。今は一箇所にとどまり、行動範囲が狭くなったこともあり、新体験は少なくなりましたが、《新発見》はできそうです。聖書は、新しい天と新しい地とが、やがて到来し、『みよ、わたしは、すべてを新しくする。』と、主イエスさまは言っておられるのです。

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ホッとできるのです

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 『もう、こんなにもまでもかっ!』と思うほどに、朝顔が咲いています。種苗屋で買った種がよかったのか、世話がよかったのか、来客のみなさんも驚かれるように、日本朝顔が咲き誇っている9月の下旬です。

 今年は、長年の願いの「肥後朝顔」を植えたいと思っていましたが、とっかかりがつかなかったことと、難しそうなこともあって、先送りしてしまいました。「花卉いじり」の趣味など縁遠かったのに、咲く花を見てると、励まされるので、また楽しいので、し続けています。

 以前住んでいた街で、家の大家さんから、サツキや松の盆栽をいただきながら、枯らしてしまった前科者としては、今の自分がくすぐったいのです。

 まだまだ咲き続きそうで、華南の町のベランダでは、年越しの正月にも、朝顔が咲いてくれました。日本から里帰りした種からでした。どんな国情の国でも、朝顔は朝顔、綺麗に咲いてくれます。ホッとできるのです。

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dandy

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 『あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。(2テモテへ413節)』

 『ダサい!』と言われて、昭和の服装や格好はダメなのでしょうか。「野暮(やぼ)」や「無粋(ぶすい)」の言い回しだって、今では使われない「死語」になっているのでしょう。タンスの中には、20年も、30年も前に買った、格子柄のシャツが残っていて、もう着ないのですが、どうしても捨てられずにあります。

 生き方が、昭和的なのは、どうにもし難いもので、もう改めようがありません。fashion って、営業的、意図的に作られて、それが支持されていくのであって、その時代時代を反映ているのでしょう。流行りに流されない生き方をして来た自分としては、改めようがありません。

 兄や弟にもらった物も、捨てられません。また『兄が使わなくなったので、着てください!』と言われて、頂いたシャツやネクタイがありましたが、ちょっと pride が揺らいでしまって、好みが違うこともあって、奥にしまった後に、捨てさせてもらいました。それ以来、どんなに良くっても、着なくなった物は、着なくなった物なので、人に上げたりは、決してしません

 〈勿体ない物〉であっても、それを着たり、使ったりするのは、だいぶ抵抗があります。一番景気の良かった独身時代に、誂えたジャケットがあって、それがお気に入りでした。一張羅(いっちょうら)で、ちょっとおしゃれをしたい時に着ていましたが、良い物は、飽きがこないのですが、処分してしまった時、気残りがしてしまいました。

 このところ孫のお古が届くことがあります。〈お上がり〉と言うのですが、孫の残していった靴下やザック、次女が、洗濯物で残していった〈Tシャツ〉もあります。兄が送ってくれた新品で、上質のポロシャツもあります。その反面、そろそろ箪笥の中は、捨て時のものばかりになってきました。

 今夏は、異常に暑かったせいもあって、外出するたびに、一日に三度もの着替えをしていましたから、洗濯回数が増え、長年着てきたTシャツも、穴が空き始めて、捨て時になっているようです。〈洒落者〉だったのに、いつの間にか、ダサくなっているようです。父は、たくさん持っていませんでしたが、良い物を、三越で買い求め、季節季節でしまったり出したりして、破れたり擦れてしまうと、母に繕いをさせて、男の服装道を守って生きていました。

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 自分の会社の経営を辞めて、アルバイトをしていた頃の父は、次兄のジャンパーを着て、野球帽をかぶって、ズック靴を履いて電車で仕事場に出て行きました。あの父が、『よくそんな格好ができるなあ!』と意外でしたが、dandy さの無くなった、父は、父で納得して、〈老い〉を生きていたのでしょうか。男の価値は、着る物や持ち物にはよらないのですが。

 背筋を伸ばして、しっかりと前を見て、残された日を生きて行こうと、そんなことをこの頃は思っています。ラジオ体操仲間に、写真館をされて来た方がいて、今は、息子さんに任せていますが、お洒落なのです。好い物を着用していて、格好いいのです。この街では、《おぼっちゃま》と呼ばれてきたのだそうです。三越で買い求めるのを、父に真似て買った30年前のシャツも、もう限界の時を迎えています。

