出て行って休みを得よ

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「主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。(新改訳聖書 エレミヤ31章2節」)

 人気を保つために、結婚を禁じられ、家庭を持たないまま、隠れた生活をしながら生きなければならない様に、強いられて、そんな慣習に縛られた、「アイドル」とされた男女がいます。心も体も休む暇のない人たちなのです。

 アイドルであるために、強いられた生き方を、大人たちにさせられて、人本来の幸せを満喫することもなく、無節操な世界に身を置いたのです。やがて、人気に翳(かげ)りが来ますと、表舞台から去って行き、噂にも上らなくなってしまうのです。もうすぐに、次のアイドルが誕生するのです。きらびやかであった銀幕や舞台のスターたちが、そう言った人生を歩む様子を見聞きしてきました。

 みんな大人の都合なのです。大人が生きていくための tool(ツール/道具、手段)、いえ収入源、生活原資を確保するための「ドル箱(円箱と言わないのが面白いですね)」として、人気取りの世界が蠢いています。次から次へ誕生しては、消えて行きます。〈夢を与える〉のに、夢を奪われて、惨めな結末で去っていくのです。

 モデルを勧められ、誘われたことも、ないではない自分ですが、その一見して輝かしく見える世界が、実は闇の世界だということを感じたからでしょうか、そに誘いにのりませんでした。あの日に、闇深い金づく、色づくの闇の世界に引きずり込まれないで、打ち勝てたのは、自分が強かったからではありませんでした。私をみちいてくださった永遠の御手であったに違いありません。

 芸術だと言いながらも、その内実は、名誉欲や肉欲や物欲の蠢く世界で、若い頃にあった輝きや注目は、年老いて衰え、無理な生活の刈り取りで、身体も心も病んで、人々に忘れ去られ、見る影もなく寂しく去って行った人たちが、数限りなくいます。いつの間にか、輝かしい舞台の上から消えてしまったのです。

 お父さんがしていた医者の跡を継がないで、芸能界で生きた一人のスターがいました。映画の世界で、若い頃に、とくに輝いていました。しかし最後は、私が住んでいた街の隣街で、病んで、孤独の内に亡くなってしまいました。往年の大スターでした。上の兄の二級ほど上の年齢でしたが、その70年ほどの生涯は、実際には孤独だったのです。虚構や嘘の世界で、自分でない他人を演じるというのは、観る人には娯楽であっても、演じる人は矛盾を抱えて生きさせるのでしょう。自分を失ったに違いありません。もちろん全ての俳優が、そうだとは言えません。立派な人格者もおいででした。

 子どもの頃、街の空き地に、小屋がかけられ、チャンバラの時代劇が演じられていました。男がお白粉で化粧をし、赤い口紅をつけ、黒いクマを目の周りに塗って、かつらをかぶって、尻っぱしょりの着物で、各々、役を演じていました。客席からは、演じる役者の名が呼ばれ、お囃子が流れ、太鼓が打ち鳴らされ、投げ銭が飛んで、全く別世界がありました。

 農耕に疲れた村人が、農閑期に、しばしの休みと、近郷近在から呼び集められ、そう高くない木戸銭を払って、夢の様な舞台を眺めて、娯楽を楽しんだ名残が、銀幕の映像が映し出された映画に変わったていったのです。

 その映画に、小学生の私は、魅せられてしまったのです。父が転校した旧制中学校に、何級か先輩で、有名な映画俳優がいました。そんな親近感があったからでしょうか、その出演映画が観たくて、隣街の映画館に、週末になると、弟を誘って出かけたのです。チャンバラ映画です。

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 それに、若くて、これからの映画界を背負って立つ、俳優たちを観たくてでした。ところが、その多くの方が、若くして亡くなってしまいました。無理が原因してなのでしょうか、不摂生な生活を強いられ、奢侈贅沢な生活が続いて、ついに心も滅ぼしたのか、身体を壊し、夢を売ったにしては、ご自分としては、ずいぶんと不幸な一生だったのです。

 一度だけでしたが、ある仕事を頼まれて、あの映画俳優や舞台俳優や歌手が、スポット・ライトを当てられて、舞台の上に立ち、歩む姿をライトで追われる様な中を、歩む経験をしたことがありました。そのライトを当てられた時、舞い上がる様な高揚感に包まれたのです。まるでマジックにかけられたかの様でした。人々が客席にいて、自分だけが一人、脚光を浴びていました。

 あの気分を味わった私は、一度だけだったのは良かったと、つくづく思うのです。あの舞い上がる様な気分は、今でも忘れられないからです。常にそんな立場にいたら、スポット・ライトが当てられなくなって、銀幕や舞台から去った後の落差は、如何ばかりに大きいいことだろうかと思えたのです。

