馥郁

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<このブログは二月に書いたものです>

「ふくいく」と読んで「馥郁」と書く言葉があります。『香りがよいさま。よい香りが漂っている様子。例えば、蕎麦や梅の花など。「馥郁とした」「馥郁たる」の形で用いることが多い。』と実用日本語辞典にありました。桜の花が咲き始める前に、まだ寒さの厳しい時期に、「梅」の花が咲き始めるので、それこそが春の前触れであったのでしょうか。

江戸時代以降の「花見」は、上野の山を代表するような、「桜」でした。ところが、いにしえの奈良の都の「花見」は、桜ではなく、この「梅」であったそうです。桜には香りがありませんが、梅の花には、「馥郁たる香り」があって、目で見るだけではなく、嗅覚で楽しむことができるのです。ここ中国では、「百花の王」と呼ばれるのは、この「梅花」なのです。清代末には、国花に制定されたのですが、現代中国では、「牡丹」だと主張する人と、「梅」だとする人がいて、まだ決まっていないのだそうです。

小学校への通学路に、お寺がありました。このお寺の塀の中に、たくさんの梅の木が植えられていたのです。小学生の私には、梅の花よりも「実」の方に関心がありました。大粒の梅がなると、落ちてしまう物が多くあったのです。それを拾うと、まるで桃の実のように、いい匂いがしているので、かじってみると、美味しいかったのです。それが楽しみで、毎年、実の成る時季に、そっと食べたのですが、幾つ食べたことでしょうか。実は、『落ちた梅の実は、決して食べてはいけない!』と言われていたのです。食べた子どもが疫痢になって死んだことがあって、禁止されていたのです。欠食児童でもなく、三度三度の食事を母が作ってくれましたし、<おやつ>だってあったのですが、その禁を冒して食べていたのです。今考えますと、よく守られたものだと思うのです。

日本から戻って来ます時に、必ずと言って買ってくるものに、「梅」があります。漬物にしたものです。あまり高くないので、『しめた!』と思って、こちらに戻ってから開けて見ますと、「原産地:中国」と記されてあるのです。輸出した梅が、加工されて持ち帰られ、食卓にのって、食べるのですから、梅にしたら、ずいぶんと長い旅をしたことになります。そういえば、アメリカに行きました時に、お土産で買って来たものに、”made in Japan”と書いてあるのを読んで、苦笑いをしたこともありました。

二月の私の鼻には、梅の香りがしてくるようです。まもなく「弥生三月」、桜咲く月となります。「風流さ」というものには無縁に生きてきましたのに、今は、そう言った風情が、『好いなあ!』と感じられるようになった自分が、ここにいるのであります。

(写真は、「梅の花」です)

花も実もあるこの街で

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三週間ほど前に、とても暑い日がありましたので、『夏が来ましたね!』と言いましたら、『夏は、<労働節>が来て始まるんですよ。』と、我が家の上の階のご婦人が教えてくれました。日本でしたら、梅雨が終わってからが夏なのですが、こちらでは五月一日が真正の夏の始まりなのです。

まだ暑さと寒さを繰り返す日が続き、『もう要らないよね!』と言ってしまった上着を、また出してきて着たりしていました。さすが、昨日は、夏服でしょうか、半袖が主流でした。私は、大好きな麦わ ら帽子を出して、それを被り、二人の若い客人のために、野菜と果物を近くの店に買い出しに出かけたのです。天気予報は<多雲>でしたが、雲間から時々さしてくる陽の光は夏そのものでした。

ブログのアップを休んでいる二ヶ月ほどの間に、このアパートの中の木や草が花をつけては散って行くのを繰り返していました。今は、ハイビスカスの紅い花びらが鮮やかに目に飛び込んできます。ブーゲンビリアも、あちこちで咲き(!?)始めています。工業路の沿道の花水木も、二週ほど、バス利用の通勤途上の私の目を楽しませてくれましたが、もう散ってしまっています。

日本の中部や関東地方で見られない珍しい花を、『これは何と呼ぶのですか?』と聞くのですが、教えてくださる方が少ないのが残念です。この街で植樹をし、お世話をしてくださっている方に、感謝の気持ちを表したい思いがしてまいります。美しく樹木や花で装った街で生活ができて、仕合わせだと感じております。そういえば、金木犀の匂いがだいぶ前にしてきていました。