 パウロは、大切にしてきた上着があったのでしょう、知人の家に預けておいた物を、寒い季節がくる前に、テモテに持ってきてもらおうと願って、手紙の中に私用の願いを記しています。聖書に組み込まれた手紙の一箇所に、上着の必要を述べるパウロの思い、それを二十一世紀の私たちが読んでいるのには、やはり意味があるのでしょう。

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 パリサイ派の碩学(せきがく)と言われ、ユダヤの宗教界では将来を嘱望されたのがパウロでした。福音に仕える身になって、自らテントを作りながら収入をえ、またコリントの教会などからの献金で支えられて生きていた人でした。彼の残しておいた上着は、きっと好い物だったのでしょう。近所でも買えるし、頂くこともできたのでしょうけど、わざわざ持って来てもらうほどの価値や思い出が強くあったはずです。

 イエスさまは、多く持たなかったのですが、《快い物》をお持ちだったと、宣教師さんが言っておられました。そんな彼が、アメリカから古着を持って来てくれたことがありました。大きな電気店の御曹司だったそうですが、彼の懐具合は、主にお任せだったのでしょう。水洗でない家に住んで、中古の車を運転して、伝道されていました。そんな彼が、私に似合いそうな服を買って、旅行カバンに入れて、持ち帰ってくれたのです。古かったけのですが、気持ちが嬉しかったので、愛用しました。

 もう頭も薄くなり、見る影もなくなってきましたから、何を着ても見栄えがしなくなってきているのです。娘たちが、来る度に、何か着る物を買ってきてくれるのです。dandyでいて欲しいのでしょうか。もう少しだけ、『昔の夢よもう一度!』で、色褪せたり、穴の空いたものは捨てて、身なりにも気配りしないといけないかなって思う、fashionの秋、心地よい風のやっと吹き始めた九月の下旬です。でも、男の dandyism って、服装ばかりではなく、生き方の姿勢なのでしょう。

(イエスさまのイラスト、娘の忘れたTシャツ、パウロのイラストです)

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悲しみを超えて

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 やはり、慣れ親しんだ日常から離れて、国外に出かけると言うのは、一大決心だったのを思い出します。生まれてから小学校の一年生まで7年間おり、1972年、長男が生まれて2か月で、家族3人で、宣教師のお供で34年間、都合42年過ごした街を、2006年の8月に離れたのです。

 もう子どもたちは、四人とも自立し、空の巣の中からの次の人生の再スタートを決心したのです。もう少し早く出かけたかったのですが、引き留めるものがあったのでしょうか、でもタイミングとしては一番よかったのだと、今も思い返しております。

 新しい働きへの宣教師からの挑戦、友人の牧会する教会の出身で日本語教師をされていた姉妹の促し、旧約聖書のエレミヤ書の『わたしがあなたがたを引いて行ったその町の平安(繁栄)を求め、そのために主に祈れ。そこの平安(繁栄)は、あなたがたの平安(繁栄)になるのだから。」(297節)』に、押し出されて、出かけたのです。

 安定した生活から出ていくと言うのは、さほどに戦いがあったわけではありませんでした。ただ理解してもらえないことがありましたが、それも時間と共に理解は得られるとは思っていました。だって、主が導いてくださったことだったからです。

 持参したのは、本や着る物などでした。その着る物に、飼い猫の毛が付いていたのです。三毛猫と黒毛の猫二匹を、次女夫婦が、長野県で飼っていました。英語教師を3年間している間に、道端に捨てられていた猫を、見過ごせなかった婿殿が拾って来て飼っていたのです。かれらが帰国しなければならなくなって、飼い主に選ばれた私たちが、引き取って飼い続けたのです。

 猫の貰い先を探し見当たらなく、渡航の日が迫っていて、最後の手段で、市の愛護施設に運んだのです。家内には耐えられないだろうと、彼女の留守の間に、そっと運んだのです。黒猫のタッカーは、どこに連れられて行くかが分かったのでしょうか、悲痛な鳴き声を上げていたのです。でも後戻りはできず、涙を飲んで、そうしたのです。