 スーパーマーケットで働きながら、二足の草鞋(わらじ)、三足の草鞋を履きながら、家内と二人で、教会の用と子育てをした日々を思い返し、感謝が尽きないのです。真夜中に、スーパーやコンビニの床清掃もしました。学校に行っていた頃、外資系のホテルのバイトで、ポリシャーを回した経験もあって、それで請け負ったのです。

 たくさんの方々の助けで、その事業を始めましたら、『他の支店もして欲しい!』とか『コンビニでもして欲しい!』と頼まれ始めましたが、会社組織は作らなかったのです。自分に与えられている時間を、正しく管理する必要を感じていたからです。それでバイト感覚でやり続けました。子どもたちの教育費をそれで捻出したのです。20年近く、それを続けたでしょうか。使徒パウロが、天幕づくりをしながら、宣教活動をしたのに倣って、清掃の仕事をしたことは感謝でした。

 そうやって、伝道者として過ごした日々を思い返して、決して guilty (罪悪感でしょうか)に責められることなないのです。その働きが、社会的に評価され、感謝されたからでもありました。家に帰って来た子どもたちも、一緒に働いて、助けてくれ、子どもたちの学業が終わる頃には、その事業も終わったのです。

 まさに「万事あい働きて益」であったと感謝したことです。「わが生涯に悔いなし」と今、深く思わされております。ワックスの注文を忘れてしまった夢を、今でも、時々観るのです。そんな私で、もう何もしない様な今も、あの頃と同様に感謝が溢れ、喜べるのです。

 オランダの歴史学者のホイジンガーが、「労働と遊びの両立」を、その彼の著書で言っていました。月に2度、真夜中の労働は、実は辛かったのです。でも親の責任を果たすために、また同労の働き人の生活援助のために、献金のためにも頑張れたのです。疲れ切って、白む朝を迎えた日々が懐かしく思い出されます。

 その街には、山際に日帰り入浴施設が多くあって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉もありました。あの湯につかりながら眺めた光景は、感動的で忘れることができません。ちょうど真冬の季節の厳冬で、凍てつく日が続いていた日だったと思います。春の新緑、秋の紅葉、自然に触れて力付けられた、あの一息つく時々、「遊び」があって、生活にリズムや休息が与えられていたことになります。けっこう質の素敵な生き方だったかなと、そんなことを思い返して、自負している今であります。

(ウイキペディアによる熊本の古閑の滝の氷柱、チャンバラごっこです)

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もう赤とんぼや鈴虫が

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『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(新改訳聖書 伝道者の書12章1節)』

 それでも、もう赤とんぼが、ベランダの朝顔の葉やなでしこの花の間を飛ぶ様になり、夜間は虫の声もする様になっています。どんなに暑くても、季節の移り変わりが感じられるのは、今年は、救いの様に思えてしまいます。

 間もなく、甲子園の熱戦が始まりますが、高校野球連盟の報告(硬式野球)は、次の様です。今回は、第106回の大会で、甲子園への出場校数は、49校です。

 『本日、富山県で全国最後の地方大会組み合わせ抽選会が終了し、今大会の参加チーム数が、3,715校3,441チーム(昨年3,744校3,486チーム)で確定しました。

参加チーム数は、抽選会に参加したチーム数を集計したものです。

今回、最も参加校が多いのは愛知の173チーム、次いで神奈川168チームで、大阪の155チーム、兵庫の152チーム、千葉の148チームで、全国10地方大会で参加チームが100チームを超えており、最も参加チームが少ないのは鳥取の22チームです。

また、『統廃合の特別措置』による連合チームは8校4チーム、部員不足による連合チームの参加は403校133チームです。(7月5日付)』

と報告されています。私が、高一だった1960年は、参加校は、1903校、出場校は30校、優勝校は法政二高(神奈川県代表)でした。東京都の予選は、東西に分かれる以前でした。高三だった1962年は、参加校1996校、出場校は30校、北関東代表(栃木県と群馬県)の栃木県宇都宮市の作新学院が優勝しています。プロ野球で活躍したエースの八木沢壮六が赤痢にかかり、急遽控えの加藤斌が投げて優勝した年でした。加藤は、上海で誕生しています。

 今年は、地元の栃木県県予選の試合を観戦しましたので、県代表になって出場する、県立石橋高校を応援したいと思っています。自分の高校時代は、公立校の参加校での比率が高い時代でしたから、今と比べ隔世の感がします。でも、予選で敗退した学校、複数校の混成チームでの参加校、参加してもレギュラーになれない控え選手、応援席で応援する選手たちをひっくるめて、高校野球が成り立っています。脚光を浴びない競技の選手、文化部の部員、活動不参加の高校生、高校に行かないで働いたり病んだり悩んだりしている人たちだっています。