今朝は、バスで出かけて、用をすませて昼食をご馳走になって帰宅しました。帰りに果物屋さんによって、今日のご褒美に、瓜とマンゴスチンと梨を買いました。もう梨が出回っているのです。日本では、これからだったと思いますが、ここは花も実もある街であります。

(写真は、「花水木」の花です)

音と声

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毎朝、まだ夜が明けないうちから、聞こえてくる音が、三つあります。一つは、道路を清掃する人たちの日常談義です。二つは、小鳥の鳴き声です。最後は、『コケコッコー!』のニワトリの夜明けを告げる鳴き声です。これが一番の大声なのです。二羽どころではないようです。ここはアパートが林立する住宅区域で、農家などは周りに一軒も見あたりません。ですから農家の庭先の鶏小屋からではなく、アパートの道路に面した一階の店舗のシャッターの中から、漏れ聞こえてくるのです。

このニワトリは、卵用ではなく、食肉用なのです。日本では、何処かで処理されて店頭で売られる鳥肉なのですが、こちらでは、店頭で処理されて即売されています。鴨やアヒルや鳩も、籠の中でひしめいているのです。例外なく、何処かで処分されるのですが。目の前でされているものを、買って帰る心備えができていない私たちは、店頭で買うことができないままでいます。気持ちの問題なのでしょうけど。

道路を挟んだ右の方にある店舗の中からですから、結構至近距離から聞こえるてきます。いつもしている「耳栓」を越えてやってくるのです。日毎に車の台数がましていて、バス通りを走る数も激増してるからでしょうか、車のエンジン音とタイヤの音が強くなってきているのです。それに、道路上で店開きをしている屋台や、階下の食堂で、声高に興じている音も声も、以前に比べて強くなってきている、そんなこの頃なのです。よく「中国版ジャンケン」が、徐々に興奮して、喚(わめ)くようになってきます。週末が酣(たけなわ)です。

午前零時過ぎになっても遠慮なくしていますので、防衛、いえ防音対策としての「耳栓」は欠かせないのです。日本人も中国の皆さんも、骨格も体格も全く変わらないし、声帯も変わらないのですが、話し声の高さが違います。日本人は、相手との距離と周りを気にしながら、口先で話します。ところが、こちらのみなさんは、腹式でしょうか、お腹の底から声を出すのですから、強烈です。狭い日本と広い中国で、人と人との距離が違うからでしょうか。

バスで、隣に座っているおばさんが、携帯に向かって、百メートルも向こうにいる人にでもある様に、お腹から話していることがよくあります。『あんなに大声を出したら、スッキリするだろうな!』と思うのですが、どうしても真似できないジレンマで、いつも小声と「耳栓」の家内と私であります。

(写真は、太陽が昇り始める「夜明け」です)

杜子春

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芥川龍之介の作品に、「杜子春」があります。芥川、二十八歳の時に発表しています。その年の三月に長男・比呂志が誕生していますから、父親となる作者が、その子の健全な成長を願いながら、『人は如何に生くべきか?』との教訓を与えたかった、そんな創作の動機があったのでしょうか。物語の時は六世紀ごろ、舞台は唐の都・洛陽、親の財産で遊びに明け暮れる杜子春が主人公です。数度の没落と再生を繰り返し、やがて、『では、お前はこれから後、何になったら好いと思うな。』という老人の問いに、『何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。』と言える人間に変えられて行く物語です。

「短編小説の名手」と言われたほどの芥川でしたから、舞台設定、登場人物、言葉、話の筋道、結語など、どこを取り上げても巧みに書き上げられた小説です。ですから、中学校の国語科の教科書に掲載されているのです。「友情論」、「親子の在り方」、「金銭観」、「死生観」などが語られています。

『金の切れ目が縁の切れ目。』ということが言われますが、大金持ちであった時に寄ってきた友が、<なけなし>になった時には去って行き、飢えても渇いても助けてくれなくなるというこの世の現実に、杜子春は辟易とします。人間不信に陥ったのでしょうか、<脱人間>で「仙人」を志します。その資格審査で地獄に行き、閻魔大王の前に立ちます。そこに地獄に落ちた父母が貧相な馬になって連れて来られます。彼の前で鞭打たれているのを見せられるのです。この審査は、「一言でも口を利いたら・・・到底仙人にはなれない・・・」というもので、何を見聞きしても黙っていなければならないのです。

杜子春は、懸命に耐えて頑張ります。しかし、『心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合わせになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙っておいで。』と言うお母さんの懐かしい声を聞いて、意志を曲げて、『お母さん。』と呼び掛けてしまうのです。その瞬間、洛陽の西門の下に戻っている自分を知ります。