 やはり、この犠牲が一番大きかったのでしょう。可愛かったのです。猫嫌いの自分が、飼うほどに懐いてくるタッカーとスティービーに情が移っていくのです。家の前に車を駐車すると、二匹が玄関にお出迎えしてくれるほどでした。

 このことを思い出したのは、長女が飼っていた犬が、交通事故に遭って、亡くなってしまったとのニュースを聞いたからです。生まれてすぐに、長女の家にやって来て、しっかりと懐いていたのに、突然の死だったのです。『泣かせて!』と家内に連絡してきて、大声で、娘が泣いていました。様々な死別があって、生の厳粛さを覚えさせられる私たちです。悲しみを早く超えられますように!

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マナも干飯も

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 江戸の日本橋を発って、江戸の街の西の城殿内藤新宿、武蔵府中、八王子、上野原、甲府を経て、信州の下諏訪に至る、四十四次の甲州街道がありました。東京に出て来てから、2度目に住んだのが、この旧道の脇に、父が買った家でした。13年近く住んだと思います。

 まだ舗装されていない坂道の途中でした。そこに大きな樫の木が植えられていました。子ども手ではふたかかえもの幹の巨木だったでしょうか。その木の枝の又の所に、竹笊(たけざる)に入れたご飯を、母が干していたのです。今のように、電気やガスの釜で焚く時代ではありませんでしたから、薪を燃料に、鉄の釜で炊いていました。

 その釜の底には、お焦げなどがへばりついていたのです。今のように、電気やガスの釜で炊く時代ではありませんでしたから、釜の底に、ご飯粒が焦げてへばりついていたのです。そんな釜に水を入れて、ふやかした米粒を、決して捨てたりしないのです。「ほしいい(干飯)」の保存食に、母がしていたわけです。無駄にしない工夫でした。

 13年の間住んだ記憶で、木の股に置かれた竹で編んだ笊の記憶だけが鮮明なのです。その干してある干飯を、摘んで食べたことはありましたが、食卓に載ることはありませんでした。炊いたご飯は、父と四人の子に食べさせて、母は、子どもたちに背中を向けて、台所の立って、それを頬張って食べていたのでしょう。

 今では、カロリー・メイトだとか、カンパン、インスタントラーメン、チョコバーとか、携行食、保存食がありますが、戦国の世、戦場を駆け巡る兵が、袋に入れて持ち歩いて、食べていたのでしょう。「戦国時代の保存食」と言われますが、どの家庭でも、そんな風に、食べ物を大切にしていたのです。

 「パッカンのおじさん」と呼んだ方が、リヤカーに、魚雷のような形の鉄と網でできた筒を載せて、時々やって来ました。そこに米とお金を持っていくと、その中に、少量の甘味料を入れて爆発音とともに、米粒が干飯のようになって出て来たのです。すごく美味しいおやつでした。今でも、袋入りのパカンが、スーパーでも売られているのです。これは保存食にはならなそうです。

 忍者が食べた携行食の話を聞いたことがあります。鰹節とか木の実とか薬草を丸めて、保存食にして持ち歩いていたのだそうです。それが食べたくて仕方がなかったことがありました。

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 『主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。 六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」(1645節)』

『イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。(出エジプト1631節)』

 そういえば、40年間、荒野を旅したイスラエルの民に、神さまが備えられた「マナ」は、どんな味だったのでしょうか。食べていたイスラエルの民が、すぐに不満を漏らしたのだと、聖書にありますが、感謝が足りないのは、人の世の常のようです。

 これこそ、栄養学的も理想的な食べ物でした。神さまの、憐れみによって与えられた、保存の効かない、一日一日に早朝に天から降って、与えられた食物だったのです。

(「干飯」、森永乳業が販売していた「マンナ」です)

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老松の残る街の片隅で

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 一見して、昔の名残りでしょうか、両岸の間を綱手道に挟まれて、5メートルほどの水路、これが巴波川です。この流れのほとりに住み始めて五年になろうとしています。朝にも昼にも、白鷺が流れに立って餌取りをし、その間を鯉が泳ぎ、時々カモが侵入して来ます。