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 みんな一回きりの青春の一コマを生きているのです。頑張らなくてもいいから、一瞬でも輝いた時を過ごして欲しい、と願う私です。ボールに石灰を塗って、ボールを投げ、シュートしていた陽が落ちた薄暗いグラウンドで、隣で練習していた野球部は帰ってしまっていても、自分たちだけが練習していていました。空きっ腹で嗅いだ、近所の夕餉(ゆうげ)の秋刀魚を焼く匂いと煙が懐かしく思い出されてしまいます。

(“いらすとや”の鈴虫と焼き秋刀魚です)

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人生の節目も見つめて

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 朝起きて、熱っぽくて、フラフラするので、母に聞かれて、『具合が悪い!』と言うと、『今日は、学校は学校は休みなさい!』と言われて、三年生くらいまでは、そんな朝を、多く迎えていました。咳がひどく出ると、母は私を連れて、電車に乗って、隣町の国立病院の小児科に連れて行くのです。

 診察を終えると、粉薬と水薬を二種類処方されて、持って帰ったのです。乗り降りしたz駅の近くの店で、made in USA🇺🇸のホシブドウ、キャラメル、チュウイングガム、チョコレートなどの内、一つを買ってもらって、電車に乗って帰りました。肺炎にならないで、家でしっかり休むようにと、また病院に行ったご褒美だったのです。

 学校に行けず、起きてる時は、NHKのラジオ放送を聴いていたでしょうか。名演奏家の時間、ひるのいこい、たずね人、引揚者の消息などの放送があったのです。夜は、落語や浪曲や歌謡曲やクイズの番組もありました。お昼のニュースの後の「ひるのいこい」では各地の農林水産委員の便りが読まれ、それが何処かを母に聞いたりして、まさに〈ラジオっ子〉だったことになります。

 出掛けないで、家で布団に寝て、天井を見上げていると、木目(杢目/もくめ)の間に、「節(ふし)」があるのですが、それがだんだんと大きくなっていくのです。熱にうなされているからでしょうか。そのうちにウトウトと浅い眠りに落ちていくのです。この節目は、木の幹から出ている枝があった部分が、製材すると木板に、枝の跡の節目が残っているのです。

 ところが、竹にも節があるのですが、この節は違うのです。空洞の竹が、風に吹かれても倒れたりしないで、持ち堪える役割も担っているのです。散歩道のコースの一つに、竹林があります。それほど広くはないのですが、巴波川の土手の下にあって、春先には筍が見られることもあります。木には、幹から枝が伸びる箇所に、「節」があるように、また竹にも節がある様に、自分の人生にも「節」とか、「節目」があった様に思うのです。

 それって、意味のある出来事と言うよりは、人との「出会い」だと思えるのです。家族はもとより、素敵な意味のある、数々の出会いがあったようです。主治医の牧先生、初めて褒められた小学校の内山先生、近所の出身の宇津井先生、社会科の面白さを教えてくれた佐藤先生、叱らずに激励してくれた中学校の三年間の担任の大机先生、一緒に発掘をした考古学班(高等部の教師)の指導の夏木先生、高校の西川先生、大学の天川先生(ゼミ担当)、悪戯小僧の私に、おどろくほどの忍耐をして、諭してくれた教師方との出会いに恵まれたのです(みなさん匿名です)。

 夏木先生は、就職先を紹介してくれたのです。就職先の尾崎所長、この方が、次の就職先を紹介してくれました。なぜか面倒みの好い先生で、ご自分のお弟子さんが、短期大学にいて、教務部長をされていたのです。そのコネで、教師にさせていただいたのです。何か孫弟子のように接してくれたのです。そして、母の教会のアメリカ人宣教師が、その教会を、私の兄に任せて、この私を、開拓伝道に誘ってくれたのです。

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 パウロがテモテを助手にして、やがて教会を任せた事例に倣って、Man to manで訓練をしながら、8年間養成してくださったのです。アメリカから神学校や聖書学校の教師を、たびたび招いては、特別講座を開いてくれたのです。同級生が、3人ほどいたでしょうか。その訓練は、聖書的な伝道者の養成法だったのだと思い返します。

 在京の正規の神学校でも、講義を聴講をさせてもらいました。そう言った私塾的な訓練法を見て、ある方が、神学大学で学ぶように勧めてくれました。家内を、ご自分が責任を持つ教団の教会が経営する保育園で働きながら、私に神学校に学士入学するように勧めてくださったのです。でもお断りしてしまいました。

 伝道者は、単位を履修したから資格があるのではなく、救霊の重荷を持つ者が、聖霊に導かれて、主の弟子になり、主の羊のお世話をさせていただく務めだち学べたからです。私たちを教え、養ってくださったみなさんは、宣教の志を、主から与えられて、テキサス、ジョージア、イリノイなどからやって来られたのです。