親の情の深さと慈しみが、杜子春を感動させ、人間性を恢復させていくのです。とても好い物語です。京や奈良の都ではなく、中国の古代の洛陽を舞台としたのは面白い発想だと思います。やはり「文豪」と称される所以でしょうか。この物語を、先週の授業で作文をしてもらいました。今、その添削をしながら、河南省の古都・洛陽を、いつか訪ねてみたいと思っている、日本の「こどもの日(端午の節句)」の前々日の夕べであります。

(写真は、国花候補の「洛陽牡丹」の花です)

駿馬

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中学と高校の同級生や先輩たちの中に、中央競馬会の調教師の息子たちが、大勢いました。彼らは幼稚園からの持ち上がりで在学していたのです。いつでしたか、テレビのチャンネルを変えていたら、同級生が競馬中継の解説をしていて、<おじさん顏>になっていて驚きました。1941年に、サトウハチローの作詞、仁木他喜雄の作曲で、「めんこい仔馬」が世に出ました。

1 ぬれた仔馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝のつゆ
呼べば答えてめんこいぞ オーラ
かけていこうかよ 丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道

2 わらの上から育ててよ
今じゃ毛なみも光ってる
おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ

3 西のお空は夕焼けだ
仔馬かえろう おうちには
おまえの母さん まっている オーラ
歌ってやろかよ 山の歌
ハイド ハイドウ 山の歌

4 月が出た出た まんまるだ
仔馬のおへやも明るいぞ
よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
あしたは朝からまたあそぼ
ハイド ハイドウ またあそぼ

甲府連隊の連隊長が、『ぜひ譲って欲しい!』と願ったほど、父が乗っていた馬は「駿馬(しゅんめ)」だったそうです。その街にあった父の事務所と軍需工場のあった山村との間を往来するために、父は馬を使っていたのです。ある時、馬の世話をする方の、子供さんが病気になって、滋養のある食べ物をたべさせなければならなかったのです。その人は、なんと父の馬を潰して、肉にしてしまい、子供に食べさせてしまいました。父は知らずに、その人の届けた「馬肉」を食べてしまったのです。せめてもの罪滅ぼしにと、そうした彼を、父は、我が子を思う彼の「父性愛」に免じて、不問に付したと、生まれる前の話を母に聞いたことがあります。

だからでしょうか、晩年の父が、ごろっと炬燵に横になりながら、「めんこい仔馬」を歌っていたことがありました。あの馬には、「⚪️⚪️号」とか「太郎」とか名前があって、呼びかけて大事にしていたことでしょう。ですから、きっと自分の愛馬やあの家族を思い出し、戦時中にはやっていたこの歌を口ずさんだのでしょう。その父も61で亡くなり、父の逝った年齢を八つも超えてしまっている今の私は、時々、アルバムに父の五十代の写真を見ることがあります。父より老けている自分の顔と見比べて、やはり似てきているので苦笑してしまいます。その父の数少ない愛唱歌の一つでした。

今、父が青年の日を過ごした瀋陽(父は「奉天」と言っていました)から、はるかに遠い華南の街で教師をしています。なんだか『雅!』と呼びかける声が聞こえてきそうです。この夏が来ますと、滞華満八年になります。父を思い出しながら、「めんこい仔馬」を、そっと口ずさんでいる、「労働節」の休みで週末であります。

(絵は、蒙古襲来を迎え撃つ兵士を乗せた「馬」です)

ブログを再開します!

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こんばんは。

お読み下さるみなさん、お元気にお過ごしでしょうか。

しばらく休んでいた、ブログの投稿を、今晩から再開したいと思います。

昨日から、「労働節」の三連休です。家のベランダから見下ろすバス通りの車も電動自転車も人も、せわしなさの感じられない休暇のなか日です。

ご挨拶だけにしておきます。

おやすみなさい。

結婚披露宴

先週の金曜日に、「动车」の「和谐号 」に乗って出掛けました。中国バージョンの新幹線です。家内は初めての乗車でした。まだ開業していなかった時には、遠距離バスを利用しましたが、今回は、その三分の一ほどの所要時間ですみましたから、ずいぶんと便利になったのです。鄧小平氏が、1978年10月に訪日された折に、東京から新大阪まで、東海道新幹線に乗られました。その時の印象を、『後ろから、だれかが鞭を持って、私を駆り立てているみたいだ!』と語られたそうです。35年ほど前のことになります。今や中国の科学技術は驚くべき速さで高められ、欧米や日本を凌ぐほどになってきているのです。私も背中を押されるようにして、一時間ほどで、目的駅に到着したのです。