 水の中に、水草が茂り、流れの中で逞しく青々としています。線状降水帯での集中豪雨で水かさが増して、綱手道を被るほどになってしまいました。水が引くと、青草を見せています。そんな繰り返しをする流れを朝な夕なに眺めながら、実に静かな生活をしているのです。

 元々は湧き水を源とする川なのだそうですが、雨水を集めて流れ下っていきます。鉄道や自動車の交通手段ができる前、江戸時代初期から、明治頃にかけて、「舟運(しゅううん)」で、商都として栄えた街なのです。江戸の木場や河岸あたりを行き来したのです。

 越して来たばかりの頃、この舟運のお仕事を、江戸時代から家業とされていた家が隣りにあって、このアパートの前の大家さんのお姉さまの家で、お金の出し入れ帳とかハッピなどがあって、それを見せていただいたことがありました。

 家内と私と同世代なので、時々行き来もし、ラジオ体操仲間で、ここの自治会の婦人会長もされていた方です。庭に、数百年と言われる物言わぬ老松があって、そちらに植え替えても、ずっと植えられ続けているのだそうです。松にだけではなく、川の流れにも、空気に流れにも、歴史が感じられるのです。

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この松には目はないので、移り変わる世の動きは見ることはできませんが、世相、豪雨、洪水、地震、疫病、戦争、平和などを、幹ごと感じながら、今日も、植えられた家の隙間に見ることができます。

 この松も感じた栄枯盛衰、この街の繁栄、そして衰退を経て、年寄りばかりの旧市街の一角に住んでいるのです。観光客に、巴波周覧の観光用の舟が、竿刺しながら運行しています。その船を「都賀舟」と呼び、渡良瀬川あたりまで船荷を運び、そこから高瀬舟に荷を積み替えたのだそうです。巴波の流れを操りながら、船子たちが歌った唄です。

栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ

向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ

 営営となされて来た営み、人の生業、出入りや行き来など、巴波の流れを眺めると、最盛期の賑わいの音が聞こえて来そうです。物流はともかく、遠く離れた江戸の文化も芸術も伝えられて、けっこう文化度も高い街であったのです。

 ここは、日光へ行く、日光例幣使街道の宿場町でもあって、春の家康の命日に、京都から毎年やって来る、公家の一行が、我が物顔で、住人に迷惑をかけていたのだと聞いています。それほど、身分の偉さを振り撒きながら、嫌われもにはなかったのだそうです。エリート意識の強さって、芬芬(ふんぷん)もので、厄介な一団だったわけです。

 そんな人の往来の激しさのあった道も、映画館も遊技場もあったのですが、今では裏通り、その面影を感じさせますが、やはり〈寂れ〉を免れません。駅前には、大きなスーパーが、御多分に洩れずあったのでスすが、バイパスができて、商業中心が移ってしまっています。いつでしたか、倉敷へ行って、駅の方に歩いた時、街並みがシャッター街であったのが、強烈な驚きの印象でした。

 近郷近在から、めかして出掛けてき来て、買い物や遊びのために、この石畳の街を歩いた、人の草鞋や草履や靴の音が聞こえてきそうです。

(巴波川の観光船、松のイラストです)

故郷への憧れで

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1 雨の日も風の日も 泣いて暮らす
わたしゃ浮世の 渡り鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣けば翼も ままならぬ

2 あの夢もこの夢も みんなちりぢり
わたしゃ涙の 旅の鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣いて昨日が 来るじゃなし

3 懐かしい故郷(ふるさと)の 空は遠い
わたしゃあてない 旅の鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
明日(あす)も越えましょ あの山を

 この歌は、「涙の渡り鳥」です。父の二十代の初め頃に、流行った歌謡曲でした。そんな古い歌を、中学生だった自分は、よく歌ったのです。父も母も、私たち子どもの前で、歌謡曲を歌うようなことはありませんでした。ただ、「主我を愛す」と「めんこい仔馬」を、父が、時々歌っていたのです。母は、讃美していました。ー

 ラジオを聴いて育ったので、聞き覚えで歌えるのですが、今頃になって、昔が懐かしいのか、「渡り鳥」のように、あちらこちらと引っ越しを重ねてきて、故郷も心理的に遠過ぎ、自家もなく、ただ思い出だけが、想いの中に駆け巡ります。出会った人々、訪ねた街が、とても印象的なのでしょうか。