 もう主のもとに帰られていますが、この方々の残したことは、過小評価できません。多くを教えられ、学んだ日を思い返して感謝ばかりです。あの人この人、あの時この時、あんなこんなことがあっての今です。このみなさんと、再会の時が定められていると思いますと、一体、どんな交わりがあるのだろうかと、はるかに思っている私です。

(ウイキペディアによる木目と節目、Christian clip arts のパウロです)

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到来葉月

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 8月1日の朝です。ベランダに今朝、咲いている花々です。朝顔は、三輪だけ開きはじめ、その後開きました。

 今月は「葉月(はづき)」と言われてきましたが、暦の上では「秋」で、紅葉や落葉の「葉」を言っていますから、灼熱の太陽、茹だる様な大気、煮えている様に感じる噴水、水遊びもお湯遊び、砂漠の漠々した様な暑さですが、もう秋が考えられる月になっているのも本当なのです。

 夏が来れば思い出すのは、家内、次兄、長女、次男の誕生月、誕生日なのです。このところ冷やしビーフン、米粉の皮なし餃子を作って、食べています。けっこう美味しいのです。健康第一、身体髪膚これを創造主から受けていますので、この八月も過ごさせていただこうと願っています。祝福を、みなさんの上にお祈りします。

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5時に虹が出てきて

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『さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。 わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(新改訳聖書 創世記9章12~16節)』

 5時前に、にわかに空が暗くなって、急に雨になりました。焼けた地面から、嬉しそうな声が上がったようです。30分ほどで、涼しくなって、さしものhot の一日でしたが夕方になってホットさせられて生き返ったようです。しばらくしましたら、東の小山の上に「虹」が出てきました。5時ころでした。聖書によりますと、虹は、神と人との「契約のしるし」なのですね。

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華々しいオリンピックの陰で

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「ですから、私(パウロ)は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(新改訳聖書 2コリント12章10節』

 六十一の時に、家内を誘って、お隣の国に参りました。念願の中国の学校に留学して、中国語を学習し、教会の活動に参加するためでした。天津の街の外国人専用の「中国語中心」の学校でした。交通大学の附属校だったのです。イギリス、ドイツ、ニュージーランド、オーストラリア、カナダ、アメリカなどからの留学生たちがおいでで、同じアパートに住んで、交流もあったのです。

 自転車通学で、大通りを懸命にこいで、通学したのですが、帰りには、街中に行ったりしました。日本の牛丼の「吉野家」が開店されていて、ドイツから夫妻で来られておられた方に誘われてお昼御飯時にうかがったのです。漢字の屋号は、まさか日本の店だとは気づかないでいたので、『この店は日系なんです!』と、得意になって教えてあげました。

 ここには、トヨタ自動車の工場があって、そこに勤務する日本人が多くおいでで、「日本面包(mianbao/パン)店」や「伊勢丹」まであったのです。アンパンを、家内が小一時間の距離を、よく出かけて買ってくれたのです。寸分違わない味がして、急に日本が恋しくなってしまいました。

 その様な日系企業の展開を、身をもって触れてみた反面に、明治以降の日本の大陸進出、侵略の名残も目にしたのです。この街の中に、博物館があります。語学学校の研修の一環で、見学会があって参加したのです。どこも同じなのですが、その規模の大きさに驚かされるほどで、有史以来の街の歴史が、「panoramaパノラマ」の様に工夫されて、展示されてありました。

 日本軍の放った火で、街が真っ赤に燃え落ちる様子が、壁面に大きな規模に描かれていたのです。当時の天皇や政府の指導者や軍の幹部の名前も写真も掲げられて、そこにありました。

 この街に、「五大路」と名付けられ、表示のある交差点があります。この近辺は、「租界(そかい)」のあった地域でした。その岐路の食べ物屋やホテルや商店があった様な、街並みが現存していました。goo辞書に、「租界」が次の様に記されてあります。

「中国の開港都市において、外国人がその居留地区の警察行政権を掌握した組織および地域。1845年、英国が上海に設けて以来、一時は8か国27か所に及んだが、第二次大戦中にすべて返還された。一国が管轄する専管租界と複数国による共同租界があった。」とあります。日本の租界の入り口には、『中国人と犬は入るべからず!』と掲出されてあったそうです。」とです。

 上海の他に、天津、漢口、杭州、蘇州、重慶などに租界があって、いわゆる治外法権の「外国」だったのです。いろいろな蛮行が行われた街だった様です。私は、この博物館に滞在した間、頭を上げられないような思いで過ごしたのを、昨日に様に覚えています。