それは教え子の「結婚披露宴」に招かれての日帰りの小旅行でした。たびたび、我が家に来てくれた学生の祝福の席でした。卒業して、市内の日系企業に就職して、語学力を買われて、通訳の仕事をされていました。ある時、高校時代から気の知れたボーイフレンドを、我が家に連れて来て、紹介してくれたことがありました。家内が帰国中でしたので、<俄か男やもめ>の私のために料理を、彼がしてくれたのです。食材を手に下げての訪問でした。実に几帳面な調理で、とても美味しく頂いたのです。実に爽やかな青年でした。爾来、何度も二人で訪ねてくれました。

何時でしたか、『是非遊びに来てください!』と言われて、帰郷する彼女と一緒に新幹線で出かけたこともありました。二日ほど、ボーイフレンドの家に泊めていただき、市内を案内してくださったりで、彼のお母様の南方料理をご馳走になったのです。温かく迎えてくださったので、お父さまやお姉さまたちとも面識があったのでした。教え子のご両親と弟さんと一緒に食卓を囲み、談笑もしました。高台にある郷土の英雄の像や市内の名刹に連れて行っていただき、細やかな説明もしてくださったのです。南の人の優しさに触れたのです。

その宴は驚くほどのご馳走で溢れていました。フカヒレ、車海老、高級カニ、鮑、高級魚(同席の方が一匹500元と言っていました!)、デザートには「莲雾」と言う果物までも添えられていたのです。その他にも何種類もあり、このような料理は、生まれて始めて食しましたので、私たちの胃袋が驚いたに違いありません。心の籠った「おもてなし」に、心から感謝したのです。私の愛読書に、「喜ぶ者とともに喜べ!」とありますから、私たちも、この二人の門出を、心から喜んでお祝いしたのでした。

祝杯に少し酔われた新郎のお父さまが、『来てくださってありがとう!』と何度も何度も繰り返されたのをお聞きして、お祝いの席に連なることができただけではなく、お父さまに、そんなに喜ばれて、来た甲斐があったことを喜んだのです。親族の方でしょうか、駅まで送っていただき、予約してあった「和谐号 」に乗って帰宅の途につき、夕間暮れの駅に無事着くことができました。

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陸の孤島

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今回の日本の豪雪で、作詞が内村直也、作曲が中田喜直、高英男が歌った、「雪の降る街を」を思い出しました。

雪の降る街を 雪の降る街を
想い出だけが通りすぎてゆく
雪の降る街を
遠い国から落ちてくる
この想い出を この想い出を
いつの日かつつまん
温かき幸せのほほえみ

雪の降る街を 雪の降る街を
足音だけが追いかけてゆく
雪の降る街を
ひとり心に充(み)ちてくる
この哀しみを この哀しみを
いつの日かほぐさん

緑なす春の日のそよ風
雪の降る街を 雪の降る街を
息吹(いぶき)とともにこみあげてくる
雪の降る街を
誰もわからぬわが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か祈らん
新しき光降る鐘の音(ね)

『大雪になったら大変だろうな!』と思ったのが、山梨県の南部にある早川町に、知人を訪ねて行った時でした。県道37号線から脇道に入った集落でした。夏でしたが、樹木が生い茂って、日陰に入ると涼を感じられるほどで、その渓谷を見下ろすほどの小高い山の頂きに、その家があったのです。遠来の客である私たちを歓迎して、ご自分の畑で採れたトマトを、冷たい水で冷やし、それを切って、何と山盛りに砂糖をかけてくれたのです。『えっ!』と思ったのですが、そのお気持ちを無にできずに、食べたのです。でも、美味しかったのです。昔、「砂糖」は、貴重な甘味料だったのですから、それを存分にかけてくれたということは、<VIP待遇>だったわけですね。

年配のご夫婦でしたから、きっと子どもさんが、一週間に一、二度訪ねてきて、必需品を届けて、それで生活をされていたようです。車で登る山路は曲がりくねって急峻でしたから、もし、今も、そこで生活をされていたら、今回の史上稀な豪雪で、「陸の孤島」になっているに違いないと思ったのです。案の上、ニュースで、『住民1183人が孤立!』と伝えていました。「雪の降る村を 足音・・・」も聞こえようがありませんが、ニュースを聞いて、夏の日の思い出が蘇ってきてしまいました。『真冬に雪が降ったら、この辺りでの生活は大変だろう!』と感じたことなど思い出し、住民の不安が解消されるような援護がなされることを、ここ華南の雨の空の下で切に願っております。