 何度も書くのですが、外で喧嘩しても、『泣いて帰ってくるな!』、つまり、『泣くような喧嘩をするな!』と言うことだったのでしょうか。そうすると、勝って帰って来なければならないので、大変でした。自分に嫌気がさしたり、急に悲しくなったり、泣きたくなると、『泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ ♯』を口籠もるのです。泣きの抑止力は、未だに効いているのです。

 そんな決心の自分でも、父が退院の朝に、入院先の病院で、退院の朝に亡くなり、母から職場に電話が入りました。その病院に、電車を乗り継いで行く時、恥も外聞もなく、辺りを気にするでもなく、ただ激しく泣いてしまいました。愛されたバカ息子だったから、なおのこと、その死別は厳しかったのです。

 『あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。(詩篇568節)』

 流した涙が蓄えられてあるのです。父と母のもとから自立して、仕事を始め、さらに天職と決めた仕事を辞めて、宣教師の訓練を受けて、故郷伝道のために故郷に戻ったのです。そこも、子育てを終え、六十代で、『mature なあなたたちは、若い人に自分の働きを委ね、新しい地に出て行きなさい!』との宣教師さんからの何年も前の挑戦を受けて、海を渡って、隣国に出かけたのです。羽のない家内と私たちは、飛行機に乗って出掛けたのです。

 居続ける予定でしたが、家内の発病と共に、帰国し、縁もゆかりもない栃木に住んだのです。次は、再び海を渡れるのでしょうか。それとも、「天の故郷」への帰還でしょうか。

 『彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。  もし、出てきた故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル111416節)』

 帰りゆく本物の故郷があると言うのは、なんと素晴らしいことでしょうか。出てきた故郷にではなく、「天の故郷」があるのです。日本で生まれたオオルリのような渡り鳥は、東南アジアへの渡りの間に死んでいくのでしょうから、生まれ故郷に戻ることなどできません。でも私は、思い出の生まれ故郷ではなく、「あてない旅の鳥」ではなく、《憧れの故郷》に戻れるとは、なんと言う「救い」なのではないでしょうか。

(GOOPASSの「オオルリ」です)

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初秋のベランダで

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 夕陽が落ちていく頃の、西陽の暑さが尋常ではないのです。焼け焦げそうな、と言うのが一番相応しそうな表現です。『いつまで続くぞこの暑さ!』ですが、もう一週間ほどでしょうか。少しだけ涼しく感じられる夜半、蚊に刺されてしまいました。暑さが蚊の出没を押しとどめていたのですが、秋らしくなった今頃に、満を辞していた蚊が、出てきたのです。蚊帳を張るかどうか思案中です。

 でもベランダでは、近年になく朝顔が、盛りの季節を続けて、青々と葉が茂り、花を開花しています。負けじと、白桔梗とペチュニアが咲いてくれています。慰めの花で、一息ついております。

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いつも、あなたがたとともにいます

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 『私はまた人間の孤独を、この砂漠の夕ぐれにしみじみと味った。恐らく人間ほど孤独なものは宇宙間にないであろう。他の動物も孤独ではあろうけれども、かれらはそれを痛感しない意味に於て孤独ではない。しかるに人間は集団的の生活をしていて、家族があり、友人があり、おおくの知人があり、十八億の同族を地上に持っていて、孤独ではない筈であって、実は限りなく孤独である。そこに人間の孤独性の深刻さがある。(『著作集』第11巻.274頁)

 『孤独は人間本来のすがたである。人にして孤独ならぬ者は一人もない。衆とともに在るときも孤独である。ひとり在るときも孤独である。孤独は人間本来のすがたであるから、その在る場所によって左右されるものではない。(『著作集』第12巻.148頁)』

 これは、畔上賢造が書き残したことばです。この方は、早稲田に学んでいた時に、内村鑑三の主催する聖書研究会に出席し、多大な霊的感化を受け、信仰上のことを学んでいて、中学校の教師をさrw、後に独立伝道者として生きた人でした。