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 先日、友人牧師の便りの中に、100年前に開催された「パリオリンピック」の400m競走で、金メダリストに輝いた、Eric Liddell (エリック・リデル )が活躍したことが記されてありました。このエリックが生まれたのが、この天津でした。エジンバラ大学に進学して、陸上競技選手として花開き、イギリス代表として活躍しました。その彼を主人公に、「炎のランナー」という映画が、上映されました。

 エリックは、大学を捨業すると、両親のいる天津に、宣教師として出かけました。カナダ人の婦人宣教師と結婚して宣教を開始しますが、間もない1931年に満州事変が勃発し、1941年には、本国のイギリスから、退避の勧告がなされ、夫人と子どもは帰国させ、リデルは単身天津に留まるのです。1943年には、天津から遠い、山東省濰坊にあった「捕虜収容所」に送られ、そこで病を得て、1945年2月21日に、エリック・リデルは亡くなるのです。

 この収容所でに出来事を、次の様に期した記事がありますので、引用してみます。

『・・・敵国人収容所でも、エリックは聖書の勉強会を開き、子どもや若者たちの心を魅了します。その中に17歳の少年もいました。「汝の敵を愛せ」と、エリックは説きます。が、敵である日本人を愛することなどどうしてできるでしょうか。スティーブン(Steve Metcalf)の自伝によれば、日本人の中国支配は凄惨を極めます。西洋人は闇市で捕まっても1~2週間の独房入りで済みますが、中国人は電気柵で首を吊るされ、見せしめにされたそうです。無抵抗の中国人漁師が日本軍の戦闘機に銃撃され、殺害されるのをスティーブンは間近で目撃したこともあるといいます。

 この若者は「汝の敵を愛せよ、という言葉は理想に過ぎない。日本人、特に日本の憲兵を愛することなど現実的には不可能だ」という結論を出そうとしていました。そのとき、エリックは静かに語ります。「聖書には『汝を迫害する者のために祈れ』という言葉があります。私たちは愛する者、好きな人のために祈ります。しかし、イエスは、好きではない人のために祈りを捧げなさいと教えています」。そして、こう続けます。「人を憎むとき、あなたは自己中心的になります。祈りを捧げるとき、あなたは神中心の人間になります」、と。

 スティーブンは伝説の金メダリスト、エリックと二度一緒に走り、一度だけ勝ったことがあるそうです。エリックはスティーブンに「君のシューズはもう修理できないほど擦り切れているね」と言ってランニングシューズを手渡してくれました。その3週間後の、1945年2月21日、エリックは他界します。スティーブンはエリックからプレゼントされたランニングシューズを履いて棺を担ぎます。「日本人のために祈りなさい」。この言葉を神からの「啓示」として受けとったスティーブンは、後にエリックのバトンを受け継ぎます。

 広島、長崎への原爆投下で、戦争は終わります。スティーブン少年は生き延びて、オーストラリアに移住しますが、マッカーサー連合国軍最高司令官が1948年、日本へのキリスト教伝道のために若い宣教師を募っているのを知り、神学を学んで、1952年日本へ行く決心をします。戦争の「隠された記憶」の一つです。私たちはこの記憶を若い世代に継承していく責任があります。それもまた教会の宣教の重要な責務の一つではないかと思うのです。』(真駒内教会 高橋 一牧師記)

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 青森市で伝道した方の、その様な証を読みますと、自分の母教会を開拓してくださった宣教師、その宣教師の証に啓発して、日本に来てくださった宣教師たちが、この方に続いたのです。私の知っている婦人宣教師は、日本軍が、戦場で繰り広げた兵士たちの酷い行いを目撃し、こんな蛮行をしている日本人には、「キリストの福音」だと信じ、戦争が終わってから、日本にやって来られて、「十字架に死なれて蘇られたキリスト」を述べ伝え始めたのです。

 日本占領軍の司令官が、日本宣教に、多くのアメリカ人宣教師を送ったのです。その内の一人が、母教会を始められた宣教師さんでした。病んだ若き日の家内を、大変支え、仕えてくださったご夫妻でした。ここから、幾つもの教会が、各地に建て上げられて行きました。教会は、多くの苦労を経て、その地域に確立されて行きます。どの働きも困難の後に、この牧会を任される日本人牧師の伝道の基礎を築かれたのです。尽きるところ、教会は「キリストの体なる教会」なのです。天津にあった教会も、華南にあった教会も、米英から遣わされた宣教師のみなさんによって始められていました。

(ウイキペディアによるエリック・リデル、天津の位置、青森市の市街地です)

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この夏、パリであったこと

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 よく泣きじゃくっている女の子を、昔、目にしました。わが家の娘たちは、ポロリと涙を落として、くやしさを飲み込んで、『まあいいか!』で、思いを変えて、前を向いてまた歩き始めていました。