(写真は、早川町内の「家屋」です)

22度

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さまざまのこと思ひ出す桜かな 芭蕉

今日の最高気温の予報は、22度でした。確かに昼前は、着ていった冬用のコートが不要で、脱いで手に抱えて、学校から帰ってきました。自分だけかと思って今出ましたら、何人もの方が、コートを脱いでいましし、電動車に乗っていた青年は半袖でした。このままとはいかないにしても、陽の光の強さから、そこまで春が来ているようです。

日本海側や東北や北海道、黒竜江省や吉林省や遼寧省などでは、まだまだなのでしょうが、ここ華南では、一足早めに春を感じさせられています。2011年に、家内が入院手術を日本の病院でしましたので、そばにいて上げるために日本に残りました。そのおかげで、板橋の病院の近くの満開の桜を、五年ぶりでしょうか、心ゆくまで眺めることができました。

今年は、近くの公園の中に、数本の桜の木が植えられてあるそうですから、一足お先に<観桜>と洒落込もうと思っているのですが。開花、満開、そして散る時期を推し量れなませんし、<桜前線>の予報も、こちらではありませんので、いつ頃になるのでしょうか。この公園も通り道ではなく、わざわざ出かけないとなりませんので、どうしたら好いのでしょうか。葉桜になる前に行けたら、嬉しいのですが。

日本人って、どうして桜が好きなのでしょうか。小学校の校庭に桜の木が植えられていて、ちょうど開花の頃に入学式があり、年度の移り変わりになりますので、時別な思い入れがあるのでしょう。また、開花している時期が短いこと、散り際が潔いことが、日本人の心情に合うからでもあるようです。小さな花が、『あっ、桜に似ている!』と思ったのでしょうか、「桜草」と命名してしまい、小さなピンクの貝を見て、同じように、『あっ、桜に似ている!』と言って、「桜貝」にしてしまうのです。

桜にまつわる思い出が、思いの中を駆け巡る、早春の午後であります。

(写真は、「サクラソウ」です)

ライバル

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「10年来のライバル」という、浅田真央とキム・ヨナの戦いが、ソチ・冬季オリンピックで終わりました。他を寄せ付けないで、ずっと相手を意識しながら、互いに練磨してきた二人です。聴くところによりますと、ヨナは IOCに勤めるとのこと、真央は学業を続けることでしょう。日韓問題が、今日のように緊迫していない頃から、政府間、国家間の思惑を超えて、スポーツの世界で<しのぎ(激しい競争のこと)>を削ってきたことは、実に爽やかだったと感じてきました。優れたスケーターであるがゆえに、フアンもマスコミも、良きつけ悪しきにつけ、この二人に注目してきたのです。中には心無い中傷や憶測があって、心苦しいこともありました。こう言うには、「有名税」なのですが、悪意の中傷は慎まなければいけません。実に聞き苦しいからです。 戦いがすんで、互いに労(ねぎら)い合う言葉がニュースで報じられていました。相手への感謝と激励の言葉が、真央にもヨナにもあって、とても気聞き心地がいいので、この二人は人間としても、スポーツ選手としても、そして若者として、素晴らしいものを持っているようです。また二人とも、涙し、泣き、号泣もしたのだそうです。ヨナも真央も、自分の祖国からの期待を背中に感じながら、競技を続けて来て、その重圧は大変なものがあったことでしょう。ヨナは『心が身軽になった!』と言ってました。誠一杯に自分の力を出し切ったのですから、真央も同感なのでしょう。 順位やメダルを超えて、この二人が見せてくれたスポーツマンシップに、感動して、中国の真央のフアンも、日本のヨナのフアンも、『ありがとう!』との声を上げています。真央は、『ヨナはとてもすばらしい選手だと思う。ジュニア時代からずっと同じアジアの選手として多くの人から注目を浴び、そのような点で私も成長できた部分もあったの!』と言い、ヨナは、『真央、泣かないで、あなたがいたからヨナがいたんだよ!』と言っていました。国と国の間も、その様になることを切望したい思いで、心が一杯の週末であります。 20140222-124528.jpg