 この畔上賢造、その人となりは、1884(明治17年)に長野上田で生まれ、早稲田大学で学び、その在学中に内村鑑三の門下生となり、キリスト者となります。無教会の群れに属していますが、少なくとも、内村や矢内原や藤井、そして畔上賢造の書き残した著作を読みますと、聖書的ですし、福音的です。教会の在り方に対相手の考えにこだわりがありますが、正統に属するのではないでしょうか。

 「孤独」について、信仰者として、そう私たちが感じるのは、人間関係が上手でないからではなく、畔上賢造は、本来的に人間が孤独な存在だと言っているのでしょう。〈神の前に一人立つ〉と言う考えなのでしょうか。群れる人に迎合しないと言う意味ででしょうか。日本に1.26億人がいて、世界に80.45億人(2023年現在)いたとしても、私一人が、この地上にあります。

 その上、キリスト者としての孤独、信仰上の理由での孤独を味わう時もあります。これとて、私たちの正常な感じ方であるのです。私は、父に家に入れてもらえず、林の枯れ草を集めた中で、夜空を仰いで、一夜を過ごした時の独りぼっちさは、今でも覚えています。長じて、したたかにお酒を飲んで、酔いが覚めつつあった時、家にトボトボ帰って行った時に感じた孤独感も忘れられません。

 イエスさまは、孤独でした。そのことを、ヨハネが、その福音書の中で、次のように記しています。

 『イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ163133節)』

 十二弟子たちと、3年半の間過ごして来た弟子たちに向かって、『わたしをひとり残す時が来ます。』、とイエスさまが言われています。弟子たちは、この世の迫りで、散らされて、自分たちの家に帰って行き、主イエスさまを置き去りにするのです。まさにその通りになります。
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 人であるイエスさまは、一人で、十字架に進まれて行かれたのです。私たちが真性の人間であるように、イエスさまも真性の人でした。同じ信仰を持つ人の一人もいない職場の中で、キリストの弟子として生きるための孤独を味わったことが、私にもありました。イエスさまは、「父がわたしと一緒におられるから」と仰ったように、私にも御父が一緒にいてくださったのです。

 ところがイエスさまが、十字架にかけられた時に、次のように、父なる神さまに向かって仰ったのです。

 『そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マルコ1534節)』

 生まれる前から、人になられた時から、一瞬たりとも目を逸らされることのなかった父が、十字架上のイエスさまから、目を逸らされたのです。これは、「罪となられた御子」を、聖なる御神は、直視することができなかったからです。罪を犯すことのなかったイエスさまが、罪そのものとなられたからでした。

 その御父の視線が逸れた瞬間に、「見捨てられた」ことがお分かりになられたのです。

 『彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。 (マタイ175節)』

 父の神の愛と喜びの対象であった御子が、御父にも見捨てられたのです。これは、イエスさまの究極、極限の「孤独」だったのではないでしょうか。そう言ったところを通ることなく、十字架の贖いは成就しなかったからです。

 『しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。 (使徒224節)』

 御父は、イエスさまを、死の苦しみから解き放たれ、『よみがえせました』のです。イエスさまは、今父なる神さまの右に座され、執り成しをしていてくださり、助けぬ愛精霊をお送りくださり、私たちのために場所を設けておられ、その場所が用意されたら、迎えに来てくださるとお約束くださったのです。私たちは、独りぼっちではありません。『見よ。世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(ヨハネ2820節)』と、私たちに、イエスさまは仰っておられるのです。

(“Christian clip arts” からです)

私たちの国籍は天にあります

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 私は、三島の作品を読んだことがありません。とくに強い個性の持ち主で、彼の軍国主義的な考えや行動を知っていました。その考えに影響されそうに恐れを感じて、避けたのです。その上、彼が性的な倒錯者だと知ったからでもありました。上の兄が、放火に至る主人公の心の軌跡などを、三島が書いた「金閣寺」を読んでいましたが、それを借りることをしませんでした。

 それが良かったと、大人になって、三島の生育歴を読んで分かったわけです。都内の学校で教師をしていました1970年の秋に、近くの食堂で、昼食を摂っていました。テレビがかかっていて、自衛隊の市ヶ谷駐屯地にあった、東部方面総監室のバルコニーに、日の丸の鉢巻をした軍服姿の三島由紀夫が立って、「檄(げき)」を飛ばしている様子が、テレビの特別報道番組で放映されていたのです。