 そんなことを思い出させた出来事が、花のパリであった様です。あたりかまわず号泣したのです。それで、男でなかったのが分かって、ちょっと安心しました。子どもっぽくて、いいなと思ったのです。そうそうできないことを、今回して、すっきりしたことでしょう。一度してみたかった私ですが、そんな機会が残されているかなの、猛暑の夏です。

(ウイキペディアのエッフェル塔とセーヌ川です)

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子育ての頃に

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Pearl Harbor, Hawaii (Aug. 29, 2003) — Sailors and Marines aboard the amphibious assault ship USS Peleliu (LHA 5) render honors to the USS Arizona Memorial and the Battleship Missouri. Peleliu will be inport for a couple of days before heading out with Expeditionary Strike Group One (ESG 1) on deployment. An ESG constitutes a new naval strike force designed to equip amphibious forces with added firepower and operational capabilities. The seven ships of ESG 1 include, USS Peleliu (LHA 5), USS Germantown (LSD 42), USS Jarrett (FFG 33), USS Ogden (LPD 5), USS Port Royal (CG 73), USS Decatur (DDG 73), and USS Greeneville (SSN 772). U.S. Navy photo by Photographer’s Mate 1st Class William R. Goodwin. (RELEASED)

 

 「ピューリタン(清教徒)」の信仰を受け継いだのでしょう、アメリカ人の宣教師さんは、テレビを持ちませんでした。ジョージアの田舎町で、GEの大きな電気店の御曹子でしたが、日本語が分からないこともあり、テレビを観ませんでした。アメリカ建国初期の信仰者の生き方を受け継いだのでしょう、けっこう世俗から距離を置いて生活をしていた様です。でも禁欲主義者ではありませんでした。よくマクドナルの店で、ハンバーグを美味しそうに食べてるのを、通りがかりに見かけました。

 この方と九歳違いの私は、世俗の人間で、巷をウロウロしながら生きてきて、25でやっと母の信仰を継承しました。この宣教師と一緒に働きましたから、子育て中、テレビを置きませんでした。それでも子どもたちは、友だちの家に遊びに行っては観ていた様です。私は、その自由を彼らに与えました。

 テレビのこれでもかこれでもかの攻勢に勝てなかった私は、個人的な理由もあって、テレビを置かなかったのです。そんな家庭で育った子どもたちでしたが、親の信仰を継承し、決して変人にはなりませんでした。長男は、牧師になってしまいました。ハワイの高校で、『真珠湾攻撃を、どうしてくれる?』と責められた彼は、それに抗して、『それでは広島と長崎はどうしてくれるのだ!』と言い合いをして、それが喧嘩になってしまったのです。そんな喧嘩のできる子で、安心したのを思い出します。

 喧嘩両成敗で両者が停学になっています。それでも、牧師夫妻が息子を理解してくれて、次の学年は、カリフォルニアの学校に転校したのです。三年時には、再びハワイの学校に戻ることができ、なんと優等生で卒業したのです。その学校側の言い方が、面白かったのです。『日本人なのに、よくがんばったで賞!』だったのです。

 「蹉跌(さてつ)」という言葉があります。主に青年期に、未熟さが原因するのでしょう、物事がうまく運ばないで、失敗経験をすることがあります。挫折やつまずきのことです。そんな風に決定した学校も寛容だったのでしょうか、復学の機会を与えてくれたのです。失敗で、一生を棒に振ることがなかったのは、彼にとっては救いだった様です。

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 学校を終えて親元に帰って来て、その秋に、オレゴンのコミニティー・カレッジに入学をしたのです。授業料が安かったからです。けっこう地味な科目を専攻して、三年時に、州立大学に編入し、卒業をしたのです。留学時には、中学での英語は得意でしたが、ハワイ英語に慣れるまでは、チンプンカンプンだったそうです。親の援助を当然とは考えず、彼を受け入れてくださった教会と牧師さん、ホームステイをさせてくださった教会のメンバーの方の好意があった学びの時でした。

 家内と彼の卒業式に参列しました。日本で見られる様な、きちんと整列などしない卒業生たちは、思い思いに自己表現をしていました。後ろの席で、風船を膨らませて飛ばしてもいたのです。式の流れを損なうことのない、その自由さを見て、アメリカ教育の良さを再評価した時でした。

 ハワイに戻った彼は、その牧師さんの勧めもあって、教会スタッフとなって、教会の中で多くを学びながら、奉仕をし、神学校で学ぶ機会を得たのです。15の日本の男の子を受け入れて、お世話くださったみなさんとの関わりで、彼は伝道者の道を選んだのです。その牧師さんの人格的、信仰的な感化を受けたからでした。その経験は、彼の生涯の宝物に違いありません。

 今は、一緒に学んだ方と、一つの教会を導いて、次世代の二人の子の父親として、子育てにも当たっている今であります。人との出会いは、その人の人生を変えるのでしょうか。ビジネスマンになって生きていくのだろうと思いましたが、自分と同じ道を選んだことを、家内と感謝しているのです。

 この兄の進んだ道に倣って、妹たちと弟は、ハワイやオレゴンで、同じ様に学び、教会と関わりながら、それぞれの道で生き始めて、今や子育ての後半期に至っています。もう40〜50代の彼らなので、家内も私も歳をとるわけです。この二人、テレビなしで、今でも生きているので、やはり変人なのでしょうか。

(ウイキペディアによる神獣湾のアリゾナ・メモリアル、ハワイ島にあるカメハメハ大王像です)

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教会の願う「マラナ・タ」

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「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。

ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。

私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、

その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(新改訳聖書 ピリピ3章3~14節)」

 これは、十数年前になりますが、アメリカのフラー神学校の研究報告の一部です。

  1. 毎月1500人の牧師が辞めていく。理由は道徳的失態、霊的枯渇、教会内での対立など。
  2. 結婚した牧師のうち半数は離婚に至っている。
  3. 牧師のうち8割は自信喪失や失望を感じている。
  4. 5割の牧師は失望して職を辞したいと考えるが、代わりに生計を立てる職の見込みはない。
  5. 神学校、聖書学校卒業生で牧師になった者のうち8割は、最初の5年以内に職を去る。
  6. 7割の牧師たちは鬱を抱えている。
  7. 約4割近い牧師が牧師になって以降不倫を経験している。

 アメリカという社会と、キリスト教世界と同じように見るべきではないのですが、教会もまた例外なく、この世の動きに強く影響され、反応しています。一旦牧師になって、生涯、その召命を全うするには、その人の努力ではなく、「召命の確かさ」が必要だと言うことでしょうか。その召命を確かにされるのは、「教会の主」であるキリスト・イエスさまでいらっしゃいます。

 主に仕えたい願いは、誰にもあります。すでに亡くなられましたが、ビリー・グラハムやアフリカ伝道をされたドイツ人のラインハルト・ボンケなどの働きに啓発されて、献身した人たちが大勢おいでです。グラハムの場合ですが、第二次世界大戦の終わった後、アメリカのキリスト教界に、三人の若い伝道者が立ち上がりました。

 その一人が、ビリー・グラハムでした。他の二人は目覚ましい働きをして、アメリカ社会から脚光を浴びました。一人は、Hollywoodの映画スターの様に光輝いた働きをしたのです。ところが残念なことに、女性問題を起こして、伝道の世界から間もなく消えて行きました。もう一人の若き伝道者も、たくさんの人を救いに導いた成功的な伝道者だったのですが、大いに用いられながらも、麻薬問題で身を誤り、成功的な伝道を終えてしまいました。

 残ったグラハムは、その二人に比べて目立つことのない、地味な奉仕をしました。それは堅実で、その99年の生涯、伝道の働きに留まり続けました。主なる神さまは、彼を用いられたのです。もちろん人間的な弱さは、グラハムにもありましたが、主の名を汚すことなく、主のみ許に帰ったのです。

 貶されたり、非難されたり、非難を受け、また叩かれ、鍛えられ、純化され、《謙遜さ》を身に付けられるようにして、グラハムは奉仕を続けたのです。成功しても驕ることなく、たとえ失敗しても卑下しないでいました。神に召された人は、その神に依り頼み続けることが肝要です。忠実さが、彼の働きの輝きだったと言えます。

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 キリスト教伝道は、自分の願いではなく、たとえ自分の願いであっても、時間と経験によって試されて、「召命されたこと」が、多くの教役者たちによって、承認される必要があります。そして、これが大切な要点ですが、複数の教役者が、その人に、務めへの召しがあるかないかについて、証明してもらう必要があります。教会の主でるイエスさまは、聖霊なる神さまと共に、主に仕える者を、「按手」によって膏油注ぎをされます。

 すでに主に支えてきた経験豊富な教役者たちの按手によって、霊的な承認がなされる必要があるのです。「教会の主」に仕え、主の働きの責任を確かにすることです。その任職が、人間や団体によるだけではなく、「教会の主」から出たことであることを立証する必要があるからです。

 また、伝道者として奉仕する上で、“ mentor ” を持つ必要があります。もし人格上や行動の中に、相応しくないところがあるなら、端的に指摘し、責めてくれる人を持つことです。涙を流して祈って、助言してくれる器です。また同輩の教役者がいて、霊的にも人間的にも、互いに感化し合い、刺激し合い、指摘し合い、叱責し合うことを必要とします。