 それからのことは、後に知ったことです。平和な秋の終わりに、自衛隊の部隊に決起を呼びおかけたのです。まず総監室に四人の青年たち(楯の会会員)と共に、訪問客のようにして平穏に入ります。三島が持参した、日本の名刀・関孫六を軍刀に直したものを、総監に見せます。刀の話題で話し合っているうちに、会員が総監に猿轡を噛ませ、監禁し占拠したのです。

 隣室の自衛隊幹部たちが、これに気づき、総監を守ろうと乱闘となるのです。その後、バルコニーに出て、演説(決起を促すもの)をしますが、賛成を得られず、結局、総監室に戻り、森田必勝と二人、自決して果てるのです。三島45歳、妻と二人の木がいた男盛りでした。25歳だった私は、この日、テレビを観て驚きました。三島と行動を共にしていたのは、私たちの世代の青年たちでした。弟と私のそれぞれの同窓の後輩たちが、その仲間にいたのです。

 こう言ったことでは、日本は変わらないのです。皇国史観や国粋的なもの、大和魂の堅持で、国を変えようとするなら、武闘になり暴力と成り下がるのです。青年たちの想いに、強烈な影響を与えたことは、文学の力ではなく、武闘魂の働きです。国を思うあまり、国を滅ぼすことになるのは、残念なことです。

 上智大学の福島章の著した「愛と性と死〜精神分析的作家論〜小学館刊」の中に、この三島が取り上げられていました。物書きの生育歴を、精神分析家としての著者が取り上げたものです。坂口安吾、太宰治、中原中也などと共に、この三島が取り上げられています。

 裕福な家庭で、三島は育っていますが、「おばあさんの子」として幼少期を過ごしています。可愛い孫を、母親の手から奪い取って、陰湿な老いと病の匂いの立ち込める奥座敷に閉じ込められて育ちます。遊び相手は、近所の女の子たちだったのです。そんな子どもの頃の経験が、三島の手で書き残されているのです。

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 『最初の記憶、ふしぎな確たる映像で私を思い悩ます記憶が、そのあたりではじまった。(中略)私はそのだれか知らぬ女の人に手を引かれ、坂を家の方にのぼって来た。(中略)肥桶を前後に担い、汚れた手拭いで鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏み分けながら坂を下りて来た。汚穢屋ー糞尿汲取人ーであった。彼は地下足袋を穿き、紺の股引を穿いてゐた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。(中略)

 私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを豫感した。汚れた若者の姿を見上げながら、「私が彼になりたい」という欲求、「私が彼でありたい」という欲求が私を締めつけた(「仮面の告白」)』

 歪んだ母性愛(2母ではなく祖母からの異常な愛)を幼年期に受けて、三島が出来上がって行きます。ある時期から、「強い肉体」を求めて、剣道やボディービルディングを三島は始めます。青白い文学青年が、筋骨を誇る男に変身していくのを、何かの若者系の雑誌で読み、見ただことがありました。

 もちろん幼児体験だけがが、人の一生を決めてしまうのではないのでしょうけども、もう、性倒錯などということばは、性の多様さの時代だと言われて、市民権を得たように考えられている今では、時代遅れになっているのでしょうか。

 気になるのは、1945815日の敗戦の日に、『自分は死に遅れた!』との思いを、三島が持ち続けながら戦後を生き、1970年、敗戦25年の時を経ているのに、過去の亡霊のまやかしの中、あのような形で死んだのではないかとといった事件の背景も語っている記事も気になります。私の不安定な青年期に、国粋的な考えを持って、「大和魂」を追い求めていた時期があったのを、今は恥じるのです。

 『けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 (ピリピ3章20節)』

 この事件の一年後に、一面では、母の信仰を受け継ぐのですが、聖霊なる神の促しによって、曖昧だった信仰が、はっきりさせられて、今日に至っております。日本人であるよりも、「神の国」に国籍を持たせていただいた者として、生きていくことこそが、真実な生き方なのだと思い至ったからであります。

(戦後78年にもなる「市ヶ谷」の駅周辺の様子、ままごとです)

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