 パウロは、宣教奉仕の上で、起こった問題の解決を、エルサレムに上って、そこにいる使徒団(イエスさまの弟子たち)に、相談したり、意見を求めて、委ねました。また、宣教の働きが一段落すると、アンテオケの教会(多分母教会でしょう)に帰ったのです。そこでは、一人の信徒としてでしょうか、その群れの中で時を過ごしています。

 祈りの必要を、自分を委ねた群れへの奉仕を、物心両面で支援してくれることを、その教会に要請し、祈って支えてもらいました。その様な時を過ごして、再び宣教のビジョンを持って、他の地に出掛けて、宣教を再開し、継続したのです。テント(天幕)を作りつつ、実業にもついて宣教をしています。一匹狼的な牧師は、神の国の進展のためには、奉仕を続けることは困難なのです。

 本当の意味で、叱責してくれる先輩教役者、同輩、霊的な頭が必要です。そう言った器を持っていないなら、それを、主から頂かなければなりません。それで、「謙遜」を学ぶことができるのです。イエスさまこそ、謙遜なお方でいらっしゃったからです。

 教役者、主の働き人は、主が選ばれて、任職されます。選ばれたら、それを奉仕によって証明しなければなりません。そのためには教会の中に、祈ってくれる兄弟姉妹が必要です。霊的にも、精神的にも、経済的にも支えてくれる兄弟姉妹を持つことです。エジプトの奴隷の家から、同胞を導き出したモーセは、義理の父親の助言を受け入れました。主が、モーセを教え、導くのに、異教徒の義父を用いられたのです。

 教役者は、その選びの故に、尊敬されるべきです。人間的には、低い教育しか受けていなくても、話し方が上手でなくても、主と人とを愛しているなら、主の御用に用いられます。不足やおかしいところがあれば、主は、様々な方法で、その器を変えて、矯正してくださいます。

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 牧師が信徒を育てるだけではありません。信徒が牧師を育てて行くのです。神学校が育てただけではありません。遣わされた地方教会で、育つていくのです。そう言った献身、奉仕の道があっていいのです。学位とか教科の履修も必要かも知れませんが、主の僕としてのあり方は、初代教会に見られた養成のかたちでも良いのです。

 ある一人の牧師にあったことです。神学校を出たてで、牧会者になった方が、まだ経験的に若かった頃、いつも反対意見を言い、自分の言うことを聞いてくれない老信徒がいたのです。ところが主の日、日曜日の礼拝になると、その方は、早めに教会に来て、いつも座る自分の席に着いていました。『今朝の日曜礼拝で、主は、この牧師を通して何を語ってくださるか!』との怖れと期待とを持って傾聴したのだそうです。

 「神のことば」を待ち望み、経験の浅い教役者の語る説教を、真剣に聴いてくれたそうです。長い牧会をへて、この方は、教団の議長にもなるほどでした。この牧師は、その若い頃に、自分の教会にいた年配の老信者が、『私を育ててくださいました!』と述懐していました。

 ホーリネス信仰に立つ、牧師のお父さんは、戦時下の弾圧で入獄中に獄死しています。15歳で刑務所に、お父さんの亡骸を、お母さんと二人で貰い受けに行きました。戦争が終わり、彼は献身し、叔父さんに導かれて神学校に行き、お父さんと同じ牧会の道に進みます。

 お父さんの再臨一辺倒な聖化だけ、伝道の熱心さを強調する教えの信仰上の不足、脆弱さを反省したのです。しっかりした「信仰告白」の大切さを大事にして、立派な教会を作り上げられたのです。

 どこの国にも、特別な事情や背景があります。でも、どのような体制下の教会でも、「教会の主」は、イエスさまです。聖霊は、十字架に死んで、贖いを成就されたイエスさまの働きを、共に継続して行われます。「教会の主」は、教会を確立されるのです。その証を強くされます。そして待ち望む私たちを、やがて迎えに来てくださるのです。伝道者の必須の経験は、「聖霊に満たされること」ではないでしょうか。

 神学校で学んで、優秀な成績を修めた方は、優越感と闘い、そういった教育を受けないで伝道者となった方は、劣等感と闘うのです。不足を覚えているということが、健全性や霊性や品性を保ってくれるのです。人を自分よりも優った人と認めつつ、自分を卑下し過ぎないことも大切です。そこに健全な「福音」に従う群れ、教会が起こるのです。

 人の集まる教会には、様々なことがあります。それでも、教会は、「主の教会」、「キリストの教会」であります。人間の集合体でありながら、神に属するのです。この教会を、間も無く迎えに、イエスさまはきてくださいます。それゆえ、教会は『マラナ・タ(1コリント16章22節、主よ来てください)』と言うのです。

(Christian clip arts によるイラストです)

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